:: 小野川温泉ノート
幕藩体制から明治への転換期の戦争
であった戊申戦争。会津藩、白虎隊19名 の自決の地。中央右のエスカレーターで上れるので 楽ですね。 ここから見えるお城はちいさくてやっと見える 隊士がお城が炎上したと勘違いしても仕方がない。 一人の生存者が青年たちの自刃を後世に伝えることと なった。 |
このケアキの大木は、樹齢1000年以上
あるといわれ、兼続が神指城築城時にはすでに 巨木であったといわれ、神指城東北角の土塁 の史跡に悠然とそびえている。 会津磐梯山の噴火も、神指城の築城の様子も さらに以前の古代から静かにみていたのでしょう。 |
黄金色に色付き始めた田んぼの向こうに
会津磐梯山がそびえる会津盆地。 神指城址とは、上越から米沢に移る前の 慶長の3年間、上杉が秀吉の命で会津にうつり 築こうとした巨大な城郭跡で、家康の関ヶ原 の戦いの勝利で工事を中断、廃城となった。 現在は、東北隅の土塁の一角が史跡になっているが 航空写真でないと城址の形を確認できない。 吾妻荘公式ホームページ |
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ナナカマドの木に実が真っ赤に
色づいて秋の訪れを告げています。 この木は、とても堅く、冬 かんじき を作るのに使います。 七回、竈に入れないと炭にならない謂われから 七竈と言うそうです。 吾妻荘公式ホームページ |
城南1丁目1番地。上杉博物館の東南角
すじ向かい。今度米沢市が直江邸跡地として 案内看板をたてた。 はじめ、松ヶ崎神社のあたりに広大な屋敷を 構えたといわれ、上杉が米沢に家康の命で 減封された時、城下の整備に伴いこの地に 居を構えたのでしょう。 吾妻荘公式ホームページ |
小さい頃に事故で隻眼になった。
この少年は、異常に絵が好きで地元の 狩野派の絵師に師事した。 20代で戦争にとられたときに、岩絵の具を 瓶につめ実家の縁の下に隠した。 中国大陸を従軍し、終戦で必死に足がぼろぼろになって 何百キロも歩き、生還した。 実家に帰り、岩絵の具を掘り出しまた絵筆をとった。 朝、昼、晩、隻眼のハンデイを克服するために 色々に角度から数十枚のデッサンをかき、 絵を描いた。 後年は、ヒマラヤを命がけで描き みるものに 力を感じさせる。 文化勲章受章の栄誉を受けた。 この写真は、30代の若い頃に宿の主人が 色紙を所望したところを写した写真です。 吾妻荘公式ホームページ |
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きのこ、舞茸、紫蘇
を細かく切って味噌にいれ
炒める。
あけびの中身をはぶき、味噌を
詰めて、こんがりあげる。