:: 小野川温泉ノート
館山浄水場から赤芝部落を見下ろし
左側 山懐に鎮座する羽黒神社。 羽黒堂へは中世、館山城から大樽川の向こう西側 を道が通っていたと謂われ、直江が原方赤芝へ 移築したと伝わる。 寄進者の名をみると館山衆がおおい。 兼続の下級家臣が西原衆とよばれた城西、館山方面に張り付いた 事からしてうなずけるものがあります。 兼続は、下級家臣を開墾に従事させましたが それを監督する田家がおかれたのが西部小学校 正門前の田屋町通りの謂われです。 直江町の町名もそうした絡みかもしれません。 吾妻荘公式ホームページ |
原方集落であった赤芝の路地を真言宗 龍性院
前に上り、向かい側に赤芝観音がある。 さらに、この道はおその沢へと向かっている。 おその沢にあった集落から移築されたとされ、 この街道は、中世 小野川街道の裏街道であった と考えられます。 館山城周辺に、矢子、吹屋敷という地名が 残っていますが、この館跡周辺にも 小矢子 吹屋敷、馬場という地名が残っています。 吾妻荘公式ホームページ |
米沢市史に、近世初頭 簗沢村に
千坂兵部の配下が陪臣郷士として定住した とあり、これは赤芝部落のことで 館跡残るおその沢の集落より、観音様を 羽黒堂部落より、羽黒観音を祀り返させたのが 直江の指揮によったという事もうなずけるものがあります。 直江は羽黒山を領地として支配した時期がありますから 笹野観音の羽黒権現、関根の羽黒神社、赤芝の羽黒神社 などを修復したものでしょう。 |
小野川温泉街の顔 尼湯。
毎日、数十人の浴客が訪れる。 熱い湯で有名でNHKでも放映された。 戦後、この真ん前に米沢の土建屋さんが 温泉を掘削しはじめたことがある。 天童の温泉協会の偉い人がきて この掘削を阻止した。 今は昔である。 |
湯の神、お薬師様の境内は昭和までは
子供の遊び場であった。 車社会、少子高齢化、核家族化がすすむと ともに子供は路地や屋外で遊ばなくなった。 小野の小町建立の伝承は、奥州藤原から 伝わったもので平泉あたりに伝承の起源がある。 近くの道明山城の宮崎が藤原の末裔の一人で 梁沢村の起源が宮崎の一族郎党の残留組だからである。 江戸期は尼湯の後ろにあったが明治期に 現在地に移った。温泉の効能に感謝する人々の 信仰がうかがわれる。 吾妻荘公式ホームページ |
旅の芭蕉さま
世が2度あらば ござれ小野川 湯の宿に 同級会にしばしば小野川を訪れた浜田廣介が 旅館の色紙にしたためた短歌碑。 芭蕉は山寺までは訪れたが、米沢盆地には きていない。 母はなく 父もまた無き 故郷の さつきの闇を ほたる飛びをり |
吾妻荘脇の坂道。車一台がやっと通る。
堀が街道沿いにほられている。 元はてぼりで、U字溝を入れたのは 車の普及とともに道路が舗装されてからだ。 ここは江戸期に綱木から裏磐梯、会津にぬける 裏街道で、西郷隆盛や頼山陽が通ったとされる。 戦国期は館山城から会津にぬける主要道の一つ であったものでしょう。 吾妻荘公式ホームページ |
直江がきた頃には、温泉街であった湯の町小野川。
左は、尼湯。右に扇屋。 扇屋には、慶應年間の棟札残る土蔵に 戦国期、会津の芦名から伊達の執政 遠藤基信宛の書簡が残る。 昭和は戦後と戦前が入り交じって生きている。 吾妻荘公式ホームページ |
copyright/小野川温泉 吾妻荘
小野川が伊達の直轄地であったことと
館山城の会津方面のおさえとして、道明山城、
赤芝館があることから
伊達が伊達郡から米沢に本拠を移した事と
関係するもので坂本屋の屋号は坂本町の
坂本城址にもとめられるものでしょう。
剣カタバミがいにしえを語りかけています。