美術館大学構想

■写真上:旧立木小学校の図工室の棚から古い土人形を収集する西さん。
■写真中:西さんを囲んでの懇親会の様子。グラスには朝日町特産のワイン、テーブルの灯りは同じくこの地名産の蜜蝋燭。
■写真下:『あとりえマサト』代表の板垣さんは、本学日本画コースの出身で、学生時代から廃校でのワークショップに主体的に関わってきた。

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過疎と少子化のあおりを受け、惜しまれつつ10年前に廃校となった山形県朝日町の立木小学校に、芸工大の卒業生が中心となって運営されている共同スタジオ『あとりえマサト』があります。
東北芸術工科大学では、今年度から文部科学省の支援を受けて『芸術工房村構想』というプロジェクトを立ち上げました。これは、山形県内の廃校におけるアート制作や舞踏公演、ワークショップなどの活動を支援し、卒業後も山形に残り、廃校を舞台に風土と深く繋がりながら自らのアートを追求する『あとりえマサト』のような若者たちと一緒に、地域振興に取り組んでいこうというものです。
美術館大学構想室でも、自身の制作とともに、教室を改造したギャラリーを運営している彼らに提供する展示企画として、『西雅秋ー彫刻風土ー』展の巡回開催を提案し、先週、出品作家である西さんとともに、会場の下見に出かけました。

山形市内から寒河江方面に車を走らせ、緑濃い山並みと、集落をいくつも越え、くねくねした山道を進むこと1時間。清流をたたえた谷間の里に、モダンな木造校舎がつくねんと佇んでいました。
子どもたちの学びの痕跡を、そのがっしりした木肌のあちこち生々しく残す校舎の中を、『あとりえマサト』の板垣さん、田中さん、川勝さん、三浦さんの解説付きでじっくりと見学した西さんは、図工室の棚に残されていた山形の郷土玩具に注目。いくつかを、水上能舞台で発表する作品『彫刻風土』に立木小学校の「記憶のカタチ」を加えるべく収集しました。

日が暮れてからは、かつてこどもたちが裸足で駆け回った廊下に座布団を敷いて、ささやかな交流の酒宴がはじまります。30年前から飯能の山野を自力で拓き、家族を養いながら彫刻を作り続けてきた先輩の言葉は、冬は雪に閉ざされる山間で表現に生きることを決意した『あとりえマサト』の若いアーティストに、深く強く響いていたようです。皆とても穏やかな表情、良き語りの夜でした。
この企画は、西さんの人柄によって、当初の予想をはるかに越えて、人と土地の記憶を巻き込み、ひろがっています。

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帰り際、夜の校庭に出てみると、村の夜はもう秋の涼しさです。
空には星が恐いくらいキリリと輝き、生まれてはじめて見る天の川が、本当に「乳の河」のように、ぼんやりとたなびいていました。

美術館大学構想室学芸員/宮本武典

■写真上:七日町の居酒屋『こまや』カウンターで。コケシ収集家の店主から提供された飾り物の小さな金精様(尾花沢産)を手にする西さん。
■写真中:上山の古道具屋で養蚕用の藁籠を7枚入手。これは展示会場造作の一部として使用する予定。
■写真下:制作する西さん。原型に塗布したシリコンラバーの上に、さらに石膏でバックアップ処理を施しているところ。

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週末に設定した休養日も、西さんは精力的に山形市内の古道具屋や蚤の市をひとまわり。夜は郷土料理屋でも飲みがてら情報収集をおこなっていたらしく、週明けの月曜日、西研究室は古い徳利から、陶製の二宮金次郎、コケシ、大根やホッケ(!?)など、大小さまざまなモノ・モノ・モノで溢れかえっていました。

その他、型取り材料として大量の粘土と石膏とシリコンも運び込まれ、アトリエでは収集した様々な「カタチ」の型取り作業が本格的にスタート。かなり手狭になってきた研究室で、西さんは息子さんよりずっと若いアシスタント達と会話を楽しみながら制作を続けています。
原型収集は予想以上の成果で、型取り作業はフル回転です。

美術館大学構想室学芸員/宮本武典
特別講義『Nishi Masaaki 1946-2005』
日時:2006年6月29日[木]17:30-19:00
場所:本館410講義室/全科学生・一般対象/入場無料

今週木曜日(6/29)に彫刻家・西雅秋(にし・まさあき)氏が来学。日本を代表する現代彫刻家の一人として活動し続けた25年間の軌跡を語ります。
これまで広島市現代美術館(98')や神奈川県立近代美術館(05')で大規模な個展を開催している西氏。本学では今年秋に山形の地に取材した滞在制作をおこない、その成果を7階ギャラリーと本館前の池周辺で発表する予定です。今回の特別講義はそのプレイベントとして美術館大学構想室が企画しました。
埼玉県飯能の自然豊かな山間にスタジオを構える西氏は、主に金属鋳造の溶解、凝固、酸化の過程に、物質と時間、人間と自然との根源的な関係性を探る彫刻作品を制作し続けています。その身体的リアリティーに裏打ちされた実践と思考は、山形の地でアートとデザインに取り組む私たちに、深い内省を促すことでしょう。
文化財保存や美術史系の学生にもお勧め。多くの方の聴講をお待ちしています。

美術館大学構想室学芸員/宮本武典

*9月-10月頃に予定されている、西氏の制作活動に参画したい方(学生・一般問わず)は、美術館大学構想室023-627-2043までご一報ください。
■写真上下:西雅秋氏『彫刻と人/Nishi Masaaki1946-2005』講義風景
 (2006年6月29日17:30〜19:30/加藤芳彦撮影)
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29日の西氏の特別講義は、「彫刻とは何か?」そして「自分自身が生きてここに在るとは?」との問いから照射するように、自らの作品群に解説するかたちで進められました。
それから、自身のアイデンティティー(および作品)に深く根ざしているという、広島の原爆と戦後の暮らしの記憶のこと。また、世界各地に埋めてきたという銅板によって、いつもつながっていたいと願う、その土地の名もない人々の暮らしについて。
そこには飯能の山で、制作活動を軸に、世界と自然の声に耳を傾けながら、この混沌とした時代にあって「まっとうに生きる」ことを愚直に追求し続ける彫刻家の姿がありました。

終了後、客とアルバイトスタッフが、皆この大学の関係者という飲み屋で、僕も学生たちも、将来への不安に駆り立てられるように、また自ら回答の留保をタナに上げて、ついついゲイジュツから恋まで、「西さん、西さん。何が大切ですか。何が無駄ですか」と、生きることの一から百まで、問いかけていました。すると「そんなに質問ばかりしていちゃあ、駄目だよ。問う前につくれ」と返されて、一同、心地よい沈黙・・・。
講義の最後に、「自分が学生だった頃、こうして大学に話しに来てくれた先生が、最近どんどん亡くなっている。君らもあと何十年かしたら、新聞の活字で、西雅秋の死を知るだろうな。これらの金属の塊(作品を指して)も、土に埋めて、時や自然のなかに溶解してしまえばいいと思ってる」と語っていた西さん。
けれども、学生たちに囲まれた和やかな酒席でだけは、「この瞬間に乾杯」とボソッと呟いて、コップを掲げていました。

美術館大学構想室学芸員/宮本武典

※秋に本学で開催される西氏の個展タイトル『西雅秋-DEATH MACTH2006-(仮称)』を、今回の特別講義から『西雅秋 -彫刻風土-』に改題します。
『いつかみたー秋田平野を想うー』
千田郁代(工芸コース陶芸専攻)

道路端が寝雪がゆるんだ気がしたのもつかの間、再び雪と寒風吹き荒む今週から、2005年度の卒業制作展がはじまりました。
大学構内に加え、山形美術館、悠創の丘と3会場にわたり、学生たちがここ山形での生活で出した「答え」が展示されています。

それにしても、真白い雪に覆われた風景の中での卒業制作展というのは、緊張と、後悔と、疲労と、安堵に充ちた(歓喜はないですよね?)このイベントに、なんだか抗し難いある種の「切なさ」を補強している感じがするのは僕だけでしょうか?
卒業生のみなさん、きっと一生忘れる事はできませんよ。

さて、千田さんのダンス。

若い人たちの懸命な、身体を張った表現を直視すべきとき、僕はしばしば「強い観者」と「弱い観者」という言葉について考えてしまいます。
たいてい僕は逃げ出してしまうのですが、これは照れくさいというより、彼らのストレートな投げ出しを、肯定してしまうことに「恐さ」を感じるのです。
とても僕には引き受けることはできないし、その資格もない。

けれども千田さんのダンスは(そんな僕なんかより)雪の身を切るような冷たさと、彼女の背後で白くかすんだ山々に、確かに祝福され、肯定されているようでした。
彼女が山形で学んだ事が、しっかりこの地の「風景」になっていると感じましたよ。

宮本武典(美術館大学構想室学芸員)
いつも図書館から借りていく本のセンスが秀逸だった阿部君の、これが指で描いた油絵。
重ねても重ねても濁らない色彩からは、盲目的に色彩と戯れるドローイング・ハイの高揚と、慎重にタッチを律する理論性が混在し、高い完成度に達している。
やったぜ。

阿部君は、絵画の経験を相対化する為に、普段から様々なジャンルから的確な要素を選びとれる人だった。
何よりも、それが決定的に強い。
例えば、去年の秋に開催した『珍しいキノコ舞踊団』のレジテンスでも、すべての公開練習、公演に立ちあって、ダンサーたちの動きから、絵画制作のヒントを見つけようとしていた。

けれども、そのタッチの集積が向かうフォルムについては、あくまで保留のまま。絵画の恐ろしいところは「迷い」がそのまま定着して、絵としては「完成」してしまうことだ。
自分自身の皮膚のように、日常生活に貼り付いた(時々は切ったら血が滴る)阿部君の「塗り」は、これからの彼の人生に纏わりつくのだろう。

ライフ・ワークの誕生ということ。

宮本武典(美術館大学構想室学芸員)
いつも図書館の机に陣取り、エスキース帳に、くしゃくしゃの文字やらドローイングを書きなぐっていた高木君の卒業制作は、池に張った氷の上、ずぶ濡れになりながら詠むポエトリー・リーディングだった。

途切れ途切れのドラムス、聞き取れない叫び声(「僕は 彼女の 赤ん坊に なりたかった・・・」)押しだまる聴衆、重たい灰色の空。

誰かに訴える為ではなく、叫びは、自分自身にこそ叫ばれるべき時がある。
今回、彼が「叫ぶため」に求めたシチュエーションは、芸術の名のもと以外に、この狡猾で、ややっこしい世界にはあまり用意されていないだろう。

長い詩の、真剣な朗読が続く間、僕は聴衆の背後をウロウロ歩き回ってばかりいて、落ち着いて聴く事ができなかった。
人々に踏みしだかれぐちゃぐちゃになった雪に足を取られながら、僕は、
「地下水道をいま通りき暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり」
という寺山修司の短歌を反芻していた。

宮本武典(美術館大学構想室学芸員)

※このブログに「図書館」がよく出てくるのは僕のデスクが貸し出しカウンター奥にあるためです。あしからず。
■写真:大橋仁写真展「いま」DM表紙(デザイン:豊田あいか)
2006年7月24[月]ー8月10日[木]
こども芸術教育研究センター・ギャラリー
10:00ー17:00 休館日/7.30[日]、8.5[土]

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昨年末にこども芸術教育研究センターから、「こどもをテーマにした写真展を開きたいので、いい写真家を紹介して欲しい」とリクエストを受け、かねてより強く心を惹かれていた写真集『いま』(青幻社)の著者・大橋仁さんのお名前を伝えたところ、なんと、現実に個展が実現しました。今日から、こども芸術教育研究センターで開催しています。

大橋さんのデビュー作『目の前のつづき』は、親族の自殺未遂をドキュメントした写真集で、渋谷のパルコブックセンターで初めて手にした時、その圧倒的な現実感に、冷ややかな狂気を感じました。アラーキーが帯に「凄絶ナリ。A」との筆書きコメントを寄せていたのも印象深かった。
その、日常の中の死の予感を凝視した前作から一転して、出産の光景を通して、生まれてくる命をまっすぐに写した『いま』。展示は、大橋さん自身がギャラリー空間に合ういくつかのイメージを写真集から抽出したのですが、胎内をイメージして設計された楕円形の「こども劇場」とは、とても象徴的に絡みあって、忘れ難い印象を残します。

展示室のはじめには出産シーンを真正面からとらえた大判のプリントが掛けられていて衝撃的。それから林立する都市や、夜の小動物、カーテンの揺らめきを経て、再び羊水のイメージへ・・・。一点一点の意味を追うのではなく、彼岸と河岸を透過する、眩しい映像の叙事詩のような光の揺れが、静かに胸に迫ってくる展覧会です。

8月6日[日]には大橋氏が来学。私、宮本と「いま」展の会場でギャラリー・トークをおこないます。11:00-と14:00-の2回です。ぜひご来場ください。

美術館大学構想室学芸員/宮本武典
■写真上:大橋仁「いま」展会場風景
■写真下:右から大橋仁氏、宮本学芸員
2006年8月9日14:00-15:30/こども劇場 撮影:加藤芳彦
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夏の「TUADオープン・キャンパス」企画の一つとして、こども芸術教育研究センターで、写真家・大橋仁さんのギャラリートークが開催されました。僕も建築コースの公開コンペ審査の合間をぬって、インタヴュアーとして参加、写真集『いま』(青幻舎)についての対話およびスライドショーをおこないました。

トーク会場となったこども劇場の周囲には、一週間前から『いま』の写真の中から20点ほどが、大橋さん自身の手による構成で展示されていました。その中で、劇場の入口に掲げられた大延ばしのプリントが、出産シーンを真正面からとらえたショッキングな写真であったために、事務局の中には、こども芸大に通学する児童や保護者の反応を懸念する声もありました。こども劇場は、胎内とイメージした球形をしています。その入口(出口)に出産シーンの写真を高々と掲げるのが、大橋さんの意図するところだったのですが。

しかし、いざフタを開けてみると、こどもたちは「これ!赤ちゃんが生まれてくるところ!」と、いたって自然な反応。お母さん方は「生んでいる本人は見ることのできない瞬間なので驚きました。ウチの子もこんなふうに生まれてきたんだ…」、「出産はもっと奇麗なものだと思っていたのですが、こんなに壮絶な、命の切実さにみちた瞬間なのですね」等々、深いインパクトを受けたようです。
本学の徳山詳直理事長もご覧になり、ずいぶん長い時間、写真集に見入っておられ「感激した。〈こども芸術教育〉を掲げるなら、こういう視点をきちんと示さなければならない。京都造形大のこども芸大でもぜひ開催しよう!」とおっしゃっていました。

ギャラリートークには、展覧会を通して写真家・大橋仁の眼差しに惹かれた人々が集まり、写真家の言葉に耳を澄ませました。中には午前・午後の2回とも参加した学生も見受けられました。対話の冒頭では、インタヴュアーとして聞き役に徹しなければならない僕も、大橋さんに質問したいことが沢山あって、つい長々と私的な感想に夢中になってしまい、後で「7:3の割合でしゃべっていたよ」とトークを聞きに来ていた家内に指摘されてしまいました。私事ですが、僕たち夫婦も3月に第1子が誕生予定で、それだけに写真集『いま』の世界観は気になるところであったのです。

トークの話題の中心は、やはり分厚い写真集の3分の1を占め、克明に写し取られている出産の写真についてでした。
実際の分娩室は、母親やその家族は勿論のこと、医師、看護士など大勢の人がいるはずなのですが、写真にはそれらの人々の姿は登場しません。ただ取り上げられたばかりの青黒い赤ん坊が、生きているのか、死んでいるのかもわからないような命の境界点で人々の手に抱かれ、写真家の眼差しと向き合っています。大橋さんはこの点について「ある特定の個人の物語のように撮りたくはなかった。ただ生物としてのヒトの誕生の瞬間を写したかった」と語っていました。
前作『目の前のつづき』で、自らの家族の死と再生の記録を淡々と撮影し、荒木経惟に続く「私写真」の旗手としてデビューした大橋さん。
2作目となる『いま』では、あえて個人的な被写体を排除し、「出産」という誰もが経験したダイナミックな命の瞬きをテーマに選ぶことで、その眼差しは、見る側の記憶とリンクしていきます。

スクリーンに次々と投影されるスライドを見ながら、僕は大橋さんに「この赤ん坊は、かつての大橋さんであり、僕でもある気がします」と話していました。

美術館大学構想室学芸員/宮本武典

※トークの内容は、こども芸術教育研究センターの紀要に後日まとめられるそうなので、その時にまたお知らせします。

■写真:『舟越桂|自分の顔に語る 他人の顔に聴く』展オープン前日の10月11日・夕方、展示会場でおこなわれた舟越桂さんによるレクチャーの様子。聴講した学生は、ギャラリーの受付や監視、ガイド役として展覧会の運営に携わっている。
学生たちによる舟越桂展のドキュメントはコチラ→〈舟越展staff〉bloghttp://gs.tuad.ac.jp/funakoshi/
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学生たちに向け、舟越さんが語った言葉の中から、その作品世界の本質に触れていると僕が感じたいくつかのセンテンスを紹介します。内容はすべて宮本のメモより。
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「遠くを見ているような、ここではない何処かを見つめているような眼差しに惹かれます。瞳の黒は、眼の中の影。一番遠くを見るということは、自分の内側を見る行為でもあると思っています。」
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「すでに眼に見えていることをタイトルに使いたくないのです。眼にはけっして見えていない、その彫刻の内部で起こっていることを作品のタイトルにしたいのです。」
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「近作についてよく指摘される〈変化・変貌〉は、僕にとって嬉しいことです。大学院を出たばかりで、〈妻の肖像〉を彫っていた頃は、自分がこんな彫刻を生み出せるとは思っていなかったから。」
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「重力に逆らって〈浮かぶ〉ことは、〈祈る〉ことに似ている、という気がする。」
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「いくつかの作品のタイトルにしている〈月蝕〉とは、見えそうなのに見えない、たったいま見えていたのに、次の瞬間には見えなくなってしまう、ある種のイメージの揺らぎに言葉にあてはめたものです。それは彫刻家に与えられる喜びでもあります。つまり、自分自身の手によって、今まで誰も見たこともないものが生まれつつある予感を意味しているのです。」
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「学生の頃、通学途中のバスの車窓から山々の連なりを眺めていて、ふいに心に浮かんだ言葉、〈あの山は、あの大きさのままで俺の中に入る〉という実感が、今日までの僕の制作を支えているような気がしています。人間の存在や想像力は、それほどに大きく、果てがないという意味で。」
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「僕にとって〈スフィンクス〉とは、人間の生を第三者的に見続ける者を意味しています。この世界における人間の愚かさを、ただ黙って見続ける者。あるいは自分自身を知る者のこと。長い首や、ボディの緑色は草食動物のイメージです。他者を傷つけない、どんなに愚かであっても人間の存在を肯定する眼差しを持つ者として。」
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素晴らしい2時間でした。
若い人たちに向けたこの彫刻家の言葉を、2007年度版のアニュアルレポートでは完全採録するつもりです。
宮本武典/美術館大学構想室学芸員
■写真上:シンポジウム『神秘の樹と明日の鳥たち』の打ち上げ風景。会場はかつて芸工大がリノベーションを手がけた「蔵 オビハチ」。左から西雅秋氏、赤坂憲雄教授、酒井忠康氏(後ろ姿)、松本哲男学長、詩人の吉増剛造氏
■写真下:蔵の夜は舞踏家の森繁哉教授、『BT美術手帖』等で活躍されているライター白坂ゆりさん、彫刻家の古郡弘さんを交えて更けていった。
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10月28日土曜日の夕刻、『西雅秋-彫刻風土-』展とのタイアップ企画として、美術館大学構想室主催のシンポジウム第2回『神秘の樹と明日の鳥たち-詩・旅・思索-』が「こども劇場」で開催されました。
この企画は、毎回、各界の知の先達をお迎えし、座長の酒井忠康世田谷美術館長の司会のもと、ジャンルに限定されない即興的かつ横断的な「語り」によって、東北の風土のもつ豊かな文化的土壌を描写していこうとするものです。

昨年のシンポジウム『ことばの柱をたてる』にお招きした建築(史)家の藤森照信先生は、ベネチア・ビエンナーレ建築展2006日本館のコミッショナーとして活躍され、ますますお忙しそうです。(さきに『HOME』誌別冊として出版された『ザ・藤森照信』には、酒井先生がエッセイ『藤森照信氏の横顔』を寄稿され、文中「去年の秋、東北芸術工科大学で芳賀徹氏をまじえて諤々のシンポジウム〜」との記載がありました)また芳賀徹先生(京都造形芸術大学学長)は、お会いするたび「君、あの時の鼎談は楽しかったね、またやろうよ」と声をかけてくださいます。
3者の語りは、粋、というか軽みがあって、それでいて骨太な、研究室に籠っているだけでは得ることのできない、様々な土地の雨風にまみれ、靴に埃を積もらせて歩き続けた人の「大地の知恵」を感じさせるものでした。
そのユーモア溢れる知的な丁々発止は、本HP内アーカイブ『ことばの柱をたてる』の項でPDFファイルにて閲覧できます。

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そして今年『神秘の樹と明日の鳥たち』のゲストとして、詩人の吉増剛造先生に本学にお越しいただきました。学内からは民俗学者の赤坂憲雄教授、座長は昨年に引き続き酒井先生です。
私事ですが、僕はかつて吉増先生が武蔵野美術大学の研究誌「季刊・武蔵野美術」(本学図書館に蔵書有)の巻頭グラビアにおいて、彫刻家の故・若林奮氏と共同執筆されていたテクスト『緑の森の一角獣座』に、はじめて芸術のなかの言葉を見いだした美大生でありました。以来、その詩のみならず、吉増先生が漂白の旅の中で記された銅板や写真(今回も鼎談の最中にカメラを何度も手に取られていました)にも、多大な影響を受け続けています。
吉増先生はポエトリー・リーディングの活動でも知られていますが、これまでなかなか参加する機会に恵まれず、いつもテレビモニターの中で写真家のアラーキーや、ジョナス・メカスなど、21世紀の眼の巨人たちと共にニューヨークや東京の路地を彷徨う、その筆跡に似た細身のお姿だけを拝見していました。
何年か前、東京国立近代美術館「ブラジル・ボディ・ノスタルジア」展での吉増先生の特別講演も、この時釧路から上京して同行していた友人の飛行機の時間と折り合いが合わず聞き逃したのです。
それだけに、今回の企画準備の過程で、初めて吉増先生から手書きのFAXをいただいたとき、あの独特の筆致で書かれた「宮本様」との宛名を見ただけで手が震え(ミーハーですみません)ました。吉増先生が「つばさ号」で山形駅に降り立たれた時には、出迎えの際の目印にと前もって伝えられていた「クタッとした茶色のジャケット」を追うまでもなく、改札をくぐってこられる吉増先生の姿を遠くから確認できたのでした。
茶色のジャケットの内ポケットには、細身のカラーペンが十数本、ぎっちりと並んでいて、これが「クタッと」の正体。吉増先生は、これらのペンを用い、山形新幹線の車中で、シンポジウムのために精緻な細い文字の連なりから成る「新聞」をお書きいただき、この日、集まった人々への手土産として手渡され、シンポジウムの中で詠み上げられたのでした!

前回のシンポジウムのテーマは『美術館大学』の「柱」を豪快に「ぶちあげる(酒井先生談)」こと。今回のテーマは「樹」ですから、地中深く、また天高く、大気や大地の滋味を吸い上げる、実にゆったりとした、心地よい「語り」の場になりました。とても洗練された読書会に招かれたような120分のシンポジウムが活字になるのは、来春の予定。行間からこぼれ落ちるはずの、詩的エッセンスにご期待ください。
宮本武典/美術館大学構想室学芸員
■写真:『混沌から踊り出す星たち』展オープニングレセプション+会場風景
 撮影/石川将士(東北芸術工科大学大学院1年)
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姉妹校の京都造形芸術大学が卒業生をフューチャーする展覧会シリーズ「混沌から踊り出す星たち」展レセプションに出席するため、久しぶりに東京へいってきました。
青山のスパイラルガーデンに展示された作品は、絵画や彫刻といった従来のアートのカテゴリーには収まらない、現代のハイブリッドなアートシーンを体現していて、それでいて関西っぽいというか、深遠さや重みを嫌うトンチの効いたアイデアと、職人的な技巧を凝らしたものが多かったです。
会期中のイベントも含め、展覧会のオーガナイズしているのは京都造形芸術大学ASP学科で、学生たちが授業の一環として運営に主体的に携わっています。
昨年もたいへん感心したのですが、彼らは、これくらいの展覧会はきちんとマネージメントできて、まだ学生然としたアーティストに、最高の舞台を用意していました。オープニングレセプションで、アーティストたちが大勢の観衆を前に、とても晴れやかに、堂々としていたのが印象的でした。
こういう雰囲気は、ただイベントプロモーターみたいに段取りをテクニカルにこなしていくだけではつくれません。運営サイドにアートやアーティストへの心からの敬意がなければ難しい。この思想的なモチベーションをしっかりと指導できているところに、ASPの後藤繁雄教授の手腕を感じました。

オープニングレセプションでは、後藤教授、評論家の市原堅太郎教授、アートディレクターの榎本了壱教授、そしてギャラリートークに招かれていた原田幸子氏に、芸工大の卒業生展『I'm here.』を出品作家の鈴木伸くんとPR。皆さんとても快い反応で、決まって「京都と山形で一緒に何かやろうよ」と言ってくださる。心強い。
一通り挨拶を終えると、パーティー会場を抜け出し、後は青山の賑やかなカフェで鈴木君と彼の制作をサポートしている石川君とともに、『I'm here.2006』の会場構成についてなど深夜まで打ち合わせ。眠らない街で、終電を気にしながらアートについて話すのも久しぶりでした。

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翌日の朝、帰りの新幹線は帰省するこども連れの家族で一杯です。福島を過ぎると、車窓には、眩しい日本の夏が流れていきました。
山形駅に着くと、改札口では『山形花笠踊り』の興奮がお出迎え。大混雑していた東京の人ごみのなかでエンターテイメントなアート作品を鑑賞し、普段は眠ったような私たちの街で、華やかで、力強い祭に出会う。
トランクを引いて、半ば駆け足で改札口に立つ出迎え人のもとへ向かう帰郷者に混じりながら、「一体、どっちが僕の求めているものだろう」と考えていました。

美術館大学構想室学芸員/宮本武典
...もっと詳しく
2005年度の美術館大学構想事業を冊子にまとめて出版しました。
デザインは本学卒業生の小板橋さん(アカオニデザイン)に依頼し、ベージュの地に白く『TUAD AS MUSEUM』の文字が浮かび上がる装幀で、雪深い山形の印象が反映されたシャープな仕上がりになっています。
昨年10月に開催したシンポジウム『ことばの柱をたてる-美術館大学ことはじめ-』の採録は特に必読。
酒井忠康氏(美術評論家/世田谷美術館長)、芳賀徹氏(文学者/京都造形芸術大学長)、藤森照信氏(建築家・建築史家/東京大学教授)による鼎談はユーモア満載、知的好奇心をくすぐられる内容で、編集の過程で何度も吹き出してしまいました。
3氏が東北文化の読み解き方や、美術館の裏側について語りに語った3時間を、延べ30ページにわたって完全採録しています。

その他にも、『宮本隆司写真展-箱の時間-』関連イベントとして開催したシンポジウムや、『珍しいキノコ舞踊団』レジテンスをサポートした学生によるルポ、民俗学者で本学大学院長の赤坂憲雄氏とアーティスト富田俊明氏の対談などを掲載しています。

現在開催中の『松本哲男展 鼓動する大地』会場で販売中です。
■写真上(※写真をクリックすると拡大画面で見られます)
7/13(金)の夜から山形県最上郡の肘折温泉で点灯している芸工大オリジナルの灯籠『ひじおりの灯』(直径70cm)。みかんぐみの建築家・竹内昌義准教授デザインによる八角形の木組みに、本学日本画コースの院生たちが現地で取材したスケッチを描きました。(詳しくは最新の『g*g』に特集されてます→http://gs.tuad.ac.jp/gg/index.php)撮影/JEYONE
■写真下:『肘折絵語り・夜語り』(7/25 19:00〜)の様子。灯籠絵を描いた19人の日本画コース生たちが、23軒の旅館の軒先に吊られた灯籠の下で、それぞれが表現した肘折を語った。温泉客や地域の方々など約90名が参加し、幻想的な夜の光に照らされた、古き良き温泉街の散策を楽しんだ。道案内は森繁哉教授と赤坂憲雄大学院長。そぞろ歩く一行に、各旅館の旦那衆から振る舞い酒も。
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20代前半の4年間を過ごしたバンコクでは、よく仕事の休みを利用して、郊外のバスターミナルから各地方へ走る長距離バスに滑り込み、タイの田舎を旅しました。
そのなかでも「イサーン」と呼ばれる、タイの貧しい東北地方を巡る旅の途中で訪ねた、畜産飼料用の塩づくりを生業とする集落は忘れられません。

濃度を高め、強烈な日照りで塩を結晶化させるための塩田が、見渡す限り広がっていて、その中心にボツンと、5件ほどの家々と、小さな塩の製錬所がありました。
灼熱の日差しを受けるトタン屋根の工場内は薄暗くて、木製の巨大な桶の中に、湿り気のある塩が大量に積み上げられていました。

塩田で水浴びをする子どもたち。半裸に麦わら帽子の工場の男たち。塩の山。
巨大都市バンコクの喧騒から遠く離れた、名もない塩の集落は、僕の東南アジアのうだるような熱気に支配された4年間のタイ生活で、もっとも鮮烈な風景として脳裏に焼き付いています。

もちろんその風景は、背景にある東北タイの貧しさとか、稲作を捨て先祖伝来の土地を塩田にせざるを得なかった人々の苦しみを抱えているのですが、自分の生きてきた「世界」とは隔絶したところで、それ自体完結した白と、光と、熱と、塩と、水が織りなしていたその光景の純度は、僕にパゾリーニの映画のような神話的かつ悲劇的な美しさを想起させたのです。

と同時に、枯れ切った土地で、「どこにも行かない」ことと「どこにも行けない」ことに同時に傷つきつつ、静かに黙々と塩をつくる人々の姿は、外国で異邦人生活を楽しみ、気ままな旅を続けていた僕に、「お前は何故ここに来たのか」「お前はどこに行こうとしているのか」と、厳しく問いただしているような気がしました。
僕の脳裏に焼き付いたのは、ひょっとするとこの「声」の方なのかも知れません。

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国道13号から舟形町を抜け、美しき最上川を渡り、万年雪を冠った月山を眺めながら急勾配の峠道を一気に下っていくと、えぐったような谷間の行き止まりに、肘折温泉が、ぽつねんと佇んでいました。
赤坂憲雄先生に、「東北ルネサンスプロジェクトの一環として肘折にアートのイベントを仕掛けてみたい」と、はじめてここに連れられて来た時、新しい芸術作品を持ち込むのではなく、既にそこに重層した土地の記憶のようなものを、「忘れないように記憶に留める」ための仕組みづくりをしたいと思いました。

23基の灯籠は、隔絶されたこの深い谷の集落でこそ、増幅される光と闇と絵画のオーケストレーションを生み出しています。
これは、その地に住んでいる人々が、若い画家たちの眼差しを通して暗闇に浮かび上がる肘折の情景に、毎夏、「土地の声」を聴くための装置なのです。

宮本武典/美術館大学構想学芸員