木造校舎大暮山分校 白い紙ひこうき大会

木造校舎大暮山分校 白い紙ひこうき大会
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 山形県朝日町に、日本で初めての“木造校舎のある公園”ができて10年がたちました!?。
 木造校舎はまもなく110歳を迎える旧大暮山分校です。20年前の1999年に校舎の老朽化や児童数減少に伴い閉校し、解体されることになっていましたが、校舎の二階から紙飛行機を飛ばす“白い紙ひこうき大会”が人気を博し、解体は延期されました。そして、10年前の2009年に再び取り壊しが計画されましたが、若者達の厚い願いを町は聞き入れ、校舎を彼らに譲ってくれたのでした。
 公園といっても、一見するとグラウンドの桜の木の下に「ベンチ」を三つ設置してあるだけです。学校だった20年前の風景と、さほど変わりはありません。しかし、このベンチは寝っ転がって読書をしたり、お弁当を食べたり誰でもがのんびりできる大切な場となっています。
 そして、イモリの池になっていた小さな「プール」は、三年前に新しい浄化槽が設置されついに甦りました。今では大きな町民プールよりも人気があるようです。
 そして心配された「白い紙ひこうき大会」は、無事再開し、今年20回大会を迎えるに至りました。昔参加していた子供たちが自分の子供を連れて参加してくれます。20位までの記録は体育館に掲示してあるので、昔出した自分の記録を子供に見せて自慢する人もいるようです。
 そして日曜日は「チャレンジ白い紙ひこうき大会」といって、公式記録にチャレンジすることができます。大会と同じで大人500円・子供300円のシャボン玉付きチケットを購入して4回まで飛ばすことができます。校庭には円盤投げのような計測ラインが埋め込まれています。地元の川口靖晃君が中学一年の時に出した最高記録37.3m地点には金色のラインが埋め込まれています。あれから17年もたつというのに未だ誰にも破れない記録です。シャボン玉は飛ばし終えた人が楽しみますが、その中を白い紙ひこうきが飛ぶ美しい風景を見ることができます。
 そして第一と第三日曜日には、大会の守り神であり、すっかり人気キャラとなった大黒様の「大黒舞い定期公演」が行われています。春は桜吹雪の舞、夏は太陽の舞など季節ごとの舞を披露しています。近頃はワイヤーアクションで空中も舞っています。ご利益の噂を聞きつけた人が遠くからわざわざ訪れるようになり、今や東北を代表するエンターテイナーとなりました。
 そして人気なのが、日曜日限定の「バーガーショップ」です。これはただのハンバーガーではありません。大黒様の思い出の味を使っています。大黒様の長岡清一郎さんは分校の出身ですが、冬は雪に閉ざされてしまうのでパンが届かず、給食のおばさんだった長岡美江子さんが朝早く起きて“蒸しパン”を作って下さったのだそうです。大黒様はその優しいパンの味の思い出が“宝”だと言います。みんなはたまらなくなり美江子さんに教わり再現しました。やはり、懐かしくってやさしくってとても美味しい味でした。開店にあたり、料理好きな仲間がハチミツやりんごジャム、カレーなどいろいろな蒸しパンメニューを考えてくれました。その中で一番人気なのがヘルシーな「蒸しパンダチョウバーガー」です。細かく刻んで煮込んだダチョウ肉とレタスやクレソンが、蒸しパンにぴったりなのです。春は山菜も挟まれます。蒸しパンには打出の小槌の小さな焼き印が押されています。ご当地バーガーブームに乗っかり、いつもあっという間に売り切れてしまいます。
 そして校舎に入ると、器や家具、鞄、服、靴など「工芸品の販売」がされています。公園運営の仲間には、元家具職人や器用な人が何人もいましたから、校舎の修繕費を稼ぐために体育館を使って日本ではじめての「木造校舎の椅子・机製造工場」を稼働させたのです。大暮山分校で使っていた椅子・机と全く同じデザインにして作っています。これが昭和ブームに乗り大当たりとなりました。材料はその後解体された和合小や三つの保育園舎の木材を再利用しています。近くのわかば保育園の講堂をそのまま倉庫にしてありますが、まだまだたくさんの材料が残っています。この椅子・机は10年、20年と使えば使うほど味のあるものになります。何年か前には、「作った人の心のこもったものを長く大切に使う喜び」を教える先進的な都会の学校に頼まれて、300人分を作ったこともありました。おかげで近頃はインテリア雑誌などにも頻繁に紹介されるブランドになりました。注文はお早めにどうぞ。
 そして、せっかくなので理科室と二階の両はじの三つの教室は「大暮山分校ものづくりトキワ荘」として、若いものづくり作家に工場(こうば)として貸しています。家賃は一年で10000円なので、まだ仕事場を持てない若い作家たちに大変喜ばれています。日曜日には自由に販売をすることもできます。体験をさせて収入を得ている人もいます。家賃や売上の20%は校舎の維持費に充てられますし、器用な若者達は痛んだ校舎も直してくれますから、お互い一石二鳥なのです。ただし、教室は3年で新しい若手に譲らなければなりません。ですから、みんな三年後の独立を目指して必死に頑張るのです。若者達はお年寄りの家の雪下ろしや八幡神社のお祭りも手伝ってくれるので、地区の人達は心から応援したくて、野菜や手料理を度々差し入れてくれます。時には食事に招いて夢の話をたっぷり聞いて下さる方もいらっしゃいます。親戚縁者への作品の売り込みも欠かせません。これまで9人の作家が巣立っていきましたが、有名作家になったOBの一人は、「あの3年間がなかったら今はなかった。地元の人の応援がいつも励みになった」と雑誌のインタビューで答えてくれました。履歴にもしっかり「大暮山分校ものづくりトキワ荘出身」と書いてくれます。嬉しいことです。
 そして飛行場にしている真ん中の教室は、空いている所は一日3000円で誰でも使えるフリースペースになっていて、毎週いろんな展示や催しが行われています。
 そして、大暮山分校を起点にして「観光ツアー」も盛んに行われています。分校から1キロ程の松保という所に「東北の縄文杉」と呼ばれるものすごく太い大杉があるのです。この杉を見た人はみんな畏敬の念にかられ、自分中心のちっぽけな人生を恥ずかしく思ってしまいます。しかも地球にやさしいエコロジーな気持ちもむくむくとわいて来るのです。歩いて小一時間のハイキングコースになっていますが、日曜日に運行する「耕運機ツアー」がとても人気です。秋には芋煮会も行われます。大杉のまわりの減っていた水田もファンクラブの「田んぼ体験」によって昔のように作られるようになりました。大杉が元気でいられるのは水田があるからなのだそうです。
 そして、大暮山地区には薄命の美人を祀った「お姫壇」があります。いわれは残念ながら分かりませんが、この地区に美人が多いのは、このためという噂が広まり、多くの女性がお参りに訪れます。今では立派なお堂も立ち、芸能人やニューハーフもお忍びでやってくるようになりました。
 そして、国の名勝地に指定されている葦の島が浮遊する「大沼の浮島」が近くです。歴史や信仰を尊ぶ人が来ると浮島は喜んだように動き回ります。一列になって迎えてくれることもあります。運がよければ夕方に狐火や、お燈明が宙を舞うのを見たりすることもできます。
 そして、もう少し下った八ッ沼地区には七不思議伝説があって奇妙な牛のようなカエルのような化け石があります。運が良ければ動くのを見られます。他にも金の鶏が飛んだり、子供の好きな地蔵様が歩きまわるのも見られます。池を掃除するきれいなお姫様とも会えます。
 そしてここにも、三中分校という明治15年の木造校舎があります。丸窓のある三階は、昼は「茶房」になり、抹茶と西松屋菓子店のおいしい和菓子も楽しむことができます。夜は夜景を楽しみながら朝日町ワインや地酒豊龍を楽しめる「がっこバー」になります。昼間は誰も気付きませんが、校舎の板壁の隙間にエコなLEDの小さな電球が埋め込まれ、昼間溜めておいた太陽電池で校舎をおもっいきり派手に「イルミネ」しています。最初は「文化財になんてことする!」と怒られましたが、おかげで話題になり、建物維持の寄付もたくさん集まるようになりました。茶房とがっこバーは和洋二つの顔を持つ分校出身の冨樫千鶴さんがあたっています。
 いつのまにかこの観光ルートはミステリロマンチックコースと呼ばれるようになりました…。
 そして…


 そして、目が覚めました。 2009年正月

※ごめんなさい。私が代表をつとめる白い紙ひこうき大会実行委員会で、これまで話し合ってきた夢の構想を封印するのは忍びなく、ここに紹介させていただきました。
 「懐かしむ」という感情は、この時代を生きる私たちにとって、必要な心の栄養ではないだろうか。
 私が代表をつとめる「白い紙ひこうき大会」は、廃校の木造校舎「旧大谷小学校大暮山分校舎」の二階の窓から紙飛行機を飛ばすイベントである。飛距離を競うこともそうだが、夏の日の思い出のワンシーンをみんなで作り出すという、ちょっぴりノスタルジックなイベントだ。  
 参加層は幅広く、九十四才のおじいちゃんがひ孫を連れてやってきたこともあった。県外からの参加も多く、毎年百五十人程が集まる。子どものイベントと思われがちだが、大人の参加が上回った事が何度もあった。大きな麦わら帽子のボランティアスタッフは毎年増え続け、嬉しい事に昨年は、中学生から六十代まで四十人を超えた。
 ところでこの校舎は、これまで有名女優が出演する全国向けのテレビコマーシャルに使われたり、木造校舎の写真集で紹介された。昨年は、人気番組に出演中の、若手タレントの写真集にも使われた。訪れる多くの人々を惹き付けてしまう不思議な魅力を持った校舎なのだ。
 大会は、今年の夏で十回を迎える。そして、残念な事だが、これが最終大会となる。
 私の町には、廃校した木造校舎が四つ残っている。ここ二十年の間に、新しい校舎とひきかえにほとんどが解体され、小さな分校舍が三つと、三月に閉校したばかりの中規模な校舎が残った。そのうち今年は旧大舟木分校舍が、そして来年には、旧大暮山分校舎の解体が議会で承認されてしまった。傷み具合から安全面に問題ありという。毎年補修願いは出していたが、壊すと決めたものを直すわけにはいかないと,叶えてはもらえなかった。なにしろ、豪雪地の小さなこの町では、財政面から維持できないという。
 木造校舎を解体する現場を毎回見続けてきたが、いつもとても悲しい気持ちになる。たくさんの子供時代の優しい思い出が、怪獣のような重機に揺さぶられ、悲鳴を上げながらいとも簡単に崩れ落ちていく。「物を大切に」と学んだ学校が、大切にされずに壊されていくのだ。お世話になったのに、まだ使えそうなのに、見殺しにしてしまったようで、暫くの間、後悔の念にかられてしまう。
 けっして、木造校舎を永久に残せとは言わない。体が不自由になったお年寄りでも、そばにいてくれるだけで家族の役割を果たすように、木造校舎も立っているうちはそこに立たせておいて欲しい。それだけで、私たちは優しい時間を懐かしむことができる。優しい人の絆がそこにあったことを思い出せるのだ。無機質な情報化社会の昨今,昭和を装ったものが店頭に並べられ、昭和の映画がヒットしている。現代は「懐かしむ」ことを確かに必要とする時代なのだと思う。
 この春、連休のはじまりに「桜さく木造校舎めぐり」という催しを、仲間達と企画している。「桜と木造校舎」の美しい景色を、せめて多くの人の心に焼き付けたい。四つの校舎を回りながら、お菓子やお茶でゆっくりした時間を楽しみたい。この町には、人を呼び込むような大木や古木の桜はないが、懐かしさを感じさせるこの桜と木造校舎の組み合せが人を呼び、新しい観光資源として認められるならば、校舎の寿命を延ばすことに繋がるかも知れない。
 校舎の桜が散り急ぐことのないよう、そして校舎を見上げる空が澄んだ青色になる事を心から祈っている。
(河北新報「座標」2008年4月22日掲載 安藤竜二) 写真/宮森友香



 地元大暮山の川口愛梨沙さん(現在高校一年)が、昨年、東北電力中学生作文コンクールで、大会のことを書き“秀賞”を受賞なさってました!千葉市から毎年参加しているスタッフが、検索して見つけたそうで感激して電話をくれました。
 川口さんは小学生の頃から3人兄妹で大掃除など事前準備を手伝って下さっていて、昨年は大会スタッフとして、大切なイメージつくりにもなっている“かき氷屋台”を担当してくれました。また、第5回大会子どもの部では準優勝に輝いた経歴も持っています。
 大会の様子や姿勢を的確にとらえてある大変感動する内容です。ぜひ!お読みいただきたいです。
  
こちらをどうぞ


 沢の音を聞きながら坂を登ると、少しずつ赤い屋根が見えてきます。登りきると、二階建ての木造の校舎が、木々に囲まれ現れました。大暮山分校です。
 私も友人も校舎の古くて美しい姿に足を止め、時間を忘れうっとりながめいてました。
 しばらくして、友人がぼそっと、
「これって学校の持ってる力だね」
と言いました。
 こんなにやさしい気持ちになれて、母校でもない閉校になった校舎がいとおしく思えてくるのが不思議です。
(いだましい…)
 校舎に近づくとギクッとしました。あっちこっちに直径七〜八センチの円い穴があいているのです。
(きつつきのしわざだな)
 耳をそばだてたり、のぞいたりしているうちに、私の中にピラーンとひらめきました。
「ねえ、ねえ、この穴にいろいろ住んでいるような気がしない?」
 すると友人は待ってましたとばかりに、「リス」と言いました。
(友人はだんだん私の性格に似てくる…!)
「コウモリ」
「---ちがう鳥に借家してるかも」
「ヘビ」
「鳥の卵をねらってくるやつきっといるんだよね」
 しりとりのような会話はとうとう、分校にやって来る動物に発展し始めました。
「タヌキ」「クマ」「オコジョ」「キツネ」
「キツネ?」
と繰り返したところで、お互い顔を見合わせました。
 あれは、忘れもしない四年前、上山の古屋敷村でのことです。
 滝があると聞いて、友人と二人で山の一本道を車で走っていました。
 すると左手に学校らしき建物が見えてきました。その前にやせこけたキツネが入口にきちんと座っていました。
 車が二つ目のカーブを曲った時、私は思いきってキツネのことを友人に話すと、
「イヌでしょう?」
と、いいながらも引き返してくれました。
 建物はもう閉校になった学校でした。入口には、やはり身動き一つしない動物が座っていました。それはまちがいなく、本物のキツネでした。車を近づけても、キツネはリンとして真すぐ前を見たまま座っています。
「何してるのかしら」
「きっと織姫を待ってるんじゃない」
 その日は、七月七日の七夕でした。
その夜私は、二匹のキツネが出会えるように星に祈りました。
大暮山分校にもきっといろいろな動物がやってくるにちがいありません。
 その後私は、何度もこの分校を訪れるようになりました。
 落ち葉をふみしめ鳥笛を首にぶらさげ、ひざまで積もった雪をかきわけ……… 季節は、いつのまにか桜の咲く頃になりました。
 暖かい日ざしにさそわれて、その日もまるで恋人に逢いに行くように分校に足を運びました。
 すると校舎の木の壁をちょろちょろ何かが動いているのを見つけました。
 おどろかせないように近づくと、黒っぽい灰色のリスの子どもたちでした。おせじにも可愛くないし、しっぽなど理科の実験の時、試験管を洗う細長い柄のついたブラシみたい。耳をピンとたててゼンマイじかけのおもちゃみたいに動いているのです。
 校舎にあいた穴には、やっぱりちゃんと住人がいました。
「トコ トコ トコ トコ」
 せわしい音とともに二階の屋根の穴から大きいリスが顔を出し、子リスはいっせいに近くの穴に次々飛び込むように姿を消しました。
(親リスがキケン信号を出したんだな)
 でも、よく見ると、二階の窓わくの所で、一ピキまだのんきに遊んでいるのがいました。
「トコ トコ トコ」
 リスの走る音がまた屋根の近くでします。
今度は校舎の左はしの穴に移動したらしい親リスが、また心配そうに顔を出し、
「キッ」
と一声鳴きました。
 のんびりやの子リスは、やっと兄弟がいないのに気づき、ちょろちょろ移動して柱にしがみつくと、ぴたっと柱になりすましました。
 五分たっても動きません。私がわざと視線をそらすと、リスの子はちょろちょろとまた動き出します。見ると動きません。
----だるまさんがころんだ
 私はおもしろがって何回もリスとかってに遊び、からかっていました。
 リスの子はきっと
(だれかに見つかったら死んだふりをするのよ)
と、教えられたりしていたにちがいありません。人間の子が(クマと出会ったら死んだふりをするといいのよ)などと、聞かされたように…
(あはっ、子リスみたいな人間、世の中にいるのよね、ドジなやつ)
と、くくっと笑ってはたと気がついた。
 それって、私のことじゃないかしら?
 なにはともあれ、リスの子はぶじ穴の中に姿を消し、私は分校に住人がいたことに満足を感じ、にんまりするのです。

(やまがた童話の会会員)
 

(アクセス)
 山形県のほぼ中央部、最上川沿いに走る国道287号線朝日町真中交差点を、秋葉山という小さな三角山の山裾に合わせるように道を折れ、まっすぐな一本道を西へ車を走らせます。広い水田に囲まれた大谷集落を抜けると、左手に馬神ダムが現れ、まもなく車道は急に狭くなります。やがて小さな砂防ダムを挟むような分かれ道に出ますので、ここを右に折れます。 国道からここまで10分程。村に入り、万福寺を右手に過ぎると、途中一軒だけ酒や食料品を扱う小さな店があって、私は時々、目的の場所でのんびりするために、ここで缶コーヒーや紅茶を買います。その店の前の丁字路を右に登り、木造の古い小さな消防ポンプ庫と、八幡神社のこま犬の所の分かれ道を、 最後に50メートル程左に登ると小さな広場がありますから、車はそこに止めます。車を降りるとすぐに、入口の太い藤つるに目がいくでしょう。その迫力と、頭上を覆うように葉を繁らせてる様子は、まるでこの場所の歴史を誇示するかのようです。その藤棚の下の坂道を30メートル程登れば、いよいよ目的の場所です。
 前を見上げながら、そして何も変わっていないことを祈りながら、一歩一歩登っていくと、やがて赤いトタン屋根の角がてっぺんの方から見えてきます。そして坂を登り上げるとそこには、百年以上の歴史を持つ木造校舎が、ポツンと時代に取り残されたように、しかし堂々と、今でも大暮山の人々を見守るように建っています。ここは昨年の夏、さまざまな思いを胸に開かれた「白い紙ひこうき大会」の会場、大谷小学校旧大暮山分校です。

(大暮山分校との出会い)
 事の始まりは6年程前。校舎の壁の中に営巣している二群れの スズメバチの駆除を依頼され、下見に訪ねた時のことでした。一周100メートル程の小さなグラウンドを囲むように、正面に二階建ての木造校舎、右側に体育館、左側は4コースの 25メートルプール。木の格子窓の歪んだガラスはピカピカに磨かれ、一枚一枚別の風景を反射させていました。けっしてお金をかけた作りではありませんが、その均整の取れた姿、 古さ故の傷み具合に、私は身を低くしたくなるような威光を感じました。今はない私の学んだ木造校舎のことを思い出したことも、大きな一因だったのでしょう。私は大暮山分校に一目惚れしてしまいました。
 数日後の早朝。前夜に終えていた駆除の残骸を片付けるために、また分校を訪ねました。校舎脇の体育館と繋がる一段低い屋根に登って、グラウンドをぼーっと見下ろしていると、小学生の頃の懐かしい思い出に紛れ、ふと高校時代のエピソードが頭をよぎりました。
 それは2年生の休み時間のこと。三階の教室の窓から、校庭に向かって飛ばした私の紙ひこうきが、たまたま気持ちよさそうに飛んだらしく、それを見たニ階の3年生達が飛ばしはじめたのです。さらに、それを見ていた四階の一年生までも。みんなでやれば恐くない。もちろんクラスメートも飛ばしはじめ、中にはカレンダーの最後の12月を 破って巨大なひこうきを飛ばす者までいました。校舎の下には、白い紙ヒコ−キが何十機も散乱していました。それはそれは楽しくて気持ちいい一時でした。
分校の屋根の上で私は、悪戯な気持ちをまたムクムクと膨らましていました。
(紙ヒコーキを、誰が一番気持ちよさそうに飛行させることができるか!)
タイトルは「白い紙ヒコ−キ大会」。
でもその時は、まさか本当に開くことができるとは思ってもみませんでした。
(閉校そしてはじまり)
 それから4年後の一昨年。悲しいニュースが伝わってきました。
分校は、児童数減少と本校舎新築に伴い、閉校することになったのです。それは同時に、校舎の取り壊しを意味しています。すぐに関係する町の職員にたずねると、悪化する財政の中ではやむを得ないと。成す術も見つからず、がく然とした思いを胸に、月日は流れました。そして昨年、平成11年3月、大暮山分校は長い歴史に幕を下ろしました。外は、 大暮山地区民の気持ち、校舎の気持ちを表すかのように、季節外れの大雪が降っていました。
 思い掛けない朗報が舞い込んできたのは、桜咲く翌月。なんとわが町の財政は益々困難を極め、今年度は取り壊しの予算がつかなかったというのです。
(大暮山分校は、なにはともあれ1年は存在する。もうこの夏しかない)
私はついに、 開催を心に決めました。
 熱くなった私は、すぐに仲間探しを始めました。しかし、あまりにもイメージ先行のイベントのため、 理解を示して下さる人はなかなか現れず、思いがけず私は初めから途方にくれてしまいました。焦りに焦った5月。そんな私の心を諭るかのように 希望の手紙が届きました。それは、「おもしろ塾」からの本年度事業計画会議のお知らせでした。「おもしろ塾」はわが町の中央公民館事業の一つで、町の若者たちが面白そうなことについて、自分達で企画、立案し、実践するといった、三十才代までの若者で構成する団体です。しかし、私はすっかり幽霊塾生だったので、昨年のうちに退塾願いをみんなに告げてしまっていました。駄目で元々、頭をかきかき、恐る恐るイメージを話してみました。すると、「映画のような映像にも残したいね」という映画好きな女性メンバーの 一声とともに「写真もいい」「かき氷りもやろう」「金魚すくいも」「ポスターをクレヨンでも描こう」思いがけず場は盛り上がり、 具体的なアイデアがたくさん上がったのてず。頃合いを見て、まとめ役の塾長が、にこにこと「やるべ」と声をあげ、開催が決定しました。
 さっそく大会に向けた準備が始まりました。まずは、校舎前の花壇に ひまわりの植え付け作業です。草だらけの花壇を整備するのは思ったよりも大変でしたが、担当の職員が作ってくれた美味しいおにぎりに励まされました。塾長の愛車の旧式ランクルが妙に校舎にマッチしていることも嬉しかったです。驚いたのは、校舎がずいぶん年老いて見えたことです。閉校してたった二ヶ月程なのに、埃がたまりガラスは輝きをなくしていました。気掛かりな事はもう一つありました。閉校式の時にぬかるんだグランドに敷いた青い砕石。玄関まで一直線に、まるで神社の参道のように見えてしまい、グランドのイメージがなくなってしまっていたのです。
 検討会議は、前例のないイメージ優先のイベントだけに、何度も 何度も開きました。木造校舎、ピカピカのガラス窓、ひまわり、青空、 蝉時雨、運動会用のテント、出店、麦わら帽子、すいか、笑顔。そして算数のテスト用紙で作る白い紙ヒコーキ。
あたかも映画のワンシーンを切り取ったような 「あったかくて、やさしくて、懐かしくって、ちょっと切ない」 そんな大会をめざすことになりました。「教室の窓から飛ばしてしまえ!」という悪戯なキャッチフレーズも提案されました。
 3月まで大暮山分校内にあった保育所の保母をしていたという強力な助っ人も現れ、知らなかったり思い出せない校舎の詳細などについて、度々教えていただくこともできました。
欠かせないひまわりの水やりは、大暮山地区の子供たちが請け負ってくれました。ポスターは、写真の得意なメンバーらが、実にぴったりの写真を撮影してきてくれました。それは校舎独特の格子窓を前に、メンバーの女性が紙ヒコーキを手に飛ばそうとしているもので、その写真を見ていると、飛ばしたいけど飛ばせなくているようにも見え、その続きが見たくなるような不思議な一場面になっているのです。早速パソコンの得意なメンバーが構成し、安価なA3カラーコピーによる 素敵なポスターが出来あがりました。手分けして、町内はもちろん町外にもたくさん掲示しました。
 8月に入ると、にわかに準備作業が忙しくなりました。嬉しいことに、 一年前に旅先で知り合った学生が、原付きバイクで東京からやってきて、大会当日まで手伝ってくれました。頭を悩ましたのは、メインの大きなタイトル看板です。限られた予算の中ではとても業者には頼めません。みんなで思案していると、年賀状をいつも墨字でアートぽく書いているという女性メンバーの名前が浮上しました。しぶる彼女が、大判の障子紙に書いてくれた「白い紙ひこうき大会」の字を見て驚いてしまいました。字体が大会のイメージをみごとに表していたのです。
 前日は、道案内の掲示板を設置し、校舎の大掃除、ガラス磨き、グラウンドの白線引き、テント設営、音響機器のチェックと、忙しさは絶頂になりました。工場に勤めているメンバーがトラックを借りてきてくれたり、電気工事をしているメンバーは見事な手さばきで 配線を直してくれました。町の高校生ボランティアOBやその友だちも飛び入りで手助けに来てくれました。
嬉しかったことがありました。地区の方が、重機を持ってきてグランドの青い砕石を取り除いて下さったのです。校舎もあきらめていたグランドも甦り、嬉しくなりましたが、いずれ取り壊されることを思うと、なんとも複雑な気持ちになりました。
最後に、校舎正面の二階の窓枠の上に、あの障子紙でできたメインのタイトル幕がかかげられました。いよいよ明日は本番です。

(大会当日)
 早朝、雨の音で目が覚めました。窓の外は激しい雨と真っ黒な雲。ラジオのローカルニュースは、土砂崩れや電車の運休をさかんに知らせていました。昨日までの心の盛り上がりが嘘のように沈んでしまいました。いても立ってもいられなくなり、塾長に電話をかけると、「参加者は減るだろうけど、濡れたり、汚れたりするのは我々だから、 まずやってみるべ。それにやむかも知れないし。」思ったより楽観的な返事に少々とまどってしまいましたが、よく考えると それもそうだなと少し心が落ちついてきました。なにしろここまで頑張ってきたのだから、しかも最初で最後のイベントなのだから、いい結果にならないはずはない。私の萎えてしまっていたプラス志向もやっと復活してきました。
 そして、塾長の予想は見事に当たりました。空が明るくなり小雨になってきたのです。分校に出かける頃にはほとんど止んでしまいました。信じれない現象でした。分校に行って私はさらに驚きました。グランドが全然ぬかるんだり、水たまりになっていなかったのです。もしかしたら、ここだけ殆ど降っていなかったのかも知れません。私は、大暮山分校が雨を追いやってくれた気がして、思わず校舎を見上げてしまいました。あとで聞いた話ですが、どうやら山形県内で雨が上がったのは朝日町だけだったらしいのです。
 「キンコンカンコン…」
準備中、突然、校庭になつかしいベルの音が鳴り響きました。悪戯好きなメンバーが、放送機材の気になったというボタンを押したのです。おまけに、続いて集落中に聞こえそうな大きな音のサイレンまで鳴らしてしまいました。大慌てはしたものの、ベルは大発見でした。大会の始まりと終わりに使うことに即決しました。
商工会に勤めるメンバーは、手伝いに来てくれた友人と受付で得意の会計。審査員は、大暮山区長の阿部喜久三郎さん。そして映画をこれまで数千本見たという映画センターの高橋卓也さんと画家の藤井武さんが駆け付けて下さいました。開始時間が迫り、 参加者が続々と会場入りしてきました。
「キンコンカンコン…。ただ今より大暮山分校白い紙ヒコーキ大会を開催致します。」校舎のメガホン型スピーカーから、 進行係りの澄んだ声が聞こえてきました。いよいよ始まりです。
 塾長と大暮山区長の挨拶。私のルール説明。エントリーナンバー001大暮山区長による始球式ならぬ試飛行式。そして競技は始まりました。初めはなかなか飛行距離が伸びなくて心配しましたが、次第に遠くまで飛ぶヒコーキが現れ、その度に「おーーーっ」という長い歓声が上がりました。三世代で分校で学んだ家族や、帰省された家族、 町外からも多くの人が参加しくれました。始め固くなっていた 二階のレポーターも、いつのまにか実に面白おかしいレポートで場を盛り上げてくれました。
子供もお年寄りもみんないっぱいの笑顔でした。気温が上がり蝉時雨も始まりました。子供たちの水やりの成果でちょうどよく咲いたひまわりや、かき氷やラムネの売店は、なくてはならない風景の一役を果たしてくれました。空は最後まで青空にはなりませんでしたが、「だからこそ紙ヒコーキを飛ばすんだ」と妙に納得できました。輝きを取り戻した窓ガラスは、大会の一部始終を 物言わず反射させていました。
 白い紙ヒコーキは、気持ち良さそうに校庭の空を飛びました。感動が静かに静かに私の中に満ちてきました。

(2000年5月 通信「ハチ蜜の森から」19号より抜粋)