美術館大学構想

■写真上:卒展2006開催記念シンポジウム『21世紀のデザインとアートはどこへ向かうか?』で講演する脳科学者の茂木健一郎氏。
■写真中:ギャラリートーク企画「カフェ@ラボ」で映像コースが招いた映画評論家の村山匡一郎氏。氏は若い映像クリエイターの作品が、従来の「自分探し」から「エンターテイメント」への移行している世界的な傾向を紹介し、その過程ですり落ちてしまう表現者の視野の狭さ、モラルの低下に警鐘を鳴らしていた。「山形には距離的なハンデはあるものの、国際ドキュメンタリー映画祭の伝統があるのは素晴らしいこと。この地に世界中から集まってくる映像を通して世界の現状を知り、映像表現の役割について考えてほしい」と語った。
■写真下:同じく「カフェ@ラボ」で環境デザイン学科は東北大学の小野田泰明氏(右)をゲストに迎えた。対談の相手は「みかんぐみ」の建築家で、本学の竹内昌義助教授(左)。
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テレビのCMで、解剖学者の養老孟司氏が、高校生からの、「先生、〈知る〉ってどういうことですか?」との問いに、「〈知らなかった時〉と〈知った後〉では、まったく別の人間に生まれ変わることです」と答えていました。僕たちは、このような〈知る〉体験に、身体が死を迎えるまでの間に、いったいどれだけ出会うことができるでしょうか?
情報を記憶し、詰め込むだけのカタログ的な学びでは足りない、本質をまるごとつかみとるようなダイナミックな意識の転換。単なる蘊蓄ではなく、価値の押しつけでもなく、「常識」だと思い込んでいた物事の成り立ちの枠を取り払って、まったく広大な「知」の沃野へと押し広げてくれるような、機知に富んだ言葉との出会い。これはなかなか出会い難いもので、理解するための学びも当然必要でしょうし、ただ盲目的な批評の受け手であっても駄目だと思います。
けれども何よりも重要なことは、批評する側も、受け手も、その試行錯誤の果てに「辿り着きたい世界」において、漠然とではありますが、どこか似た指向性を持っていることだと思います。さまざまな「知」の現場で希求される、ある共通した新しい生成の予感。
これを「同時代性」といってもいいかも知れません。同じ時代の、知識人や才能ある表現者たちが、互いに影響し合いながら連鎖し、次の新しい時代を拓いていく。その一端に触れることが、教育現場における、もっとも素晴らしい(芸術)知的体験の一つだと、僕は思います。

前回のブログで書いたように、学部生時代は悶々と過ごしていた僕でしたが、進学した大学院では、幸いにも刺激的な批評の場に身を置いて、緊張感のある学びの時を過ごすことができました。
「オリジナルであれ」「権威に迎合するな」「自己満足は論外」「美術史を学べ」「社会問題に眼を向けよ」「内省を掘り下げよ」「徹底的にやれ」「手を止めず、自らの仮説を信じよ」…恩師の戸谷成雄先生の批評会は毎回厳しいものでしたが、それ以外にも、定期的に学外から国際的に活躍するアーティストを呼んできては、ディスカッションの機会を設定してくれました。(宮島達男副学長もその1人でした)
皆、破滅的・自己陶酔型の芸術家とはほど遠く、知的で紳士的。ギラギラした出世欲など微塵もなく、どちらかというと素朴で静かな方々だったのが意外でした。国際的に成功するアーティストって、熾烈な競争を勝ち抜いたアスリートか政治家のような性格なのだろうと思っていたのです。
講義の後、決まって国立駅前のレストラン『ロージナ茶房』でゲストを囲んで食事をしました。ワインを飲みながら、家族のこと、学生時代のこと、制作者としての悩みなど、リラックスして話をしました。彼らは経験から得た知識を編集し、自分なりの解釈と、世界観を構築し、しかもそこには誰でも住まうことのできる「器のひろさ」を持っていました。その根底には、あえて甘ったるい言葉を使えば、「人間愛」が横たわっていたように思います。

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今回の卒展において、外部からのゲストを交えての「公開審査会」や「シンポジウム」、「カフェ@ラボ」など、たくさんのトーク企画を組んだのは(参照:http://www.tuad.ac.jp/sotsuten2006/events.html)僕の中に、大学時代の経験を通して、外部の視点を交えた「批評の場」の教育的な効果(←あまりいい言い方ではありませんが…)を、身をもって信じている部分があったからです。
各学科コースの先生の協力もあり、会期中は大勢の学識者の方々が来学され、キャンパスのあちこちで、教員や学生たちと語り合いました。ゲストの方々は、学生たちの取り組みを客観的な視点から批評してくださり、また、芸工大での学びを、卒業後、社会においてどのように実践・発揮していくのかなど、シャープな問題提起もしていただきました。(これらのイベントの詳細については、学生スタッフの取材チームが下記ウェブサイトにUPしています。卒展ディレクターズHP=http://gs.tuad.ac.jp/directors/index.php)

しかし中には、「卒展」とはあまり繋がりの感じられない講義や、作者とのコミュニケーションのない、作品への一方的な感想しか聞けなかった講評会もあったように思います。そのような態度から発せられる言葉と聞いていると、僕は本当に虚しくなってしまいます。批評する人は、その言葉を聞く学生たちの無表情な顔に敏感になるべきです。
学生たちは無知ではなく、ただ漠然としたその「何か」の輪郭を描くための、方法や言葉を、まだ獲得していないだけなのです。本当に聞く価値のある批評には、「私たちは何をすべきか、一緒に考えよう」という真摯なメッセージが含まれています。若い人たちと、一緒に何かを語り、考えることの楽しむ、批評者の魂の新鮮さが伝わってくるのです。

そして茂木健一郎さん。

まさに超多忙・時代の寵児でありながら、卒展オープン前日に山形入りし、アートディレクターの北川フラムさんとともに、4時間かけてキャンパスに展示された全出品作を観ていただきました。夜には大講義室にミーティングテーブルを設置し、卒展のコンセプト「OUR ART. OUR SITE.」の趣旨にのっとり、「ここでしか生まれ得ない作品や発想」を評価指標にして、523人の作品・研究のなかから5名の作品を『卒展プライズ2006(作品買い上げ賞)』に選出していただきました。
(審査員:酒井忠康/北川フラム/茂木健一郎/松本哲男/山田修市/宮島達男)
賞の選考課程は学生たちに公開されていたのです。夜の講義室には、たくさんの学生が集まり、「時代の眼」ともいえる審査員の方々が、約500の作品から、たった5点を選出する、100分の1へ至るスリリングなミーティングに立ち合いました。

翌日のシンポジウムでは、芸術作品の価値の優劣を生み出す歴史的・政治的な「文脈」と、作品自体が私たちに与える感動(クオリア)との関係について語ってくださいました。
現状の流行やアートシーンを牽引する「文脈」のイニシアチブは、私たちの生きるこの東北に存在しないことは明らかですが、だからといってグローバルな視点で見た時、東京がその中心にあるかというとそうでもない。Tokyo>Yamagata? 欧米>日本? 茂木さんは「言語や肌の色、国籍や文化、学歴や収入など、様々な文脈が生み出す優劣のコンプレックスから、私たちは完全に逃れることはできない」としながらも、「自分の生きる土地や、人生、作品の本質は、そこに完全に回収されるものではないことを自明のものとしているか、いないかは大きな違いだ」と語りました。
また、茂木さんは文脈の作用自体を揺さぶる〈認知テロリスト〉としての表現の打ち出し方を理論的に構築していく必要性を説き、「既存の価値の構造から逸脱して、この山形の土地にしかない歴史の深みへと降りて生きていく勇気を!」との熱っぽい提案で講演を締めくくりました。
確かに、ものをつくったり、研究していく過程で、自らの「勇気」が度々試されているのを、学生たちは自覚していたはずです。既にある評価の型に安住するか、しないか? 何か余分なものを捨てる勇気。大胆に変えていく勇気。威張ったもの、古いもの、淀んで溜まっているものと決別する勇気。
都市ではなく、「東北」で学ぶことの意味は、他と比較できる文脈において相対的に構築するのではなく、まずその競争自体から降りて、自分たちで価値の構造自体を生み出していくこと…。茂木さんの口調は穏やかでしたが、その語りは、実はこの大学がおかれている状況に対しての、極めて的確で、厳しく、そして素晴らしく建設的な批評であったと僕は受けとめています。

                         宮本武典/美術館大学構想室学芸員


(茂木氏はブログ「クオリア日記」で、山形での2日間を紹介してくださっています。)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/02/post_bc16.html
2007.03.16:miyamoto:[メモ/展評]


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