ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜農業版〜」 
  田んぼは今、黄緑(きみどり)。少しずつ黄色に近付いている。その黄色、年によってはまばゆいばかりの黄金色になることがある。その美しさといったらたとえようがない。長年田んぼの秋を見てきたこの私でさえ、しばらくそこから動けなくなるほどだ。今年はどんな色になってくれるのか。

 もうじき稲刈りだ。出穂は例年に比べ10日は遅れていたから、今月の下旬ぐらいからだろうか。種まきから今日までに、たくさんの出来事があった。もしかしたらこのブログを見ているあなたは「菅野がまじめに百姓しているわけがない。」と思っているかもしれないので、ちょっとまじめに・・・・こんなことがあった・・・と。

 今年は長い梅雨で、ほとんど一ヶ月、毎日、毎日が雨降り。全身にカビが生えてくるのではないかと思えるほどだったよ。日照不足と、ときおり「あれっ」と思うような低温のなかで、稲の成育は進まない。
  
 こんな気候のときは「いもち病」が心配で田んぼの周りを幾度も見て歩いた。農協の広報も「いもち病注意報」を出して気をつけるよう呼びかけていた。
 いもち病とは一種のカビがつくりだす病気で、葉につくと緑の葉に点々と茶色の斑点ができる。それがみるみるうちに増えていき、やがて稲の体ぜんぶが萎縮したようになって枯れていく。葉のいもち病が軽度ですんでも、それで終わりなのではなく、やがて穂のいもち病に変わっていく場合が多い。ひどい場合は、田んぼ全体が茶褐色になり、全てが枯れ上がってしまったかのように見えるほどになる。そうなると悲惨だ。大きな減収は当然だが、残った米も貧弱でまずい。やっかいな伝染病だ。
 これにかかると、農家は気落ちのあまり「火をつけて燃やしてしまおうか。」と思うほどだ。私はまだ経験がないけれど、恐ろしさは充分知っている。

 雨と曇天が続き、高温多湿。いもち病の蔓延する条件は充分にそろっている。実際、あっちこっちの農家から「ついに発生」の声が上がっていた。すでに農家は一度目の防除を終え、二度目の準備を進めていたが、我が家はまだやっていない。
 私は何度か田んぼを見て回っていた。そしてある日、ついにいもち病を発見。まだ軽度だけれど、堆肥が多く落ちて、稲の葉色が濃いところにチラホラと発生している。ザワッときた。

 地域づくりだ、レインボープランだといって田んぼをはなれる機会が多い私は「それ見たことか、あいつの田んぼは・・・」と言われることのないように、田んぼの管理には他の人よりいっそう気を使っていた。その上更に、周りの農家には農薬を減らそうと呼びかけていたのだから・・大きな被害が出たら影響は決して小さくはない。やばい。

 天気予報を見れば、これからも長雨は続くらしい。長年、殺菌剤、殺虫剤をやらずに来たけれど、今年は止むを得ないと思えた。ここはひとまず殺菌剤をやろう。そう決断せざるを得なかった。お米を待っている関西や関東の人たちの顔が目に浮かんだ。

 その後は暑い夏がもどり、いもち病の心配はなくなったのだけれど、あの時点では仕方なかったと思っている。だけど・・・。

 今年もようやく収穫の秋が近付いてきた。でも、思いは複雑だ。

 おもわず目を細めてしまうほどの輝きをもつ黄金色の田んぼは、朝晩の気温が低く、日中は高温だという天候が条件だという。

 今年の田んぼはどんな色を見せてくれるのだろうか。


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 「労働情報」誌の「時評・自評」欄に掲載した文章です。写真は鶏舎の修理をしている息子です。「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」はまだ書いていません。これからです。


 我が家の農業経営は、水田2ヘクタールに畑が少々、それに自然養鶏900羽。山形県の朝日連峰の麓、純農村地帯の一隅で農業を営んでいる。80代の両親と50代の我が夫婦。そこに昨年4月、農業専門学校を終えた息子が帰ってきた。以来、今日まで、田んぼだ、畑だ、ニワトリだとよく働いている。

 「あんなに働いてくれて悪いなぁ、もごさいなぁ(かわいそうだなぁの意)。家のためなら、うんといいけど・・。でも、よろこべないなぁ。気の毒なような、かわいそうなような・・。こんなことさせていていいものか?このまま歳とらせていいものかといつも思っているよ。」

 息子が出かけた夜に、88歳の母親はため息まじりに話す。

「家の犠牲になっているのではあるまいか。本当に百姓すきならいいけど、でもそうでなければさせられない。もごさくてよぉ、あの子のこと・・・。」

 現在の日本農民の平均年齢は60代後半。我が村の農家の平均年齢も67歳。昼間の田畑に若い人の姿は見当たらない。お米の価格は20年前と比べ、一俵(60kg)あたり1万円も安い。それに3割を超える減反があり、野菜は洪水のごとく海外から押し寄せ・・と、まぁ、こんな按配だ。若い人はとても就農できない。

 百姓仲間の造語に、「とき(時)が来る。トキになる。」という言葉がある。時代は生命系の回復に向かい、農業の価値がみなおされようとしているとは言うのだが、その到来をまえに、われわれ百姓は「佐渡が島のトキ」になっちまうよ、という意味なのだけれど、実感だ。

 日本に農業はいらないのかい?日本の穀物自給率はたったの27%。世界でも最低ラインに近い。「飢餓の国・北朝鮮」とはいうけれど、それだって穀物自給率は日本の倍の53%だ。日本の食糧事情はすでに破綻している。輸入によって事実が隠されているにすぎない。

 「もうすこし、あの子も世の中見えるようになれば、まだ歳若いから、大丈夫だから・・、何して生きていくか考えんなねごで。」

 88年間、いろんなものを見てきた母が、農業では幸せにはなれない、離れたらいいと話す言葉には説得力がある。でも、息子は充分そのことを知った上で、農業をやろうと帰ってきた。その気持ちが続く限り、それを支えてあげなければと思う。

若い百姓が一人生れたが、「トキ」に向かう流れは変わらない。
 


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ようやく機械で植える田植えは終わった。これからは田んぼの四隅が植えられていないので、手作業での田植えとなる。13枚の田んぼがあるからあわせて52箇所。21箇所はおわった。今日中には終わるだろう。もう少しだ。

下の文章は昨年のもの。ほとんど状況は変わらない。それぞれの年齢が一歳ずつ上がっただけだ。本文を読んでもらえれば分かるけど、息子が農業に就いたので、若い方から数えて4番目になったことが唯一の変化かな。

 

 田植えの季節が終わった。今年も田んぼの主役は年寄り達だった。
    
 今年75才になる我が集落の栄さん。彼は5年前の70才の時、自分の田んぼ1ヘクタールの他に、近所の農家から60アールを借り受けるほど米作りに情熱を燃やしていた。でも、この春、借りた田んぼをもとの農家に返したという。
 どんなにかがっかりしているだろうと、田んぼの水加減を見ての帰り、栄さんの家によってみたら、想像していたよりずっと元気だった。

「足腰が痛くてよぉ。これがなければまだまだおもしろくやれるんだがなぁ・・」 
「自分の田んぼはつくれるのかい?」
「あたりまえだぁ、だまってあと5年はできるぞ。生きているうちは現役よ。」

 意欲は衰えていなかった。やっぱりこの世代の人達は今の若い衆とモノが違う.
集落44戸のうち20戸が生産農家で、主な働き手の平均年齢は65歳と高齢だ。

 私が20代中ごろで農業に就いたときは、若い方から数えて三番目だった。若いということで寄り合いの時などは年輩者から「机をだして。」「灰皿ないよ。」と指示され雑用係を務めていた。そのときから29年たった。いまも私は若い方から数えて三番目だ。50代中ごろの私は、60代、70代の先輩のもと、同じように皿だ、箸だと率先して動かなければならない。おそらくは10年後も、そのまま歳をとった70代、80代の先輩達に指示されて、箸だ、皿だと・・・。あまり考えたくはないが・・・。

 「俺たちはよう、若い者たちをいたわっているんだよ。」

 そう話すのは74才の優さんだ。毎朝4時半には目が覚めるけど、家の若い衆を起こしてはならんと、しばらくじっとしていて、田んぼにいくのは5時半をまわってからだという。それもそっと。そばにいた優さんの奥さんが笑いながらつけたした。

 「私も、朝ごはんを出したり、掃除したりと、嫁を起こさないように注意しながらやっているよ。」

 外に出てからもな・・と優さんはつけ加える。

 「勤めに出ている村の若い衆を起こさないように、遠い方の田んぼに行って草刈り機械のエンジンをかけるんだ。」

 村では年寄りはいたわられるものという、よそで普通に聞く話は通用しない。我が集落の水田は、栄さんや優さんが現役でいる限りは大丈夫だ。

 だが、もう一つの現実もある。栄さんは今年、畔草に除草剤をまいた。除草剤をまけば、畔の土がむき出しになり、崩れやすくなるのだが、足腰の痛みにはかなわないということだろう。
 緑が日々濃さを増していく6月の水田風景。そのところどころに、除草剤による赤茶けた畔がめだつようになってきた。これもまた、高齢化する農村と農民の現実である。

 10年後、どういうたんぼの光景が広がっているのだろうか。










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 田植えが始まり、水田は久しぶりに活気づいている。

 ここ数年、田植えと同時に化学肥料を根元に落とす便利な機械が広まり、田植えまでの作業がいっそう短くなった。田んぼに堆肥を撒いている私の作業が、どうしても遅れてしまう。

「まだかぁ、いつごろ耕運できる?」

 隣の田んぼの持ち主が、自分の田んぼに水を引き入れれば私の田にも浸透し、耕運しにくくなることを気づかい、声をかけてくれた。

「申し訳ないなぁ。もう少しまってけろ。」

 せっかくの春なのだから、畦の野花をながめ、残雪と新緑の朝日連峰の風景を楽しみながら、のんびりと作業をすすめたいのだが、周囲のペースがそれを許さない。腰の痛みに耐えながら堆肥を撒き続ける。実際のところ、この作業が終われば、米作り作業の半分がかたづいたような気分になる。つらい仕事だ。

 それでもなお、私が堆肥にこだわるのは、私たちは「土を食べている」と思うからだ。土など食べたことないという人もいるだろうが、みんな食べている。

 昨年、ある地域の水田で収穫された米に、重金属の一種であるカドミウムが含まれていると新聞で報じられたことがあった。米がカドミウムをつくったのだろうか?そんなことあるわけがない。植えつけられた土にカドミウムが含まれていて、稲がそれを吸収してお米にたくわえたということだ。農民にはなんの罪もなく、つらいだけの話だが・・・。

販売されているキュウリの中から、40年ほど前に使用禁止となり、とっくに使われていない農薬の成分が検出されて問題になったこともあった。土に残っていた。

米に限らず、すべての作物は、土のなかのいいものも悪いものも区別せずに吸収し、その茎、葉、実にたくわえる。だから私たちは作物を食べながら、その作物を通して、土を食べているというわけだ。土の汚染からくる作物汚染は、洗っても皮をむいてもどうにもならない。それこそ身ぐるみなのだから。

スーパーに行けば、海の向こうの農作物がたくさん並んでいる。私たちはそれらを食べながら、中国の、アメリカの、あるいは他のたくさんの国々の土を食べている。はたしてその土は安全か?食べるに足る土なのか?はなはだこころもとない。

“食は土からはじめよう”、“守ろう、育てよう、食べられる土”である。 堆肥散布は土を守る基本だ。はずせない。

田植え作業までもうすぐだ。たんぼに漂うほのかな堆肥の臭いがうれしい。

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 この文章は昨年、「虹色の里から」に書いたものです。「虹色の里から」には少しカタイ文章を、「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」にはちょっとクダケタ文章を書いています。



田植えの季節だ。

我が家ではこの4月から、息子が一緒に農業をすることになった。

 人生どの道に進もうとも「農と食」を学ぶことは人が生きていくうえでの基本を学ぶこと。こんなことを話し合って、高校卒業後、農業の専門学校に進んだ。卒業してからはどこに就職し、どこで暮らそうとお前の自由だよ、自由に選べばいいと伝えていた。それが我が家で就農するという。うれしいような、切ないような・・。私の身体は楽にはなったが、心中はいささか複雑だ。

 農業しようかなと最初に息子が話したとき、真っ先に反対したのはばあさんだった。

「なにもお前が百姓することないよ。苦労するのは目に見えている。いい野菜が欲しいならサラリーマンにでもなって、きちんと収入を確保した上で、農民に向かって『安全、安心の農産物を作ってください。私達も応援しています』と言っているのが一番いいよ。」

うまいことを言う。そばで聞いていた私は思わず笑ってしまったが、息子は方針を変えなかった。

「オレが結婚したならば、相手のひとを農家の嫁にはさせないよ。」息子がこう切り出したのは先日のことだ。「嫁は掃除、洗濯、食事など家事全般をこなしながら自分の仕事を続けなければならないべぇ。疲れていても、なかなかお義母さんやってよとはいえない。」

 母親を通して、女性が別の仕事を持ちながら嫁をやっていくことのしんどさを見て来た息子の一つの結論らしい。
だから仕事をもっている相手と家事を分担しながら町のアパートで暮らし、自分はそこから田んぼや鶏舎に通いたいと言う。それを女房に話したら、息子がそういうのなら賛成するよ、それに・・と付け加えた。

「あなたも結婚する前は私を農家の嫁にはしない、家事も育児も分担しようといっていたのよ。けど、理屈だけで実際にはできなかった。息子はアパートに暮らすことで親父のできなかったことをやってみようというのだからおもしろいじゃないの。」

 確かに大切なのは家族の形ではなく、それぞれの人生をそれぞれが納得して過ごしていくことだ。一般論としてなら分かる。でも、だからといって通いで百姓ができるのか。家畜と一緒に、土と一緒に暮らしながらというのが我々農家の基本だと思うのだが。

 息子は村の消防団の一員となった。夕方、農作業を早めに切り上げ、団のはっぴを着て勇んで出て行った。やがてまちで暮らすとしても、村を守る構成員としてがんばっていくということだろう。これも彼の選択だ。

 夫婦一緒に身体を使って農業をやってきた父母の世代。共稼ぎの我々の世代。そして息子達の世代。家も、地域社会も、農業も少しずつ変化していっている。

 我が家の、息子を含めたあれやこれやの物語がこれから始まっていく。

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「物干し竿はいかがですかぁ。20年前のお値段でぇす。」
洗濯竿を積んだトラックが、ボリュームを一杯に上げてやってきた。田んぼの種まきの準備をしていた午後のことだ。

 「20年前と同じだとぉ?何を言っている。こっちは1万円も安いぞ。」
 作業小屋で一緒にお茶を飲んでいた富さんが、小さくなっていくトラックを見ながらいつになく語気を強めて言った。

 富さんが言うのは米の生産者手取り価格のことだ。昨年の米値段は、一俵あたり1万2千円から3千円の価格。今から20年ほど前の一等米の手取り価格が、2万2〜3千円ほどだったから、1万円は下ったことになる。米作り農家にとっては深刻な安さだ。ここ数年間でガタガタッときた。そのうえ約3割の減反。機械代や肥料代は当然のように上がっているから、昨年の場合、ほとんどの生産農家にとって利益がなかったか、赤字となっているはずだ。

 「だけどこれはまだ序の口だ」と知人の農政ジャーナリストはいう。「米価はまだまだ下がるよ。数年のうちに1俵あたり一万円は切るだろう」と妙に自信たっぷりに断言した。米価暴落の背後にあるコメの輸入自由化はこれからが本番だからだ。

なぁ、おい・・と富さんの話は続く。
「消費者は、ここまでの安さを本当に求めているのだべか?農家が米作りをあきらめるほどの安さをよ。」

 さぁーて、どうだろう。でも米作り農家にとって昨年の手取り価格が数年続くようなら大変な打撃になるだろうし、1万円を切るようなことになれば決定的だろう。
山形県の農業は、風景を見ても分かるように、水田を中心に営まれている。だからその影響は甚大だ。米作りだけでなく、農業そのものに見切りをつけていく人たちがたくさん出てくるにちがいない。

「それで困るのは消費者で、農家はいっこうに困らない。自分で食べるものだけをつくり、金は他に働きに出て稼げばいいのだから、という人もいるよな」
冨さんが反論した。
「そうとも言える。だけど農家にとってもきびしいぞ。公共事業はない。企業も人を雇わない。いま確実に収入として計算できるのは年寄りの年金だけだよ。うちの年寄りもますます勢いづくよなぁ・・」
冨さんはそう言い残してかえっていった。

いま、農業で働いている人の年齢層のピークは70〜74歳で、この層が日本の農業を支えているというのはよくいわれるが、農家の家計もまたこの層に支えられていくというわけか。うーん・・・。

まてまて、あきらめるのはまだ早い。必ず道はあるはずだ。さぁ、種まきにかかろうか。



「管理職はやめたよ。手当てが少しばかり増えたって役職の仕事は俺に似合わないよ。」鼻から荒い息を出しながらまくしたてるのは友人の惣さんだ。

 赤いバイクに乗って働く彼が、ヒラから役職に変わったと聞いたのは一昨年ことだった。仲間達は小さな酒宴を開いてそれを祝ったが、それから一年半後、惣さんは自ら申し出てもとのヒラにもどった。仲間達は多少とまどいながらも、今度は激励会をひらき、彼を肴に愉快な酒を飲んだという。

 人生はつまるところ、自分にあった生き方、暮らし方ができるというのが一番だ。いうまでもないことだが、それを決めるのは自分自身であっって、世間の価値観でも、会社の都合でもない。

 ヒラに戻った彼は、元気にバイクのハンドルを握っているのだが、その顛末を聞きながら、私は例によってわが家の800羽のニワトリ達にまつわる、似たような話しを思い浮かべていた。

 惣さんとニワトリをごちゃまぜにするのは不謹慎かもしれないが、まぁ、彼なら笑って許してくれるだろう。

 わが家のニワトリ達にとって、鶏舎の中が過ごしやすいかどうかの問題は大きい。彼らが休むときは、たいてい止まり木の上にあがる。スズメやカラスたちが木々の上で休むのと一緒だ。私は全ての止まり木を、1メートルぐらいの高さにそろえて作っていた。みんな同じく、一様にここで休んでくれと。

 たいていのニワトリにとってはそれでいいのだが、中には群れから離れ、屋根裏に通してある高い横木の上に、自分だけの世界を見つけて休むトリ達も何羽かいた。「へぇー、こんな所にも止まるのかい?」

 ある時、彼らは多様な止まり木を求めているのかもしれないと気がついた。

 これが自然界の鳥ならば、いくらでも自由に好みの場所を選ぶことができるのだが、わが家のニワトリ達の選択肢はとても少ない。高さ1メートルの所か、屋根裏の横木かだけなのだ。この選択はいかにも貧しい。

 さっそく作業にとりかかった。下は地面から50センチぐらい、上は屋根裏の高さまで、傾斜をつけ、たくさんの止まり木を固定した。ニワトリ達は始めのうちこそとまどっていたが、少しづつ上にあがるようになり、やがて4〜5日後には下から上まで、それぞれの好みの場所で休むようになっていった。

「うん、世の中、こうでなくちゃいけない。」

人間社会では横並び以外の人、あるいはちょっと目立った人が排除されがちなご時世。ニワトリ達を見ながら、あらためて生き方、暮らし方は人それぞれ多様でいいんだと思った。

そうだよな惣さん。

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写真説明;止まり木や屋根裏に渡してある横木で休むニワトリたちを撮ろうとしたが、朝の時間が遅くて、止まり木にはほとんどいなかった。撮れたら入れ替えよう。

この文章は「虹色の里から」に掲載された文章です。
「ぼくのニワトリは空を飛ぶー再開2回目」は毎月1日と15日をメドに書こうと思っています。







春になった。

春になると米作農家は種モミの準備にはいる。まず始めは塩水に浸して、沈むモミと浮き上がるモミを選別する「塩水選」。私たちの地方ではこの作業を「しおどり」と呼んでいる。実の充実した種を選ぶ大切な作業だ。

その後引き続いて、種モミの消毒をおこなう。種モミに付着しているいもち病、バカ苗病などの、もろもろの病原体を取り除くためだ。私はこれを「温湯法」でおこなっている。

「温湯法」とは60度のお湯に種モミを5分間浸け込み、その後冷水で冷やすという方法だ。それまでの私は農薬を使ってこの消毒をおこなっていた。でも、ある出来事をきっかけに今の方法に変えた。15年ほど前のことだ。

「チョット来てみてくれ。大変なことになった。池の鯉がみんな死んでしまったよ。」緊張した表情で訪ねてきたのは近所で同じ米づくりをしている優さんだった。急いで行ってみると池の鯉がすべて白い腹を上にして浮いていた。その数、およそ60匹。上流から種モミ消毒の廃液が流されてきたらしい。川の流れは細く、水に薄められることなく池にはいってきたのだろうと優さんはいっていた。

種モミは農薬のはいった水に浸けられ、殺菌処理されるが、問題はその後の廃液の処理だ。河川に流せば水生生物に被害をあたえる。下流では飲み水として活用する地域もある。流せない。

農協は、河川に流さず、畑に穴を掘り、そこに捨てるようにと呼びかけていた。でも、畑に捨てたとしても土が汚染するだろうし、地下水だって汚れないともかぎらない。どうしようか。種モミの殺菌効果は完璧だが、毎年おとずれる廃液処理に頭を悩ましていた。

そんな中でであったのが「温湯法」である。これを教えてくれたのは、高畠町で有機農業に取り組む友人。この方法はきわめて簡単で、しかも、単なるお湯なのだから環境は汚さないし、薬代もいらない。モミの匂いを気にしなければ使用後、お風呂にだってなってしまう。なんともいいことずくめの方法なのだ。

 へぇー、こんな方法があったんだぁ。始めて知ったときは驚いた。環境にいいし、第一お金がかからない。

 幾年か経験を重ねた後、近所の農家に進めてまわったが、我が集落で同調する農家はごく少数。15年間増えてはいない。どうも私には技術的な信用がないらしいとあきらめていたのだが、この間、農業改良普及センターにいったら、うれしいニュースにであえた。

 「庄内地方に「温湯法」が増加。今年は1,500〜2,000haの見込み」。
いらっしゃったのですねぇ。ねばり強く普及に取り組んでいた方々が。
単純に計算すれば、県内でおよそ400万リットルの廃液ができる見込みだ。

 やっぱり俺もあきらめずにPRしなくちゃ。







下の文章は「虹色の里から」(朝日新聞山形版)に掲載されたものです。2年前ですがある全国紙の山形版に、レインボープランはうまくいっていないという特集が組まれたことがありました。それに対する反論を朝日新聞紙上に書こうとしたのですが、最初にだした原稿ではあまりにもリアルすぎるという担当記者からの指摘をうけ、少しオブラートに包んで書いたのがこの文章です。


レインボープランがスタートして7年目に入っている。ありがたい激励がほとんどだが、まれに参加農家が減っていることを指摘する声や、生ごみ堆肥の有効性について疑問視する声もないわけではない。

 レインボープランのまちづくりは、白紙の状態に絵を描くのと違って、人びとが暮らしているただ中に、市民主体で、循環のシステムを築いていこうとする事業だ。当然すんなりとはいかない。

 以前も今も、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりの連続で、いつも課題は山積だ。利と理が衝突することもある。問題がでればみんなで時間をかけ、ゆっくりと考えていけばいい。それらは未来にむかっての必要なプロセスであり、肝心なのはいつもこれからという姿勢を保ち続けることだと思っている。参加農家の問題もそういうこととして取り組んでいる。

でも、生ごみの堆肥化自体に問題があるかのような見方は明らかに認識不足だ。よく指摘される問題は効果と塩分の二つ。

 まず効果についてだが、堆肥には「作物の肥料として」と、「土づくりとして」の大きく二つの用途がある。窒素成分の低い生ごみ堆肥は土づくりに最適だが、肥料としてなら豚や牛の堆肥の2倍以上は必要だ。それに比べて畜産堆肥は窒素が多く、作物への肥料効果は高いが、土づくりとして使う場合は藁や草、落ち葉などを大量に混ぜ、窒素分を薄めて使うことが求められる。               
 ちろん生ごみ堆肥にも肥料効果はある。森の木々はいってみたら「生ごみ」をエネルギーにして成長しているのだから。要はそれぞれの堆肥の特性をおさえて上手に使うことが基本だ。このことを取り違えた議論が多い。

 塩分の問題はよくいわれることだが、その含有量は酪農堆肥とさほどかわらず、露地での使用にはなんの問題もない。雨が降らないハウスでの使用にあたっては一年ぐらい外に晒してからというのは、畜産堆肥と同じだ。
そもそも私たちが毎日の食事で使っている程度の塩分は土にとって大きな問題ではない。自動車もさびつくほどの潮風があたる海岸端でさえ、田や畑を耕しながら人びとの暮らしがつづいている。潮風によって田畑の土が壊れたと言う話はきかない。

 東京農工大の瀬戸教授は、生ごみ堆肥に含まれている塩分を30年分投入した野菜の成育調査において、発芽、成育になんの問題も無かったという研究成果を発表した。教授は生ごみを堆肥にするための疎外要因はなにもないと結論づけている。

 生ごみを燃やせば猛毒のダイオキシンが発生する。土から生まれたものを土にもどすことが循環型社会の基本である。そうはいっても人間社会は一筋縄ではいかない。当然のことを当然の状態にもどすことにおいてすら、さまざまなためらいがあるということか。
それぞれの地域にはその地固有の風土があり、暮らしがあり、それに見合った食材と食べ方がある。それを「郷土食」というのだそうだ。その郷土食は近年、ファスト・フードやたくさんの冷凍食品などに押され影が薄くなっていた。でも最近その存在がみなおされてきたという。

「なんといっても健康が第一だよ。だから郷土食。」と若い友人はいう。
私はその郷土食で育てられてきた。思い出すことができる夏の郷土食といえばナスの漬物、蒸したナス、ナスの煮物、炒めもの、キュウリの漬物や煮物など、買ってきたものはほとんどない。旬の野菜というと聞こえはいいが自分の家の畑で採れたものばかり。ほとんど毎日が同じもののくり返しだった。

当時、郷土食という気取った言い方はなかった。あったとしてもそれは貧しさの別の表現だったと思う。今でもわが家の食事はそのころとあまり代わってはいないけれど。そんな身からすれば若い友人の言葉にいささか思いは複雑だ。
ふ〜ん、健康にいいってかぁ。そりゃそうだろう。でも大丈夫かい、質素だよ、と人ごとながら心配になる。

そんな折り、長井市の西根地区公民館から郷土食の調理本である「里のめぐみ」が発行された。作成したのは地区の60代、70代の四人の女性達。夏の郷土料理を食べながら、冊子の完成を祝いたいという案内をいただき参加した。出された献立は、お赤飯、くじら汁、だし、みずのおひたし、つけものなど。
        
「生まれて始めて取り組む、慣れない作業でした。郷土の素朴な料理や味を若い人達に伝えたい」とご婦人方の弁。

「残しておきたい郷土の料理」という副題のついた冊子を手にとり、めくってみる。「ふきのとう味噌」から始まるおよそ40品目。酢の物、あえ物、煮物、佃煮、炒り物、からめ物・・・そこには春、夏、秋、冬と季節ごとに分けられた様々な料理が丁寧な調理法と解説つきで書かれていた。

驚いた。質素だなんてとんでもない。限られた食材に加えられた多様な調理、工夫のかずかず。たしかにわが家の夏の郷土食といえば、ナスずくしだったが、一年を通してみればやっぱりいろんな物をたべていた。

ところで、郷土食というのはそれこそ何百年もの間、親から子、姑から嫁へと伝えられてきたものだった。しかしいま、郷土料理の本を都会の人達へではなく、おなじ郷土で暮らす人達にむかって発行しようとするのは、その伝達が立ち行かなくなっている現実があるからだろう。

この本の発行によって、若い人たちの中にも作ってみようという人が増えるかもしれない。そうあってほしいと思う。地元の風土に根ざした食の技(わざ)。このまま忘れられてしまうのはいかにもおしい。

冊子の問い合わせ;西根地区公民館(0238−84−6326)










 高校時代の三年間は、いい意味でも悪い意味でも、俺たちのその後の人生にずいぶん影響を与えているよね。えっ、その中の特に何がですと?笑うなよ、いいかい。それはな・・・こい・・koi・・恋。恋なんだよ。

 少し大きめの制服を着た同級生の中から、一人の女性の姿を眼で追うようになったのは一年生の夏ぐらいからかなぁ。

 以来、卒業までの三年間、悲恋、破恋、恥恋、笑恋、大失恋の数々。

 あまり胸はってよそ様に語れるものはないけれど、胸の中にはいつも特定の人がすんでいたよ。
廊下ですれちがった時にわずかに眼があっただけで、どんな部活の苦しさにも耐えられると思ったし、そこにほんの少しの笑顔でも付け加われば、それこそ一週間は天国に昇ったような気分が続いたね。

 当時はやった「高校三年生」という歌の中に「ぼくら、フォークダンスの手をとれば・・」という歌詞があったけど、そのフォークダンスが何日も前から楽しみで、前の日は念入りに髪を洗い、ツメをきり、と・・。でもね、笑っちゃうのは、イザその娘との番がまわってくるとガチガチになりながらも、わざとそっけなくするんだよね。ばかだねぇ、若いねぇ、かわいいねぇ、あのころの俺、俺たち。

 俺たちは三年間の中で、異性とのつきあい方を学んだと思うよね。想像をやたらふくらませ、美化しすぎることなく、また、その逆でもなく、様々な失恋や悲恋の中から、等身大の異性との関係のとり方、つきあい方を学んだんだと思うんだ。

 もっとも、俺の場合はまだまだ勉強が足りなかったとみえて、卒業後も悲恋、破恋・・は続くんだけどさ。

    




 今月の10日、長井市西根地区の公民館で、「菜の花の村・未来づくりの会」の新年会がおこなわれた。

 菜の花を楽しみ、その実であるナタネを搾って油をとり、使った後の廃食油を精製して車を走らせる。そんな目的をもった20名の老若男女が集まって会を結成したのは昨年の9月初旬のことだ。

 2.6ヘクタールの畑に種をまき、生育状態を見守りつつ始めての新年をむかえた
2、6ヘクタールという面積は決して小さくはない。昨年、ナタネ油用の栽培面積が山形県全体で5ヘクタール弱しかなかったことを考えれば、お分かりいただけるだろう。初めての年としてはいいスタートがきれたと思う。菜の花の成育も順調だ。みんなの気分はいい。

「春になって花が咲いたらきれいだろうね。」「花畑のまん中にゴザを敷いて酒宴というのはどうだろうか。」鍋をつつきながら、話題はとっくに5月にとんでいる。
そんなとき「これから先の菜の花の栽培だけど・・・」と言葉を選びながら話しだしたのは、会の世話役の敏夫さんだった。

 菜の花の栽培は転作作物として補助金の対象にはなっていない。そのため収入はナタネの販売利益だけだが、粗収入はうまくいって10アールあたり6万円ぐらいしか見込めず採算があわない。この現実の中でこれから先どうすすめるか。敏夫さんの話はこういうことだった。
栽培面積がふえている滋賀県などでは県や町の補助金をあてて小麦などと同じ10アールあたり10万円になるように不足分を補っているという。

 しかし山形県にはその仕組みがない。いくら菜の花畑がきれいで、ナタネ油が安全でおいしくてもそれだけでは栽培は広がらない。その話を聞きながら「理と利の調和」ということを考えていた。
私は地域づくりには理念と利益のほどよい調和が大切だと思っている。このことは25.6年ほど前の減反拒否の手痛い失敗から学んだものだ。

 理念の正しさだけでは仲間は増えず、地域を変える力にはなれない。理念の示すところには同時に利益があるということが、運動のダイナミズムを獲得するうえでは大事だ。これがなければ事業は広がりにくいし、継続しづらいだろう。

 生活している立場にたてば、このことはしごく当たり前のことなのだが、その渦中にいると時には見えにくくなることがある。

 ささやかな利益でいい。なるべくならそれを自力で確保したい。簡単なことではないことは分かっている。その難しさが「未来づくり」の醍醐味でもあると思えるのだが、現実には敏夫さんの話をどう受けとめたらいいのか。
 置賜農業高校飯豊分校生が日本学校農業クラブ全国大会のプロジェクト発表文化・生活部門で「食物アレルギーの理解を求めて」という実践発表を行い、最優秀賞を受賞した。昨年の東北大会優秀賞に続いてのこと。

小さな分校の大きな快挙である。

学校農業クラブというのはあまり聞き慣れないが、全国の農業関係科目を学ぶ11万人の高校生の全国組織だそうだ。飯豊分校の実践がそのトップに立った。

 地元の人達が集って開かれた「祝う会」で彼らの発表を聞き感動した。生徒達は実に堂々としている。内容もすばらしかった。

 その活動を紹介しよう。
スタートは食と健康の視点から玄米に着目したことだった。その効果と活用の実態を調べようと様々な分野の人を訪ね話を聞いた。その結果、玄米の良さに一層の確信を持つが、食べにくいということから敬遠されている現状を知る。そこで学校で作っていた無農薬玄米を使い数々の玄米料理のレシピをつくる。更にレパートリーを広げ玄米ケーキ作りに挑戦。地元のお菓子屋さんと協力して商品化にも成功する。保育園の依頼を受けて自分たちのつくった玄米ケーキを園児たちに提供するようになった。

 子どもたちはとても喜んでくれたが、中に食物アレルギーのために食べることができない園児がいることを知った。そんな子にこそ玄米を食べてもらいたいと、アレルギーの原因となる卵や小麦、乳製品を除いたケーキを作ろうと決意する。地元のケーキ屋さんからは「卵などがなければケーキは膨らまない。無理だ。」と言われたが、失敗を重ねて6ヶ月後、ついに成功する。
何度かくじけそうになったというが、苦しむ園児たちを助けてあげたいという思いが勝ったということだろう。

 更にそれにとどまらず、アレルギーを持つ子どもたちのことを少しでも知ってもらおうと紙芝居を作成し各地で上演する。食と健康の問題を地域の中で広く訴えるために町民に呼びかけ、玄米フォーラムも開催した。

こんな一連の活動が受賞の対象となった。

これは高校を地域に開き、地域の課題を地域の人達とともに考え、その参加のもとに組み立てられていく新しい教育実践なのではないだろうか。高校の授業の中に地域を活かすというような、よく聞く領域を越えている。生徒もすばらしいが、それを支え、指導する教師の力量と情熱、それに学校全体の協力体制もみのがせない。この受賞は飯豊分校全体が評価され獲得した賞といえるだろう。

残念ながら現代は「食についても学ばなければいのちが危ない時代」である。農業高校は職業としての農業後継者を育てるだけでなく、いのちのみなもとである食や環境について考える生徒、人間を育てる場として今後ますますその役割が大きくなっていくだろう。

飯豊分校はその先頭を歩んでいる。



 長井市ではレインボープランという名の生ごみと農作物が地域の中で循環するまちづくりをすすめているが、この事業に国内だけでなく外国からの視察者も多い。

先日、タイの東北部にあるカラシン県ポン市から市長一行がやって来た。

 すでに同じタイ国のコンケーン県ブアカーオ市では「レインボープラン」という名の、同じ事業が始まっているが、ポン市でもこのプランを実現しようと市長自らが視察に出向いて来られたというわけだ。

 タイでレインボープランを求める背景には環境や農業、食料のどれ一つとっても日本の私たちより深刻だという状況がある。たとえば農業だが、輸出用の商品作物を増産しようと農薬と化学肥料を多投してきた結果、土が疲弊し、満足に作物が育たなくなっている農地が増えているということだ。

「化学肥料によって栽培された作物を食べ続けてきたことも一因だと思いますが、人びとの免疫力が低下しています。糖尿病、高血圧、ガンなどの病気も増えてきました。私はいま市民の健康を、食の面から守ることが行政のとても大切な仕事だとおもっています。そのためにも是非レインボープランを実現したい」と市長は語る。

 日本の場合も輸出こそしなかったが、堆肥から化学肥料へと農法を変え、タイと同じように効率と増産による最大利益を追い求めて来た結果、土が疲弊し、それが主な原因となって作物の弱りを引き起こしてきた。

「食品成分表」(女子栄養大学出版部)によって1954年と、約50年後の2001年のピーマンを比較すると、100gあたりに含まれるビタミンAの含有量は600単位から67単位へとほぼ1/9に激減している。ビタミンB1も0,1mgから0,03mgに、ビタミンB2は0,07mgから0,03mgへ、ビタミンCも200mgから76mgへと、のきなみ成分値を下げているのだ。

これには驚かされる。

 今の私達がビタミンAをピーマンからとろうとしたら54年当時の9倍の数を食べなければ同じ分量にはならない。成分の下落は他の野菜にもいえること。身体は全て食べ物からつくられていくことを考えれば、この数値の低下はちょっと恐ろしい。

 ポン市の市長が指摘するように、作物の質の低下は、それを食する者の免疫力、生命力にも大きな影響を与えるだろう。

政治や行政の最大の課題は、人々の健康、すなわちいのちを守ることである。そのいのちを支えるのはいうまでもなく食べものだ。その食べものを育むのが土であるならば、土を守ることは第一級の政治課題でなければならない。ポン市の市長さんの話を聞きながらそんなことを考えた。
 
ぜひ成功して欲しい。俺たちもこれからだ。
 田植えの季節が終わった。今年も田んぼの主役は年寄り達だった。    

今年75才になる我が集落の栄さん。彼は5年前の70才の時、自分の田んぼ1ヘクタールの他に、近所の農家から60アールを借り受けるほど米作りに情熱を燃やしていた。でも、この春、借りた田んぼをもとの農家に返したという。

どんなにかがっかりしているだろうと、田んぼの水加減を見ての帰り、栄さんの家によってみたら、想像していたよりずっと元気だった。

「足腰が痛くてよぉ。これがなければまだまだおもしろくやれるんだがなぁ・・」 
「自分の田んぼはつくれるのかい?」
「あたりまえだぁ、だまってあと5年はできるぞ。生きているうちは現役よ。」
まだまだ意欲は衰えていなかった。やっぱりこの世代の人達は今の若い衆とモノが違う。

 集落44戸のうち20戸が生産農家で、主な働き手の平均年齢は64才と高齢だ。

 私が26才で農業に就いたときは、若い方から数えて三番目だった。若いということで寄り合いの時などは年輩者から「机をだして。」「灰皿ないよ。」と指示され雑用係を務めていた。そのときから28年たった。いまも私は若い方から数えて三番目だ。54才の私は、60代、70代の先輩のもと、同じように皿だ、箸だと率先して動かなければならない。おそらくは10年後も。あまり考えたくはないが。

 「俺たちはよう、若い者たちをいたわっているんだよ。」そう話すのは74才の優さんだ。毎朝4時半には目が覚めるけど、家の若い衆を起こしてはならんと、しばらくじっとしていて、田んぼにいくのは5時半をまわってからだという。それもそっと。
そばにいた優さんの奥さんが笑いながらつけたした。
 「私も、朝ごはんを出したり、掃除したりと、嫁を起こさないように注意しながらやっているよ。」
 外に出てからもな・・と優さんはつけ加える。「勤めに出ている村の若い衆を起こさないように、遠い方の田んぼに行って草刈り機械のエンジンをかけるんだ。」

村では年寄りはいたわられるものという、よそで普通に聞く話は通用しない。我が集落の水田は、栄さんや優さんが現役でいる限りは大丈夫だ。

だが、もう一つの現実もある。栄さんは今年、畔草に除草剤をまいた。除草剤をまけば、畔の土がむき出しになり、崩れやすくなるのだが、足腰の痛みにはかなわないということだろう。

緑が日々濃さを増していく6月の水田風景。そのところどころに、除草剤による赤茶けた畔がめだつようになってきた。これもまた、高齢化する農村と農民の現実である。

10年後、どういうたんぼの光景が広がっているのだろう。