ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜養鶏版〜」 
妻がこんなことを言っていた。

「ここのところのFBにあなたが泣いた話が多いけど、読んでいる方はよく泣く男だと思うかもしれないね。めったに涙を流す人じゃないけどね。」 

妻が言うように今までの人生で3回かな。1回は25歳の頃、百姓になると決めた沖縄で。2回目は今回のFBにも書いた27歳の頃、減反拒否の加藤登紀子コンサートの場で。3回目はこれも「異変」という題で書いたけど、67歳。リハビリの中で「15-7=」が分かった時。

 いずれもどう生きるかの「生き方」がかかわっているときだ。人生で3回は多いか少ないか分からないけどね。
誰にでも思い出深い歌がある。私にとっては加藤登紀子さんが歌う「生きてりゃいいさ」。それにはこんな経緯があった。他人の思い出など知りたくもないよと言う方もおいででしょうが、ま、いいじゃないですか。



コメの「減反政策」(「第二次生産調整」)が始まったのは1977年のことで、私はまだ26歳。前の年に父の後を継いで百姓になったばかりだった。
農水省の示した減反計画は40万ヘクタール。この面積は当時の全九州の水田面積に匹敵する。この大変な規模のコメを一挙に減らし、飼料作物や大豆などへの転作を促進しようとした。減反すれば補助金を出すが、しなかったなら罰則を科すと言う。この政策は、当時、誇りをもって土を耕していた若い後継者(たち)の自尊心を大いに傷つけた。
政策の背景には、食管制度の廃止とコメへの市場経済の導入、あわせてアメリカ小麦への市場提供を意図する狙いもあったに違いない。今から振り返えれば、この政策は戦後農政の大きな転換点だった。
その後、食管制度が廃止。小麦のみならずコメの大量輸入も行われ、米価は生産原価を切る価格まで値を下げた。農家はやる気を失い、後継者は農外に就職し、農家の高齢化が進んだ。自給率も落ち込み、日本は国民の食糧の多くを海外の田畑に依存するようになった。こうなる前にこの国をどう作っていくのか、もっともっと丁寧な国民的議論が必要だった。日本はいつもそうなのだが、なぜもっと事態を丁寧に説明し、時間をかけた議論ができなかったのかと悔しく思う。

さて、当然のことのように私は「減反」を拒否した。事は国の政策への異議申し立てなのだが、現実には推進する立場の農家と、反対する農家との対立となる。昨日までともに農業を良くしたいと協力してきた仲間だった。多くの農家は矛を収めた。私は村で孤立した。
妻のお腹には新しい生命が宿っていた。この子(たち)のためならば頑張れる。しかし、子どもは産声を上げることはなかった。俺はもうだめかもしれない・・・。
そんなある日、宮城県南郷町の若手の百姓達から「加藤登紀子コンサート」への招待状が届いた。私の孤立を知ってのことだと言う。その気持ちがありがたく、友人と一緒に出かけた。
川島英五作詞・作曲
(1)♪君が悲しみに心を閉ざしたとき、思い出してほしい歌がある
人を信じれず、眠れない夜にはきっと思い出してほしい
生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ、
そうさ、生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ
手のひらを合わせよう、ほらぬくもりが君の胸に届くだろう

(2)♪一文無しで街をうろついて、野良犬と呼ばれた若い日も
心の中は夢で埋まってた。やけどするくらい熱い思いと
生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ
そうさ、生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ
手のひらを合わせよう、ほらぬくもりが君の胸に届くだろう・・

途中から肩が震えて止まらない。熱いものがどんどん込みあげてくる。涙が堰を切ったようにあふれだし、滴り落ちる。嗚咽が止まらない。
生き方を探して煩悶していた青春の日々。農民として生きることを決めたこと。両親とともに農業を始め、建設現場で働いた日々。減反拒否、そして子どもの死・・。様々なことが走馬灯のように頭を駆け巡っていた。「菅野さん、大丈夫ですか?」
俺が普通でないことを見た南郷の友人がそばに寄ってきたが、それ以上声をかけずに戻って行った。
 
それから約30年後の2008年。千葉県の鴨川にある加藤紀子さんたちが主催する「自然王国」で話をする機会をいただいた。楽屋では加藤さんと二人だけ。思い切ってあの時のことを話した。するとギターを持ってそっと歌いだした。
「君が悲しみに心を閉ざしたとき・・・」
あの歌だ。再び涙があふれてきた。

この歌は今も私を支えている。

月間「地域人」35号(大正大学出版会発行・2018・7月)
所収 拙文
まだ眼が覚めぬが眠っているともいえない「まどろみ」の時、夢とうつつが重なり合って思わぬ方向に発想がふくらんでいくことがある。
 ある日のフトンの中、「20才の頃の私」と「桃太郎」と、「一寸ぼうし」が突然つながった。
 以下、その話を紹介するが、多少の飛躍や、突然の転換には眼をつぶっていただきたい。なにしろ、半分寝ぼけている中の出来事なのだから。

 20才の私はどういうわけか生き方を求めていた。自分らしい生き方をさがしていた。
 人生の岐路に立った時は、たいていの場合、自分がそれまでにたどってきた道を振り返り、どこかに何かヒントがないかを捜そうとする。当時の私に最も大きな影響を与えていたのは高校時代の三年間のはずだった。しかし、思い出すのは三角関数や英単語だけとはいわないが、頭の中をさぐっても、出てくるのは生き方とはあまり関係のない、あれやこれやの雑多な知識がほとんどだった。
 ようやく私はそこで「いかに生きるか」を全く考えることなく、また学ぶこともなく20才になってきたという、それまでの人生の浅薄さに気付いた。    
 やがて、どうもその浅薄さは私だけのものではなく、おそらく程度の差こそあれ、同時代人にかなり共通しているもの、あるいは大部分の日本人にさえ言えることなのではないかと思うに到った。
 何故かといえば、その根っこは、だれもが幼児の頃からくり返し、くり返し聞かされてきた「桃太郎」と「一寸ぼうし」の中にあるのではないかと思えたからだ。
 まずは「桃太郎」。自分のものではないお宝を戦利品として自宅に持ち帰るのはいかがなものかとも思うが、問題は話の終わりかたにある。荷車いっぱいにそのお宝を満載して桃太郎は村に帰って来た。桃太郎は「お金持ち」になった。そして・・。話はそこで終わっている。手に入れたお金で川に橋を架けたり、学校を造ったり、貧しく苦しむ人たちに・・・そんな話はまったくない。 
 そして「一寸ぼうし」。彼も鬼退治をして、助けたお姫様と結婚し、やがて「エライお役人様」となった。そして・・、この話もそれから先がない。話はここで終わっている。
 手に入れたお宝を使って何をしたのか、あるいは「エライお役人様」になって何をしたのかは全く語られてない。つまり、何かお金を得ること、あるいはエライお役人になることが終着点であるかのように描かれているのだ。こんなお話を、小さい時から、くり返し聞かされてきた結果、「お金」や「出世」が人生の目的であり、その成功、不成功もそこにある、と考えるようになってしまったとしてもおかしくはあるまい。
「一寸法師、桃太郎症候群」。志を失った高級官僚から「オレオレ詐欺」の若者まで、幅広くこの類に入る。その正体は「生き方」、哲学の不在。

 そして・・、まどろみながら、論理の飛躍を楽しみつつたどりついた結論は次のようなことだった。私たちは「桃太郎」と「一寸ぼうし」に変わる「新しい童話」を子どもたちに語り聞かせなければならない。それは俺たち自身の物語だ。あっちでぶつかり、こっちで泣いた、けっしてカッコイイ話じゃないけれど、自分がたどってきた中から得た「生き方」を子どもたちに。じいちゃん、ばぁちゃん、母ちゃん、父ちゃんの話、近所のおじさん、おばちゃんの話でもいい。子どもたちはそれらを聞きながら、これから歩む自分の人生を考えるだろう。夢中で生きて来たけれど、振り返ってみれば泣き笑いの連続だった。子どもたちに伝える材料には事欠かない。
 これが、まどろみの中の結論だった。
どうだろうか、ご同輩。

月間「地域人」34号(大正大学出版会)・拙文
またまた狐がやって来た。
ニワトリが一挙に80羽ほどやられた。80羽!
犯人は狐。
今年は雪が多い。
除雪を重ねながらも、踏み固めた硬い雪の層は、鶏舎のけっこう上の方まで来ていた。
そこを足場に金網を引きちぎって侵入したのは本来ならば狐が如何にジャンプしても決して届かない高いところ。そもそもそんなところからの侵入は例年ならば不可能だ。
だから金網はそれほど頑丈なものは使っていなかった。
彼らはそれを見逃さなかった。
周囲の足跡を見ると集団で来たのかもしれない。
朝、行ってみたらたくさんの足跡と、ニワトリたちの死骸が転がっていた。
 食べられたのならば納得もできるが、ただ殺していっただけだ。
ひどい奴らだ。
食べる以上の無意味なさ殺戮はしない。
これは自然界の摂理だ。狐はそれに反している。必ずやっつけてやる。そう心に誓うのだった。

毎日が零下の世界。
昨日もマイナス10度まで測れる寒暖計が振り切れていたから、
いったい何度まで下がったのだろうか。
吐いた息さえもすぐに凍ってしまいかねない世界だ。
この時期になるといつも思い出すのは彼女のこと。そう、雪女。
さみしげで薄幸せそうな彼女の面影。
実際、彼女が幸せになったと言う話は聞いたことはないが、どこか惹かれるところがあり、毎年誰かがその魅力に抗いがたく、凍った状態で発見されているということだ。
でも一様にみな幸せそうな表情で、後悔している様子が全く感じられないという。
今年も「雪女の誘いに乗ってはいけない」との隣組の回覧板が回ったけれど、どれだけ効き目があるだろうか。
気を付けなければならないな。

毎日が零下の世界。
昨日もマイナス10度まで測れる寒暖計が振り切れていたから、
いったい何度まで下がったのだろうか。
吐いた息さえもすぐに凍ってしまいかねない世界だ。
この時期になるといつも思い出すのは彼女のこと。そう、雪女。
さみしげで薄幸せそうな彼女の面影。
実際、彼女が幸せになったと言う話は聞いたことはないが、どこか惹かれるところがあり、毎年誰かがその魅力に抗いがたく、凍った状態で発見されているということだ。
でも一様にみな幸せそうな表情で、後悔している様子が全く感じられないという。
今年も「雪女の誘いに乗ってはいけない」との隣組の回覧板が回ったけれど、どれだけ効き目があるだろうか。
気を付けなければならないな。
菅野芳秀です。 

ご心配をおかけしています。
今は、時々拙宅を訪れてくれる学生たちや友人たちと話をしたり、途絶えていた連載コラムを再開したり、お米や玉子の「通信」を書いたり・・・と、けっこう暇なく暮らしています。
大きなアクシデントに襲われながらも後遺症らしい後遺症はほとんどなく、このような形で暮らしを再開できたことをありがたく思っています。周囲の病気に詳しい仲間たちは「奇跡に近い」と言ってくれています。たまたま近くに神様がいたのかも知れません。偶然、通りかかったのかもしれませんね。幸運でした。

私はしょっぱい物が大好きで、お酒も好きで、毎晩のように、なんだかんだと言っては飲んでました。こんな私でもけっこうストレスがありまして、お酒はいい友達でした。楽しい酒飲みでしたが、やっぱり、飲み過ぎは行けません。
また、振り返ってみればあまりにも忙しすぎました。農作業は息子が主に頑張っていましたからそれ以外の・・・と言ってもけっこうな仕事量でした。課題から課題に目いっぱい取り組んでいました。まるで病気にしてくれと言わんばかりの暮らしをしていたと思います。へとへとでした。
今回のアクシデントではそんな暮らし方への警告を戴いたと思っています。暮らし方を変えろという。
68歳の今までの生き方には後悔はありませんし、自分を誇りにも思ってもいます。変えるべきは歩む歩幅、早さですね。改めてそれらを再考するいい機会を戴いたと思っています。もう若くはないし、ギアチェンジが必要だと言うことでしょう。

多くの友人諸氏からたくさんのエールをいただきました。やっぱり「気持ちの力」、「仲間の力」って大きいですね。歩みを整える上での大きな励みになっています。とても感謝しています。この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

さあ!そろそろですよ。ならし運転に入ります。 

                      2017年11月 

...もっと詳しく
菅野芳秀です。
今月20日、病院での長いリハビリ生活を卒業いたしまして、ようやくに退院してまいりました。入院したのが9月6日ですから46日ぶりのシャバの空気と言うことになります。
大勢の方からありがたい励ましの言葉と、たくさんのお見舞いをいただきました。改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 見た目にはほとんど障害らしいものはありません。話すこと、歩くことは以前とほぼ同じようにできます。しかし、計算すること、漢字を書くことなどの能力はずいぶん影響を受けました。
15―7などの繰り上がり、繰り下がりの計算ができない。何ぼ繰り上がったのか、繰り下がったのかが瞬時に忘れてしまうのです。記憶としてとどまらない。これを克服するためには、計算をやり続けるしかありません。やり続けることで頭の回路が少しづつ繋がっていくかもしれない。それを信じてやりつづけるしかない。たとえるなら、一人、真っ暗な場所に閉じ込められ、大声を出しても誰も応えてはくれない。それが何日も何日も続く。こんな孤独感を伴った歩みに似ています。

 ずいぶん長い間、小学一年生の問題と格闘し、頭を掻きむしって苦しみ、ようやく解けるようになった時には、誰もいない食堂に顔を伏せて、泣きました。今は加減乗除、ゆっくりですがほぼ解けるようになりました。 
 
 他にもいくつかの障害を受けています。そのためまだリハビリは半ばです。
週に2回、米沢のリハビリセンターに通いながら、失った能力を取り戻すための努力が続きます。これからもまだまだ苦しまなければなりませんが、
しかし、その努力がきっと単なる失ったものを「取り戻」すだけではなく、私の人生にもう一つ違う色合いを加えてくれるに違いないと感じています。

                        2017.10
菅野芳秀です。
ただいま入院していましてブログを見ることも書くこともできない
環境にいます。
たまたま今日は夕方に時間を作り、わずかな時間で対応しています。
10月(今月)18日が退院予定ですので、もうしばらくお待ちください。
反応がない中で、毎日のようにブログをチェックしていただいている
方々には申し訳ありません。
その方々には友情すら感じます。
ありがとうごさいます。

この両者の間になんの関係があるんだい?と言う向きもありましょうが、大いにあるんです。EUでは2012年のドイツを皮切りにニワトリのゲージ飼いを禁止にして、すべて大地の上で飼育しなければならなくなっています。これは食の安全を求める運動と、動物福祉という、如何に経済動物といえども処理される直前まではその動物らしい生活を保障しなければならないという考え方によるもので、ヨーロッパの消費者運動が歴史的に築いてきた世界です。さすがに民意がたかいですね。よくぞ、政府もその運動に合流しました。

 しかしながら、日本は全くそうなっていません。鳥のインフルエンザの際、TVが映し出すように狭いゲージに押し込めたまま。ひどい扱いです。食べる人間の健康、産む鶏の福祉は全く考慮されていません。
 今も大勢のEUの人たちが日本を訪れています。玉子料理もたくさん食べるでしょう。しかし日本には彼らの要請にこたえる玉子はありません。ほとんどゲージ飼いの卵しかないのです。

 さて、オリンピック。それを見越して、さる「三ツ星レストラン」から人を介して我が養鶏場にも問い合わせがありました。でも、残念ながら応ずることができません。お断りいたしました。1000羽の玉子はすでに長井市民を中心に、県内、東京方面にも発送していますが、決まっている方でいっぱいです。余裕がありません。
 でも、選手を含め、これからさらに滞在者が多くなるわけですが、いったいどうするんでしょうね。

ここでも、いのちや健康よりも「生産効率・利益」優先の、「日本と言うシステム」が注目されるでしょう。
<ウナギ再掲>

よくわからないけれど一昨日が土用の丑の日だったんだと。
その日、スーパーに行ったらウナギ、うなぎ・・・。結構な面積をウナギが占領していた。山形の田舎のスーパーでもこれなのだから、全国的にはいったいどれだけの数になるのだろうか?
世間の人はそんなにウナギを食べるのだろうか。
たしかに世界のウナギの70%を日本人が消費しているらしいが
土用だからと言って、村の人がウナギを食べたなんて話、聞いたことがない。ま、あまり話題にするようなことではないけれど。
ウナギを食べても、それらはほとんどが海外からの輸入物。
それで満足しているせいか、古来生息してきた日本のウナギが絶滅危惧種になりつつあることにはあまり関心がない。
日本の食料はほとんど海外からの輸入物(自給率39%)。
それで満足しているせいか、日本の農家が絶滅危惧種になりつつあることにあまり関心がないのと共通する。日本人はおもしろい。。

 6月の下旬、巣立ち。
その日の朝、毎日せっせと餌を運んでいた親つばめが餌を運ばず、巣離れを促すよう働きかけている。数羽がそれに応え巣の外に出る。羽を広げてパタパタするが、飛び立つまでにはいかない。やがて1羽がカーテンレールまでの3〜4mを飛ぶ。もう1羽が玄関の靴の間に落ちる。これは危ない。猫がいたら瞬殺だ。急いで手に取り、高いところに挙げてやる。ここは全員が飛び立つまで、傍にいてあげなければいけない。妻と話し合って交互に見張りの番をやっていた。

 午後になって、最後の1羽が巣の外に出る。やがて大空へ。親子8羽のつばめが我が家の上を「きっ、きっ」とはずむような鳴き声を発しながら飛びまわっていた。翌日、数羽が巣との間を行ったり来たりして・・そして・・どこかへ行ってしまった。あれが別れの挨拶だったのだろうか。

お互い元気ならば来年また会おうな。
つばめが玄関の内側に巣を作っている。そのつばめ、24時間、いつでも出入りできるようにと夜中でも玄関を50cmぐらい開けていた。
早朝、突然つばめが二階で寝ている俺の部屋に入ってきて、張っていたケーブル線の上にとまって、じっと寝ている俺を見ている。
2階の窓は閉めているから、下から階段のスペースを飛んできたのだ。部屋のドアは少し開いていた。
このようなことは初めてのこと。どうしたのだろう?迷い込んできたのか?
急いで部屋の窓を開け、さぁここから外に、と振り返ってつばめを見た。もうそこにはいなかった。下に戻ったのか?
そこで初めて「もしかしたらっ!」と思いあたることがあり、急いで玄関に下りて行った。
やっぱり!
玄関の戸が閉まっていた。内側に巣を作っているつばめは出入りできない。新聞屋さんが閉めて行ったのだろう。すぐに玄関の戸を開け放った。すると、待ちかねたように、つばめはそこからサッと飛び出て行った。
つばめが俺を呼びに来たのだ。開けてほしいと。また、俺がどこで寝ているかも知っていたと言うことだ。なんということだろう!

早朝、道路近くで農作業をしていたら、私より少し年上の人が散歩しながら近づいて来て親しそうに話しかけてきた。
花粉症対策なのだろうか、その人はマスクをして、おまけに深く帽子をかぶっていて誰なのかが分からない。しばらく軽く話を合わせた後で、
「どなたでしたっけ?」と尋ねた。
「えっ、俺が分からないか?俺だよ、俺!」
彼は笑いながらマスクと帽子をとった。
「あぁ、な〜んだ。ようやく分かりましたよ。マスクだし、帽子だし・・、どなたなのかが、全くわかりませんでしたよ。散歩ですか?」
「うん、ここのところ足腰が弱ってきているのでな。歩けなくなったら困るからよ。」
そう言って彼はマスクを着けなおし、帽子をかぶって歩いて行った。
彼の背中を見ながら私は・・はて・・誰だっけ?
こんなことが最近増えて来た。

        (月間「地域人」21号拙文より抜粋)
田植えが終わった。今はあれほどあった朝日連峰の山々の残雪もすっかり姿を消し、いつの間にか濃い緑になっていて、一面に広がる淡い緑色の早苗田とのいい組み合わせとなっている。田の畦には「春シオン」、「忘れな草」、「オオイヌノフグリ」、「ジシバリ」などの色とりどりの野花が咲き誇り、いま田園は美しい。
ところが近年、そんな緑の風景の中に赤茶けた異様な光景が目につくようになった。畦の草という草が枯れているのだ。原因は除草剤。新緑の春なのに・・・と、見るものの心を荒ませる。
葉や茎は風雨が畦を直にたたくことから守り、その根は土をつなぐことでその崩壊を防いでいる。これらのことは農民ならば誰でも知っていることだ。畦の草は刈るものであって、根から枯らしてしまうものではないのだがこの光景は年々広がる傾向にあるのだから切ない。
この背景には1農家あたりの耕作面積の拡大がある。草を刈りきれないのだ。管理能力を超えた規模拡大と、少しでも手間を省く選択としての除草剤。
農民をこのように追い立てるものは、グローバリズムを背景に、「成長産業」として農業を位置付け、小さい農家の離農をすすめながら大規模農家・生産法人・企業の参入を促進しようとする政策がある。米価も今から40年前の価格まで下がり、とても経営としてはやっていけない。小さな農家は米作りから、やがて農業そのものから離れて行った。水田は残された農家にどんどん集まって行った。その農家が断れば、水田は荒地に戻っていく。残った農家はそれが分かるだけに無理を重ねて引き受けようとしてきた。そんな中での除草剤だ。まわりきれないのだ。その政策によって産み出されたのは赤茶けた畦畔だけではない。大規模化にともない農法は化学肥料と農薬に一層依存するようになった。農法の省力化がすすみ、環境政策の後退がもたらされている。更にその農家が倒れたならば村にその代わりはないという状態の中にある。生産基盤がとても危うい。どうなっていくのだろう。畦畔の草はそんな明日の不安も暗示させる。
少しでもこの風潮に抗って行きたい。畦畔の草は散髪しよう。大げさに聞こえるかもしれないが、そこに農業の未来だけでなく、いのちの世界の可能性が広がっているように思えるからだ。そう思う者がまず率先して草を刈り、この美しい田園風景を守っていくことだ。本気でそう思うよ。