ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

私が脳出血で倒れたのは2017年の9月6日のことです。すでに1年と4カ月ほど経っています。友人からの求めで、「異変」と題して書いていたモノをここに掲載しました。これは前回の続きです。まず、(1)をお読みください。以下はその(2)です。

『私の異変(2)』

リハビリセンターでの訓練は、身体の運動機能に関する「理学療法」と、もう少し細かく、生活するうえでの機能の回復を図る「作業療法」、読み書き、話すことに関わる「言語聴覚療法」と三つの分野に分かれている。それぞれが50分から60分、合わせて3時間弱を1セットとして、毎日繰り返されていた。あとは自由時間。でも私はその自由時間こそ本当のリハビリの時間だと考え、自主トレに励んでいた。
「実際はな、1日1セット3時間では足りないよ。だけど点数の枠があって国民健康保険の中に経費を収めようとしたら、そのぐらいの時間しか取れない。だから、それとは関係なくリハビリに励むことが肝心だ。」
このように忠告してくれたのは医療関係に勤めていた友人だ。そんな助言や、「3カ月の壁」と言う話もあって、少しの時間も無駄にすることなく、早朝から消灯時間になるまで、いや、消灯になってからも小さな照明をつけて、計算や漢字ドリルなどに取り組んでいた。
「菅野さん、あまり無理をしないでよ。身体を壊したら何にもならないからね。」「いつか菅野さんの努力を本にしてみたら。きっと多くの人が励まされると思うよ。」
そう声をかけてくれたのは、時々顔を合わせる看護婦さんだ。「本」と言うのは病院内の読まれていた会報のこと。自分では無理をしているつもりはなかったのだが、外から見たらそのように見えたのだろう。


計算ができなくなったことは前号で書いたが、漢字も読めるのだが書けなかった。「山」とか「川」などの簡単な文字は何とかなるけれど、少しでも込み入った字は書けなかった。イメージは浮かぶけれど・・・。そこで「小学漢字辞典」を妻に頼み、収められていた漢字を片端から書いていった。
文章を読む力も大幅に落ちていた。それだけでなく、読んでも意味が記憶としてとどまらない。読み進みながら、既に読んだ箇所を忘れていく。だから文全体の大意をつかむことはなかなかできなかった。取り組んだのは、新聞の「人生相談」やコラム欄のようにそう長くなく、難しくもない文章を探し出し、ゆっくりと声に出して読むこと。あっちこっちにつっかえ、何度も読み直しながら字を追っていく。これと合わせて「藤沢周平」の世話にもなった。小説なので「大意」をつかまないと前に進めない。同じところを繰り返し読むことで意味をおさえる訓練にもなった。
このように、私の障害は外見上、何の問題もないかのようだったが、内面はけっこうやられていて、その一つ一つの克服に向けた訓練が毎日の「自主トレ」の課題になっていた。
努力の方向ははっきりしている。ただ成果が出るかどうかは定かではなかった。でも、向かって行くしかない。
さらに加えてもう一つの出来事があった。医師から「あなたは視界の半分しか見えていません。出血によって神経が損傷しています。『半盲』状態です。免許証は難しいかもしれません。」と告げられたのは入院して1週間が過ぎた頃だろうか。運転免許証は無理・・。病気をきっかけにして、暮らし方、生き方を変えなければならないことは分かっていた。変えようとも思っていた。だけど車がないとなると・・考え始めたら眠れない日々が続いた。友人は「弱者の心が分かる人間になれるよ。」などと評論家のようなことを言っていたが、本人にしてみたらそれどころではない。やがて幸いにも出血部のハレが引き、神経への圧迫がとれたからか、医者が無理だと言った視界が少しずつ戻ってきて、運転免許は大丈夫になったが、それまでのおよそ3カ月余り、車がない中でどう暮らしていくのか、失意の中で、答えのない煩悶を繰り返していた。

失った力の8割は戻って来てくれた。算数の加減乗除は何とかこなせるようになった。小学生の漢字の半分は書けるに違いない。小説も意味をおさえながら読めるようになったし、文章も何とか書けるようになってきている。
リハビリを含め45日の入院生活。限りある人生をどのように生きるべきかを自分に問う得難い機会を得たと思っている。だからこそ何を捨て、何を守るか。どう生きることが大切か。なかなか答えはないけれど、その問いは今も続いている。

 友人がこんな事を話した。
「お前が脳出血で突然倒れたこと、そこから頑張って今の生活を再開できたこと。その経験は貴重だ。他の所ですでに書いていることは知っているけど、このブログでも掲載してほしい。多くの人たちの参考になると思うから。」


 既にあの出来事があってから1年と4カ月になろうとしている。
私は今も引きづりながら生きているけれど、だから決して「過去」のモノとはなっていないけれど、彼が言うように、私の体験が他の方々のお役にたてるとしたら、むしろありがたいです。ここにも掲載いたします。
「異変」(1)と(異変}(2)があります。

異変(1)

異変が起きた。世の中のことではない。この私の身体のことだ。
昼食後のガランとした地元のレストランの一室。東京から来た8人ほどの青年たちを前に置賜自給圏の取り組みについて話していた時だった。話しながらだんだん気持ちが悪くなって来た。昨夜の酒が良くなかったのか。最初はそう思っていたが、そのうち思うように言葉が出なくなってきた。身体の芯から力が抜けていく脱力感も。話すのも難儀になって来た。これはおかしい。こんな感じは今まで経験したことがない。何かが始まっている。
「話は中止だ。申し訳ないが今からすぐに俺を病院に連れて行ってくれ。」
青年たちに、急いで私を地域の中核医療を担う置賜合病院に運んでくれるようお願いした。家族に異変を知らせようにも、あれほどひんぱんに使っていた携帯電話の使い方が分からない。気が動転しているからか?どうもそれとはどうも違うようだ。これも異変の一つか。車は15分ほどで病院に着いた。救命救急のベッドの上。看護師たちが慌ただしく私の周りを動いている。「脳出血ですね。」との医師の声を聞く。私はどうなってしまうのか。ぼんやりとそんなことを考えていた。

幸運だった。きっと近くを神様が通り過ぎようとした時だったに違いない。その衣服のどこかにしがみついたのだろう。なんとかいのちは繋がった。
翌日には集中治療室から個室にまわされ、やがて間を置かずに4人部屋に移っていった。脳出血で倒れたと聞けば助かっても言語障害とか、機能障害とかの何らかの重い後遺症がつきものだ。いままでもそんな実例をたくさん見て来たし、実際、友人にも重篤な後遺症に苦しんでいる人がいる。私の場合は処置が早かったからだろう。幸いにも話すこと、歩くこと、書くことなどの基本動作への大きな影響はなかった。ただ、計算能力、漢字を書く能力には少なからぬ影響が出ていた。
「5+2=」などの瞬間的に答えが浮かぶものはいいのだが、「15-7=」のように繰り上がり(繰り下がり)のある計算はできなくなっていた。なんぼ繰り上がったのか、繰り下がったのかが瞬時に忘れてしまい、覚えておれない。だから計算ができない。
他にも漢字を書く能力は1年生なみになっていたし、新聞は読めても記憶に残らない。果たしてそれらは回復するのか。傷ついた脳に力が戻って来るのか。
「三ヶ月の壁」と言うことを聞いたのは倒れて間もない頃だ。失った能力が回復しやすい時期は三ヶ月間。それを過ぎてもさらに3カ月はお穏やかに回復するが、半年を超えたらなかなか難しくなると言うものだ。どれだけ医学的根拠があっての言葉なのかは分からないが、頑張る意欲を掻き立てるに十分だった。やるしかない。
1ヶ月間は小学1年生の計算ドリルと格闘していただろうか。でも、いくら頑張っても進歩が感じられなかった。もともと肝心の脳の一部が障害を受けたのだから仕方ないことなのか。いくら努力をしても無駄で、今はできない現実を受け入れるしかないのか。暗闇のなかに、実際にないかもしれない出口を探すような心細さを感じていた。それでも起きてから寝るまでのほとんど全ての時間をこれに充てていた。私にはそれしかなかった。
そして、ある日突然に・・あれっ、もしかして・・。繰り上がり、繰り下がりの計算の手掛かりが見つかったかもしれない。突破できたかもしれない。そんな感じが生まれた。それが確信に変わった時には、病院の薄暗い食堂で一人、顔を伏せて泣いた。暗闇から抜け出す小さな出口が見つかったこと。障害は克服できる、そんな希望が見つかったこと。それがうれしくて、うれしくて・・・顔を伏せたまま、ぼろぼろ涙を流して泣いた。
(続く)


俺が2ヘクタールほどの水田農業を継いだのは26歳の春だった。出稼ぎ農家から兼業農家に変わっていた父親は、すべてをお前に任せると言ってくれた。そこで農業に就くにあたって、どんな農業をやりたいのか、農民としてどう生きたいのか。まずは「憲法」を作ろうと考えた。俺のことだ。これがなければ右に左に・・と、大きく迷走し、自分の農業を見失ってしまうだろうし、人生だって危うくなりかねない。それを防ぐためにも指針が必要だ。

 まず、「憲法」の基本を「楽しく働き、豊かに暮らす」と定めた。よくよく考えてみるとやっぱりここに行き着く。農業を生業に選んだことの意味はこれに尽きると。誤解の無いように言っておくが、「豊かさ」とはお金のことではないぞ。その上で「四つの基本」を決めた。
1、自給を大切にする農業。
2、食の安全と環境を大切する農業。
3、農的景観を大切にする農業。
4、農家であることを家族で楽しめる農業。
このように作るべき農業の基本を定めた。なんかねぇ。若いというか、このあたりはかなり理屈っぽい。

 次は肝心の、どんな作物を導入するかだ。冬でも農業ができることが必要だ。雪が降ったら家族と別れて出稼ぎに行くようでは父親の世代と同じになってしまう。
ハウス栽培は?雪や風に悩まされそうだ。シイタケやなめこなどのキノコ類は?これもどっかジメジメしている感じでしっくりこない。民芸品づくりは?なんかめんどくさそうだ。それに手しょうが悪い俺のできる世界ではない。いろいろ考えてみるが、これだという世界は見当たらない。そこで幸せそうに暮らしている自分の姿が想像できない。他方で俺が求めているのは肥料の自給。家畜がいて堆肥を作り、肥料を自給できる「有畜複合経営」だ。どのような家畜を買うのか。ここは米沢牛の産地。でも資金の無い俺には牛舎を建て、一頭数十万もする子牛を買ってくるというのは不可能だ。豚とて同じ。豚舎に子豚、元手がかかりすぎる。目指す農業の大枠を定めてはみたものの、そこから先がなかなか見えなかった。

 出口は、偶然手に取った「現代農業」という農業雑誌。そこにはニワトリを大地で飼う「自然養鶏」が紹介されていた。これなら水田との組み合わせができる。くず米、くず野菜、田畑の草などをニワトリに。ニワトリのフンを田畑に。健康なコメと玉子、鶏肉を得るだけでなく、肥料も自給できる。鶏舎の周囲には梅や桜、スモモなどを植えよう。これらは様々な花を咲かせ鶏舎を飾るだろう。暑い夏にはニワトリたちに涼しい日陰を作ってくれるに違いない。その果実からお酒を造ろうか。玉子は市場ではなく直に町の消費者に届けよう。「通信」を書き、玉子に込めた私の思いも伝えて行く。人と人とが食べ物を通してつながっていける。一緒に地域を豊かにできる。市場に出すだけの農業では味わえない醍醐味だ。これで農業がより面白くなっていくに違いない。次々と発想が膨らんで行った。

 あれから40年。鶏舎のまわりに植えた梅や桜は大木となり、二人の子どもはニワトリ達と戯れながら大きくなった。息子は我が家の農業を継いでくれている。今も200軒のお宅にお米や玉子を配っている。だいたい計画通り歩いて来ることができたと思う。いま、改めて、来し方を振り返ってみると、俺の歩みを支えてくれていたのは俺の「憲法」の力だったと気づく。
 今は農業の中心が息子に移った。今度は息子が「憲法」を書く番だ。どんな憲法を書くのだろうか。傍で邪魔せずに見ていたい。

 拙文  大正大学出版会 月間「地域人」掲載

 私の友人に沖縄の暮らし、民俗、文化、歴史、風土などをエッセイにまとめ連載されている方がいます。エッセイの題名は「旧暦耳学問」。連載の数は540回を数えます。文体は常に静かで知的ですが、それだけに深い説得力があります。今回届けられた文章の中に1895年ごろ、アメリカ人の医師で日本―沖縄に滞在した民俗学の研究者が書いた一文が掲載されていました。紹介します。

「紛争と戦争が絶え間なく続く世界に囲まれながらも、人が平和に生き、平和に死んでいく島、琉球。かたくなにその殻を閉ざし、自らの文化を守る島、琉球。
 こよなく平和を愛してやまない琉球の人々を讃えて、かつて中国皇帝は琉球に 『守礼之邦』の称号を冠した。日本の文明の波が押し寄せ、競争という大波がその岸を洗わんとする中、『守礼之邦』の心がいつまでも生き残るよう祈る。そして「守礼之邦」の名に値しない旅人の何者も守礼之門をくぐるなかれと祈る。   ウィリアム・ファーネス(1896)」

 俺がまだ洟垂れ小僧だったころ、東北は山形県の農村でのことだけど、当時は家の中の囲炉裏やかまどでご飯を炊いていた。その煙が村中の家々の屋根から立ち上っていく。だから夕方になると村はうっすらとした煙でおおわれていた。

 男の子は坊主頭で女の子はおかっぱ頭。子ども達は風邪をひいているわけではないのに一様に洟を垂らしていて、それも透明なものではなく、どういうわけか鼻汁は濁っていた。それをしょっちゅうこするため、上着の袖はピッカピカに光っていた。来ているズボンはほとんどが兄や姉からのお下がりで、膝やお尻に丁寧にツギがあてられていた。そんな子ども達が村のあっちこっちで歓声をあげながら走りまわっていた。村全体が子どもたちの遊び場だった。にぎやかと言えば村の中にはヤギやニワトリ、牛や馬が飼われていて、夕方になると「ヒヒ〜ン」や「モオ〜」、「メエ―」や「コッケッコッコ〜」など、動物たちの鳴き声のオンパレード。エサをねだる声が聞こえてくる。犬は当然のことながら放し飼いで、村中を自由に歩き回り、恋をしたり、ケンかをしたり・・・、ストレスの少ない犬自身の人生を楽しんでいた。

 そういえばあのころは酔っぱらった村人がよくもたれ合いながら歩いていたっけ。どこかの家で酒をご馳走になり、「今度は〇〇の家に行くべぇ。」「いやいや、おらえさ行くべぇ。」と一升瓶をぶら下げながらふらふらと。あっちの家、こっちの家と飲み歩く。寄るところはたくさんあったのだろうな。我が家にもしょっちゅう酒飲みが来ていた。実際のところ、村人は良く働いたがよく飲み、よく酔っぱらっていた。
 こんな光景も思い浮かぶ。これは以前にも書いたことだが、ばぁちゃん達の立ち小便。腰巻を前後に広げて、畑の方にお尻を突き出し、両足を広げて「シャーッ」と。小便をしながら道行く人たちと立ち話をしていた。「いまからどこさ行くのや。」「うん、買い物に。お前もえがねがぁ。」「うん、えぐ。」なんてな。そんな光景になんの違和感もなかった。ごく当たり前のことだった。
 お金のかからない自給自足のくらしだった。モノはないけれど、のどかでのんびりとした時間が流れていた。貧しかったけど、子どもも大人もどこかで将来に「希望」をもっていた。

 それからずいぶんと時が流れた。イガグリ頭やおかっぱの子ども達、洟を垂らして外で歓声をあげて遊ぶ子ども達はいなくなった。ツギのあたった服を着ている子どももいない。ヤギもニワトリも、牛も馬も消えてしまった。村を歩く酔っ払いも、立ち小便のばぁちゃんもいない。犬はすべて鎖につながれ苦しそうだ。村はきれいになり、静かになった。だけど・・。
 そして人々はやたら忙しい。子ども達から大人まで、あわただしく暮らしている。村人どうしの関係もずいぶんと希薄になった。大人達の口からはため息を聞けても希望を語る言葉が聞かれなくなって久しい。モノはたくさんあるけれど、みんな・・・あんまり幸せそうではない。どうしたんだろう?どうなってしまったんだろう。どこで間違ってしまったのだろうか?

 おーい!もどってこいよぉー!ヤギもニワトリも、牛も馬も、イガグリ頭やおかっぱの少年少女も・・・酔っ払いも、立ち小便のばぁちゃんもみんな戻ってこい。そして、そして・・みんなでもう一度やり直さないかぁー!今ならできる。まだ間に合うから。
アジア学院
 栃木県の那須塩原にアジア学院というアジア、アフリカ圏の、主に農村地域で活動する人たちが学ぶ学校がある。学びに必要な経費のほとんどがキリスト教の世界的基金や市民の寄付などでまかなわれている。学生たちは、と言っても、牧師さんや農村指導者などそれぞれの国では立派な実績のある人たちなのだが、農作物の生産や畜産、農産加工など農業全般及び農村におけるリーダーシップについて研修を重ねている。学びの基本は地域資源を活かした有機農業。地域をベースとした自給自足を旨とする「生きるための農業」だ。講義はすべて英語でおこなわれ、9ヶ月間の学びの後、彼らはそれぞれの国に戻り、再び”草の根”の農村指導者となって、人々と共に地域づくりに取り組んでいく。
 その学生たちが毎年、我が家を訪ねてくれる。最初に訪れてくれたのは1992年ごろ。だからもう25、6年ほどになろうか。今年も総勢30人ほどの人たちが来てくれた。
外国人などにはほとんど縁がなかった片田舎の我が村に、突然アジア、アフリカ圏の人たちがバスから降りてくる。始めの頃は、いったい何ごとかと集落の人たちもびっくりしていた。
「あの人たちはどこから?」「何しに来たんだい?」
外国人が帰るのを待っていたかのように村の人たちが我が家にやって来てはこんな質問を繰り返した。ん〜、説明が難しい。
 鶏舎の木陰や村の公民館を借りて、今まで取り組んできた資源循環型農業の話や生ごみの堆肥化、その考え方と実践などについて話し合う。その上で、お互いの経験や意見を交流する。続けてきたのはこんなことだった。
でもそれなら1〜2年はあるかもしれないが、25年は長すぎる。何を求めて?私にしたって気になるところだ。で、今回、思い切って聞いてみた。
(話し手;;大僕概子さん:アジア学院副校長)
「学院が行く理由?
たくさんあります(笑)
レインボープランのようなプロジェクトを始めるにあたり、どう地域を巻き込んでいったのか。まず女性グループを味方につけ、そこから商工会、病院、清掃事業所、そのほか地域の人を巻き込んだ上でJAに働きかけ、最後は行政に行ったこと。女性をまず味方にするのは、おそらくどこの国の農村でも通じる方法でしょう。皆、最初に行政にいくから失敗するのだと思います。また、行政主導ではなく住民主導ということは、言うは安く行うに難い。菅野さんたちのこの経験は途上国でも大いに参考になります。
また、競争ではなく協働を心がけてきたこと。競争ばかりが目につく状況は、日本よりも途上国農村の方が激しいですよ。競争は人々を分断します。そこからは協働の事業は育ちにくい。さらに途上国はリーダーと一族で利益を独占し、汚職も多いです。そんな中で、長井の市民たちは、自分のためや、誰か特定の個人の利益の為にやっているのではなかった。「利益を得るのは個人ではなく、地域の人達みんなです。先んじて始めた人であっても利益は平等。」という台詞は、別世界のことのように、ギョッとし、自分もそうあるべきなのだ、と襟を正すでしょう。
これら全てが、元々の「成功者」「村長(あるいはその息子)」が始めたのではなく、運動家あがりの、村で白い目で見られていた若い一農民が始めて、やがて多くの市民の支持を得て行ったというところが最高に面白い。だからこそ、学生は「菅野さんはゼロどころかマイナスから始めたんだ。僕だってできるはず」と大きな勇気をもらうのだと思います。」
 アジア学院が私の経験と言うよりも、それを通して学生に届けたかったのは、地域づくりの中に求められる協働の考え方だ。それは長井市民が実践を持って示して来たもの。国や文化は違えど農業、農村の抱えている問題は驚くほど似ている。それぞれの実践が国境を越え、なお、教訓として共有し合えるということか。
長井市民の一員として、アジア、太平洋圏で格闘する青年たちのお役に立てたことがうれしい。お国に帰られたらどんな喜びや苦労が待っているのだろうか。ともすれば自身の健康や生活は一番最後に回しやすい農村リーダーたち。健康に気を付けて頑張ってほしい。同じ方向を向いている限りきっとどこかで再会できるはずだから。
大正大学出版会 月間「地域人」35号所収 拙著
我が家の前には800haの田んぼが広がっており、後ろには朝日連邦の雄大な山並みが連なっている。静かな山あいの村だ。
唐突ですが、私はその広い田んぼを前に立小便をするのが好きだ。家の中で尿意を感じても、わざわざ外に出ていくことも決して稀ではない。用をたしながら広大な緑の風景を見わたす。雄大に横たわる朝日連峰を眺める。田んぼを渡る7月の風は緑の波をつくって流れ、薄くなった男の髪を優しくなでで行く。心地いいことこの上ない。山や畑、野原など気持ちのいい所はたくさんあるけれど、やっぱり広い田んぼが一番。おそらくこれに匹敵する快適さを他に求めても決して得ることはできないだろう。

 かつて娘が小学生のころ、「お父さん、家の外でおしっこしないでね。」と言われたことがあった。先生から「西根は遅れている。まだ屋外で小便している人がいる。」と言われたのだそうだ。「お父さんのことだと思って恥ずかしかったよ。」と娘。西根というのは子どもの通う学区で長井市のなかでも農村部だ。もちろん誇りある俺たちの村。そばにいた妻も「そうだよ、お父さん、あれはみっともないよ」という。
 えっ?オレのおしっこ、誰かに迷惑をかけたか?ここは都会のアスファルトの上じゃない。おしっこは匂いを出す間もなく瞬時に土に吸い込まれ、草や作物に活かされていく。タヌキやカモシカや野兎などと一緒だ。田んぼの畔に放った私のモノも彼らの小便と同じように自然の一部となって大地をめぐる壮大な循環の中に合流していくのだ。ただそれだけのこと。

 お前達だって立ち小便すればいい。オレが子どものころには、近所のばあちゃん達もみんなやっていたことだ。女たちの立ち小便は子どもの俺達から見たってなんの違和感もなかったよ。人が通る道端でさえよく見る普通の光景だった。ばあちゃんたちは、おしっこをしながら、道行く人とおしゃべりだってしていた。そのすぐそばを子どもたちが通ろうが、男たちが通ろうがなんの動揺もなかったはずだ。堂々としていたから。我が家に立ち寄ったついでに畑でおしっこしたばあちゃんが大らかに笑いながら、「お茶代金はここに置いたからな。」と言ったっけ。お礼に肥料分を置いていくということだ。

 あのな、この際だから言わせてもらうけど、お前達の自覚の無さゆえ、あるいは都会の文化に見境なく迎合した浅はかさゆえ、この女たちの「腰巻」が育んできた貴重な文化が無くなろうとしている。はるか縄文の大昔から、ついこの間まで、母から娘に、娘から孫へと、ずうーっと受け継がれて来た文化だ。放尿の際の腰の曲げ方、尻の突き出し方、両足の広げぐあい、隠し方など、それらの所作の一つひとつが文化のはずだ。その歴史的文化が、まさにいま、ここで潰えようとしている。いまやそれを知る人は80代以上の女性、それもほとんど田舎の女性のみとなってしまっているではないか。やがて彼女らがいなくなったら、知っている人は日本列島から完全に消えはててしまうだろう。もし誰かがそれを復活させようと思っても、手立てが無くなってしまうのだぞ。これから先、どのようにその文化を伝承していけばいいのか。消えゆく女の立ち小便は、文化人類学上の深刻な課題のはずだ。 オレは男だからしょうがないけれど、お前達のなかに、我こそは・・・という志をもった女はいないのか!その復権を!という人はいないのか!

 話の途中から、妻娘はいなくなっていた。
実際、事態はますます悪化の一途をたどる。女から立ち小便を取り上げた同じ「文化」は男の小便も小さな閉塞した空間に閉じ込めることに成功し、その上、さらに掃除が簡単だからと、男から立小便の便所そのものを取り上げ、男女の区別なく「考える人」ポーズで用を足せるように仕向けて来た。如何に住宅事情からとは言えそれでいいのかと考え込んでしまう。男たちよ!野生を取り戻そう。野山や田畑でのびのびと小便しよう!さすがにまだ、女たちよ!とは言えないけれど。
 草や木の魂をなぐさめ、感謝する碑が山形県の南部、置賜地方に60基ほど分布している。「草木塔」と呼ばれているもので自然石に「草木塔」または「草木供養塔」と刻まれている。だいたいが江戸の中期に建立されたものらしい。碑の一部には「草木国土悉皆成仏」という文字が刻まれていることから、建立の趣旨がうかがえる。草木はもちろんのこと土にいたるまで、皆、悉(ことごとく)成仏できるということだが、先人の自然観、生きることへの謙虚さ、心根の豊かさ、優しさが感じられておもしろい。

 実際に見てみようと白鷹町に草木塔を訪ねた。それは森のそばの農家の庭先にあった。高さは60cmぐらいか。やはり自然石に「草木塔」と刻まれている。うかがえば江戸の後期、米沢藩から森林の管理と木材の切り出しをおおせつかったご先祖が建てたものだという。
 そのご先祖が亡くなるとき「私はたくさんの草や木のいのちを奪ってきた。供養と鎮魂の碑を建ててほしい。」と願っていったという。それを受け、塔はその子孫が建立した。以来今日まで、森の切り出しはやっていないが、毎年、お供え物を添えてその碑を祀り続けてきたという。

 当時の人たちにとって森の木々にいのちを感じながら、それらを伐採し続けた日々はきっと気持ちのいいものではなかったに違いない。寝覚めだって悪かっただろう。亡くなるときには、「草木の化け物が俺の周りに来て・・・」と言っていたそうだ。分かるような気がする。私ですら庭の木を伐採しなければならなくなったときには、やっぱり手を合わせてから作業に入るに違いない。きっとそうするだろう。そういえば娘が小学生のころ、道路拡張で庭の桜の木が切り倒される前日、B5の用紙に「追悼」と書いて木に貼り付け、泣きながら手を合わせていたっけ。こんな気持ちの有りようは珍しいことではない。植物と一緒に暮らす田舎では生まれやすい感情だろう。
 私たちに草や木や土の喜びや悲しみは分からないが、生まれたからには、やはり、天寿を全うしたかったはず。それなのに私たちが生きるためとはいえ、草木を倒さなければならない。刈らなければならない。焼かなければならない。本当に申し訳ないことだという謝罪と感謝の思いがその碑のなかに込められている。
 
 お彼岸が近づき、仏壇を前に手を合わせる方は多いと思うが、この機会にご先祖だけでなく、ここまで守り育ててくれた山川草木にも感謝の気持ちを表すのもいいかもしれない。


   大正大学出版部 月間「地域人」37号 拙文(抜粋)


内緒だぞ。
実はおれな、前に言ったかもも知れないけど、密かに品格ある男になることを目指しているんだよ。笑うなよ。大真面目なんだからよ。
どっかで聞いた話だって?そうかもしれん。

でな、他方で百姓として「農と土の大切さ」を語り、訴えてまわりたいとも考えているんだ。子どもたちや非農家の人たちに。合わせて言えば「品格ある百姓講談師」だ。

実はこのことは今は亡き作家の井上ひさしさんから勧めらていたことなんだ。
「菅野くん、農民講談師になってみないか。」

で、品格だけどさ。これは難しいよな。
もともとそんなものの持ち合わせがない上に、
例えば沖縄と向き合ううえで求められる品格とは何か?
原発と向き合ううえでは?肝心の土と農業ではどうだ?
かなりの自問自答が求められるよ。

その上、
生きる品格を大事にすると言うことは、問われている課題と逃げずに正面から向き合うこと。戦うことを厭わないこと。そう思うんだ。

それを避けていたのでは品格が守れないだけでなく、人々が共通に生きていく場すら守れない。それが現在の状況だろうか。

そんな中に「百姓講談師」の世界を求めていく。
おい!お前、百姓として今まで何を経験してきたんだよ・・もっと自信を持て!と自分のケツを蹴り上げながら・・・な。
大丈夫かな、俺。
我が家の前には800haの田んぼが広がっており、後ろには朝日連邦の雄大な山並みが連なっている。静かな山あいの村だ。
唐突ですが、私はその広い田んぼを前に立小便をするのが好きだ。家の中で尿意を感じても、わざわざ外に出ていくことも決して稀ではない。用をたしながら広大な緑の風景を見わたす。雄大に横たわる朝日連峰を眺める。田んぼを渡る7月の風は緑の波をつくって流れ、薄くなった男の髪を優しくなでで行く。心地いいことこの上ない。山や畑、野原など気持ちのいい所はたくさんあるけれど、やっぱり広い田んぼが一番。おそらくこれに匹敵する快適さを他に求めても決して得ることはできないだろう。
 かつて娘が小学生のころ、「お父さん、家の外でおしっこしないでね。」と言われたことがあった。先生から「西根は遅れている。まだ屋外で小便している人がいる。」と言われたのだそうだ。「お父さんのことだと思って恥ずかしかったよ。」と娘。西根というのは子どもの通う学区で長井市のなかでも農村部だ。もちろん誇りある俺たちの村。そばにいた妻も「そうだよ、お父さん、あれはみっともないよ」という。
 えっ?オレのおしっこ、誰かに迷惑をかけたか?ここは都会のアスファルトの上じゃない。おしっこは匂いを出す間もなく瞬時に土に吸い込まれ、草や作物に活かされていく。タヌキやカモシカや野兎などと一緒だ。田んぼの畔に放った私のモノも彼らの小便と同じように自然の一部となって大地をめぐる壮大な循環の中に合流していくのだ。ただそれだけのこと。
 お前達だって立ち小便すればいい。オレが子どものころには、近所のばあちゃん達もみんなやっていたことだ。女たちの立ち小便は子どもの俺達から見たってなんの違和感もなかったよ。人が通る道端でさえよく見る普通の光景だった。ばあちゃんたちは、おしっこをしながら、道行く人とおしゃべりだってしていた。そのすぐそばを子どもたちが通ろうが、男たちが通ろうがなんの動揺もなかったはずだ。堂々としていたから。我が家に立ち寄ったついでに畑でおしっこしたばあちゃんが大らかに笑いながら、「お茶代金はここに置いたからな。」と言ったっけ。お礼に肥料分を置いていくということだ。
 あのな、この際だから言わせてもらうけど、お前達の自覚の無さゆえ、あるいは都会の文化に見境なく迎合した浅はかさゆえ、この女たちの「腰巻」が育んできた貴重な文化が無くなろうとしている。はるか縄文の大昔から、ついこの間まで、母から娘に、娘から孫へと、ずうーっと受け継がれて来た文化だ。放尿の際の腰の曲げ方、尻の突き出し方、両足の広げぐあい、隠し方など、それらの所作の一つひとつが文化のはずだ。その歴史的文化が、まさにいま、ここで潰えようとしている。いまやそれを知る人は80代以上の女性、それもほとんど田舎の女性のみとなってしまっているではないか。やがて彼女らがいなくなったら、知っている人は日本列島から完全に消えはててしまうだろう。もし誰かがそれを復活させようと思っても、手立てが無くなってしまうのだぞ。これから先、どのようにその文化を伝承していけばいいのか。消えゆく女の立ち小便は、文化人類学上の深刻な課題のはずだ。 オレは男だからしょうがないけれど、お前達のなかに、我こそは・・・という志をもった女はいないのか!その復権を!という人はいないのか!
 話の途中から、妻娘はいなくなっていた。
実際、事態はますます悪化の一途をたどる。女から立ち小便を取り上げた同じ「文化」は男の小便も小さな閉塞した空間に閉じ込めることに成功し、その上、さらに掃除が簡単だからと、男から立小便の便所そのものを取り上げ、男女の区別なく「考える人」ポーズで用を足せるように仕向けて来た。如何に住宅事情からとは言えそれでいいのかと考え込んでしまう。男たちよ!野生を取り戻そう。野山や田畑でのびのびと小便しよう!さすがにまだ、女たちよ!とは言えないけれど。

大正大学出版会 月間「地域人」所収 拙文
昨日、数人の友人たちと腹が減ったので、目の前にある回転ずしに入った。そしたら寿司ではなくウナギの丼が回っていた。680円。みんなでそれをとった。どんぶりの中に小さなウナギが上がっていた。
 うなぎ・・やっぱり同じ話を思い出す。
世界のウナギの70%を日本人が消費しているという。その陰で、古来生息してきた日本のウナギが絶滅危惧種になりつつある。
でも国民の多くはこのことにはあまり関心がない。
 スーパーには食料品があふれている。多くは外国産。その陰で日本の家族農家が絶滅危惧種になりつつある。
国民はこれにもあまり関心がない。今日のウナギが食えればそれでいい。コメが食えればそれでいい。おもしろい国だよ、日本は。
妻がこんなことを言っていた。

「ここのところのFBにあなたが泣いた話が多いけど、読んでいる方はよく泣く男だと思うかもしれないね。めったに涙を流す人じゃないけどね。」 

妻が言うように今までの人生で3回かな。1回は25歳の頃、百姓になると決めた沖縄で。2回目は今回のFBにも書いた27歳の頃、減反拒否の加藤登紀子コンサートの場で。3回目はこれも「異変」という題で書いたけど、67歳。リハビリの中で「15-7=」が分かった時。

 いずれもどう生きるかの「生き方」がかかわっているときだ。人生で3回は多いか少ないか分からないけどね。
誰にでも思い出深い歌がある。私にとっては加藤登紀子さんが歌う「生きてりゃいいさ」。それにはこんな経緯があった。他人の思い出など知りたくもないよと言う方もおいででしょうが、ま、いいじゃないですか。



コメの「減反政策」(「第二次生産調整」)が始まったのは1977年のことで、私はまだ26歳。前の年に父の後を継いで百姓になったばかりだった。
農水省の示した減反計画は40万ヘクタール。この面積は当時の全九州の水田面積に匹敵する。この大変な規模のコメを一挙に減らし、飼料作物や大豆などへの転作を促進しようとした。減反すれば補助金を出すが、しなかったなら罰則を科すと言う。この政策は、当時、誇りをもって土を耕していた若い後継者(たち)の自尊心を大いに傷つけた。
政策の背景には、食管制度の廃止とコメへの市場経済の導入、あわせてアメリカ小麦への市場提供を意図する狙いもあったに違いない。今から振り返えれば、この政策は戦後農政の大きな転換点だった。
その後、食管制度が廃止。小麦のみならずコメの大量輸入も行われ、米価は生産原価を切る価格まで値を下げた。農家はやる気を失い、後継者は農外に就職し、農家の高齢化が進んだ。自給率も落ち込み、日本は国民の食糧の多くを海外の田畑に依存するようになった。こうなる前にこの国をどう作っていくのか、もっともっと丁寧な国民的議論が必要だった。日本はいつもそうなのだが、なぜもっと事態を丁寧に説明し、時間をかけた議論ができなかったのかと悔しく思う。

さて、当然のことのように私は「減反」を拒否した。事は国の政策への異議申し立てなのだが、現実には推進する立場の農家と、反対する農家との対立となる。昨日までともに農業を良くしたいと協力してきた仲間だった。多くの農家は矛を収めた。私は村で孤立した。
妻のお腹には新しい生命が宿っていた。この子(たち)のためならば頑張れる。しかし、子どもは産声を上げることはなかった。俺はもうだめかもしれない・・・。
そんなある日、宮城県南郷町の若手の百姓達から「加藤登紀子コンサート」への招待状が届いた。私の孤立を知ってのことだと言う。その気持ちがありがたく、友人と一緒に出かけた。
川島英五作詞・作曲
(1)♪君が悲しみに心を閉ざしたとき、思い出してほしい歌がある
人を信じれず、眠れない夜にはきっと思い出してほしい
生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ、
そうさ、生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ
手のひらを合わせよう、ほらぬくもりが君の胸に届くだろう

(2)♪一文無しで街をうろついて、野良犬と呼ばれた若い日も
心の中は夢で埋まってた。やけどするくらい熱い思いと
生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ
そうさ、生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ
手のひらを合わせよう、ほらぬくもりが君の胸に届くだろう・・

途中から肩が震えて止まらない。熱いものがどんどん込みあげてくる。涙が堰を切ったようにあふれだし、滴り落ちる。嗚咽が止まらない。
生き方を探して煩悶していた青春の日々。農民として生きることを決めたこと。両親とともに農業を始め、建設現場で働いた日々。減反拒否、そして子どもの死・・。様々なことが走馬灯のように頭を駆け巡っていた。「菅野さん、大丈夫ですか?」
俺が普通でないことを見た南郷の友人がそばに寄ってきたが、それ以上声をかけずに戻って行った。
 
それから約30年後の2008年。千葉県の鴨川にある加藤紀子さんたちが主催する「自然王国」で話をする機会をいただいた。楽屋では加藤さんと二人だけ。思い切ってあの時のことを話した。するとギターを持ってそっと歌いだした。
「君が悲しみに心を閉ざしたとき・・・」
あの歌だ。再び涙があふれてきた。

この歌は今も私を支えている。

月間「地域人」35号(大正大学出版会発行・2018・7月)
所収 拙文
まだ眼が覚めぬが眠っているともいえない「まどろみ」の時、夢とうつつが重なり合って思わぬ方向に発想がふくらんでいくことがある。
 ある日のフトンの中、「20才の頃の私」と「桃太郎」と、「一寸ぼうし」が突然つながった。
 以下、その話を紹介するが、多少の飛躍や、突然の転換には眼をつぶっていただきたい。なにしろ、半分寝ぼけている中の出来事なのだから。

 20才の私はどういうわけか生き方を求めていた。自分らしい生き方をさがしていた。
 人生の岐路に立った時は、たいていの場合、自分がそれまでにたどってきた道を振り返り、どこかに何かヒントがないかを捜そうとする。当時の私に最も大きな影響を与えていたのは高校時代の三年間のはずだった。しかし、思い出すのは三角関数や英単語だけとはいわないが、頭の中をさぐっても、出てくるのは生き方とはあまり関係のない、あれやこれやの雑多な知識がほとんどだった。
 ようやく私はそこで「いかに生きるか」を全く考えることなく、また学ぶこともなく20才になってきたという、それまでの人生の浅薄さに気付いた。    
 やがて、どうもその浅薄さは私だけのものではなく、おそらく程度の差こそあれ、同時代人にかなり共通しているもの、あるいは大部分の日本人にさえ言えることなのではないかと思うに到った。
 何故かといえば、その根っこは、だれもが幼児の頃からくり返し、くり返し聞かされてきた「桃太郎」と「一寸ぼうし」の中にあるのではないかと思えたからだ。
 まずは「桃太郎」。自分のものではないお宝を戦利品として自宅に持ち帰るのはいかがなものかとも思うが、問題は話の終わりかたにある。荷車いっぱいにそのお宝を満載して桃太郎は村に帰って来た。桃太郎は「お金持ち」になった。そして・・。話はそこで終わっている。手に入れたお金で川に橋を架けたり、学校を造ったり、貧しく苦しむ人たちに・・・そんな話はまったくない。 
 そして「一寸ぼうし」。彼も鬼退治をして、助けたお姫様と結婚し、やがて「エライお役人様」となった。そして・・、この話もそれから先がない。話はここで終わっている。
 手に入れたお宝を使って何をしたのか、あるいは「エライお役人様」になって何をしたのかは全く語られてない。つまり、何かお金を得ること、あるいはエライお役人になることが終着点であるかのように描かれているのだ。こんなお話を、小さい時から、くり返し聞かされてきた結果、「お金」や「出世」が人生の目的であり、その成功、不成功もそこにある、と考えるようになってしまったとしてもおかしくはあるまい。
「一寸法師、桃太郎症候群」。志を失った高級官僚から「オレオレ詐欺」の若者まで、幅広くこの類に入る。その正体は「生き方」、哲学の不在。

 そして・・、まどろみながら、論理の飛躍を楽しみつつたどりついた結論は次のようなことだった。私たちは「桃太郎」と「一寸ぼうし」に変わる「新しい童話」を子どもたちに語り聞かせなければならない。それは俺たち自身の物語だ。あっちでぶつかり、こっちで泣いた、けっしてカッコイイ話じゃないけれど、自分がたどってきた中から得た「生き方」を子どもたちに。じいちゃん、ばぁちゃん、母ちゃん、父ちゃんの話、近所のおじさん、おばちゃんの話でもいい。子どもたちはそれらを聞きながら、これから歩む自分の人生を考えるだろう。夢中で生きて来たけれど、振り返ってみれば泣き笑いの連続だった。子どもたちに伝える材料には事欠かない。
 これが、まどろみの中の結論だった。
どうだろうか、ご同輩。

月間「地域人」34号(大正大学出版会)・拙文
またまた狐がやって来た。
ニワトリが一挙に80羽ほどやられた。80羽!
犯人は狐。
今年は雪が多い。
除雪を重ねながらも、踏み固めた硬い雪の層は、鶏舎のけっこう上の方まで来ていた。
そこを足場に金網を引きちぎって侵入したのは本来ならば狐が如何にジャンプしても決して届かない高いところ。そもそもそんなところからの侵入は例年ならば不可能だ。
だから金網はそれほど頑丈なものは使っていなかった。
彼らはそれを見逃さなかった。
周囲の足跡を見ると集団で来たのかもしれない。
朝、行ってみたらたくさんの足跡と、ニワトリたちの死骸が転がっていた。
 食べられたのならば納得もできるが、ただ殺していっただけだ。
ひどい奴らだ。
食べる以上の無意味なさ殺戮はしない。
これは自然界の摂理だ。狐はそれに反している。必ずやっつけてやる。そう心に誓うのだった。
  
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