ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
沖縄への旅
これは今までのシリーズものとは少しばかりおもむきが違う文章です。どう違うかといえば・・ま、読んでもらえれば分かるよな。そしてね、あろうことか、この文章を今晩(1月14日)「沖縄タイムス」に投稿したのです。長すぎてダメかもしれないが、削れないんだよなぁ。以下・・・
昨年の11月中旬、私は妻をともなって沖縄を訪れた。それは20代から50代の今日までの私の人生に大きな力を与えてくれた「沖縄」へのお礼の旅だった。
私はいま、山形県長井市で農業をしている。その傍ら「レインボープラン」という名の、生ゴミと農作物が同じ地域で循環するまちづくりに取り組んできた。そのレインボープランは2003年朝日新聞「明日への環境賞」、2006年日本農業賞特別部門「食の架け橋賞」大賞受賞、また、環境省の環境白書に「循環型地域社会」の模範事例として、農水白書には「資源循環型地域農業」のモデル事業として取り上げられるなど、他にもこれまでさまざまな賞をいただいている。
私はその事業のリーダーとして18年ほど夢中で取り組んできて、昨年の夏、レインボープラン推進協議会の会長を辞めた。農業とまちづくりへの取り組みはとても忙しい日々だったが、そんな私を支えてくれたものは沖縄からいただいたおおきな力だった。
私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいとおもう地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈の中で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのが沖縄での体験だった。
76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立てて石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。村からは多くの人が安定した生活を求めて「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。
「開発に頼らずに村で生きて行くのは厳しい。だけど・・・」と村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れてくる子孫にとっても宝だ。苦しいからといって石油で汚すわけにはいかない。」
その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げなくてもいい村をつくっていきたい。俺たちの代では実現しないだろうが、そのような生き方をつないでいけば、何世代か後にはきっといい村ができるはずだ。それが俺たちの役割だ。」
私はこの話を聞きながら、わが身を振り返り、大きなショックを受けていた。この人たちは私が育った環境よりもずっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を子孫へとつなごうとしている。この人たちにくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたった時、涙が止めどなく流れた。泥まみれになって働く両親や村の人たちの姿が浮かんだ。
それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。
沖縄からいただいた考え方を「地域のタスキ渡し」という言葉にし、減反反対運動、農薬の空中散布をやめようという取り組み、そしてレインボープランと・・・、「逃げ出したい地域を逃げなくてもいい地域へ」「ここで暮らすことが安らぎであり、誇りでもある地域へ」、百姓の合間をぬいながら夢中で歩んできた30年間だった。
その私が・・・、昨年の秋、「もう、(社会における)俺の役割は終わったのかもしれない。」という気持ちにとらわれ、すっかり落ち込んでしまった。目的の喪失感なのか。あなぽこに落ち込んでしまったような・・。
再び沖縄に行こう。私はその後の30年間、このように生きてきたという報告とお礼の旅に出よう。だれ、かれにというのではなく、「沖縄」そのものに・・感謝をこめて。
30年前と同じように沖縄は暖かく迎えてくれた。海も空も友人達も・・・。滞在した5日ほどの間、涙腺がゆるむことが幾度かあり、少しずつ元気になっていくのを感じた。
30年前にいただいた「こころざし」はまだまだ途中だ。地域をタスキ渡しする日まで、もっともっと歩み続けよう。あらためてこんな気持ちを持つことができた。
ありがとう海、空、沖縄のみなさん。ありがとう、沖縄。また助けられたという思いがある。まだまだ道は続いていく。
これだけの文章なのですが・・・。
いまかい?もちろん俺は元気だよ。アッタリマエダ!
2007.01.14:
kakinotane
:[
メモ
/
「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜農業版〜」
]
そうか・・
沖縄で再びパワーを頂いた由、菅野さんのステージがどんどん広がっていくようですね。そうか、菅野さんでも、目的の喪失感にとらわれたんだ。でも、元気が出てよかった。よかった。一直線に走ってこられたんですね。アッタリマエダときたらクラッカー!
2007.01.20:三太郎:
修正
/
削除
古いねぇ。
あんたも古いよなぁ。「アタリマエダノ・・・」だと・・。
うん、人間生きて行くなかで、予想外のことってたくさん起こるわけだけれど、その中に自分の気持ちのありようも入るとは思わなかったよ。いわゆる「ウツ」なんかはそういうことなんだろうけど。
2007.01.23:菅野芳秀:
修正
/
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https://kanno-nouen.jp/
菅野農園のホームページで
お米を販売しています
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昨年の11月中旬、私は妻をともなって沖縄を訪れた。それは20代から50代の今日までの私の人生に大きな力を与えてくれた「沖縄」へのお礼の旅だった。
私はいま、山形県長井市で農業をしている。その傍ら「レインボープラン」という名の、生ゴミと農作物が同じ地域で循環するまちづくりに取り組んできた。そのレインボープランは2003年朝日新聞「明日への環境賞」、2006年日本農業賞特別部門「食の架け橋賞」大賞受賞、また、環境省の環境白書に「循環型地域社会」の模範事例として、農水白書には「資源循環型地域農業」のモデル事業として取り上げられるなど、他にもこれまでさまざまな賞をいただいている。
私はその事業のリーダーとして18年ほど夢中で取り組んできて、昨年の夏、レインボープラン推進協議会の会長を辞めた。農業とまちづくりへの取り組みはとても忙しい日々だったが、そんな私を支えてくれたものは沖縄からいただいたおおきな力だった。
私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいとおもう地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈の中で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのが沖縄での体験だった。
76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立てて石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。村からは多くの人が安定した生活を求めて「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。
「開発に頼らずに村で生きて行くのは厳しい。だけど・・・」と村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れてくる子孫にとっても宝だ。苦しいからといって石油で汚すわけにはいかない。」
その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げなくてもいい村をつくっていきたい。俺たちの代では実現しないだろうが、そのような生き方をつないでいけば、何世代か後にはきっといい村ができるはずだ。それが俺たちの役割だ。」
私はこの話を聞きながら、わが身を振り返り、大きなショックを受けていた。この人たちは私が育った環境よりもずっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を子孫へとつなごうとしている。この人たちにくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたった時、涙が止めどなく流れた。泥まみれになって働く両親や村の人たちの姿が浮かんだ。
それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。
沖縄からいただいた考え方を「地域のタスキ渡し」という言葉にし、減反反対運動、農薬の空中散布をやめようという取り組み、そしてレインボープランと・・・、「逃げ出したい地域を逃げなくてもいい地域へ」「ここで暮らすことが安らぎであり、誇りでもある地域へ」、百姓の合間をぬいながら夢中で歩んできた30年間だった。
その私が・・・、昨年の秋、「もう、(社会における)俺の役割は終わったのかもしれない。」という気持ちにとらわれ、すっかり落ち込んでしまった。目的の喪失感なのか。あなぽこに落ち込んでしまったような・・。
再び沖縄に行こう。私はその後の30年間、このように生きてきたという報告とお礼の旅に出よう。だれ、かれにというのではなく、「沖縄」そのものに・・感謝をこめて。
30年前と同じように沖縄は暖かく迎えてくれた。海も空も友人達も・・・。滞在した5日ほどの間、涙腺がゆるむことが幾度かあり、少しずつ元気になっていくのを感じた。
30年前にいただいた「こころざし」はまだまだ途中だ。地域をタスキ渡しする日まで、もっともっと歩み続けよう。あらためてこんな気持ちを持つことができた。
ありがとう海、空、沖縄のみなさん。ありがとう、沖縄。また助けられたという思いがある。まだまだ道は続いていく。
これだけの文章なのですが・・・。
いまかい?もちろん俺は元気だよ。アッタリマエダ!