ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
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生きるための農業inタイ
南国タイの農民たちの話だ。俺は日本各地の仲間や、タイ、韓国、フィリッピンなどの農民たちと一緒に「アジア農民交流センター」を作っていて、農業を中心とした経験交流を行っている。立ち上げたのは1990年ごろからだから、かれこれ30年ほどになろうか。分けてもタイの東北部(イサーン)には幾度も訪れている。
そんな我々の事業に対して「タイの村に行って、何か参考になることってある?彼らの農業は遅れているだろう?」との反応が多い。確かに我々が行く村には日本のように圃場整備が行き届いている水田があるわけではない。水は雨期を利用して貯めた天水。田植えは、ほとんどが手植えで、稲刈りも人力だ。このように日本とは大きな違いがあるが、土を耕す同じ農民として考えさせられることは実に多い。
その一つが、「生きるための農業」と呼ばれているものだ。そう、生産性を上げて利益を増やす為の農業ではない。もちろん生きて行くためには利益も必要だが、それを他の何よりも優先させるということではなく、穏やかに暮らし行くことを目的とした農業。生きるための農業。生きていくための農業だ。
背景には、農民たちが政府から奨励された輸出専門の換金作物生産によって借金まみれになってしまった現実があった。利益を目的に誘導され、破たんした農業があった。それまでの自給自足を中心とした農業には、貧しくはあっても借金苦はなかったという。
それを政府の方針で、自給中心型から換金を目的としたサトウキビだけ、あるいはキャッサバだけを作る輸出作物栽培に切り替えた。しかしその作物価格は国際市場の動向に左右され、浮き沈みが激しい。
また、それらの作物は土壌からの収奪性が高く、継続して栽培するには作物とセットになって奨励されていた高い化学肥料と農薬を使うしかなかった。作物が暴落しても経費は安くはならない。それまでの自給的暮らしと比べれば、とてもお金のかかる農業に変わってしまった。
やがて輸出作物が暴落し、借金だけが膨らんだ。農民たちは農業を捨て、出稼ぎに活路を見出さざるを得なくなっていく。イサーン農村は出稼ぎ労働者を多く生み出す地域となっていった。家族はバラバラになってバンコクへ、中東へ、トウキョウへ、ソウルへと出て行った。
そんな中で、かろうじて残った農民から始まったのが「生きるための農業」である。当初、それは村の中の「変わり者」の農業だったという。変革者は必ず「変り者」として登場するのが世の常だが、「生きるための農業」は間違いなく少数者の農業だった。そこには生活を守ろうとする自給の為の様々な工夫があった。農地の真ん中に池がほられ、魚を飼う。台所の生ごみは細かく刻まれて魚たちに与えられた。池の周囲にはマンゴなどの果物が植えられ、木陰には小さな豚舎や鶏舎を建て、家畜を飼う。堆肥を作り、肥料も自給する。その外周には水をうまく活かして野菜畑を作る。いわば、自給と資源循環の農業である。農業と暮らしの操縦桿は再び、国際市場から農民の手に取り戻した。
さて、日本である。自由主義市場経済の名のもとに、あくまでも「利益と効率」が中心で、水田や畜産、畑作の大規模化が半ば強引に進められ、たくさんの家族農業、小農の淘汰が行われている。経営の操縦桿は、大規模化が進めば進むほどに農家の手を離れ、機械、肥料、農薬関連の企業の手に移り、他方で健康や環境問題への不安が広がっている。この利益と効率のレースにはゴールはなく、勝者もいない。少なくとも身近なところには、それで幸せになった人はいない。ただ辛い日々が続くだけの毎日。
近頃、農水省から「みどりの食料システム戦略」なるものが出されたが、遺伝子組み換え技術やゲノム編集などの上に農薬や化学肥料の削減などを接ぎ木しようとする訳の分からないものとなっている。
我々はいったいどこに向かおうとしているのか。自分たちで操縦桿を手にしたタイの農民のように、そろそろこの辺で立ち止まり、穏やかに暮らすことを目的とした農業、みんながともに生きて行けるための社会づくりに舵を切ってみたらどうだろうか。
2021.06.26:
kakinotane
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お米を販売しています
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そんな我々の事業に対して「タイの村に行って、何か参考になることってある?彼らの農業は遅れているだろう?」との反応が多い。確かに我々が行く村には日本のように圃場整備が行き届いている水田があるわけではない。水は雨期を利用して貯めた天水。田植えは、ほとんどが手植えで、稲刈りも人力だ。このように日本とは大きな違いがあるが、土を耕す同じ農民として考えさせられることは実に多い。
その一つが、「生きるための農業」と呼ばれているものだ。そう、生産性を上げて利益を増やす為の農業ではない。もちろん生きて行くためには利益も必要だが、それを他の何よりも優先させるということではなく、穏やかに暮らし行くことを目的とした農業。生きるための農業。生きていくための農業だ。
背景には、農民たちが政府から奨励された輸出専門の換金作物生産によって借金まみれになってしまった現実があった。利益を目的に誘導され、破たんした農業があった。それまでの自給自足を中心とした農業には、貧しくはあっても借金苦はなかったという。
それを政府の方針で、自給中心型から換金を目的としたサトウキビだけ、あるいはキャッサバだけを作る輸出作物栽培に切り替えた。しかしその作物価格は国際市場の動向に左右され、浮き沈みが激しい。
また、それらの作物は土壌からの収奪性が高く、継続して栽培するには作物とセットになって奨励されていた高い化学肥料と農薬を使うしかなかった。作物が暴落しても経費は安くはならない。それまでの自給的暮らしと比べれば、とてもお金のかかる農業に変わってしまった。
やがて輸出作物が暴落し、借金だけが膨らんだ。農民たちは農業を捨て、出稼ぎに活路を見出さざるを得なくなっていく。イサーン農村は出稼ぎ労働者を多く生み出す地域となっていった。家族はバラバラになってバンコクへ、中東へ、トウキョウへ、ソウルへと出て行った。
そんな中で、かろうじて残った農民から始まったのが「生きるための農業」である。当初、それは村の中の「変わり者」の農業だったという。変革者は必ず「変り者」として登場するのが世の常だが、「生きるための農業」は間違いなく少数者の農業だった。そこには生活を守ろうとする自給の為の様々な工夫があった。農地の真ん中に池がほられ、魚を飼う。台所の生ごみは細かく刻まれて魚たちに与えられた。池の周囲にはマンゴなどの果物が植えられ、木陰には小さな豚舎や鶏舎を建て、家畜を飼う。堆肥を作り、肥料も自給する。その外周には水をうまく活かして野菜畑を作る。いわば、自給と資源循環の農業である。農業と暮らしの操縦桿は再び、国際市場から農民の手に取り戻した。
さて、日本である。自由主義市場経済の名のもとに、あくまでも「利益と効率」が中心で、水田や畜産、畑作の大規模化が半ば強引に進められ、たくさんの家族農業、小農の淘汰が行われている。経営の操縦桿は、大規模化が進めば進むほどに農家の手を離れ、機械、肥料、農薬関連の企業の手に移り、他方で健康や環境問題への不安が広がっている。この利益と効率のレースにはゴールはなく、勝者もいない。少なくとも身近なところには、それで幸せになった人はいない。ただ辛い日々が続くだけの毎日。
近頃、農水省から「みどりの食料システム戦略」なるものが出されたが、遺伝子組み換え技術やゲノム編集などの上に農薬や化学肥料の削減などを接ぎ木しようとする訳の分からないものとなっている。
我々はいったいどこに向かおうとしているのか。自分たちで操縦桿を手にしたタイの農民のように、そろそろこの辺で立ち止まり、穏やかに暮らすことを目的とした農業、みんながともに生きて行けるための社会づくりに舵を切ってみたらどうだろうか。