ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
第15回 これを喰えば・・・05.6.15
山菜がおいしい季節だ。
鶏舎の周辺で仕事をしていたら、幼馴染の正雄さんがやってきた。山に行って山菜をとってきたから食べに来いという。彼は山菜とりの名人だ。雪どけを待ちかねたように山に分け入り、山菜をさがす。僕もときどき彼の家に押しかけてはそのおすそ分けにあずかってきたのだが、今回はわざわざ呼びに来てくれた。これは期待できるぞ。さっそく仕事をたたんで彼の家に向かった。
やっぱりね。テーブルいっぱいにワラビ、ミズなどの定番に、アイコウ、シオデ、シドケ、それにまだ見たこともない山菜の数々が並んでいる。
「これは何だか知っているか?」「今度はこっちを食べてみろよ。」
すすめられるままに口に運ぶ。いいねぇこの香り、この微妙な味わい。野菜とは違う独特の風味が口の中いっぱいに広がっていく。まだ日が高いけど、山菜と焼酎を交互に口に運んでいるうちに、酔いがまわってきた。なんというか・・・今日はいい日だよ。
ところで・・と、正雄さんが話しだした。
「この山菜が食べられるということが分かるまで、つまり他の多くのものは食べられないということが分かるまで、いったいどのぐらいの人が犠牲になったんだろうか?」
すごい話になってきた。想像がつかないけれど、ある草を食べてお腹が痛くなったり、ゲリで苦しんだりという体験は嫌になるぐらい繰り返してきたはずだ。亡くなった人もいただろう。もちろん、二度と同じ苦しみをしないように、親から子に、あるいは周囲の人たちに一生懸命伝えようともしてきたに違いない。でも、それらの情報が伝わる領域には当然かぎりがあり、幾度も同じような悲惨な体験をあっちの村で、こっちの集落でと繰り返しながら、少しずつ選びとる知識を積み重ねてきたということか。
それは食べ方にも言えて、たとえばワラビをそのまま食おうとしても、とても苦くて食えたものじゃないけれど、やがて今に伝わっているように、灰をいれて湯がけばおいしくなるという食べ方を発見するに至る。苦いからといって捨てなかった。あきらめなかった。あきらめずに何とか食べられる方法を見つけようとしてきた。
全ての植物は、人間が食べられるものと食べられないものとに分けることができるが、食べられるものとして分類されてきた植物の一つひとつのなかに、飢えと背中あわせにものを食べてきた人びとの、命がけの体験が宿っているということなのだろう。
なぁ、正雄さんよ。なんだかこの目の前の山菜がいとおしくなってきたよ。変かもしれないけど・・食べながら・・涙が・・。
もうすっかり酔っぱらっちまった・・・。
2006.04.17:
kakinotane
:[
メモ
/
「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」 バックナンバー
]
https://kanno-nouen.jp/
菅野農園のホームページで
お米を販売しています
名前
件名
本文
URL
画像
編集/削除用パスワード
※半角英数字4文字で自由に入力下さい。
手動入力確認イメージ
※イメージ内の文字を小文字の半角英字で入力して下さい。
※ 投稿後、すぐに反映されます。
「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜養鶏版〜」
「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜農業版〜」
私の経営
プロフィールのようなもの
「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」 バックナンバー
お米と玉子を食べてみたい方のために・・
菅野芳秀の連絡先
レインボープラン推進協議会
カテゴリー
メモ
メール
Q&A
暦
リンク
地図
ウィキ
特集
プラン
ケータイサイト
インフォメーション
プロフィール
copyright/kakinotane
山菜がおいしい季節だ。
鶏舎の周辺で仕事をしていたら、幼馴染の正雄さんがやってきた。山に行って山菜をとってきたから食べに来いという。彼は山菜とりの名人だ。雪どけを待ちかねたように山に分け入り、山菜をさがす。僕もときどき彼の家に押しかけてはそのおすそ分けにあずかってきたのだが、今回はわざわざ呼びに来てくれた。これは期待できるぞ。さっそく仕事をたたんで彼の家に向かった。
やっぱりね。テーブルいっぱいにワラビ、ミズなどの定番に、アイコウ、シオデ、シドケ、それにまだ見たこともない山菜の数々が並んでいる。
「これは何だか知っているか?」「今度はこっちを食べてみろよ。」
すすめられるままに口に運ぶ。いいねぇこの香り、この微妙な味わい。野菜とは違う独特の風味が口の中いっぱいに広がっていく。まだ日が高いけど、山菜と焼酎を交互に口に運んでいるうちに、酔いがまわってきた。なんというか・・・今日はいい日だよ。
ところで・・と、正雄さんが話しだした。
「この山菜が食べられるということが分かるまで、つまり他の多くのものは食べられないということが分かるまで、いったいどのぐらいの人が犠牲になったんだろうか?」
すごい話になってきた。想像がつかないけれど、ある草を食べてお腹が痛くなったり、ゲリで苦しんだりという体験は嫌になるぐらい繰り返してきたはずだ。亡くなった人もいただろう。もちろん、二度と同じ苦しみをしないように、親から子に、あるいは周囲の人たちに一生懸命伝えようともしてきたに違いない。でも、それらの情報が伝わる領域には当然かぎりがあり、幾度も同じような悲惨な体験をあっちの村で、こっちの集落でと繰り返しながら、少しずつ選びとる知識を積み重ねてきたということか。
それは食べ方にも言えて、たとえばワラビをそのまま食おうとしても、とても苦くて食えたものじゃないけれど、やがて今に伝わっているように、灰をいれて湯がけばおいしくなるという食べ方を発見するに至る。苦いからといって捨てなかった。あきらめなかった。あきらめずに何とか食べられる方法を見つけようとしてきた。
全ての植物は、人間が食べられるものと食べられないものとに分けることができるが、食べられるものとして分類されてきた植物の一つひとつのなかに、飢えと背中あわせにものを食べてきた人びとの、命がけの体験が宿っているということなのだろう。
なぁ、正雄さんよ。なんだかこの目の前の山菜がいとおしくなってきたよ。変かもしれないけど・・食べながら・・涙が・・。
もうすっかり酔っぱらっちまった・・・。