ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
玄米、美味しいです☆
菅野さんの文章が、好きです。とても、柔らかい、温かいまなざしのようなものを感じます。私も文章で食べていくなら、学ばねばならない。といつも、刺激をいただいております。
おかんがのことについて、私も百姓にはなれないかもですが、そのたすきの一本の糸、できれば、縦糸になりたいです。 東京の友人にもこちらのブログの文章を送ってもいいでしょうか、私の学生さんたちにも、紹介しております。 でも、きっと長井をみないと、わからないかもですね、東京育ちの私の学生さんたちには(笑) ちょっと無理をしすぎて、風邪で倒れているところに、菅野さんのブログが拝見できて、うれしかったです。特効薬みたいなもののようです。 本年もありがとうございました。良いお年をお迎えくださいませ 来年、うかがえたらと(本年はヘルニアでダメでしたが)、と夢をもって新年を迎えたいと思います。 にわとりさんに、宜しくお伝えくださいませ。 私の玄米を育ててくれたそちらのすべてものにも・・・ |
しほしほさま
『タスキ』が、頭の中を巡ってる・・・・。
また、のこのこパソコンの部屋にやってきました。・・・この文章、どこかで、いつか、読ませていただいたことありますよね。でも、その時は、あ〜そうなんだって思っただけだったのだけど、今夜は頭の中で、渦巻いている。・・困ったねぇ〜。困ったよぉ〜。タスキって、篤姫の言ってる『役割』ですか?・・隣の部屋から「母さん、もうできたん?できたら出してきてあげるよ!」って息子の声・・「年賀状は、ちょっと休憩やな!」
私は、毎年きまって4回機嫌が悪く(イライラに)なります。盆・正月・祭り・市(イチ)の、4回です。このお正月で34回目です。「何にもせんでも、お正月の神様は平等に我が家にもやって来るでしょう」って、思いながら主婦の仕事をしていたからなんです。今まで、ずっと嫌々していました。けど、じゃあ止めなさいと言われたら、いや、ここで止めたら次には繋いで行けないし、一旦止めたら復活する事はないでしょう〜とも、思っていました。どうせやるんだったら、楽しいなって思いながら出来たらいいのに、自分の心一つなんだよと自分に言いきかせながら渋々こなしていました。 菅野さんのように素敵な太いタスキじゃないけど、私もこの我が家の習わしの細いタスキを義母から預かったのかもね?いつか来るかも知れない{息子の嫁に渡さなければね}って、今、思いました。繋いで行くか行かないかは、受け取った人が決めたらいいのだけどね。思い返してみても、義母から「こうしなさいな」と言われた事は無いです。いつも、「さくらのしたいようにしたらええで」って、言ってくれます。ほんの4〜5年前までは、義母が取り仕切ってしていたのですが、それでも、私はその間、自分の自由が無いようで嫌だったのです。「さくらは、この家の嫁に来たんでは無い!結婚するのは個人と個人でしょ!」って、夫に当たっていましたね。 知り合いや我が子には「簡略化・簡素化っていうけど、できるだけ地域の文化は残していきたいね」って話しているんですが、守りながら次に繋いで行くって、・・・やっぱり、計画・段取りを緻密にして、さらに身体を惜しみなく使う働き者でないと、やる事が溜まってしまって、ストレスとイライラから、「こんなタスキ要らないよ!私の肩に掛けないでよ!」って、投げ出したくなりますよ。・・・私だけ主婦では無いよな。世の中には主婦いっぱいやのんな、こんな根性無しは、私だけかな?・・・これって、やっぱり恥ずかしい事ですかね・・・。 でも、嫁に来て以来お客様の接待やら、宿泊の準備やら、御節に餅つき(買えば楽に手に入るのに)やらが、嫌で嫌で仕方なかったけど、「タスキ」のことばで、スッキリしました。 菅野さんの凄い立派なタスキからね。・・ヒント戴きましたよ。ズルイですかね。・・本当に菅野さんって、うまい事考えますね。本当に私の心が変わったかも、・・もう今日と明日しかない今年を精一杯頑張りますね。・・・そうしたら・・・ 2009年は、大好きな丑年、いつもと違う元旦〜元日〜正月になりそうです。この単純な心の変わり様に自分でも驚いています。 この心(思い)がいつまで続くのかなぁ〜って思うと楽しみですよ。感謝しています。讃岐なら「おおきになあ!」(ありがとう)ですね。 すいません、今回のこの写真の赤い実ってなあ〜に?・・柿?・・ピラカンサス? それとも、暖かい所には無い不思議な実ですか?・・小鳥が食べに来るのですか? |
ありがとう
新年明けましておめでとうございます
種子原人様へ*これからもよろしくお願いします*
原人様の、ご家族ですか?・・・隼人の末裔は、健康で陽気なんだ。・・・いいですね、元気が出ましたよ。・・・我が家は、今、長男と義弟で親戚の挨拶回りに行って居ない。・・・私は、ストレス解消に、パソコンの部屋。・・。私のパソコン写真を入れてからうまく作動しない。(いつまで待ってもダウンロード中)・・・長男のをそっと使って、勝手に、お気に入りに「空飛ぶニワトリ」って入れちゃいました。これなら、早い!早い!です。なので、見るだけって思っていたけど、また打ち始めています。
今夜は、泊り客在りなので、まだまだ我が家は正月です。でも、34回目の正月は、ちゃんと自分でストレス解消しているからルンルンですよ。・・今まで変えようと努力しても変わらなかった自分の心が、少し変わってきているなって思います。・・大切な切っ掛けって、やっぱりあるんですね。亡き夫も、この様子を満ちつつある細い上弦の月から「ちょっと暗くて、下界がよう見えんなぁ〜」って言いながら眺めてると思います。そして、「さくら、よかったな。やっと家の嫁になろうって思ったんやな。ホッとしたよ!」って、言っている事と思います。 まず、私のわがままな心を少しまともにしてくださった菅野さんに感謝かな?・・そして、次に、いっぱい教えてくださった種子原人さんに感謝ですね。・・・? 今から何をどのように学んでいくのか、2009年が、楽しみですよ。・・不況吹っ飛ばせないけど、しばし忘れて、自分の出来る事を、自分らしく(他人様に不快感を与えないように配慮しながら・・すぐ忘れるけどね・・ごめんなさいです)こなしていけたらなって考えています。この一年、私の心がウキウキで、みんなが安心して生活できたらいいなあと思っています。 |
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大変長らく留守にしていました。ようやく外の仕事はひと段落、まだ年賀状は書いていませんがそれは例年のことで、1月になってから書けばいいや
。やれやれです。
家主が不在の間、山さくらさんや種子原人さんにルスを守っていただきました。ありがとうございました。
さて、書きたいことがたくさんたまっているのですが、肝心の「地域のタスキ渡し」について、まだ書いていないことに気づきました。一度正面から書いておく必要がありますよ、これは。なぜならばこの「地域のタスキ渡し」こそ、私の原点だからなんですよ・・・なんてね。気負ってみても今はそんな時間はない。だから・・・、以前、朝日新聞の山形版に同じ題名で書いたものがあるんですね。もう少し若い頃のものなんです。同じことなのでそれを掲載させてください。ちょっと硬い文章ですけどがまんしてくださいな。
長井市ではレインボープランという、生ゴミと農産物が地域の中で循環する事業が行われている。
私はこの事業に参加して15年(当時)になるけれど、それは、農作業の合間をぬって飛び回るとても忙しい日々だった。そんな私を支えてくれたものは「地域のタスキ渡し」という世界だ。耳慣れない言葉だと思う。何しろ私の造語なのだから。
私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいと思う地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのは沖縄での体験だった。
76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。
村からは多くの人が安定した生活めざして「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。「開発に頼らずに、村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない。」
このように子孫を思いながら反対する。これはほとんどの村人の気持ちだった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現しないだろうが、このような生き方をつないでいけば、何世代かあとには、きっといい村ができるはずだ。それが俺達の役割だ。」
この話を聞きながら、わが身を振り返り、私は大きなショックを受けていた。彼らは私が育った環境よりももっともっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。
この人達にくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。泥にまみれながら田畑で働く両親や村の人達の姿が浮かんだ。
それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。
村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって始めて気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。それらの努力と願いの中で私は守られ、生かされていたのだ。
風景はあたたかな体温をともなって優しくせまったくるのを感じた。ようやく「地域」がわかった。そして私は「地域」が大好きになり、同時に肩にかかっている「タスキ」を自覚できるようになった。
その後の、減反反対や農薬の空中散布反対運動、そしてレインボープラン・・・。
私をこのように動かすものは、地域の風土の中に流れる先人の体温と、私の身体にしっかりとかかっている「タスキ」への自覚である。
・・・ということなんですが、少し、肩に力が入いりすぎていますね。若いですねぇ。カッコつけてますねぇ。
表現はゴツゴツしてるけど、趣旨はお分かりいただけるかと思います。百姓仲間の友人がいいます。「菅野は農業をやりたくて農民になったのではなく、地域を変えたくて農民になったんだよな。」って。きっかけはその通りでしたね。これが私のベースです。