ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜農業版〜」 
かるーいお茶のみ話です。ぼくの文章はどれをとってもそんなモンなんですが、これは特にそう。申告のための作業が終わってほっとしていたら、ふっと、書きたくなっただけなんです。「ほっと」で「ふっと」なんですよ、あくまで。誰にでもある青春時代の・・・。
 
早朝の4時、18歳の私は、自転車に270部ほどの新聞を積み、まだ暗い東京の住宅街を走っていた。途中で自転車を止め、新聞を一抱え持っては路地を抜け、階段をかけ上がり、ハッハッハッと息をはずませ、配ってまわる。まだ日が昇らない暗い家並みのなかに「沈丁花」の香りが漂っていた。

 朝刊と夕刊の間に大学に通い、日曜日は集金で終わるそんな日々の始まり。新聞店の二階の作業所に作られた二段ベットのひとつがぼくの部屋。作業所とはカーテンで仕切られた一畳半のなかに小さな机をおいて本を読み、その下に足を突っ込んで寝る。汚れた窓を開ければ、隣の飲み屋の排気口があって、たえず、焼き鳥の黒い煙を吐き出していた。

 それでも東京のひとつひとつの風景が面白く、出会う人それぞれが新鮮に思え、決してつらくはなかった。なによりも、ここからぼくの人生が始まっていくのだと、「青雲のこころざし」に燃えていたのだから。 

 すでに兄を私大に送っていた我が家の家計はきびしく、どう考えても大学への道は閉ざされていた。そもそも高校を卒業すれば農家を継ぐ、それが普通高校に通う条件となっていて、進学は高校入学の時からあきらめざるを得ないとおもっていた。

 そんなぼくにも大学への道があるのだと、小躍りするような世界に出会えたのは、もうじき高校三年生という年の三月だった。なにげなく新聞をめくっていたぼくの目に、「朝日新聞奨学生募集」という囲み記事が飛び込んできた。そこには授業料、初年度納入金、衣食住など、大学に通う上で必要なほとんどのものが補償されると書かれていた。条件は東京での新聞配達。大学に行けるかもしれない!

 ぼくは高校一年からの勉強をやり直した。浪人する余裕はなく、時間が足りない・・・。どうせ農業だからと、それまでほとんど使わずにさび付いていたぼくの記憶装置は、ぎしぎしいいながら動き出した。

 今年も「沈丁花」がその甘い香りを放ち始めている。その香りのなかでぼくは40年前の「春」を思い出す。

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これは今までのシリーズものとは少しばかりおもむきが違う文章です。どう違うかといえば・・ま、読んでもらえれば分かるよな。そしてね、あろうことか、この文章を今晩(1月14日)「沖縄タイムス」に投稿したのです。長すぎてダメかもしれないが、削れないんだよなぁ。以下・・・


昨年の11月中旬、私は妻をともなって沖縄を訪れた。それは20代から50代の今日までの私の人生に大きな力を与えてくれた「沖縄」へのお礼の旅だった。

私はいま、山形県長井市で農業をしている。その傍ら「レインボープラン」という名の、生ゴミと農作物が同じ地域で循環するまちづくりに取り組んできた。そのレインボープランは2003年朝日新聞「明日への環境賞」、2006年日本農業賞特別部門「食の架け橋賞」大賞受賞、また、環境省の環境白書に「循環型地域社会」の模範事例として、農水白書には「資源循環型地域農業」のモデル事業として取り上げられるなど、他にもこれまでさまざまな賞をいただいている。

私はその事業のリーダーとして18年ほど夢中で取り組んできて、昨年の夏、レインボープラン推進協議会の会長を辞めた。農業とまちづくりへの取り組みはとても忙しい日々だったが、そんな私を支えてくれたものは沖縄からいただいたおおきな力だった。

私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいとおもう地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈の中で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのが沖縄での体験だった。

76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立てて石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。村からは多くの人が安定した生活を求めて「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。

「開発に頼らずに村で生きて行くのは厳しい。だけど・・・」と村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れてくる子孫にとっても宝だ。苦しいからといって石油で汚すわけにはいかない。」

その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げなくてもいい村をつくっていきたい。俺たちの代では実現しないだろうが、そのような生き方をつないでいけば、何世代か後にはきっといい村ができるはずだ。それが俺たちの役割だ。」

私はこの話を聞きながら、わが身を振り返り、大きなショックを受けていた。この人たちは私が育った環境よりもずっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を子孫へとつなごうとしている。この人たちにくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたった時、涙が止めどなく流れた。泥まみれになって働く両親や村の人たちの姿が浮かんだ。
それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。

沖縄からいただいた考え方を「地域のタスキ渡し」という言葉にし、減反反対運動、農薬の空中散布をやめようという取り組み、そしてレインボープランと・・・、「逃げ出したい地域を逃げなくてもいい地域へ」「ここで暮らすことが安らぎであり、誇りでもある地域へ」、百姓の合間をぬいながら夢中で歩んできた30年間だった。

その私が・・・、昨年の秋、「もう、(社会における)俺の役割は終わったのかもしれない。」という気持ちにとらわれ、すっかり落ち込んでしまった。目的の喪失感なのか。あなぽこに落ち込んでしまったような・・。

再び沖縄に行こう。私はその後の30年間、このように生きてきたという報告とお礼の旅に出よう。だれ、かれにというのではなく、「沖縄」そのものに・・感謝をこめて。

30年前と同じように沖縄は暖かく迎えてくれた。海も空も友人達も・・・。滞在した5日ほどの間、涙腺がゆるむことが幾度かあり、少しずつ元気になっていくのを感じた。

30年前にいただいた「こころざし」はまだまだ途中だ。地域をタスキ渡しする日まで、もっともっと歩み続けよう。あらためてこんな気持ちを持つことができた。

ありがとう海、空、沖縄のみなさん。ありがとう、沖縄。また助けられたという思いがある。まだまだ道は続いていく。


これだけの文章なのですが・・・。

いまかい?もちろん俺は元気だよ。アッタリマエダ!







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 あけましておめでとうございます。

 皆さんはどのようにお正月を過ごされたでしょうか?
我が家族は当然ことながら、まったく普段と変わらない暮らしでした。ニワトリにエサをやり、玉子をとってパック詰め、曜日がくればそれを配達する。変わったのは元旦の朝、お酒をいただいたのと、伝統的な風習に従って、決められた料理で食事をしたぐらいのことでしょうか。

 あらためて年頭のご挨拶をいたしますが、今回はお正月の間に読んだ本を紹介させてください。

 山形市に齋藤たきちさんという農民がおります。その方が昨年の秋「北の百姓記(続)」(東北出版企画)という題名の本を出版されました。一昨年に出された「北の百姓記」に続いてのことです。両方とも読み応えのある本です。どんな本かを「書評」風に書けば・・こんな本です。(以下)


 三十五年ほど前になろうか。まだ私が東京の学生だったころ、よく読んでいた書物の中で幾度か「齊藤たきち・山形県・農民」の著名入りの文章に出会った。
当時、私は農家のあとつぎとして期待され、農学部に在籍してはいたものの、その道がいやで、何とか田舎に帰らない方法はないものかと考えていた。そのくせ、人生の方向を見つけられないまま、成田で起こっていた農民運動などに顔をだしていた。

 その時のたきちさんの文章は、同じ農民という立場から、運動を担う成田の農民に心を寄せて書かれた、どっしりとしたものだった。農民であることに誇りをもつ、土の香りがする文章だった。
「山形にもこんな方がいるんだ。」同じ山形県人であることに親近感をもちながらも、当時の私にそれらの文章は重くこたえた。

 やがて私も農民となるのだが、その時以来ずっと今日まで、「齋藤たきち」の名前はいつも気になる存在として私の中にあった。

 齊藤たきちさんは山形市門伝で農業を営むかたわら、農民の立場から詩をつくるなどの創作活動に精力的に取り組んでいる方だ。山形県を代表する詩人で野の思想家、真壁仁がおこした「地下水」の同人でもある。

 そのたきちさんが昨年の秋、「北の百姓記(続)」(東北出版企画)を出した。一昨年の春に出版された同名の本の続編である。「あとがき」に、先に出した本には「六十年余に渡る私の『百姓暮らしの叫び』」を、このたび出した続編には「百姓としてどう生きているか」を書いたとある。

 読みながら、三十数年前の感情がよみがえってくるのを感じた。たきちさんはずっとあの時の姿勢のまま生きてこられたのだ。

 彼は単なる知識人ではない。それは彼の広い肩幅と、厚い胸、がっしりとした体躯をみたら分かる。田畑に働くことでつくられた身体だ。そこから出てくる情感、思想を詩人の言葉でつづったのがこの本である。作物や郷土に対してそそがれる目がやさしい。

 たきちさんは自らを「百姓」という。彼にとって百姓とは単なる職業なのではなく「生き方」そのものである。
まさにこの本には、土の上で懸命に生きてきたひとりの百姓、齋藤たきちの生き方があり、哲学があり、世界観があり、詩がある。
 
 そのたきちさんがついに自分を「最後の百姓」と呼ぶに至った。そこまで彼を追い詰めたものは何なのか?我々とて決して無縁ではない。

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 書評風の紹介はこれで終わりです。たきちさんは今月の21日、真壁仁を記念して設けられた「野の文化賞」」を受賞されます。

 この二冊の本は、農業に従事されている方だけでなく、広く社会人、学生にも読んでもらいたい本です。

ナンカ、オオマジメニ、カタッチャッタナ・・・。




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  田んぼは今、黄緑(きみどり)。少しずつ黄色に近付いている。その黄色、年によってはまばゆいばかりの黄金色になることがある。その美しさといったらたとえようがない。長年田んぼの秋を見てきたこの私でさえ、しばらくそこから動けなくなるほどだ。今年はどんな色になってくれるのか。

 もうじき稲刈りだ。出穂は例年に比べ10日は遅れていたから、今月の下旬ぐらいからだろうか。種まきから今日までに、たくさんの出来事があった。もしかしたらこのブログを見ているあなたは「菅野がまじめに百姓しているわけがない。」と思っているかもしれないので、ちょっとまじめに・・・・こんなことがあった・・・と。

 今年は長い梅雨で、ほとんど一ヶ月、毎日、毎日が雨降り。全身にカビが生えてくるのではないかと思えるほどだったよ。日照不足と、ときおり「あれっ」と思うような低温のなかで、稲の成育は進まない。
  
 こんな気候のときは「いもち病」が心配で田んぼの周りを幾度も見て歩いた。農協の広報も「いもち病注意報」を出して気をつけるよう呼びかけていた。
 いもち病とは一種のカビがつくりだす病気で、葉につくと緑の葉に点々と茶色の斑点ができる。それがみるみるうちに増えていき、やがて稲の体ぜんぶが萎縮したようになって枯れていく。葉のいもち病が軽度ですんでも、それで終わりなのではなく、やがて穂のいもち病に変わっていく場合が多い。ひどい場合は、田んぼ全体が茶褐色になり、全てが枯れ上がってしまったかのように見えるほどになる。そうなると悲惨だ。大きな減収は当然だが、残った米も貧弱でまずい。やっかいな伝染病だ。
 これにかかると、農家は気落ちのあまり「火をつけて燃やしてしまおうか。」と思うほどだ。私はまだ経験がないけれど、恐ろしさは充分知っている。

 雨と曇天が続き、高温多湿。いもち病の蔓延する条件は充分にそろっている。実際、あっちこっちの農家から「ついに発生」の声が上がっていた。すでに農家は一度目の防除を終え、二度目の準備を進めていたが、我が家はまだやっていない。
 私は何度か田んぼを見て回っていた。そしてある日、ついにいもち病を発見。まだ軽度だけれど、堆肥が多く落ちて、稲の葉色が濃いところにチラホラと発生している。ザワッときた。

 地域づくりだ、レインボープランだといって田んぼをはなれる機会が多い私は「それ見たことか、あいつの田んぼは・・・」と言われることのないように、田んぼの管理には他の人よりいっそう気を使っていた。その上更に、周りの農家には農薬を減らそうと呼びかけていたのだから・・大きな被害が出たら影響は決して小さくはない。やばい。

 天気予報を見れば、これからも長雨は続くらしい。長年、殺菌剤、殺虫剤をやらずに来たけれど、今年は止むを得ないと思えた。ここはひとまず殺菌剤をやろう。そう決断せざるを得なかった。お米を待っている関西や関東の人たちの顔が目に浮かんだ。

 その後は暑い夏がもどり、いもち病の心配はなくなったのだけれど、あの時点では仕方なかったと思っている。だけど・・・。

 今年もようやく収穫の秋が近付いてきた。でも、思いは複雑だ。

 おもわず目を細めてしまうほどの輝きをもつ黄金色の田んぼは、朝晩の気温が低く、日中は高温だという天候が条件だという。

 今年の田んぼはどんな色を見せてくれるのだろうか。


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 「労働情報」誌の「時評・自評」欄に掲載した文章です。写真は鶏舎の修理をしている息子です。「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」はまだ書いていません。これからです。


 我が家の農業経営は、水田2ヘクタールに畑が少々、それに自然養鶏900羽。山形県の朝日連峰の麓、純農村地帯の一隅で農業を営んでいる。80代の両親と50代の我が夫婦。そこに昨年4月、農業専門学校を終えた息子が帰ってきた。以来、今日まで、田んぼだ、畑だ、ニワトリだとよく働いている。

 「あんなに働いてくれて悪いなぁ、もごさいなぁ(かわいそうだなぁの意)。家のためなら、うんといいけど・・。でも、よろこべないなぁ。気の毒なような、かわいそうなような・・。こんなことさせていていいものか?このまま歳とらせていいものかといつも思っているよ。」

 息子が出かけた夜に、88歳の母親はため息まじりに話す。

「家の犠牲になっているのではあるまいか。本当に百姓すきならいいけど、でもそうでなければさせられない。もごさくてよぉ、あの子のこと・・・。」

 現在の日本農民の平均年齢は60代後半。我が村の農家の平均年齢も67歳。昼間の田畑に若い人の姿は見当たらない。お米の価格は20年前と比べ、一俵(60kg)あたり1万円も安い。それに3割を超える減反があり、野菜は洪水のごとく海外から押し寄せ・・と、まぁ、こんな按配だ。若い人はとても就農できない。

 百姓仲間の造語に、「とき(時)が来る。トキになる。」という言葉がある。時代は生命系の回復に向かい、農業の価値がみなおされようとしているとは言うのだが、その到来をまえに、われわれ百姓は「佐渡が島のトキ」になっちまうよ、という意味なのだけれど、実感だ。

 日本に農業はいらないのかい?日本の穀物自給率はたったの27%。世界でも最低ラインに近い。「飢餓の国・北朝鮮」とはいうけれど、それだって穀物自給率は日本の倍の53%だ。日本の食糧事情はすでに破綻している。輸入によって事実が隠されているにすぎない。

 「もうすこし、あの子も世の中見えるようになれば、まだ歳若いから、大丈夫だから・・、何して生きていくか考えんなねごで。」

 88年間、いろんなものを見てきた母が、農業では幸せにはなれない、離れたらいいと話す言葉には説得力がある。でも、息子は充分そのことを知った上で、農業をやろうと帰ってきた。その気持ちが続く限り、それを支えてあげなければと思う。

若い百姓が一人生れたが、「トキ」に向かう流れは変わらない。
 


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ようやく機械で植える田植えは終わった。これからは田んぼの四隅が植えられていないので、手作業での田植えとなる。13枚の田んぼがあるからあわせて52箇所。21箇所はおわった。今日中には終わるだろう。もう少しだ。

下の文章は昨年のもの。ほとんど状況は変わらない。それぞれの年齢が一歳ずつ上がっただけだ。本文を読んでもらえれば分かるけど、息子が農業に就いたので、若い方から数えて4番目になったことが唯一の変化かな。

 

 田植えの季節が終わった。今年も田んぼの主役は年寄り達だった。
    
 今年75才になる我が集落の栄さん。彼は5年前の70才の時、自分の田んぼ1ヘクタールの他に、近所の農家から60アールを借り受けるほど米作りに情熱を燃やしていた。でも、この春、借りた田んぼをもとの農家に返したという。
 どんなにかがっかりしているだろうと、田んぼの水加減を見ての帰り、栄さんの家によってみたら、想像していたよりずっと元気だった。

「足腰が痛くてよぉ。これがなければまだまだおもしろくやれるんだがなぁ・・」 
「自分の田んぼはつくれるのかい?」
「あたりまえだぁ、だまってあと5年はできるぞ。生きているうちは現役よ。」

 意欲は衰えていなかった。やっぱりこの世代の人達は今の若い衆とモノが違う.
集落44戸のうち20戸が生産農家で、主な働き手の平均年齢は65歳と高齢だ。

 私が20代中ごろで農業に就いたときは、若い方から数えて三番目だった。若いということで寄り合いの時などは年輩者から「机をだして。」「灰皿ないよ。」と指示され雑用係を務めていた。そのときから29年たった。いまも私は若い方から数えて三番目だ。50代中ごろの私は、60代、70代の先輩のもと、同じように皿だ、箸だと率先して動かなければならない。おそらくは10年後も、そのまま歳をとった70代、80代の先輩達に指示されて、箸だ、皿だと・・・。あまり考えたくはないが・・・。

 「俺たちはよう、若い者たちをいたわっているんだよ。」

 そう話すのは74才の優さんだ。毎朝4時半には目が覚めるけど、家の若い衆を起こしてはならんと、しばらくじっとしていて、田んぼにいくのは5時半をまわってからだという。それもそっと。そばにいた優さんの奥さんが笑いながらつけたした。

 「私も、朝ごはんを出したり、掃除したりと、嫁を起こさないように注意しながらやっているよ。」

 外に出てからもな・・と優さんはつけ加える。

 「勤めに出ている村の若い衆を起こさないように、遠い方の田んぼに行って草刈り機械のエンジンをかけるんだ。」

 村では年寄りはいたわられるものという、よそで普通に聞く話は通用しない。我が集落の水田は、栄さんや優さんが現役でいる限りは大丈夫だ。

 だが、もう一つの現実もある。栄さんは今年、畔草に除草剤をまいた。除草剤をまけば、畔の土がむき出しになり、崩れやすくなるのだが、足腰の痛みにはかなわないということだろう。
 緑が日々濃さを増していく6月の水田風景。そのところどころに、除草剤による赤茶けた畔がめだつようになってきた。これもまた、高齢化する農村と農民の現実である。

 10年後、どういうたんぼの光景が広がっているのだろうか。










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 田植えが始まり、水田は久しぶりに活気づいている。

 ここ数年、田植えと同時に化学肥料を根元に落とす便利な機械が広まり、田植えまでの作業がいっそう短くなった。田んぼに堆肥を撒いている私の作業が、どうしても遅れてしまう。

「まだかぁ、いつごろ耕運できる?」

 隣の田んぼの持ち主が、自分の田んぼに水を引き入れれば私の田にも浸透し、耕運しにくくなることを気づかい、声をかけてくれた。

「申し訳ないなぁ。もう少しまってけろ。」

 せっかくの春なのだから、畦の野花をながめ、残雪と新緑の朝日連峰の風景を楽しみながら、のんびりと作業をすすめたいのだが、周囲のペースがそれを許さない。腰の痛みに耐えながら堆肥を撒き続ける。実際のところ、この作業が終われば、米作り作業の半分がかたづいたような気分になる。つらい仕事だ。

 それでもなお、私が堆肥にこだわるのは、私たちは「土を食べている」と思うからだ。土など食べたことないという人もいるだろうが、みんな食べている。

 昨年、ある地域の水田で収穫された米に、重金属の一種であるカドミウムが含まれていると新聞で報じられたことがあった。米がカドミウムをつくったのだろうか?そんなことあるわけがない。植えつけられた土にカドミウムが含まれていて、稲がそれを吸収してお米にたくわえたということだ。農民にはなんの罪もなく、つらいだけの話だが・・・。

販売されているキュウリの中から、40年ほど前に使用禁止となり、とっくに使われていない農薬の成分が検出されて問題になったこともあった。土に残っていた。

米に限らず、すべての作物は、土のなかのいいものも悪いものも区別せずに吸収し、その茎、葉、実にたくわえる。だから私たちは作物を食べながら、その作物を通して、土を食べているというわけだ。土の汚染からくる作物汚染は、洗っても皮をむいてもどうにもならない。それこそ身ぐるみなのだから。

スーパーに行けば、海の向こうの農作物がたくさん並んでいる。私たちはそれらを食べながら、中国の、アメリカの、あるいは他のたくさんの国々の土を食べている。はたしてその土は安全か?食べるに足る土なのか?はなはだこころもとない。

“食は土からはじめよう”、“守ろう、育てよう、食べられる土”である。 堆肥散布は土を守る基本だ。はずせない。

田植え作業までもうすぐだ。たんぼに漂うほのかな堆肥の臭いがうれしい。

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 この文章は昨年、「虹色の里から」に書いたものです。「虹色の里から」には少しカタイ文章を、「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」にはちょっとクダケタ文章を書いています。



田植えの季節だ。

我が家ではこの4月から、息子が一緒に農業をすることになった。

 人生どの道に進もうとも「農と食」を学ぶことは人が生きていくうえでの基本を学ぶこと。こんなことを話し合って、高校卒業後、農業の専門学校に進んだ。卒業してからはどこに就職し、どこで暮らそうとお前の自由だよ、自由に選べばいいと伝えていた。それが我が家で就農するという。うれしいような、切ないような・・。私の身体は楽にはなったが、心中はいささか複雑だ。

 農業しようかなと最初に息子が話したとき、真っ先に反対したのはばあさんだった。

「なにもお前が百姓することないよ。苦労するのは目に見えている。いい野菜が欲しいならサラリーマンにでもなって、きちんと収入を確保した上で、農民に向かって『安全、安心の農産物を作ってください。私達も応援しています』と言っているのが一番いいよ。」

うまいことを言う。そばで聞いていた私は思わず笑ってしまったが、息子は方針を変えなかった。

「オレが結婚したならば、相手のひとを農家の嫁にはさせないよ。」息子がこう切り出したのは先日のことだ。「嫁は掃除、洗濯、食事など家事全般をこなしながら自分の仕事を続けなければならないべぇ。疲れていても、なかなかお義母さんやってよとはいえない。」

 母親を通して、女性が別の仕事を持ちながら嫁をやっていくことのしんどさを見て来た息子の一つの結論らしい。
だから仕事をもっている相手と家事を分担しながら町のアパートで暮らし、自分はそこから田んぼや鶏舎に通いたいと言う。それを女房に話したら、息子がそういうのなら賛成するよ、それに・・と付け加えた。

「あなたも結婚する前は私を農家の嫁にはしない、家事も育児も分担しようといっていたのよ。けど、理屈だけで実際にはできなかった。息子はアパートに暮らすことで親父のできなかったことをやってみようというのだからおもしろいじゃないの。」

 確かに大切なのは家族の形ではなく、それぞれの人生をそれぞれが納得して過ごしていくことだ。一般論としてなら分かる。でも、だからといって通いで百姓ができるのか。家畜と一緒に、土と一緒に暮らしながらというのが我々農家の基本だと思うのだが。

 息子は村の消防団の一員となった。夕方、農作業を早めに切り上げ、団のはっぴを着て勇んで出て行った。やがてまちで暮らすとしても、村を守る構成員としてがんばっていくということだろう。これも彼の選択だ。

 夫婦一緒に身体を使って農業をやってきた父母の世代。共稼ぎの我々の世代。そして息子達の世代。家も、地域社会も、農業も少しずつ変化していっている。

 我が家の、息子を含めたあれやこれやの物語がこれから始まっていく。

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「物干し竿はいかがですかぁ。20年前のお値段でぇす。」
洗濯竿を積んだトラックが、ボリュームを一杯に上げてやってきた。田んぼの種まきの準備をしていた午後のことだ。

 「20年前と同じだとぉ?何を言っている。こっちは1万円も安いぞ。」
 作業小屋で一緒にお茶を飲んでいた富さんが、小さくなっていくトラックを見ながらいつになく語気を強めて言った。

 富さんが言うのは米の生産者手取り価格のことだ。昨年の米値段は、一俵あたり1万2千円から3千円の価格。今から20年ほど前の一等米の手取り価格が、2万2〜3千円ほどだったから、1万円は下ったことになる。米作り農家にとっては深刻な安さだ。ここ数年間でガタガタッときた。そのうえ約3割の減反。機械代や肥料代は当然のように上がっているから、昨年の場合、ほとんどの生産農家にとって利益がなかったか、赤字となっているはずだ。

 「だけどこれはまだ序の口だ」と知人の農政ジャーナリストはいう。「米価はまだまだ下がるよ。数年のうちに1俵あたり一万円は切るだろう」と妙に自信たっぷりに断言した。米価暴落の背後にあるコメの輸入自由化はこれからが本番だからだ。

なぁ、おい・・と富さんの話は続く。
「消費者は、ここまでの安さを本当に求めているのだべか?農家が米作りをあきらめるほどの安さをよ。」

 さぁーて、どうだろう。でも米作り農家にとって昨年の手取り価格が数年続くようなら大変な打撃になるだろうし、1万円を切るようなことになれば決定的だろう。
山形県の農業は、風景を見ても分かるように、水田を中心に営まれている。だからその影響は甚大だ。米作りだけでなく、農業そのものに見切りをつけていく人たちがたくさん出てくるにちがいない。

「それで困るのは消費者で、農家はいっこうに困らない。自分で食べるものだけをつくり、金は他に働きに出て稼げばいいのだから、という人もいるよな」
冨さんが反論した。
「そうとも言える。だけど農家にとってもきびしいぞ。公共事業はない。企業も人を雇わない。いま確実に収入として計算できるのは年寄りの年金だけだよ。うちの年寄りもますます勢いづくよなぁ・・」
冨さんはそう言い残してかえっていった。

いま、農業で働いている人の年齢層のピークは70〜74歳で、この層が日本の農業を支えているというのはよくいわれるが、農家の家計もまたこの層に支えられていくというわけか。うーん・・・。

まてまて、あきらめるのはまだ早い。必ず道はあるはずだ。さぁ、種まきにかかろうか。



「管理職はやめたよ。手当てが少しばかり増えたって役職の仕事は俺に似合わないよ。」鼻から荒い息を出しながらまくしたてるのは友人の惣さんだ。

 赤いバイクに乗って働く彼が、ヒラから役職に変わったと聞いたのは一昨年ことだった。仲間達は小さな酒宴を開いてそれを祝ったが、それから一年半後、惣さんは自ら申し出てもとのヒラにもどった。仲間達は多少とまどいながらも、今度は激励会をひらき、彼を肴に愉快な酒を飲んだという。

 人生はつまるところ、自分にあった生き方、暮らし方ができるというのが一番だ。いうまでもないことだが、それを決めるのは自分自身であっって、世間の価値観でも、会社の都合でもない。

 ヒラに戻った彼は、元気にバイクのハンドルを握っているのだが、その顛末を聞きながら、私は例によってわが家の800羽のニワトリ達にまつわる、似たような話しを思い浮かべていた。

 惣さんとニワトリをごちゃまぜにするのは不謹慎かもしれないが、まぁ、彼なら笑って許してくれるだろう。

 わが家のニワトリ達にとって、鶏舎の中が過ごしやすいかどうかの問題は大きい。彼らが休むときは、たいてい止まり木の上にあがる。スズメやカラスたちが木々の上で休むのと一緒だ。私は全ての止まり木を、1メートルぐらいの高さにそろえて作っていた。みんな同じく、一様にここで休んでくれと。

 たいていのニワトリにとってはそれでいいのだが、中には群れから離れ、屋根裏に通してある高い横木の上に、自分だけの世界を見つけて休むトリ達も何羽かいた。「へぇー、こんな所にも止まるのかい?」

 ある時、彼らは多様な止まり木を求めているのかもしれないと気がついた。

 これが自然界の鳥ならば、いくらでも自由に好みの場所を選ぶことができるのだが、わが家のニワトリ達の選択肢はとても少ない。高さ1メートルの所か、屋根裏の横木かだけなのだ。この選択はいかにも貧しい。

 さっそく作業にとりかかった。下は地面から50センチぐらい、上は屋根裏の高さまで、傾斜をつけ、たくさんの止まり木を固定した。ニワトリ達は始めのうちこそとまどっていたが、少しづつ上にあがるようになり、やがて4〜5日後には下から上まで、それぞれの好みの場所で休むようになっていった。

「うん、世の中、こうでなくちゃいけない。」

人間社会では横並び以外の人、あるいはちょっと目立った人が排除されがちなご時世。ニワトリ達を見ながら、あらためて生き方、暮らし方は人それぞれ多様でいいんだと思った。

そうだよな惣さん。

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写真説明;止まり木や屋根裏に渡してある横木で休むニワトリたちを撮ろうとしたが、朝の時間が遅くて、止まり木にはほとんどいなかった。撮れたら入れ替えよう。

この文章は「虹色の里から」に掲載された文章です。
「ぼくのニワトリは空を飛ぶー再開2回目」は毎月1日と15日をメドに書こうと思っています。







春になった。

春になると米作農家は種モミの準備にはいる。まず始めは塩水に浸して、沈むモミと浮き上がるモミを選別する「塩水選」。私たちの地方ではこの作業を「しおどり」と呼んでいる。実の充実した種を選ぶ大切な作業だ。

その後引き続いて、種モミの消毒をおこなう。種モミに付着しているいもち病、バカ苗病などの、もろもろの病原体を取り除くためだ。私はこれを「温湯法」でおこなっている。

「温湯法」とは60度のお湯に種モミを5分間浸け込み、その後冷水で冷やすという方法だ。それまでの私は農薬を使ってこの消毒をおこなっていた。でも、ある出来事をきっかけに今の方法に変えた。15年ほど前のことだ。

「チョット来てみてくれ。大変なことになった。池の鯉がみんな死んでしまったよ。」緊張した表情で訪ねてきたのは近所で同じ米づくりをしている優さんだった。急いで行ってみると池の鯉がすべて白い腹を上にして浮いていた。その数、およそ60匹。上流から種モミ消毒の廃液が流されてきたらしい。川の流れは細く、水に薄められることなく池にはいってきたのだろうと優さんはいっていた。

種モミは農薬のはいった水に浸けられ、殺菌処理されるが、問題はその後の廃液の処理だ。河川に流せば水生生物に被害をあたえる。下流では飲み水として活用する地域もある。流せない。

農協は、河川に流さず、畑に穴を掘り、そこに捨てるようにと呼びかけていた。でも、畑に捨てたとしても土が汚染するだろうし、地下水だって汚れないともかぎらない。どうしようか。種モミの殺菌効果は完璧だが、毎年おとずれる廃液処理に頭を悩ましていた。

そんな中でであったのが「温湯法」である。これを教えてくれたのは、高畠町で有機農業に取り組む友人。この方法はきわめて簡単で、しかも、単なるお湯なのだから環境は汚さないし、薬代もいらない。モミの匂いを気にしなければ使用後、お風呂にだってなってしまう。なんともいいことずくめの方法なのだ。

 へぇー、こんな方法があったんだぁ。始めて知ったときは驚いた。環境にいいし、第一お金がかからない。

 幾年か経験を重ねた後、近所の農家に進めてまわったが、我が集落で同調する農家はごく少数。15年間増えてはいない。どうも私には技術的な信用がないらしいとあきらめていたのだが、この間、農業改良普及センターにいったら、うれしいニュースにであえた。

 「庄内地方に「温湯法」が増加。今年は1,500〜2,000haの見込み」。
いらっしゃったのですねぇ。ねばり強く普及に取り組んでいた方々が。
単純に計算すれば、県内でおよそ400万リットルの廃液ができる見込みだ。

 やっぱり俺もあきらめずにPRしなくちゃ。







下の文章は「虹色の里から」(朝日新聞山形版)に掲載されたものです。2年前ですがある全国紙の山形版に、レインボープランはうまくいっていないという特集が組まれたことがありました。それに対する反論を朝日新聞紙上に書こうとしたのですが、最初にだした原稿ではあまりにもリアルすぎるという担当記者からの指摘をうけ、少しオブラートに包んで書いたのがこの文章です。


レインボープランがスタートして7年目に入っている。ありがたい激励がほとんどだが、まれに参加農家が減っていることを指摘する声や、生ごみ堆肥の有効性について疑問視する声もないわけではない。

 レインボープランのまちづくりは、白紙の状態に絵を描くのと違って、人びとが暮らしているただ中に、市民主体で、循環のシステムを築いていこうとする事業だ。当然すんなりとはいかない。

 以前も今も、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりの連続で、いつも課題は山積だ。利と理が衝突することもある。問題がでればみんなで時間をかけ、ゆっくりと考えていけばいい。それらは未来にむかっての必要なプロセスであり、肝心なのはいつもこれからという姿勢を保ち続けることだと思っている。参加農家の問題もそういうこととして取り組んでいる。

でも、生ごみの堆肥化自体に問題があるかのような見方は明らかに認識不足だ。よく指摘される問題は効果と塩分の二つ。

 まず効果についてだが、堆肥には「作物の肥料として」と、「土づくりとして」の大きく二つの用途がある。窒素成分の低い生ごみ堆肥は土づくりに最適だが、肥料としてなら豚や牛の堆肥の2倍以上は必要だ。それに比べて畜産堆肥は窒素が多く、作物への肥料効果は高いが、土づくりとして使う場合は藁や草、落ち葉などを大量に混ぜ、窒素分を薄めて使うことが求められる。               
 ちろん生ごみ堆肥にも肥料効果はある。森の木々はいってみたら「生ごみ」をエネルギーにして成長しているのだから。要はそれぞれの堆肥の特性をおさえて上手に使うことが基本だ。このことを取り違えた議論が多い。

 塩分の問題はよくいわれることだが、その含有量は酪農堆肥とさほどかわらず、露地での使用にはなんの問題もない。雨が降らないハウスでの使用にあたっては一年ぐらい外に晒してからというのは、畜産堆肥と同じだ。
そもそも私たちが毎日の食事で使っている程度の塩分は土にとって大きな問題ではない。自動車もさびつくほどの潮風があたる海岸端でさえ、田や畑を耕しながら人びとの暮らしがつづいている。潮風によって田畑の土が壊れたと言う話はきかない。

 東京農工大の瀬戸教授は、生ごみ堆肥に含まれている塩分を30年分投入した野菜の成育調査において、発芽、成育になんの問題も無かったという研究成果を発表した。教授は生ごみを堆肥にするための疎外要因はなにもないと結論づけている。

 生ごみを燃やせば猛毒のダイオキシンが発生する。土から生まれたものを土にもどすことが循環型社会の基本である。そうはいっても人間社会は一筋縄ではいかない。当然のことを当然の状態にもどすことにおいてすら、さまざまなためらいがあるということか。