ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜養鶏版〜」
お久しぶりです。
さて、インターネット上の毎日新聞に「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」と題する駄文を書き、26回目からは「個人的なメールマガジンにおいて・・」と宣言したのが昨年の12月、今はもう4月下旬だからもう半年のご無沙汰だ。 締め切りがないというのはとても自由だけど、ぼくのようにグウタラな人間にはマイナスにしか作用しない。まったくダメ。書けません。それに「メールマガジンにおいて」とは言ったけれど、肝心のその世界のことをほとんど知らなかった。 じゃ、宣言しなければいいじゃないかともお思いでしょうが、ま、最初に広く宣言し、逃げられないようにしてから事に向かうというのは、禁煙の時も同じで、ぼくのやり方。方法としては手慣れたものだ。あとはグウタラを我が家系の遺伝子のせいにして機会を待てばいいというわけだった。 そして機会はやってきた。筆不精のぼくの背中をドンと押してくれたのは、友人からのメールだ。そこにはびっくりするような話があった。これは書かないわけにはいかないぞと。ぐうたら人間をやる気にさせたメールとはどんなものか。少し長いが引用する。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 菅野 芳秀様 すばらしいシフォンケーキが出来て,初めて家族にほめられました。本当に素 晴らしい卵力です。ありがとう。 白身を泡立ててレンゲを作ったのですが,泡立ちのしっかりさ,泡の艶色,いき いきとした感じがいままでの卵とちがう。 オーブンで焼いてみてさらに違いが分かりました。ふくらみの高さが焼き型の煙 突のところまで膨らんでいるのです。これは初めての経験でした。食べてみるとなめらか,しっとり,ふわふわ。 焼いた翌日はどうしてもやや堅くなるのですがそれがあまり感じられません。 そしてもうひとつ決定的な素晴らしいことー焼いたときの香りのすばらしさです。 今まで「平飼卵」というのを使っていたのですが,焼き上がった直後、オーブンを開けると魚滓の油の酸化した臭いがしてせっかくのリキュールやラム酒のにおいが消えてしまい,それが気になってしかたがありませんでした。それがすべて解消したのですから驚きです。 もっと,価値高く売れる卵だと思います。「NPO虹の駅」で、この卵でシフォンケーキを作って売って名物にしてはいかがですか? ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー びっくりしたよねぇ。写真の左がぼくの自然養鶏の玉子で作ったシフォンケーキだ。右が生協の平飼い養鶏のたまごで作ったもの。比較のために条件は全く同じにしたという。でもこの差はなんなんだ。友人は農芸化学の専門家で、もと農水省の技官。「たんぱく質の組成の違いが原因だとは思うけれど、調べてみなくちゃね。」と言ってくれた。 ぼくはその違いを少しロマンチックに考えたい。いのちを持ち、暖めればヒヨコになる玉子と、いのちを持たず、暖めれば腐ってしまうたまごとの違い。持っている生命力、含まれているいのちのパワーの違いだろうと。 いのちはいのちをいただくことでふくらんでいく。いのちは、いのちに加わってもらうこと、参加していただくことで強くなっていく。「食べる」ということはそういう事だ。参加する「いのちの質」(嫌な言葉だけど)によって生命力が決まっていく。 たまごの外見は同じだ。区別がつかない。だけど、その違いは歴然としている。これは生協の「平飼い養鶏のたまご」との比較だが、ゲージ飼い養鶏との比較ならどんな結果が出ただろうか。 本物の食べ物、生命力あふれる食べ物をしっかりと食べたいものだ。 自然養鶏を始めて25年。いのちを育む百姓として、人間として(わっ、はずかしい!)いい玉子を作りたいと思い続けてきたが、なんだかその努力が報われたようでうれしかった。 P・S ★ 自然養鶏の玉子を食べてみたい方はご連絡ください。当然のことながら数にかぎりがありますので、お受けできないこともありますが、その時は不運と思い、あきらめて下さい。 ...もっと詳しく |
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「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」は、だいたい10日から2週間に一回のペースで更新していきます。下の話は「番外編」です。
朝、まだ眼が覚めぬが眠っているともいえない「まどろみ」の時間に、夢とうつつが重なり合って、思わぬ方向に発想がふくらんでいくことがある。
ある日、まだフトンの中でトロトロしている時、「20才の頃の私」と「桃太郎」と、それに「一寸ぼうし」がつながった。
以下、その話を紹介するが、多少の飛躍や、突然の転換には眼をつぶっていただきたい。なにしろ、まどろみの世界でのことなのだから。
20才の私はどういうわけか生き方を求めていた。自分らしい生き方をさがしていた。
人生の岐路に立った時は、たいていの場合、自分がそれまでにたどってきた道を振り返り、どこかにヒントがないかを捜そうとする。当時の私に最も大きな影響を与えていたのは高校時代の三年間のはずだった。しかし、思い出すのは三角関数や英単語だけとはいわないが、頭の中をさぐっても、出てくるのは生き方とはあまり関係のない、あれやこれやの雑多な(と思える)知識がほとんどだった。
そこでようやく私は、「いかに生きるか」を全く考えることなく20才になってきたという、それまでの人生の浅薄さに気付いた。
やがて、どうも、その浅薄さは私だけのものではなく、おそらく程度の差こそあれ、同時代人にかなり共通しているもの、あるいは大部分の日本人にさえ言えることなのではないかと思うに至った。
何故かといえば、その根っこは、だれもが幼児の頃からくり返しくり返し聞かされてきた「桃太郎」と「一寸ぼうし」の中にあるのではないかと思ったからだ。
まずは「桃太郎」。最大の問題は話の終わりかたにある。荷車いっぱいの戦利品、お宝を満載して桃太郎は村に帰ってくる。桃太郎は「お金持ち」となった。そして・・。話はそれで終わりだ。手に入れたお金で川に橋を架けたり、学校を造ったり・・・そんな話はまったくない。
「一寸ぼうし」。彼も鬼退治をして、助けたお姫様と結婚し、やがて「エライお役人様」となった。そして・・、この話もそれから先がない。話はそれで終わっている。
手に入れたお金を使って何をしたのか、あるいは「エライお役人様」になって何をしたのかは全く語られてない。つまり、何かお金を得ること、あるいはエライお役人になることが目的であるかのように描かれているのだ。 こんなお話を、小さい時から、くり返し聞かされてきた結果、「お金」や「出世」が人生の目的であり、その成否もそこにある、と考えるようになってしまったとしてもおかしくはあるまい。
私の感じた「浅薄さ」と桃太郎たちをつなぐものは「生き方」、哲学の不在である。
まどろみながら、論理の飛躍を楽しみつつたどりついた結論は次のようなことだった。
私達は、「桃太郎」と「一寸ぼうし」に変わる「新しい童話」を子どもたちに語り聞かせなければならない。それは俺たち自身の物語だ。あっちでぶつかり、こっちで泣いた、けっしてカッコイイ話じゃないけれど、自分がたどってきた中から得た「生き方」を子どもたちに。
これが、まどろみの中の結論だった。どうだろうか、ご同輩。
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