ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜養鶏版〜」
内緒だぞ。 実はおれな、前に言ったかもも知れないけど、密かに品格ある男になることを目指しているんだよ。笑うなよ。大真面目なんだからよ。 どっかで聞いた話だって?そうかもしれん。 でな、他方で百姓として「農と土の大切さ」を語り、訴えてまわりたいとも考えているんだ。子どもたちや非農家の人たちに。合わせて言えば「品格ある百姓講談師」だ。 実はこのことは今は亡き作家の井上ひさしさんから勧めらていたことなんだ。 「菅野くん、農民講談師になってみないか。」 で、品格だけどさ。これは難しいよな。 もともとそんなものの持ち合わせがない上に、 例えば沖縄と向き合ううえで求められる品格とは何か? 原発と向き合ううえでは?肝心の土と農業ではどうだ? かなりの自問自答が求められるよ。 その上、 生きる品格を大事にすると言うことは、問われている課題と逃げずに正面から向き合うこと。戦うことを厭わないこと。そう思うんだ。 それを避けていたのでは品格が守れないだけでなく、人々が共通に生きていく場すら守れない。それが現在の状況だろうか。 そんな中に「百姓講談師」の世界を求めていく。 おい!お前、百姓として今まで何を経験してきたんだよ・・もっと自信を持て!と自分のケツを蹴り上げながら・・・な。 大丈夫かな、俺。 |
我が家の前には800haの田んぼが広がっており、後ろには朝日連邦の雄大な山並みが連なっている。静かな山あいの村だ。
唐突ですが、私はその広い田んぼを前に立小便をするのが好きだ。家の中で尿意を感じても、わざわざ外に出ていくことも決して稀ではない。用をたしながら広大な緑の風景を見わたす。雄大に横たわる朝日連峰を眺める。田んぼを渡る7月の風は緑の波をつくって流れ、薄くなった男の髪を優しくなでで行く。心地いいことこの上ない。山や畑、野原など気持ちのいい所はたくさんあるけれど、やっぱり広い田んぼが一番。おそらくこれに匹敵する快適さを他に求めても決して得ることはできないだろう。 かつて娘が小学生のころ、「お父さん、家の外でおしっこしないでね。」と言われたことがあった。先生から「西根は遅れている。まだ屋外で小便している人がいる。」と言われたのだそうだ。「お父さんのことだと思って恥ずかしかったよ。」と娘。西根というのは子どもの通う学区で長井市のなかでも農村部だ。もちろん誇りある俺たちの村。そばにいた妻も「そうだよ、お父さん、あれはみっともないよ」という。 えっ?オレのおしっこ、誰かに迷惑をかけたか?ここは都会のアスファルトの上じゃない。おしっこは匂いを出す間もなく瞬時に土に吸い込まれ、草や作物に活かされていく。タヌキやカモシカや野兎などと一緒だ。田んぼの畔に放った私のモノも彼らの小便と同じように自然の一部となって大地をめぐる壮大な循環の中に合流していくのだ。ただそれだけのこと。 お前達だって立ち小便すればいい。オレが子どものころには、近所のばあちゃん達もみんなやっていたことだ。女たちの立ち小便は子どもの俺達から見たってなんの違和感もなかったよ。人が通る道端でさえよく見る普通の光景だった。ばあちゃんたちは、おしっこをしながら、道行く人とおしゃべりだってしていた。そのすぐそばを子どもたちが通ろうが、男たちが通ろうがなんの動揺もなかったはずだ。堂々としていたから。我が家に立ち寄ったついでに畑でおしっこしたばあちゃんが大らかに笑いながら、「お茶代金はここに置いたからな。」と言ったっけ。お礼に肥料分を置いていくということだ。 あのな、この際だから言わせてもらうけど、お前達の自覚の無さゆえ、あるいは都会の文化に見境なく迎合した浅はかさゆえ、この女たちの「腰巻」が育んできた貴重な文化が無くなろうとしている。はるか縄文の大昔から、ついこの間まで、母から娘に、娘から孫へと、ずうーっと受け継がれて来た文化だ。放尿の際の腰の曲げ方、尻の突き出し方、両足の広げぐあい、隠し方など、それらの所作の一つひとつが文化のはずだ。その歴史的文化が、まさにいま、ここで潰えようとしている。いまやそれを知る人は80代以上の女性、それもほとんど田舎の女性のみとなってしまっているではないか。やがて彼女らがいなくなったら、知っている人は日本列島から完全に消えはててしまうだろう。もし誰かがそれを復活させようと思っても、手立てが無くなってしまうのだぞ。これから先、どのようにその文化を伝承していけばいいのか。消えゆく女の立ち小便は、文化人類学上の深刻な課題のはずだ。 オレは男だからしょうがないけれど、お前達のなかに、我こそは・・・という志をもった女はいないのか!その復権を!という人はいないのか! 話の途中から、妻娘はいなくなっていた。 実際、事態はますます悪化の一途をたどる。女から立ち小便を取り上げた同じ「文化」は男の小便も小さな閉塞した空間に閉じ込めることに成功し、その上、さらに掃除が簡単だからと、男から立小便の便所そのものを取り上げ、男女の区別なく「考える人」ポーズで用を足せるように仕向けて来た。如何に住宅事情からとは言えそれでいいのかと考え込んでしまう。男たちよ!野生を取り戻そう。野山や田畑でのびのびと小便しよう!さすがにまだ、女たちよ!とは言えないけれど。 大正大学出版会 月間「地域人」所収 拙文 |
昨日、数人の友人たちと腹が減ったので、目の前にある回転ずしに入った。そしたら寿司ではなくウナギの丼が回っていた。680円。みんなでそれをとった。どんぶりの中に小さなウナギが上がっていた。
うなぎ・・やっぱり同じ話を思い出す。 世界のウナギの70%を日本人が消費しているという。その陰で、古来生息してきた日本のウナギが絶滅危惧種になりつつある。 でも国民の多くはこのことにはあまり関心がない。 スーパーには食料品があふれている。多くは外国産。その陰で日本の家族農家が絶滅危惧種になりつつある。 国民はこれにもあまり関心がない。今日のウナギが食えればそれでいい。コメが食えればそれでいい。おもしろい国だよ、日本は。 |
妻がこんなことを言っていた。
「ここのところのFBにあなたが泣いた話が多いけど、読んでいる方はよく泣く男だと思うかもしれないね。めったに涙を流す人じゃないけどね。」 妻が言うように今までの人生で3回かな。1回は25歳の頃、百姓になると決めた沖縄で。2回目は今回のFBにも書いた27歳の頃、減反拒否の加藤登紀子コンサートの場で。3回目はこれも「異変」という題で書いたけど、67歳。リハビリの中で「15-7=」が分かった時。 いずれもどう生きるかの「生き方」がかかわっているときだ。人生で3回は多いか少ないか分からないけどね。 |
誰にでも思い出深い歌がある。私にとっては加藤登紀子さんが歌う「生きてりゃいいさ」。それにはこんな経緯があった。他人の思い出など知りたくもないよと言う方もおいででしょうが、ま、いいじゃないですか。
コメの「減反政策」(「第二次生産調整」)が始まったのは1977年のことで、私はまだ26歳。前の年に父の後を継いで百姓になったばかりだった。 農水省の示した減反計画は40万ヘクタール。この面積は当時の全九州の水田面積に匹敵する。この大変な規模のコメを一挙に減らし、飼料作物や大豆などへの転作を促進しようとした。減反すれば補助金を出すが、しなかったなら罰則を科すと言う。この政策は、当時、誇りをもって土を耕していた若い後継者(たち)の自尊心を大いに傷つけた。 政策の背景には、食管制度の廃止とコメへの市場経済の導入、あわせてアメリカ小麦への市場提供を意図する狙いもあったに違いない。今から振り返えれば、この政策は戦後農政の大きな転換点だった。 その後、食管制度が廃止。小麦のみならずコメの大量輸入も行われ、米価は生産原価を切る価格まで値を下げた。農家はやる気を失い、後継者は農外に就職し、農家の高齢化が進んだ。自給率も落ち込み、日本は国民の食糧の多くを海外の田畑に依存するようになった。こうなる前にこの国をどう作っていくのか、もっともっと丁寧な国民的議論が必要だった。日本はいつもそうなのだが、なぜもっと事態を丁寧に説明し、時間をかけた議論ができなかったのかと悔しく思う。 さて、当然のことのように私は「減反」を拒否した。事は国の政策への異議申し立てなのだが、現実には推進する立場の農家と、反対する農家との対立となる。昨日までともに農業を良くしたいと協力してきた仲間だった。多くの農家は矛を収めた。私は村で孤立した。 妻のお腹には新しい生命が宿っていた。この子(たち)のためならば頑張れる。しかし、子どもは産声を上げることはなかった。俺はもうだめかもしれない・・・。 そんなある日、宮城県南郷町の若手の百姓達から「加藤登紀子コンサート」への招待状が届いた。私の孤立を知ってのことだと言う。その気持ちがありがたく、友人と一緒に出かけた。 川島英五作詞・作曲 (1)♪君が悲しみに心を閉ざしたとき、思い出してほしい歌がある 人を信じれず、眠れない夜にはきっと思い出してほしい 生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ、 そうさ、生きてりゃいいのさ 喜びも悲しみも立ち止まりはしない めぐりめぐっていくのさ 手のひらを合わせよう、ほらぬくもりが君の胸に届くだろう (2)♪一文無しで街をうろついて、野良犬と呼ばれた若い日も 心の中は夢で埋まってた。やけどするくらい熱い思いと 生きてりゃいいさ、生きてりゃいいさ そうさ、生きてりゃいいのさ 喜びも悲しみも立ち止まりはしない めぐりめぐっていくのさ 手のひらを合わせよう、ほらぬくもりが君の胸に届くだろう・・ 途中から肩が震えて止まらない。熱いものがどんどん込みあげてくる。涙が堰を切ったようにあふれだし、滴り落ちる。嗚咽が止まらない。 生き方を探して煩悶していた青春の日々。農民として生きることを決めたこと。両親とともに農業を始め、建設現場で働いた日々。減反拒否、そして子どもの死・・。様々なことが走馬灯のように頭を駆け巡っていた。「菅野さん、大丈夫ですか?」 俺が普通でないことを見た南郷の友人がそばに寄ってきたが、それ以上声をかけずに戻って行った。 それから約30年後の2008年。千葉県の鴨川にある加藤紀子さんたちが主催する「自然王国」で話をする機会をいただいた。楽屋では加藤さんと二人だけ。思い切ってあの時のことを話した。するとギターを持ってそっと歌いだした。 「君が悲しみに心を閉ざしたとき・・・」 あの歌だ。再び涙があふれてきた。 この歌は今も私を支えている。 月間「地域人」35号(大正大学出版会発行・2018・7月) 所収 拙文 |
まだ眼が覚めぬが眠っているともいえない「まどろみ」の時、夢とうつつが重なり合って思わぬ方向に発想がふくらんでいくことがある。
ある日のフトンの中、「20才の頃の私」と「桃太郎」と、「一寸ぼうし」が突然つながった。 以下、その話を紹介するが、多少の飛躍や、突然の転換には眼をつぶっていただきたい。なにしろ、半分寝ぼけている中の出来事なのだから。 20才の私はどういうわけか生き方を求めていた。自分らしい生き方をさがしていた。 人生の岐路に立った時は、たいていの場合、自分がそれまでにたどってきた道を振り返り、どこかに何かヒントがないかを捜そうとする。当時の私に最も大きな影響を与えていたのは高校時代の三年間のはずだった。しかし、思い出すのは三角関数や英単語だけとはいわないが、頭の中をさぐっても、出てくるのは生き方とはあまり関係のない、あれやこれやの雑多な知識がほとんどだった。 ようやく私はそこで「いかに生きるか」を全く考えることなく、また学ぶこともなく20才になってきたという、それまでの人生の浅薄さに気付いた。 やがて、どうもその浅薄さは私だけのものではなく、おそらく程度の差こそあれ、同時代人にかなり共通しているもの、あるいは大部分の日本人にさえ言えることなのではないかと思うに到った。 何故かといえば、その根っこは、だれもが幼児の頃からくり返し、くり返し聞かされてきた「桃太郎」と「一寸ぼうし」の中にあるのではないかと思えたからだ。 まずは「桃太郎」。自分のものではないお宝を戦利品として自宅に持ち帰るのはいかがなものかとも思うが、問題は話の終わりかたにある。荷車いっぱいにそのお宝を満載して桃太郎は村に帰って来た。桃太郎は「お金持ち」になった。そして・・。話はそこで終わっている。手に入れたお金で川に橋を架けたり、学校を造ったり、貧しく苦しむ人たちに・・・そんな話はまったくない。 そして「一寸ぼうし」。彼も鬼退治をして、助けたお姫様と結婚し、やがて「エライお役人様」となった。そして・・、この話もそれから先がない。話はここで終わっている。 手に入れたお宝を使って何をしたのか、あるいは「エライお役人様」になって何をしたのかは全く語られてない。つまり、何かお金を得ること、あるいはエライお役人になることが終着点であるかのように描かれているのだ。こんなお話を、小さい時から、くり返し聞かされてきた結果、「お金」や「出世」が人生の目的であり、その成功、不成功もそこにある、と考えるようになってしまったとしてもおかしくはあるまい。 「一寸法師、桃太郎症候群」。志を失った高級官僚から「オレオレ詐欺」の若者まで、幅広くこの類に入る。その正体は「生き方」、哲学の不在。 そして・・、まどろみながら、論理の飛躍を楽しみつつたどりついた結論は次のようなことだった。私たちは「桃太郎」と「一寸ぼうし」に変わる「新しい童話」を子どもたちに語り聞かせなければならない。それは俺たち自身の物語だ。あっちでぶつかり、こっちで泣いた、けっしてカッコイイ話じゃないけれど、自分がたどってきた中から得た「生き方」を子どもたちに。じいちゃん、ばぁちゃん、母ちゃん、父ちゃんの話、近所のおじさん、おばちゃんの話でもいい。子どもたちはそれらを聞きながら、これから歩む自分の人生を考えるだろう。夢中で生きて来たけれど、振り返ってみれば泣き笑いの連続だった。子どもたちに伝える材料には事欠かない。 これが、まどろみの中の結論だった。 どうだろうか、ご同輩。 月間「地域人」34号(大正大学出版会)・拙文 |
またまた狐がやって来た。
ニワトリが一挙に80羽ほどやられた。80羽! 犯人は狐。 今年は雪が多い。 除雪を重ねながらも、踏み固めた硬い雪の層は、鶏舎のけっこう上の方まで来ていた。 そこを足場に金網を引きちぎって侵入したのは本来ならば狐が如何にジャンプしても決して届かない高いところ。そもそもそんなところからの侵入は例年ならば不可能だ。 だから金網はそれほど頑丈なものは使っていなかった。 彼らはそれを見逃さなかった。 周囲の足跡を見ると集団で来たのかもしれない。 朝、行ってみたらたくさんの足跡と、ニワトリたちの死骸が転がっていた。 食べられたのならば納得もできるが、ただ殺していっただけだ。 ひどい奴らだ。 食べる以上の無意味なさ殺戮はしない。 これは自然界の摂理だ。狐はそれに反している。必ずやっつけてやる。そう心に誓うのだった。 |
毎日が零下の世界。 昨日もマイナス10度まで測れる寒暖計が振り切れていたから、 いったい何度まで下がったのだろうか。 吐いた息さえもすぐに凍ってしまいかねない世界だ。 この時期になるといつも思い出すのは彼女のこと。そう、雪女。 さみしげで薄幸せそうな彼女の面影。 実際、彼女が幸せになったと言う話は聞いたことはないが、どこか惹かれるところがあり、毎年誰かがその魅力に抗いがたく、凍った状態で発見されているということだ。 でも一様にみな幸せそうな表情で、後悔している様子が全く感じられないという。 今年も「雪女の誘いに乗ってはいけない」との隣組の回覧板が回ったけれど、どれだけ効き目があるだろうか。 気を付けなければならないな。 |
毎日が零下の世界。 昨日もマイナス10度まで測れる寒暖計が振り切れていたから、 いったい何度まで下がったのだろうか。 吐いた息さえもすぐに凍ってしまいかねない世界だ。 この時期になるといつも思い出すのは彼女のこと。そう、雪女。 さみしげで薄幸せそうな彼女の面影。 実際、彼女が幸せになったと言う話は聞いたことはないが、どこか惹かれるところがあり、毎年誰かがその魅力に抗いがたく、凍った状態で発見されているということだ。 でも一様にみな幸せそうな表情で、後悔している様子が全く感じられないという。 今年も「雪女の誘いに乗ってはいけない」との隣組の回覧板が回ったけれど、どれだけ効き目があるだろうか。 気を付けなければならないな。 |
菅野芳秀です。
ご心配をおかけしています。 今は、時々拙宅を訪れてくれる学生たちや友人たちと話をしたり、途絶えていた連載コラムを再開したり、お米や玉子の「通信」を書いたり・・・と、けっこう暇なく暮らしています。 大きなアクシデントに襲われながらも後遺症らしい後遺症はほとんどなく、このような形で暮らしを再開できたことをありがたく思っています。周囲の病気に詳しい仲間たちは「奇跡に近い」と言ってくれています。たまたま近くに神様がいたのかも知れません。偶然、通りかかったのかもしれませんね。幸運でした。 私はしょっぱい物が大好きで、お酒も好きで、毎晩のように、なんだかんだと言っては飲んでました。こんな私でもけっこうストレスがありまして、お酒はいい友達でした。楽しい酒飲みでしたが、やっぱり、飲み過ぎは行けません。 また、振り返ってみればあまりにも忙しすぎました。農作業は息子が主に頑張っていましたからそれ以外の・・・と言ってもけっこうな仕事量でした。課題から課題に目いっぱい取り組んでいました。まるで病気にしてくれと言わんばかりの暮らしをしていたと思います。へとへとでした。 今回のアクシデントではそんな暮らし方への警告を戴いたと思っています。暮らし方を変えろという。 68歳の今までの生き方には後悔はありませんし、自分を誇りにも思ってもいます。変えるべきは歩む歩幅、早さですね。改めてそれらを再考するいい機会を戴いたと思っています。もう若くはないし、ギアチェンジが必要だと言うことでしょう。 多くの友人諸氏からたくさんのエールをいただきました。やっぱり「気持ちの力」、「仲間の力」って大きいですね。歩みを整える上での大きな励みになっています。とても感謝しています。この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。 さあ!そろそろですよ。ならし運転に入ります。 2017年11月 ...もっと詳しく |
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唐突ですが、私はその広い田んぼを前に立小便をするのが好きだ。家の中で尿意を感じても、わざわざ外に出ていくことも決して稀ではない。用をたしながら広大な緑の風景を見わたす。雄大に横たわる朝日連峰を眺める。田んぼを渡る7月の風は緑の波をつくって流れ、薄くなった男の髪を優しくなでで行く。心地いいことこの上ない。山や畑、野原など気持ちのいい所はたくさんあるけれど、やっぱり広い田んぼが一番。おそらくこれに匹敵する快適さを他に求めても決して得ることはできないだろう。
かつて娘が小学生のころ、「お父さん、家の外でおしっこしないでね。」と言われたことがあった。先生から「西根は遅れている。まだ屋外で小便している人がいる。」と言われたのだそうだ。「お父さんのことだと思って恥ずかしかったよ。」と娘。西根というのは子どもの通う学区で長井市のなかでも農村部だ。もちろん誇りある俺たちの村。そばにいた妻も「そうだよ、お父さん、あれはみっともないよ」という。
えっ?オレのおしっこ、誰かに迷惑をかけたか?ここは都会のアスファルトの上じゃない。おしっこは匂いを出す間もなく瞬時に土に吸い込まれ、草や作物に活かされていく。タヌキやカモシカや野兎などと一緒だ。田んぼの畔に放った私のモノも彼らの小便と同じように自然の一部となって大地をめぐる壮大な循環の中に合流していくのだ。ただそれだけのこと。
お前達だって立ち小便すればいい。オレが子どものころには、近所のばあちゃん達もみんなやっていたことだ。女たちの立ち小便は子どもの俺達から見たってなんの違和感もなかったよ。人が通る道端でさえよく見る普通の光景だった。ばあちゃんたちは、おしっこをしながら、道行く人とおしゃべりだってしていた。そのすぐそばを子どもたちが通ろうが、男たちが通ろうがなんの動揺もなかったはずだ。堂々としていたから。我が家に立ち寄ったついでに畑でおしっこしたばあちゃんが大らかに笑いながら、「お茶代金はここに置いたからな。」と言ったっけ。お礼に肥料分を置いていくということだ。
あのな、この際だから言わせてもらうけど、お前達の自覚の無さゆえ、あるいは都会の文化に見境なく迎合した浅はかさゆえ、この女たちの「腰巻」が育んできた貴重な文化が無くなろうとしている。はるか縄文の大昔から、ついこの間まで、母から娘に、娘から孫へと、ずうーっと受け継がれて来た文化だ。放尿の際の腰の曲げ方、尻の突き出し方、両足の広げぐあい、隠し方など、それらの所作の一つひとつが文化のはずだ。その歴史的文化が、まさにいま、ここで潰えようとしている。いまやそれを知る人は80代以上の女性、それもほとんど田舎の女性のみとなってしまっているではないか。やがて彼女らがいなくなったら、知っている人は日本列島から完全に消えはててしまうだろう。もし誰かがそれを復活させようと思っても、手立てが無くなってしまうのだぞ。これから先、どのようにその文化を伝承していけばいいのか。消えゆく女の立ち小便は、文化人類学上の深刻な課題のはずだ。 オレは男だからしょうがないけれど、お前達のなかに、我こそは・・・という志をもった女はいないのか!その復権を!という人はいないのか!
話の途中から、妻娘はいなくなっていた。
実際、事態はますます悪化の一途をたどる。女から立ち小便を取り上げた同じ「文化」は男の小便も小さな閉塞した空間に閉じ込めることに成功し、その上、さらに掃除が簡単だからと、男から立小便の便所そのものを取り上げ、男女の区別なく「考える人」ポーズで用を足せるように仕向けて来た。如何に住宅事情からとは言えそれでいいのかと考え込んでしまう。男たちよ!野生を取り戻そう。野山や田畑でのびのびと小便しよう!さすがにまだ、女たちよ!とは言えないけれど。