ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜養鶏版〜」 
 12月に入り、風景はもう雪景色だ。
でもまだ白菜、大根の取入れが終わってない。負け惜しみで言えば、雪にあてたほうが甘くなり、旨味も増す。だけど我が家の場合、単純に仕事が遅れているだけ。
 雪にあてたほうが・・といえば、リンゴなどの果物も一緒だ。我が家の庭先のリンゴも雪をかぶったままぶら下がっている。これは仕事の遅れとは関係なく、あくまで風味、美味さをねらってのことで意図的だ。
 同じように、風雪の日々が人間を育てるとは言うけれど、かと言って俺が雪をかぶって、ぶら下がる訳にもいかない。あくまで雪をかぶるのはリンゴ。我が家においでなら、あなたにもおすそ分けしましょう。そろそろもぎ時だ。
山形県朝日町で蜜ろうそくの制作を通して、自然のすばらしさを伝えている安藤竜二さんによるコラムです。
 西日本新聞社の佐藤ひろしさんから戴いた文です。
「蜂蜜の森を通して私たちが暮らす環境を見つめなおしてみませんか?」と呼び掛けています。
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あいかわらず、全国の里地で飼育する養峰家たち
が農薬被害で苦しんでいます。
以前の殺虫斉Jは虫にかけて殺すしくみだつたの
で、散布とともにミツバチが大量に死んだのでわかり
やすかったのです。しかし、現在の農薬の7割を占め
ているといわれるネオニコチノイド系の農薬は違いま
す。そのような被害ももちろんありますが、浸透性・残
効性が強くなったため、その農産物に花が咲けば、
蜜や花粉にも微量の農薬が出てしまいます。たとえ
成虫が死なない微量であつてt)、小さな体の次世代
の幼虫たちに影響が出て次第にハチたちが減つて
しまうのです。
実際近頃も、愛媛県のミカンのハチミツから国が決
める残留基準値越えの農薬が検出され回収する騒
ぎが起きました。人が食べてはいけない濃度の農薬
がハチミツに入つていたのです。ハチがどうなつたか
が気になります。
稲に花が咲く前に行われる田んぼの空中散布も被害は大きいです。稲は蜜を出しませんが花粉は大切な
幼虫のエサなのです。
また、この農薬は神経毒のためミツバチの脳に影響
し、帰ってこれなくなるともいわれています。
ハチだけでなく、私の自宅の周りでは、カブトムシやク
ワガタムシ、アゲハチョウ、カマキリなど、昔人気だった
昆虫たちをほとんど見かけなくなりました。私の大好きな
イナゴもいません。スズメも激減しましたc影響は広がっ
ているのではないでしょうかc
怖いのは、この農薬は私たちの脳にも作用していると
危惧されていることです。人の未来をミツバチや小さな
生き物たちが見せてくれているように思えてなりませんc



安藤竜 (あんどう りゅうじ)
1964年生まれ.養蜂を学んだ後1988年
に、日本ではじめての蜜ロウソク製造
に着手.ハチ蜜の森キャンドル代表。
日本エコミュージアム研会fT事。山形
県養蜂協会監事.編著『朝日岳山麓養
蜂の営み』(朝日町エコミュージアノ、
研究会発行)
10月31日から11月3日まで、長井市民4人で福岡県大木町、みやま市に行ってきました。
大木町で開かれたシンポジュームで、長井での地域づくりの経験をお話しするように求められたからですが、両市町とも資源循環型社会づくりでは日本のトップランナー。私たちの方が学ぶことの多い集会でした。
...もっと詳しく
日本の農産物への農薬残留基準はEUに比べておよそ100倍ゆるい。そして日本は農薬使用量では中国を抜いてダントツで世界一。そう、日本は世界NO 1の「農薬大国」だ。
今は新米の季節。村の集荷場では盛んにコメの検査が行われている。
たまに琥珀色の玄米の中にポツポツと黒いコメが混じることがある。カメムシの食痕だ。それが1,000粒の中に0から2粒以内ならば一等米。3〜5粒ならば2等米。6粒以上ならば3等米というように格付けされ、価格差が付けられていく。ただでさえ安いコメ価格。2等米、3等米になったなら眼もあてられない。作っている面積にもよるが数十万円の差はすぐについてしまう。だから農家は丹念に農薬散布をせざるを得ない。
 米屋さんやスーパーなどでは「一等米」も「2等米」もない。ただ品種や産地が書いてあるだけだ。実際、カメムシの食痕は農協や卸の精米の段階できれいに取っているので消費者の台所までは決して行かない。よしんば1000粒の中に3〜4粒の斑点米があったとて、味になんの変わりがあろう。
 水田への農薬多投の背景にあるのは国が作ったこの検査システム。生産現場ではわずかな斑点を取ろうとして、トンボを激減させ、農家はそれを吸い込み、全身に農薬を浴びる。農家もトンボも苦しい。
そこに「遺伝子組み換え」、「ゲノム編集」、放射能汚染食品の数々。
ニッポン!お前はいったい何を大切にしているんだ。国民の命ではないのか!人々の暮らす風土ではないのか!
(月間「地域人」50号に詳しく書いています。)
 たった今、7年越しで書いて来た「タスキ渡しの思想ー七転八倒百姓記」(仮題)がようやく脱稿した。
農作業やあれやこれやの取り組みに忙殺され、その上、病気になったり・・と、何度か中断したが、ようやく岸辺に辿り着いた。
なぜ百姓になったか。その後、何と闘い、どう生きて来たかなど、下手な文章で綴っている。
 いまどき本など・・それも、どこの誰かも分からない百姓が書いた本なんか読んでくれる人がいるか・・どうかは全く分からないが、書いてみた。
出版されたわけではないので、決してあなたが負担に思う必要はありません。ただ、終わったことがうれしくて・・・。
 たった今、7年越しで書いて来た「タスキ渡しの思想ー七転八倒百姓記」(仮題)がようやく脱稿した。
農作業やあれやこれやの取り組みに忙殺され、その上、病気になったり・・と、何度か中断したが、ようやく岸辺に辿り着いた。
なぜ百姓になったか。その後、何と闘い、どう生きて来たかなど、下手な文章で綴っている。
 いまどき本など・・それも、どこの誰かも分からない百姓が書いた本なんか読んでくれる人がいるか・・どうかは全く分からないが、書いてみた。
出版されたわけではないので、決してあなたが負担に思う必要はありません。ただ、終わったことがうれしくて・・・。

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この夏休み、学生たちと話し合う機会があった。
その時気付いたのだが、学生たちは男も女も自分のことを「自分」という。「自分は・・」、「自分の・・」、中には「私」という人もいるにはいたが意外なほど少なかった。
この一人称の呼び方は、歴史をたどればけっこう古い時代まで遡るのだろうが、団塊世代のオジサンとしては、かつて帝国陸軍がそのように使っていたことを思い起こし、世の右傾化とも相まって、心穏やかに受け止めることができなかった。
その時代はまさに「自分」が無い時代だった。その反省から我々は新しく歩み始めたのだが、再び、いつから、どうして、かくも広く若い世代が使う様になったのか?考えさせられる。
菅野農園のニワトリたちは「庭鳥」として、ゲージではなく大地の上で暮らしています。週に2〜3回は外に出ます。草を食んだり、土を突っついたりと気ままに過ごしています。
 できる方は、自分で飼ってみることを勧めます。家族一人あたり一羽でいいでしょう。余ったらお付き合いに活用できます。
 な〜に簡単ですよ。まず農文協の「自然卵養鶏法」(中島正著)をお読みください。次に創森社の「土と玉子といのちと」(菅野芳秀著)を。ここも肝心ですぞ。
 生ごみや周囲の草など、さらには蕎麦屋のかつおだし、パン屋のミミなどいろんなものがニワトリたちの餌になります。
 鶏舎は日曜大工で十分。一日で建ってしまいます。広さは十羽で一坪ぐらいかな。おいしい玉子ができること請け合いです。
 なによりも暮らしが楽しくなりますよ。 分からないことは菅野農園にお尋ねください。く
F・B上に、見つけ残しのキュウリのことが出ていた。
大きくなりすぎて、食べられないという。皆さん、知らないんだなぁ。止めておけばいいのにお節介の癖が出て以下のコメントを打つ。皆さんも知らなかったならぜひ試してみて下さい。うまいよぉぉ!


「とんでもない。山形ではわざわざ大きくして食べたりしますよ。これがまたおいしい!まずキュウリの皮をむく。スプーンか何かで中の種を取り、これは捨てる。次に食べられる大きさに切る。そうですねぇ。3cm×5cmぐらいかな。次は油で炒める。そして煮る。トロトロとやわらかくなるまで煮ます。味付けはサバ缶、または豚コマ、ひき肉あるいはシーチキンでもうまいですよ。そこに旨味調味料、醤油を少し加え、最後に薄く片栗粉でトロトロ感をだして終わり。ぜひ、食べてみて下さい。わざわざ大きくして食べたくなる訳が分かりますぞ。どなたか、このようにやってみた方はぜひ私にその結果を教えてください。」
 志を生きようとする人にはそれにふさわしい体形があるものだ。
それがその人の説得力や求心力を構成する場合もある。言葉でいくら説いても本人の体系がそのことを嗤っているようでは話にならない。

 私は190cmで103kg。体重が多いのがかねてからの課題だった。
何とか減らし、説得力ある身体を獲得したいというのがここ数十年の課題だ。
決意は幾度かした。その為の努力もした。本も読んだ。知識もある。
「志と体型の乖離を埋めなければならない。だから・・」と周囲にもそう宣言し、後戻りできない環境作りも行った。
だけど成果はいつも2〜3kg減。外見が痩せて見えるほどのこともなく終わる。そして・・、2〜3ヶ月でもとに戻ってしまうのだ。

 ある時、断食に詳しい友人がいて、話の成り行き上、私もやってみることにした。背景には我が家で飼っているニワトリたちがいた。彼らは玉子を産み始めてから1年後に「断食」する。養鶏法の一つなのだが、驚くことに、断食の後、彼らの羽が全て生え変わり、外見上も、産む玉子も若鶏のようになっていくのだ。

 かねてより、そのためとはいえ、ニワトリ達に断食を強いて来た身としては、当然のことながらその辛さを一度体験しなければなるまいと考えていた。その副産物として私の頭髪が生え変わり、身体もスリムになって行ければいい。

 で、やったのですよ。それもニワトリ達と同じく2週間。彼らと違うのは 一日に必要なビタミン、ミネラルを錠剤でとり、プロテイン(タンパク)を牛乳瓶1・5本分ほどの水に溶かして飲むというところ。三度の食事はそれだけで、あとは水かお茶。それ以外は一切の食べ物、飲み物を口にせず、カロリーを遮断する。
 これがどこかの「断食道場」でのことならばよくある話だ。でも食べ物に囲まれた我が家で、それも鶏の仕事をしながらというのは果たしてできるだろうか。こんな不安もあったが、やれたのですねぇ。

 ま、ここからの顛末を聞いてください。やがて何かの参考に・・なるわけないか。
さて、絶食してからの3、4日間が一番つらかった。そのつらさが、日を負うごとにどんどん増していくのだろうと思っていたら、そうではなく、その空腹感がずーっと続くだけ。これはちょっとした発見だった。当然のことながら、頭から食べ物が離れない。コンビニにも行った。アンパンが目に付く。もしそこで食べたって誰も怪しまない。でも自分が見ている。そこは譲れない。

 5日目ぐらいになると少し感じが変わってくる。たぶん、空腹に慣れ、余裕のようなものができてくからだろう。家族の食卓のすぐそばにいても、ゆっくりと新聞が読めるようになった。おもしろいのは、自分の身体の主人公は自分だ、自分の意志だという満足感が生まれてきたことだ。今までなら、もう食べないと思っても、身体の方が言うことを聞かない。欲望に振り回されていた。ところがこの頃になると、自分の意志が食欲を完全にコントロールしているという充実感、何かすがすがしい自信のようなものが生まれてきた。これは新鮮な体験だった。

 さらに進むと「俺はこのまま食欲を封じ込めたまま、死ぬことだってできる。」こんな自信すら生まれて来た。
そして2週間。父親からは「戦争から帰って来た息子に家族がそれ喰え、やれ喰え・・で死なしてしまった話があったから、とにかくお粥から少しずつだよ」との助言を得ていた。最初に口にしたのは少しのお酒と味噌汁。翌日はバナナ。酒はとても甘く、みそ汁は逆に塩辛く感じた。農閑期の冬だったが、それでも雪下ろしや、ニワトリ達へのエサやりはいつもどおりにできた。少し動作がゆっくりだったり、時にはふらつきもしたけどね。

減った体重は10kg。体脂肪率も10%ほど落ちた。

病院で腎臓、肝臓、コレステロールなどの数値がどう変わったかを調べてみたら、全てにわたって改善されていて、医者は「驚きですねぇ。何かありましたか?」と。なるほど、これがニワトリにとっての断食効果か。私もなんとなく若返ったような気がしないでもない。

 でも、頭髪は薄いまま。彼らのように若毛が生えてきたりはしなかった。
それに肝心の体重はね、半年ほどで元に戻ってしまったよ。

  大正大学出版会「月間地域人」より 拙文
7月31日から8月6日まで前半、後半とに分かれて60名の大正大学人間環境学部の長井・地域実習が続いている。私は学生たちと行程を共にしながら、「生き方」を求めて煩悶していた私自身の若かりし頃を思い起こしている。


「どう生きるか?これはどんな職業に就くかではなく、どこで暮らすかでもない。求めていたのは、人生の生き方だった。
それには背景がある。私は幼い頃よりずっと、農民となって農家を継ぐよう教えられてきた。やがて成長するに従い、その世界を出たいと思う様になって行く。田舎から出ることで人生の可能性が拓ける。ここに留まることはあきらめの人生。そう思うようになっていた。どう生きるかの煩悶を引きづりながら、25歳になった私は沖縄にいた。
そこでようやくその答えを得る。そのころ書いた文章がある。少し硬いが掲載したい。


「1976年、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。小さな漁業と小さな農業しかない村。そこに突然持ち上がった計画は、「本土」各地から拒否され、行き場を失った挙句にやって来たモノ。当時の沖縄の貧しさに乗じて国策として押し付けようとしたものだった。
「村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない」。
これは多くの村人の気持ちでもあった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現せずとも、このような生き方をつないでいけば、いつかきっといい村ができるはずだ。」
私はその話を聞きながら、わが身を振り返っていた。彼らは私が育った環境よりももっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。この人達にくらべ、村の現実を分かっていながら、そこから逃げることしか考えなかった私の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。ようやく生き方が分かったと思った。逃げたいと思った村を逃げ出さなくてもいい村に。そんな生き方をつないで行くこと。沖縄の青年たちの思いが私の思いとなった。それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。


村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。地域の中で累々とつないできた人々の願い。地域の「タスキ渡し」。私はその中で守られ、生かされていたのだ。
その日から、私は風景があたたかな先人の体温をともなったものとして感じ取れるようになった。ようやく『地域』がわかった。『地域』が大好きになり、同時に肩にかかっている『タスキ』を自覚できるようになった。

それから40年。私は今も百姓として地域づくりの道を歩んでいる。
・・・ということなんですが、お分かりいただけただろうか。
我が家の前には広々とした一面に緑の美しい世界が広がっています。
春先のイネミズゾウムシの害も何とか鎮まりました。
水面への食用油の散布が効いたようです。彼らは夜、水底に生息しており、日が昇ると茎伝いに上がってきて葉を食べる。その習性を利用し、あらかじめ水面に食用油を撒いておく。いつものように水中から外界に出るときに、彼らの身体は油に包まれて窒息するという仕掛けです。農薬で無いから、全滅はしませんが、ずいぶん数は減ります。かわいそうですが仕方ありません。今年も農薬をかけずにすみました。食用油は分解も早く、コメへの害はありません。

 これからの心配は「いもち病」ですね。稲の葉や茎がかかる一種のカビ病で、これにかかると稲全体が枯れて行き、収穫ゼロもありえます。カビ病なので高温多湿の気候は要注意。我が家ではこの予防として一夏に二度ほど「酢」を散布します。

 大規模農業とは違い、「小農」のコメ作り。殺菌剤、殺虫剤ゼロ、化学肥料ゼロにこだわりながら、今しばらく緊張が続きます。