鈴鳴草子 〜鈴の宿 登府屋旅館〜

お米10kgと米沢牛!をうたい文句に定額給付金プラン、作りました。

おかげさまで、マスコミでたくさん報道していただきました。

登府屋旅館 公式サイトで詳細確認

お米がなくなり次第、終了ですので、ぜひブログを応援してくださっているみなさまもいらしてください。

お待ちしております。


FNNニュース(動画も)

TUY

河北新報

サンスポ

ヤフーニュース

夕刊フジ

本日は、講談師の神田織音さまがお泊まりになりました。

愛の鎧兜の前で記念撮影。

せっかくですので・・・、直江兼続紙芝居のときのユニフォームである陣羽織を来ていただきました。

和服にビシッと「愛」!
お似合いです。^^

お忙しい日程のなか、当館にお立ち寄りいただき、どうもありがとうございました。


神田織音さんのウェブサイト
...もっと詳しく
景勝 「そなた・・・、今日も泣いておったな。」

兼続 「はっ。しかし、今日で泣き納めとさせていただきます。」

景勝 「かつて、これほどまでに泣いた武将もおるまい。」

兼続 「たしかに、そうそう。涙そうそう。」

景勝 「それにしても、そなたの母の言葉は身にしみるのぉ。」

兼続 「紅葉の誓いでございますか。」

景勝 「うむ。幹を守るために葉は散る。何気なく見ておるが、重要なことじゃな。」

兼続 「左様でございます。しかし、それがし近いことを別の場所で申し上げておりまする。」

景勝 「なんじゃと?」

兼続 「実は、童門冬二さんの『小説・直江兼続』に第7節『京の群雄』冒頭においてでございます。」

景勝 「詳しく申せ。」

兼続 「兼続は思った。(紅葉は、木の葉が散る前に自分の生命を燃やし尽くしているのだ。葉が、死の直前にこの世で示すギリギリの姿なのだ)」

景勝 「ほほぉ、主旨は違うが例えは紅葉じゃな。」

兼続 「たまたまなのか。脚本の小松どのが何かしらの影響を受けたのかは、わかりませぬ。」

景勝 「うむ。小説では、新発田重家が散るさまを紅葉に例えておるからのぉ。」

兼続 「はい、この小説・直江兼続。自分で言うのもなんですが、面白いですぞ。」

景勝 「ホント・・・いうよねぇ〜。」



松下さまの鈴絵付け。
いろんな花を書いていただきました。
鈴木さまの鈴絵付けです。
実は、お2人は今度ご結婚なさるそうです。
それぞれの似顔絵を描いた鈴を結婚式場に飾るそうで、光栄でございます。

末永くお幸せに。
兼続 「殿、意外なことがわかりましてございます。」

景勝 「今日は、なんじゃ。」

兼続 「織田信長についてでございますが・・・」

景勝 「信長がどうした?」

兼続 「なんと毛利元就の子孫でございました。」

景勝 「異なことをいう。そんなわけがなかろう。」

兼続 「これはしたり。言い急ぎて言葉が足りませんでした。」

景勝 「落ち着いて申せ。」

兼続 「信長役の吉川晃司どのでございます。」

景勝 「彼がどうした。」

兼続 「毛利元就の次男・吉川元春の子孫でございました。」

景勝 「佐野元春?」

兼続 「いえ、吉川元春にございます。」

景勝 「ほほぉ。面白い。毛利家の子孫は、総合格闘技にもおるぞ。」

兼続 「総合格闘技?殴り合いでございますか。」

景勝 「左様。毛利昭彦選手じゃ。」

兼続 「そうでございましたか。歌手に格闘に多彩ですな。」

景勝 「織田の子孫は、フィギュアスケートだしのぉ。」

兼続 「世の中、誰がどこでつながるかわからぬものですな。」



兼続 「殿、先日われわれが行ってきた米沢の天地人博2009ですが・・・」

景勝 「うむ。どうした?」

兼続 「来場者数が、1万人を突破したようにございます。」

景勝 「そうか、それはよかった。目標は20万人じゃからな。」

兼続 「はい、今週末は上杉雪灯篭まつりですし、また来場者数が増えまする。」

景勝 「それはよいな。冬ならではの雪の祭典じゃ。天地人博とセットで見た方がよいな。」


山形新聞  天地人博2009 1万人突破
兼続 「殿、第6回の『いざ初陣』も面白かったですな。」

景勝 「そなたも、やらかしておいて・・・。いうよねぇ〜。」

兼続 「実は、私と争った片目の男ですが・・・。」

景勝 「刈安兵庫か?」

兼続 「あの男、実は・・・。」

景勝 「なんじゃ。」

兼続 「監督で有名な三池崇史さんでございます。」

景勝 「ほほぉ。そなたも三池監督の『SABU』にでておったのぉ。」

兼続 「殿もたくさんの作品に出てらっしゃいますね。」

景勝 「そうじゃ。」

兼続 「しかも、殿の名付け親ではありませんか?」

景勝 「昔は、北村康という本名で活動しておったが、三池監督に『北村一輝』という名前をいただいたのじゃ。」

兼続 「信長の吉川晃司どのも『漂流街』に出ておられますし・・・。」

景勝 「三成の小栗旬どのも『クローズZERO スタンダード・エディション』に出ておるからな。」

兼続 「淀君の深田恭子どのは、『ヤッターマン』のドロンジョさまですからな。」

景勝 「三池監督は、たくさんの作品を手掛けておるのぉ。」

兼続 「左様ですな。名監督も出演する『天地人』。」

景勝 「まさに・・・人の和じゃ。」

...もっと詳しく
兼続 「殿、上方での織田信長の動きが、いよいよ怪しくなって参りましたな。」

景勝 「うむ。謙信公も気にしておる。」

兼続 「ところで、気になったのが、織田家の最後でございます。」

景勝 「織田信長は、本能寺で死んでしまったではないか。」

兼続 「その後、でございます。」

景勝 「息子の信雄(のぶかつ)は、家康とともに秀吉を攻めたではないか。」

兼続 「その後、でございます。」

景勝 「誰の時代じゃ。」

兼続 「信浮(のぶちか)の代でございます。」

景勝 「そのような者は、わしは知らぬ。何者じゃ?」

兼続 「信雄から数えて9代目でございます。
転封によって出羽高畠の藩主となり、さらに陣屋の移転にともなって出羽天童藩の藩主となったのでございます。
そのまま、織田家は天童にて明治時代の廃藩置県を迎えたそうでございます。」

景勝 「ほほぉ。上杉は米沢。織田は天童か。時を越えて山形に集合したわけじゃな。詳しく申してみよ。」

兼続 「信長の死後、二男信雄は尾張・伊勢・伊賀・100万石の領主となりました。
しかし、天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏が滅んだ後、徳川家康は三河・遠江・駿河など東海5カ国から関東に移封され、信雄は織田家旧領の尾張から家康旧領への移封を命じられました。」

景勝 「秀吉どのの仕置きじゃな。」

兼続 「信雄はこれを拒否。
怒った秀吉は、信雄を改易し、下野烏山(一説に那須とも)に流罪に処しました。」

景勝 「信雄にとっては、秀吉は父の家来だったが、見誤ったな。」

兼続 「大阪夏の陣後の元和元年(1615)、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられ、4男信良に上野甘楽郡の領地を孫・信昌に小幡2万石を分け与え、信雄自身は京都に留まり、茶と鷹狩りに明け暮れ、寛永7年(1630)死去しました。 
ちなみに、信雄死後、大和国宇陀郡の領地は、5男の高長が継ぎ、織田柏原藩として10代にわたって柏原の地を治め、明治の廃藩を迎えておりまする。」

兼続 「そして、写真の神社でございます。」

景勝 「これはどこじゃ。」

兼続 「天童の舞鶴山の健勲神社にございます。」

景勝 「誰がおるのじゃ。」

兼続 「祭られているのは、織田信長にございます。健勲神社は、日本には京都と天童の2か所にしかございません。」

景勝 「上杉は、米沢で川中島の合戦を楽しみ、信長は、毎年人間将棋を楽しんでおるわけか。」

兼続 「これも何かのご縁でございますな。」
景勝 「いよいよじゃな。」

兼続 「はい、最後の5番でございます。」


・・・これぞ天下の上杉節 5番・・・

 吾妻の峰に茜さす

 竹に雀の紋どころ

 つたえてここに十三代

 上杉文化の花ひらく

兼続 「関ヶ原での西軍の敗戦を受け、上杉家は不幸にも負け組になってしまいました。」

景勝 「家康に反旗を翻したため、わが上杉家は、お家断絶になりそうだった。お家存続のため、そなたには苦労をかけたな。数々の交渉には感謝しておるぞ。」

兼続 「会津120万石から米沢30万石への移封で、なんとか済みましたな。」

景勝 「なんとか、お家存続したもののそのあとが大変じゃった。」

兼続 「歌詞に出てくる吾妻連峰は、米沢盆地の南側に位置します。」

景勝 「小野川温泉も吾妻連峰からの伏流水が、原料だそうじゃ。」

兼続 「竹に雀の紋どころは、言わずと知れた米沢藩の家紋です。」

景勝 「謙信公が、上杉憲政どのから関東管領職とともに譲り受けた家紋じゃ。」

兼続 「描かれた雀のくちばしは、片方が閉じ、片方が開き、あうんの呼吸を表しています。残念ながら、画像の雀はそうなっていませんが・・・。^^;」

景勝 「謙信から引き継いだ竹に雀の家紋を掲げ、米沢藩の礎を築いた わしは、1623年に病死した。」

兼続 「以後、米沢では13代、270年の上杉支配が続きました。」

景勝 「中興の祖・上杉鷹山は、名君とたたえられ、民を愛し改革を実行した政治手腕はアメリカ大統領など世界の政治家にまで響き渡っておる。
平成の世にあっても、上杉文化は人々の暮らしに多大な影響を与えているそうじゃな。」

兼続 「はい。われらの時代に行った堀などの水利事業や土木事業。今も米沢の未知や水路は当時のものが多く使われております。

食料に困らないようにと植えた果樹栽培の奨励。
昔、武家屋敷だった地域には、今も栗や柿の木が多く見られます。

日本酒の酒蔵・東光は、景勝が米沢に移り住む前から米沢で酒造りをしており、米沢藩の御用酒屋として栄え、伝統の味を伝えています。

また、越後時代の特産だった青芋(あおそ)を原料とした縮織(ちぢみおり)は米沢でも行われました。」

景勝 「原料を変えて今も伝わっておるそうじゃな。」

兼続 「はい、上杉鷹山の時代には、養蚕(ようさん)・絹織物へと織物業が進化しました。

さらに、屋敷の周りには新芽を食べられる「うこぎ」の垣根を植えさせ、食べられる山野草をまとめた「かてもの」という本を配りました。

また、福島県の相馬地方から稚魚を取り寄せてはじまった鯉の養殖は、冬場の蛋白源を確保するのに役立ちました。」

景勝 「鷹山は、藩財政の悪化を食い止め、飢饉の際に1人も餓死者を出さなかったそうじゃな。」

兼続 「はい、他にも、鷹山は、相良人形の製造や藩校・興譲館の開校、それまで原料として出荷していた漆・こうぞ・藍・紅花の製品化など、様々な事業を行いました。」

景勝 「小野川温泉の温泉水から塩を製造したのも、鷹山じゃな。」

兼続 「現在、米沢の特産物といえば、『ABC』です。
 APPLE りんご。
 BEAF  米沢牛。
 CARP  米沢鯉。

われらが奨励した果樹栽培が、のちに りんご栽培へとつながりました。

興譲館に招いた外国人英語教師のクチコミから米沢牛は広まり、今ではトップブランドとなりました。

お城の堀で養殖がはじまった鯉は、今も冠婚葬祭になくてはならない料理になっています。

ABCのいずれも米沢藩の歴史に基づき、発展していることがわかります。」

景勝 「うむ。こうしてみると、これぞ天下の上杉節は、米沢の文化をよく表しておるのぉ。」

兼続 「左様でございます。これは、さながら米沢の歴史の教科書でございますな。」

兼続 「殿、本日は4番でございます。」

景勝 「あと2つじゃな。」


・・・これぞ天下の上杉節 4番・・・

 天下分け目の関ヶ原

 たもとをわかつ西東

 上杉武士の面目に

 景勝直江と意地で立つ


景勝 「景勝・直江とは・・・われらのことではないか。」

兼続 「左様でございます。この歌は、まさにわれらの人生におけるクライマックスが表現されております。」

景勝 「興味深いのぉ。」

兼続 「慶長3年(1598)、天下人・豊臣秀吉さまがこの世を去りました。
翌慶長4年(1599)には、前田利家どのが亡くなりました。
利家は、五奉行の一人で家康と対等に渡り合える唯一の存在。

慶長5年(1600)に入ると、徳川家康が天下取りへ向け、活発な活動を開始します。」

景勝 「前田家との悶着じゃな。」

兼続 「標的となったのは、加賀100万石の前田家です。
藩主・前田利長や浅野長政らが、家康暗殺計画を企てたとの嫌疑をかけ、加賀征伐を検討します。

利長は、最初交戦するつもりでした。
城を増強し、迎え撃つ準備をしていましたが、母の芳春院のとりなしにより、戦を回避します。
芳春院自身が人質になることを条件に家康と和議を結び、領国を安堵されます。」

景勝 「そして、次なる標的が、会津120万石の我ら上杉家だったわけじゃ。」

兼続 「上杉の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として景勝に逆心有りと家康は糾弾します。
家康は、上洛して釈明せよ、わが臣下になれと再三要求しました。」

景勝 「上杉にも意地がある。加賀の前田のように簡単に軍門に下るわけには、まいらぬ。」

兼続 「おっしゃる通り、この要求を上杉家は、頑として拒否しつづけました。
家康は、兼続と親しい僧・承兌に最後通告といえる書状を書かせます。
その返書で私は、上杉家の潔白と家康の不義理を追求しました。」

景勝 「世に言う『直江状』じゃな。」

兼続 「激怒した家康は、上杉討伐軍を編成し、会津へと攻め上ります。
徳川軍が、小山に差し掛かった頃、上方で石田三成どのが挙兵。
家康は、上杉討伐を止め、軍を西へと進めます。
そして、運命の関ヶ原の合戦が繰り広げられました。」

景勝 「あれはまさに運命の一日であった。」

兼続 「関ヶ原の合戦前夜、世の武将は徳川方と豊臣方に別れ、派閥のようになっていました。
東北でも、上杉は豊臣方(西軍)、伊達・最上は徳川方(東軍)でした。

長いものには巻かれろとばかり徳川に味方する大名や徳川の力を恐れ生母を差し出した前田家があるなかで、上杉家は徳川家康に対して、敢然と立ち向かいました。」

景勝 「謙信公以来の武家としての意地じゃ。」

兼続 「残念ながら、徳川軍と直接対決することはかないませんでしたが、その後、上杉軍は最上氏の居城を攻め、東北の関ヶ原へと発展していきます。」

景勝 「うむー、まさに意地で立ったものの、結果は簡単ではなかったな。」

兼続 「さようですな。」

景勝 「意地で立ったが、イージーではなかったということか。」

兼続 「これはしたり。殿に突っ込むのもイージーではございませぬな。」

兼続 「今日は・・・。」

景勝 「3番じゃろう。」


・・・これぞ天下の上杉節 3番・・・

 信玄死すとの報を聞き

 涙にくれて声もなく

 雪どけ待って上洛の

 雄図はむなしく春に散る


兼続 「まず、信玄死すとの報を聞き 涙にくれて声もなく、ですが・・・。」

景勝 「元亀4年(1573)4月12日、武田信玄は、この世を去った。」

兼続 「左様でございます。
武田信玄は、三方ヶ原の戦いにおいて、徳川家康の軍勢に大勝しました。
さらに攻め続けようとした矢先、信玄は体調を崩し、進軍は止まってしまいます。」

景勝 「信玄は、病に冒されておった。」

兼続 「喀血するなど病状が回復しないため、信玄は甲斐への撤退を決断をしました。
撤退の途中、武田信玄は三河街道にて亡くなりました。53歳。」

景勝 「長く敵として戦ったとはいえ、謙信公にとってライバルの急死はショックだったであろうな。」


兼続 「そして、雪どけ待って上洛の 雄図はむなしく春に散る、と続くわけですが・・・。」

景勝 「雄図とは、なんじゃ?人気デュオか?」

兼続 「それは、ゆずでございます。」

景勝 「うむ。続けよ。」

兼続 「信玄の死から4年後、上杉軍は越中に侵攻します。
七尾城を落とし、七尾城の援軍にかけつけた柴田勝家率いる織田信長軍までも手取川の合戦で打ち破ります。

越中を平定した謙信は、いったん春日山城に帰還し、再度軍備を整えます。
次は、加賀を攻め、織田信長を倒し、京へ上洛するという大規模な計画が待っていました。

当時、織田信長は、京都から将軍・足利義昭を追放し、天下統一を目指していました。
義理がたい謙信公は、自らが天下を取ることより、将軍足利義昭(写真の人物)を奉じて幕府を再興することを目標としました。

武器や糧食、兵の準備をして、さぁ京都へ攻めのぼろうという矢先、謙信公は春日山城で急死しました。
天正6年(1578)3月13日、享年49歳でした。

雪がとけたら、京へ向け、兵馬を率いて向かうはずが、不運にもお亡くなりになってしまいました。」

景勝 「信玄が死に、謙信公がお亡くなりになった。激動の時代じゃな。」

兼続 「そして、我らの人生も激動の時代でした。」

景勝 「『雄図』は、信長を打倒し、足利幕府の再興を手助けしたいという謙信公の夢のことじゃな。」

兼続 「謙信公の思いとはうらはらに、時代は足利幕府の滅亡と天下統一へ向け動き出しました。
川中島で戦った2人が世を去り、群雄割拠の時代から天下統一の時代へと変わっていきます。」

景勝 「上杉家では、家督相続を巡り、わしと三郎景虎による戦となった。」

兼続 「御館の乱でございますな。我らは勝利し、今に至りまする。」

景勝 「謙信公の雄図、見てみたかったものじゃ。」
兼続 「殿。今日は、2番ですな。」

景勝 「おぬしもしつこいのぉ。」

兼続 「5番までお付き合いください。」


・・・これぞ天下の上杉節 2番・・・

 川中島は霧のなか

 戦機は熟せり乱れ龍

 宿敵信玄なにものぞ

 長蛇を逸する七つ太刀


兼続 「川中島は霧のなか 戦機は熟せり乱れ龍 宿敵信玄なにものぞ、ですが・・・。」

景勝 「いうまでもない。謙信公と甲斐の武田信玄のいくさではないか。」

兼続 「戦国史上、最大の激戦といわれる第4次 川中島の合戦の八幡原の戦いでございます。」

景勝 「謙信公は、一万三千の兵を要し、川中島を見下ろす妻女山に陣を置き、対する武田信玄は二万の兵を率いて、ふもとの海津城におった。」

兼続 「武田の軍師・山本勘助が提案したのが、『啄木鳥(キツツキ)戦法』でございます。
軍を二手に分け、別働隊を夜中のうちに密かに妻女山に移動させ、夜明けに一斉攻撃。
上杉軍が山から逃げ降りるであろう川中島に予め布陣し、待ち構えた本隊が挟み撃ちをするという作戦です。
ところが、謙信公は、海津城の飯炊きの煙が多いのを見て、武田軍の動きを察知。
かがり火や旗さしものをそのままにして妻女山を下り、夜の闇に乗じ、ひそかに千曲川を渡り、八幡原に陣を置きました。謙信公の天才的な戦のセンスがでた瞬間です。」

景勝 「そのような話は、日本中が2年前の『風林火山』で知っておる。」

兼続 「上杉軍が妻女山に布陣したのは、20日以上も前のこと。
つまり、ひと月近く海津城の武田軍とにらみ合っていたわけです。
謙信にしてみれば、濃い霧と武田軍の動きに『これを待っていた。今だ!』という思いだったことでしょう。」

景勝 「それはよいが、次の歌詞の長蛇とはなんじゃ?」

兼続 「長蛇を逸する七つ太刀、でございますが・・・。
まずは、川中島の続きをお聞きください。

夜明けとともに武田軍の別働隊は、上杉軍がいるはずの妻女山を奇襲します。
しかし、そこはもぬけの殻でした。

川中島で待つ武田本隊。
霧が晴れ、見たものは・・・なんと、いるはずのない上杉の軍勢でした。

上杉軍は『車懸りの陣』で攻め込み、武田本軍は『鶴翼の陣』でなんとか応戦します。

相手の裏をかき、戦術で上回った上杉軍は、一気呵成に武田の陣内へ攻め入ります。

混乱のなか、武田の軍師・山本勘助や信玄の弟・左馬助信繁はじめ大物武将が討ち死にをしてしまいます。

手薄となった武田信玄の本陣に、萌黄色の衣服に黒糸緘の具足をつけ、白頭巾を被った騎馬武者が単騎、切り込みます。
謙信公です。
三尺余りの大太刀『小豆長光』を振りかざし、馬上から信玄めがけ切りつけます。

謙信は、三太刀斬りつけ、信玄は軍配でこれを防いだものの、肩先を負傷してしまいます。

もはやこれまでか!と思ったとき・・・

間一髪で駆けつけたのが、武田方の原大隅。

信玄の槍『青貝』を使い、馬上の謙信をめがけて突き出したが逸れ、謙信の馬を傷つけ、驚いた馬は跳ね上がり、謙信は去ったといわれています。

九死に一生を得た信玄が、刀を受けた軍配を見ると三度しか受けていないはずの軍配には七つの刀傷がありました。
これが、有名な三太刀七太刀のシーンです。」

景勝 「それはわかるが、長蛇とは何じゃ?」

兼続 「最後までお聞きくださいませ。

昼過ぎ、妻女山にいた武田軍の別働隊が、八幡原に到着すると形勢は逆転。
上杉軍は、挟み撃ちをされる形となり、犀川を渡って善光寺に退き、激戦は幕を閉じます。」

景勝 「・・・。」

兼続 「武田軍の裏の裏を読み、山を降りて戦を仕掛ける様を江戸時代の陽明学者・頼山陽が漢詩にしています。」

景勝 「おぬし、知らぬからといって、上杉節から漢詩へ逃げる気か?」

兼続 「そうではございませぬ。
まずは、漢詩をお聞きください。


『題不識庵撃機山図』

 鞭聲肅肅夜河を過る
   べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる

 曉に見る千兵の大牙を擁するを
   あかつきにみる せんぺいの たいがをようするを

 遺恨なり十年一劍を磨き
   いこんなり じゅうねん いっけんをみがき

 流星光底長蛇を逸す
   りゅうせいこうてい ちょうだをいっす


さらに、うれしい解説です。

不識庵は上杉謙信の法号、機山は武田信玄の法号です。

謙信は馬の鞭の音も控えつつ千曲川を渡り、信玄の陣中近くまで押し迫った。
夜が明けて信玄がみたものは謙信率いる大群。
遺恨を胸に十年に亘り剣を磨いてきた。
今まさに信玄に対して奇襲攻撃をしかけた謙信であったが、まるで流れ星のように信玄が危機一髪で逃れ、又しても謙信は長蛇(信玄)を逸した。」

◆字解
鞭聲 馬に当てるむちの音
肅肅 静かなさま
大牙 将軍のたてる旗
遺恨 残念、無念
流星光底 流星の飛ぶ光のごとく剣を抜きて切り下げた時の光をいう
長蛇 目指す大敵、ここでは信玄を指す

景勝 「つまり、長蛇とは信玄ということか。」

兼続 「左様でございます。この漢詩と三太刀七太刀のエピソードから、『長蛇を逸する七つ太刀』という歌詞につながります。」

景勝 「・・・長い!」

兼続 「申し訳ございませぬ。」

景勝 「というか、重い!」

兼続 「ちゃんと説明したかったゆえ、申し訳ございませぬ。」

景勝 「長蛇だけに・・・ヘビーじゃ!」

兼続 「・・・。」

景勝 「おっ?いつもの これはしたり は出ぬのか。」

兼続 「・・・。」

景勝 「なんじゃ、何とか言わぬか。」

兼続 「蛇だけに・・・まぁ 無視(まむし)してみました。」
兼続 「殿、今日はお唄の稽古でございます。」

景勝 「何の唄じゃ?どじょっこ、ほいか?」

兼続 「違いまする。上杉節でございます。」

景勝 「それは、昔から知っておる。何を今さら。」

兼続 「今日は、一番でございます。」


・・・これぞ天下の上杉節 1番・・・

 毘沙門天の旗じるし

 われに勝利をたれたまえ

 のろしは上がる春日山

 謙信出陣 武てい式


兼続 「毘沙門天の旗じるし われに勝利をたれたまえ、ですが・・・。」

景勝 「上杉の旗印じゃ。決まっておろう。」

兼続 「念のため、他の旗の解説もいたしまする。」

景勝 「上杉の旗印じゃ。決まっておろう。」

兼続 「左様でございます。1番隊が持つのが『毘』の旗。上杉の守護神である毘沙門天の頭文字にございます。」

景勝 「先陣を勤める者は、毘と決まっておる。」

兼続 「では、2番隊は?」

景勝 「わしを試す気か。『八幡の御弓』。関東管領上杉家の重宝じゃ。」

兼続 「では、3番隊は?」

景勝 「お主もしつこいのぉ。朝廷から拝領した「紺地日の丸」の旗が、3番隊の持ち物じゃ。」

兼続 「では、毘とともに有名な『龍』の旗は?」

景勝 「懸かり乱れの龍。あの旗は、敵陣への総攻撃のときに使うのじゃ。むやみに出すものではない。」

兼続 「ちなみに、龍は、仏教において不動明王を表します。不動明王の持つ倶梨伽羅剣には龍が巻きついていて、この龍が仏敵を倒すと言われておりまする。ここでも神とつながるのでございます。」

景勝 「ほかにも、『刀八毘沙門』と書かれた旗がある。おぬしの前立てと同じく、『愛』と書かれた旗もあるのぉ。」

兼続 「左様でございます。話を本題に戻しまして・・・。のろしは上がる春日山、謙信出陣武てい式、でございます。さて、この武てい式とは?」

景勝 「謙信公が、合戦に出かける前に必ず行っていた儀式じゃ。」

兼続 「はい。謙信公は、自ら護摩行を行いまする。春日山城内の護摩堂にて五壇護摩を行い、炎で煩悩を焼き尽くすのです。
次に、不識庵という建物に入って座禅を組み、これから行う戦が本当に義に基づく正しい戦いかを自問するそうです。
そして、毘沙門堂にて決意を固め、戦勝を祈願し、神前の霊水を水筒に納めます。」

景勝 「そうじゃ。その一連の行事が、武てい式じゃ。」

兼続 「では、のろしは?」

景勝 「戦の前、城下では『お立ち飯』と呼ばれる大盤振舞いが行わる。その煙じゃ。」

兼続 「はい、山盛りに米が炊かれ、山海の珍味と酒が所狭しと並びまする。
普段は質素な食事をしている謙信公が、合戦に出かける前だけは『大いに酒を飲み、大いに食らうべし』と士気を高めるイベントです。
遠征のための陣中食も作られますので、かまどでは絶え間なく米が炊かれ、その煙がもうもうと立ち上り、のろしがあがる状態となるわけです。」

景勝 「大盤振る舞いをするあたり、まるで石原軍団じゃ。」

兼続 「いきなり石原軍団とは・・・。」

景勝 「そうであろう。石原軍団にもおるではないか、おたちめしが。」

兼続 「殿、それをいうなら、たちひろしでございます。ボケが過ぎますぞ。」

景勝 「与六、くるしゅうないぞ。くるすーない。クールスだけに。」

兼続 「これはしたり。ある年代にしかわからないボケですぞ。」

兼続 「殿、一大事でございます。」

景勝 「あわててなんじゃ。」

兼続 「それがしの愛の兜が・・・。」

景勝 「盗まれたか?」

兼続 「いえ、愛の兜をかぶったおかしな会合が行われましてございます。」

景勝 「どんな会合じゃ?」

兼続 「直江兼続研修会にございます。」

景勝 「なんじゃ、よいことではないか。」

兼続 「殿、講師が・・・明らかに『これはしたり』でございます。」

景勝 「どれどれ?」


【山形新聞】 紙芝居使い直江兼続を紹介