美術館大学構想

■写真上:出産直前の妻のおなか。卒展の準備期間と重なるように、妻は12月9日から3ヶ月間の入院生活の末、3月10日[土]に、3157グラムの元気な女の子を生んでくれた。
■写真下:4番目の孫を抱く父。山形で8年間の教授生活を終え、今春から長野県佐久の山荘に移る。これからは膨大な資料に囲まれた書斎で建築史家として総仕上げの研究に取り組む。
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私事ですが、このブログで度々書いてきたことなので報告します。
今月10日に、はじめての子どもを授かりました。
助産師さんから連絡がはいった深夜0時から家内の陣痛の波が激しくなり、明け方に分娩室に一緒に入って出産に立ち合いました。
しっかりした身体付きの女の子が生まれたのは、まだ夜も明け切らない5:30で、窓からは蔵王の灰色のシルエットが、薄ら空と大地の境界線を描きはじめていました。白々とした蛍光灯の明かりの下で目撃したその瞬間は、以前、大橋仁氏を紹介したブログでも書きましたが、本当に壮絶で切羽詰まった、愛しい命の瞬きでした。

入退院していた時期が、卒展の準備が加速度的に激しくなっていた期間と、ちょうど並行していたこともあり、大学の同僚、先生方、そして大勢の学生たちから暖かい気遣いをいただきました。感謝。
ディレクターズのメンバーからは、沢山の紙オムツのプレゼントが届いたのです。(示し合せていたようです)一つ一つちゃんと包装してあって、むくつけき男子学生が、東青田の『ツルハドラック』で神妙な顔で注文したのかと思うと、頬が緩みます。
ありがとうございます。充分活用させてもらいます。
赤ん坊の名前は、「結子(ゆいこ)」としました。
どのような生き方をするにしても、彼女なりの方法で、人と人の、文化と文化の良きつなぎ手として生きていってほしいとの願いを込め、「つなぐ糸」が「吉をもたらす」という組み合わせを選びました。現在は家内ともども退院し、大学近くのマンションで、3人での静かな生活がはじまっています。


そして、新しい家族が加わると同時に、歴史遺産学科で教授を8年間務めた父・宮本長二郎が、東京芸大時代からの、長かった大学生活を辞し、山形の仮住まいから自邸のある長野県佐久市に移ります。日本全国の遺跡を歩き続け、この列島に埋もれた古代の建築史の謎に向かい続けた筋金入りの研究人生に、不出来な息子たちは只々敬服するのみですが、不思議な縁で2年間、同じ大学に勤められたことは幸せでした。お疲れさまでした。

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さて、折しも今日3月21日は東北芸術工科大学の卒業式。
僕は式自体には立ち合わず、寒風の中、ディレクターズの活動よろしく駐車場誘導をしていたのですが、卒展でなじみになった学生たちが、きちんと正装して、堂々と歩いていくのを、嬉しく眺めていました。若い人たちの旅立ちを見送る立場として、「おめでとうと、さりげなく」よりも、どこか寂しさを感じている自分に、この1年間のそれなりの充実感を噛み締めていました。
寂しいので、この後の祝賀会には出席しません。が、父と僕との不思議な巡り合わせのように、この業界でそれぞれにきちんと仕事をしていれば、いつかまた一緒になることもあります。その可能性に期待して。

卒展を終え、山形のキャンパスを巣立っていく学生たちにとって、そして僕たち家族にとって、それぞれの「産みの苦しみ」を通過し、今、ひとつの時代が穏やかに幕を閉じました。


宮本武典/美術館大学構想室学芸員
卒業式を終え
胸に残る余韻だけで今日一日がまた終わっていきます。

めかしこんではいても普段と変わらない友人と、涙を誘おうとするのではない式典にホッとつつ、「自分だけが幸せになろうとする人間になってはいけないよ」「辛いことがあったらいつでも思い出して帰って来て下さい」という理事長の言葉が、これからのひとり暮らしの中で幾度となく思い出されるような気がしています。

式の当日、駐車場から体育館へ向かう道、なんとなく選んで通った美棟横で赤い棒を握った宮本さんにお目にかかり驚きました。冬に戻ったような天候の中、お疲れさまです。朝一番にかけてもらった「おめでとうございます」の言葉に一日遅れでお返しします。・・・娘さんの御誕生「おめでとうございます!」





2007.03.22:1/523:修正削除


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