ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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 元旦の朝は「若水」を汲み、水に感謝し、お汁やお茶に使う最初の水を頂くところから始まる。
 次は、台所、倉庫、農業機械舎、鶏舎、車・・など、我が家に宿る(と思われる)16カ所の八百万の神さまたちに餅、栗、干し柿、ミカンなどをお供えし、1年の無事を祈ってまわる。ここは孫たちも張り切って頑張る。
 それ等が終わったら、孫たち3人が神妙に正座した所で、ひとり一人に相対し、「お年取りの儀式」を行う。その家の年長者の役割だ。な〜に大したことではないのです。わが家ではお供え物を載せたお膳を孫の頭上にかざし、その子が12歳ならば「13歳になぁれ、13歳になぁれ」と唱え、その子のいい所を褒め、「年が1つ増えても変わらずにな」と話して終わり。それからお年玉を配って朝の行事は終了。

 今年も我が家はこのように始まりました。
 新年もどうぞよろしくお願いいたします。
 (写真はお供え物を準備しているところ。)




28日は「松むかえ」の日。
門松に使う「三階の松」を山から迎えてくる。
「三階の松」とは三段になっている松の事。
孫を連れて裏山(朝日連峰)の麓に入る。
松の成長を殺さないように、枝の中から近いモノを選んできた。
風と沢の音だけの静かな世界だった。




 12月9日は昔から「耳あけ」と呼ばれている日だ。
大黒様(穀物)、えびす様(魚介類)を祭ってある神棚に尾頭付きの魚と二つに分かれた「まった(股)大根」をあげ、枡に大豆を入れ、カラカラと揺すりながら
「お大黒様、お大黒様。耳をよ〜く開けて聞いておりますから、なにがええごどおしぇでおごやえ〜!(良いこと教えてください)」と大声で3度言う。今年も小学6年生を筆頭に3人の孫がそれをやった。
「何か良いこと教えてください・・とは情けない」と思う向きもありましょうが、飢餓と隣り合わせの日々。ちょっとした天候異変がそのまま家族の存続の危機、いのちの危機につながって行った時代。懸命に働いた後は「神頼み」しかなかった頃の村人の行事が今に伝承されている。

 この行事が終わると、急速に暮れに向かい忙しさが増していく。




 
 子どもの様な国だ。

 農業を見る上で大切なのは農地と労働力。近年、この二つの減少が著しい。まず農地。2014年から2019年までの5年間で日本の農地のほぼ10万haが減少した。そう言われてもピンと来ないだろうが、どこに行っても田んぼだらけという山形県の水田面積が8・8万haであることを考えれば、その失った広さが想像できる。その他にも耕作放棄された農地が70万ha近くある(2017年調べ)。日本の自給率がわずか38%しかなく、日本人は食べ物の62%を輸入に頼っている中でのことだ。良く言われるように、これは「先進国」の中でも最低の数字だ。
 
 次は労働力。農家の平均年齢は68.5歳。ほぼ70歳に近い世代が農業の中心となっていて、高齢化というよりは老齢化だ。そんな中ですら進められているのが小農(家族農業)の離農促進と、農業経営の大規模化、法人化である。その方が合理的だということだろう。ところが実際は、肝心の若い世代を含め、全体的に農業そのものから離れていっている。就農人口の60%が65歳以上であり、35歳未満の働き盛りはわずか5%でしかないという現実がそのことを物語っている。
 
 ここで改めて、広く人々に問いたい。農業政策、食料政策はこのままで本当にいいのか。その結果についての覚悟はできているのか。どこかよそ事として眺めてはいないか。
 あらためて言うまでもないが、人は車がなくても生きては行けるが、食料がなければ生きていけない。食の道が途絶えたら、食料を持っている国に土下座するしかない。哀願するしかない。
農業の問題は、国民のいのちの問題であり、国の自立、尊厳にかかわる問題だ。ここでも食糧大国、アメリカへの従属外交にならざるを得ないだろうか。
 
 この進行する農の危機、いのちの危機について、我々がいくら口を酸っぱくして指摘しても、ほとんどの人は分からない。洪水は足元まで来ているのにそれに気付けない。スーパーでもどこでも食料品があふれているからだろう。でも、人災、天災が一たびこの国を襲えば、想像したくない光景が誕生するだろう。気づいた時にはもう遅い。この国の国民は、歴史から学ぶ力を持ち合わせていないのだろうか。
 
 子どもの様な国だ。


現代社会の深層をえぐる渾身の問題提起です。すこし、長文ですがぜひお読みください。ご感想を頂ければ嬉しい。
          以下
 我が家の前には800haの田んぼが広がっており、後ろには朝日連邦の雄大な山並みが連なっている。静かな山あいの村だ。
唐突でだけど、俺はその広い田んぼを前に立小便(立ちション)するのが大好きだ。家の中で尿意を感じても、わざわざ外に出ていくこともよくある。用をたしながら広大な緑の風景を見わたす。雄大に横たわる朝日連峰を眺める。田んぼを渡る風は季節の香り含んで流れ、薄くなった男の髪を優しくなでで行く。心地いいことこの上ない。山や畑、野原など気持ちのいい所はたくさんあるけれど、やっぱり広い田んぼが一番。このぐらい爽快なオシッコは他では決して味わうことはできないだろう。
 かつて娘が小学生のころ、「お父さん、家の外でおしっこしないでね。」と言われたことがあった。先生から「西根は遅れている。まだ屋外で小便している人がいる。」と言われたのだそうだ。「お父さんのことだと思って恥ずかしかったよ。」と娘。西根というのは子どもの通う学区で長井市のなかでも農村部だ。もちろん誇りある俺たちの村。そばにいた妻も「そうだよ、お父さん、あれはみっともないよ」という。
 えっ?オレのおしっこ、誰かに迷惑をかけたか?ここは都会のアスファルトの上じゃない。おしっこは匂いを出す間もなく瞬時に土に吸い込まれ、草や作物に活かされていく。タヌキやカモシカや野兎などのそれと一緒だ。田んぼの畔に放った私のモノは彼らの小便と同じように自然の一部となって大地をめぐる壮大な循環の中に合流していくのだ。ただそれだけのこと。
 お前達だって立ち小便すればいい。オレが子どものころには、近所のばあちゃん達もみんなやっていたことだ。女たちの立ち小便は子どもの俺達から見たってなんの違和感もなかったよ。人が通る道端でさえよく見る普通の光景だった。ばあちゃんたちは、おしっこをしながら、道行く人とおしゃべりだってしていた。そのすぐそばを子どもたちが通ろうが、男たちが通ろうがなんの動揺もなかったはずだ。堂々としていたから。我が家に立ち寄ったついでに畑でおしっこしたばあちゃんが、大らかに笑いながら、「お茶代金はここに置いたからな。」と言ったっけ。お礼に肥料分を置いていくということだ。
 あのな、この際だから言わせてもらうけど、お前達の自覚の無さゆえ、あるいは都会の文化に見境なく迎合した浅はかさゆえ、女たちの「腰巻」が育んできた貴重な文化が無くなろうとしている。はるか縄文の大昔から、ついこの間まで、母から娘に、娘から孫へと、ずうーっと受け継がれて来た文化だ。放尿の際の腰の曲げ方、尻の突き出し方、両足の広げぐあい、隠し方など、それらの所作の一つひとつが文化のはずだ。その歴史的文化が、まさにいま、ここで潰えようとしている。いまやそれを知る人は80代以上の女性、それもほとんど田舎の女性のみとなってしまっているではないか。やがて彼女らがいなくなったら、知っている人は日本列島から完全に消えはててしまうだろう。もし誰かがそれを復活させようと思っても、手立てが無くなってしまうのだぞ。これから先、どのようにその文化を伝承していけばいいのか。消えゆく女の立ち小便は、文化人類学上の深刻な課題のはずだ。オレは男だからしょうがないけれど、お前達のなかに、我こそは・・・という志をもった女はいないのか!その復権を!という人はいないのか!
 話の途中から、妻娘はいなくなっていた。
実際、事態はますます悪化の一途をたどる。女から立ち小便を取り上げた同じ「文化」は男の小便も小さな閉塞した空間に閉じ込めることに成功し、その上、さらに掃除が簡単だからと、男から立小便の便所そのものを取り上げ、男女の区別なく「考える人」ポーズで用を足せるように仕向けて来た。如何に住宅事情からとは言えそれでいいのかと考え込んでしまう。男たちよ!野生を取り戻そう。野山や田畑でのびのびと小便しよう!さすがにまだ、女たちよ!とは言えないけれど。
  (大正大学出版会 月間「地域人」連載中 拙文)





 10月31日の私の誕生日に際し、たくさんの方からお祝いメッセージをいただきました。ありがとうございました。

1949年(昭和24年)に生まれ71歳になりました。
ですが、生き方を決めるのは自然年齢ではありません。志と情熱です。
このままならば、植民地日本に生を受け、植民地日本で没することになりかねません。農民だからと言って農業にだけ関心があるわけではありません。日本の独立、その夜明けを見ない内には死にきれない。正直に言ってそんな気持ちです。
 
 沖縄も、原発も、農業も・・このままでいい訳がない。このままでは数百万人の戦死者と戦争犠牲者に対して申し訳ない。あらためてそう思います。子々孫々に恥じない日本、社会を残すこと。
 路傍の小石の身であろうとも、そんな希望の道を創る一粒にはなれるし、なりたい。ならなければならない。
 
 誕生日にあたって改めてそう思います。
今まで以上のご鞭撻をお願いいたします。

 何度か書いて来たことだが、再度振り返ってみたい。
多くの水田農業では農業をやめるか、大規模を目指すかの選択を強いられて、小農、家族農業が絶滅の危機の瀕している。
 日本の平均耕作面積は2020年調べで2.50hだが、それを政府は山間地で20h、平地で30hを目指すという。大規模と言われる農家とて、すでに生産したコメの販売額では生産費は払えず、よって暮らして行けず、国の補助金をあてにするしかない状態が続いている。そこに高齢化した農家、小規模農家を対象に「大規模農家に田んぼを任せろ、そうすれば離農補助金をだす」。 こんな露骨な小農つぶしが続いている。
 その上で誘導される大規模農業は、化学肥料と農薬にいっそう依存した農業だ。環境や生態系に与える影響は大きい。またその政策は村社会の崩壊をいっそう促進する。村に人が残れない。煎じ詰めて言えば、食べる者、作る者、暮らす者に決して貢献しない。そのような大規模化はいったい誰のための、何のための大規模化なのか。それによってもたらされるのは価格の安さだとしても、そんな安さを誰が求めているのか。それが、人々の命と食と健康と、それを守って来た数千年の農の営みを犠牲にしてまでの事なのかと。
根本から問わなければなるまい。





「お米通信」10月号から(菅野農園)

 いろいろご心配をおかけしましたが、ようやく新米ができました。やれやれです。
 
 ご案内してますように、菅野農園のコメ作りの基本は
1、化学をできるだけ排除し、殺菌、殺虫剤を極力使わない。
 「つや姫」は例年の通り殺菌、殺虫ゼロでできました。
 ですが「ひとめぼれ」は少量の殺菌剤を使用しました。
2、化学肥料も使用しない。全て堆肥(有機肥料)で育てました。
3、収穫目標を低くして、決してイネに無理をかけない。
 この地方の一般農家が目標とするのは10aあたり10俵です
 が、菅野農園では8俵を目標にしています。
 こうしてできた農薬削減栽培です。

 かつて、私(菅野芳秀)も多収穫栽培でJAから表彰されたことがありました。10aあたり11.5俵とりました。だけどそのコメは正直に言って不味かったです。量は取れました。でもそれは、本来、未熟米、くず米で終わるはずだったコメに、どんどん化学肥料を施して、無理やり大きな米粒にしてしまうやり方で始めて可能となった多収穫でした。水っぽいコメ。グチャグチャしていてコクのないコメ。たぶん栄養価も少なかったに違いありません。

 ご存知のように、お米屋さんに並ぶコメには生産者の名前が書かれていません。名前は農協の門をくぐる迄。その先は産地と品種の名前だけになります。コメ代金は生産者が農協に出荷した量に応じて支払われるため、より多くのコメを出荷した人が勝ち。味ではありません。農薬の削減も評価の対象にはなりません。不味いコメを出荷したとしても誰のコメかはわかりませんし、責任も問われません。ただ取れた量だけに関心を払う多収穫競争がありました。
菅野農園はそんなコメ作りから離れました。30年ほど前のことになります。

 菅野農園のコメは、責任がはっきりしています。不味ければ次回から食べてもらえません。農薬もできるだけ使いませんが、これは食べる者と作る者、双方の健康と環境を考えてのことです。コメに関わる一つひとつのことに、生産者のコメにかけた思いだけでなく、責任も問われます。
今年の収量は10aあたり7・5俵あまりでした。隣地の仲間たちは9俵台ですが、菅野農園のコメはこれでいい。良く頑張ったと思います。

 ご声援ありがとうございました。


 ご要望はnarube-tane@silk.ocn.ne.jp へお申し込みください。


 もう少ししたら毎日が雨・・やがてそれが雪に・・そして毎日が雪・・
これが晩秋から冬にかけての東北、裏日本だ。
日本の裏側。農業を中心とした地域。裏日本という言葉、いいですね。
オモテに出ている日本がダメなだけに・・
オ・モ・テ・ナ・シ。

 裏日本、わけても山形県置賜地方は、近代化に取り残された「遅れた」地域。
だからこそ、新しい社会、新しい日本を生みだす可能性に満ちているとも言える。
ナニナニ、そんなこと、百姓のたわごとだろうって?
そうかもしれない。だからと言って、たわ言を軽んじてはいけませぬぞ。
次代は常にたわ言から始まっていくとも言えるのだから。

 工業系の時代・・都会への「登り列車」の時代から
生命系の時代・・・田舎への「下り列車」の時代へ

 「へ〜あなたはまだ都会にいるの?大丈夫?」
都会が日本を動かす時代は、そろそろこの辺でやめにしましょうよ。
まずは置賜においでください。この豊穣の大地に腰を下ろし、来し方行く末にゆっくりと思いを巡らしてみては如何でしょうか。
明日、あなたはその下り列車の一員になっているかも知れません。

「go to・・」・・?
違う。そんな話じゃない!




肝心なことを忘れていました。
コメの説明と申し込み方法です。
食べてみたい方は末尾にメールアドレスを書いています。
「ブログをみた」とお申し込みください。

       以下

<2020年産・新米です!農家の直送米です>
―お米を育んだ自然の力・豊かな土と清冽な水―
ブナとナラの森が広がる山形県は置賜地方。
その一角、朝日連峰直下の水田から
直にあなたの台所にお届けする「いのちの粒」。
それがこのお米です。
家族で農業を営む菅野農園だからこそできる、
「いのち」と環境を第一に考えて育んだ農家直送米です。
できたお米は、土と水、それに作り手の志しとの合作。
水は山から直に水田に入ります。
田んぼの隣は朝日連峰。流れ込む水は人がそのまま飲めるほどです。
そんな環境のもと、二世代に渡って
堆肥を投入して土づくりを行い、
化学をできるだけ排除してお米を作り続けてきました。
それを、今年もあなたにお届けできることをうれしく思います。
お米とあなたとの出会いがいい出会いでありますように。

★どのようなお米か?
<肥料>・<農薬>・<作り方>

 〇Χ檗殺虫剤はゼロ・化学肥料もゼロ。除草剤/初期に一回のみ
  品種:「つや姫」 (9年連続食味ランキング特A)

 <10kgあたりの価格>
 5,832円(税込) 白米・五分・七分米
 5,400円(税込) 玄米

◆”要最小限の殺菌剤1〜2回使用。
  殺虫剤・化学肥料はゼロ。除草剤/初期に一回のみ
 (殺菌剤は山形県の「特別栽培米」基準の1/2以下の使用量です)

  品種:「ひとめぼれ」 

  <10kgあたりの価格>
  5,400円(税込) 白米・五分・七分米
  4,968円(税込) 玄米

  ☆つき方 白米・七分米・五分・玄米とご注文に応じております
  ☆どちらでもお好きな方をご注文下さい。
  ☆もち米価格は➀になります。

■食痕…お米にごくまれに黒い斑点がついている場合があります。カメムシの食べたアト
です。殺虫剤は使用していません。ある程度はお許しください。

■お申し込みは5圈10kg、15kg、20kg、25kgでお受け致します。全て5kg袋単位に
なります。(例:15kgの場合、5kg袋×3袋の発送)
(30kg以上ご希望の場合は別途ご相談ください)

■お申込み期日・・10月10日までにお願いします。11月分以降は毎月10日までのご注文とさせてください。

■お米の発送…初回のお米のお届け日は、10月20日前後といたします。その後の月は毎月20日ごろのお届けとなります。

■お支払い…お米と一緒に郵便振替用紙をお送りいたします。お支払いは1ヶ月ごとでも1年分の一括支払いでも構いません。また、ホームページからお申し込みの場合、クレジットカード決済やコンビニからも支払いができるよう進めています。11月からはご利用いただけると思います。(https://kanno-nouen.jp/)

■これでお米のご紹介は終わりです。今年もどうぞよろしくお願いします。
メールにてご注文いただいた方には、ご注文用紙をお送りいたします。「お米注文票」にご記入のうえ、メールにてお送りください。

    2020年10月1日
土といのちと循環のもとに・・・菅野農園(代表;菅野春平)
山形県長井市寺泉1483 
TEL;FAX 0238-84-3196 
メール;narube-tane@silk.ocn.ne.jp







2019年産の年は終わりました。
1年間、ありがとうございました。
菅野農園のような家族農業にとりまして、ますます生きづらい農業政策が進められて
います。
農法の化学化、経営の大規模法人化、企業化です。
そして家族農業をそこに追い込むために、
コメの価格を生産原価まで限りなく低く抑え、
離農を促進した上で、大規模化を目指す法人などには
国が農業機械更新の半額補助をするなどの手厚い支援策がありますが、
菅野農園などの家族農業には全くありません。
離農促進などの露骨な政策があるだけです。
そんな中でも、何とか農家を続けて来ることが出来ましたのは、
皆様を始めとした、お米を直にお取りいただいている方々の
ご支援があったからこそです。
ここに改めて皆様に感謝申し上げながら、
新米から始まる2020年度もどうぞよろしくお願いいたします。





秋の空は変わりやすい。

裏日本の気候は特にそうだ。午前中は晴れていたと思ったら、午後には曇りとなり雨が落ちてくる。
困るのは外に干している洗濯物や布団。へたすると間に合わずに雨にあててしまうことになる。秋に入ればこんなことはいつものことだ。

さて、昔からこのように移ろいやすい秋の天気を、これまた変わりやすい男心にたとえ「男心と秋の空」といってきた。近年『女心と秋の空』などと言われたりもするが、たとえの始まりは「男心」の方がであって、「女心」ではない。開いたことはないが、広辞苑などにもそのように掲載されているらしい。

ちょっと前になるけれど、我が家に東京から男4名、女4名の8人の友人が訪ねて来たことがあった。それぞれが社会運動に何らかの形でかかわっている人たちだ。全員理屈はたつ。
秋の空はそもそも「男心」か「女心」か・・・このことをめぐって議論になった。「男心」と言ったのは俺一人で、あとは全員「女心」。シャンソンから、あるいは東西の詩から・・、あれやこれやと「女心」であることの理屈を並べる。頭でっかちの世間知らずが!!
男と女ではことにあたっての腹のすえ方が違うんだよ。ちょこっと世の中を見渡してみても、女のほうが「決意」を育てながら人生を送っていることが分かる。どんなに屁理屈を並べようと移ろいやすいのは「男心」であることに変わりはないべ。

「そうか、それじゃお酒一升を賭けよう。負けたほうが勝ったほうにお酒を一本送るんだ。」

一対八の勝負。みんなで調べてみた。その結果は・・・やっぱり俺の勝ち。「男心」だった。ざまぁ見ろ。いっぱいの理屈をこねたあとだけに、彼らの落ち込みは大きかった。源氏の若旦那の例を持ち出すまでもなく、男なんて・・・なっ。まぁ、彼らにはいい薬になっただろう。八人全員が俺にお酒を送ることを約束して帰っていった。

後日、お酒が届いたのは女からだった。女の全員がそれぞれにお酒を送ってくれた。でもな、男からは一本も・・一人も送って来なかったよ。
やっぱりな・・・、ここでもまた証明された。ほんに移ろいやすいは「男心」だ。どうしようもないね。

 社会運動でも政治運動でも、俺はもう女しか信じないな。男はだめだ!

  (以前、書いた短文から)