ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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友人の熊坂かよし君は山形県白鷹町のリンゴ専業生産農家です。
毎年、米沢市にある生活クラブ生協にリンゴを納めていましたが、この度、その生協職員からコロナ感染者が出たということで、リンゴが全て入庫停止となってしまいました。
リンゴに限らず、当分のあいだ生活クラブ本店からの仕入れ以外、地元の物は全て扱えないということだそうです。
 今年のリンゴは春先の遅霜によって大打撃を受けました。ようやく残ったリンゴに、今度はコロナです。
 彼は行き先を失った大量のリンゴに頭を抱えています。品種は「つがる」。
試食してみました。リンゴ特有の甘い香りと甘ずっぱさが口いっぱいに広がります。さわやかな秋。
 美味しい秋の前触れとしては充分にその役割を果たしています。いかがでしょうか?
価格;5kgで2,500円、10kgで5,000です。(送料別)
ご注文はFAX、携帯メール、郵便にて直に熊坂君に。
〒992-0779 山形県西置賜郡白鷹町大字簑和田1261―15
TEL・FAX0238−85−1021/携帯080−5564−4531
 熊坂嘉代司
です。どうぞよろしくお願いします。
どこまでも広がる濃緑の田園風景。点在する屋敷林,
散居集落。朝日連峰の雄大な青の山並・・・。
うっとりするような夏の風景が広がっている。ここで生まれ、ここで育ち、今もここで暮らしているのに・・朝といい、夕といい、しばし足を止めて眺めているほどだ。
 もう穂が出た。もう少しでこの風景に黄金の稔りの色が加わる。紅葉にはまだ早く、山々は濃緑と青の風景だけど、黄金色の田んぼとの取り合わせがまた美しい。稲の葉の緑がうっすらと加われば目を細めたくなるほどの眩さとなる。
 散居集落と山と田んぼの取り合わせは日本の原風景の一つ。この風景は遠くから足を延ばしてでも一見の価値がある。
うなぎ・・世界のウナギの70%を日本人が消費しているという。その陰で、古来生息してきた日本のウナギが絶滅危惧種になりつつある。でも国民の多くはこのことにはあまり関心がない。スーパーには外国産のウナギがあふれているからだ。
 古来「生息」してしてきた日本の家族農家が絶滅危惧種になりつつある。でも国民の多くはこのことにはあまり関心がない。スーパーには外国産の食料があふれているからだ。
今日のウナギが食えればいい。今日のコメが食えればいい。
おもしろい国だよ、日本は。
暑い日が続いている。 
夏と言えばセミ。今が盛りに鳴いている。ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ・・。暑さの中、彼らはますます元気だ。でもこれをうるさいとは思わないのはどうしてだろう。少なくてもそれらの鳴き声は暑さでイライラしがちな我々にとっても優しく響いていて、受け入れやすいものだ。決して攻撃的ではない。
「閑さや岩にしみいる蝉の声」
これは松尾芭蕉が1689年に出羽の国(山形市)の立石寺で詠んだ句だ。
その時のセミはニイニイゼミだと言われ、おそらくその日も盛んに鳴いていたと思われるが、それをやかましいとは思わずに「閑さや」としたのは、その俳人の心の在り方を物語っているのだろうが、セミの鳴き声には旅先の詩情を誘う、えもいわれぬ力があるように思える。
さて、同じセミでも山形や東北のモノとは全く異質な鳴き声を聞いたのは2年ほど前の夏のことだった。暑い京都の町を歩いていた時のこと。ガシガシガシガシ・・・。かなり大きな鳴き声が街中に響いている。これは何の鳴き声だ?えっ、セミ?これがセミか!まったく風情がなく、ただうるさいだけだ。ガシガシガシ・・それにまわりと協調せずにあたりを圧倒しようとする。
これを聞いて、「閑さや」とはどんな俳人の豊かな感受性をもってしてもならないだろう。
話は変わるが、京都は常に日本史の中心に君臨してきた。東北、羽前(山形県)などというのは、その京都に言わせれば蝦蟇(がま)の一字をもって「蝦夷(えぞ)」と蔑んできたように、人間の住むところとは考えていなかったようだ。歴代の京都の朝廷が送って来たのは征「夷」大将軍に象徴されるように、東北は攻めの対象、征伐の対象、征服の対象でしかなかった。侵略の末に彼らが奪っていったのは金、鉄などの鉱物資源に、馬、それに民人。強制的に連れて行って奴隷として使った。時には当時の中国に貢物として差し出したりしたという。それにもかかわらず一度たりとも東北、山形からは、京都に攻め入ったなどということはなく、幕末の会津藩のように、逆に京都を守ってやって悪者にされてしまうという貧乏くじばかり引かされてきた。
ガシガシガシガシ・・。この声の中にも、京都に共通する傲慢さを感じ、さらに不愉快になってしまうのは東北人としての俺の狭隘さのせいだろうか。 
 大正大学出版部 月刊「地域人」所収 拙文 抜粋
我が家では二回目のツバメが今にも巣立ちそうです。1回目は3羽が巣立って行きました。今回も同じぐらいの羽数かと思いますが刺激しないようにしていますので覗きません。
 先日、すでに電気を消して休んでいたら蛍が入ってきました。あの蛍は亡くなった○○さんかな。あの飛び方からすると○○かもしれない・・。部屋を舞う青い光の点滅を見ていると何やら幻想的な感じがしてきます。
ヒグラシが鳴きはじめました。アブラゼミ、ミンミンゼミも鳴いています。ツバメのさえずりにニワトリ達の声、沢から池に注ぐ流水の音・・重なる村人たちの生活の音。
この間、孫が学校から「熊が出始めたので・・」との注意書きをもらってきました。
ホタルにツバメにセミに熊。ニワトリがいて、タヌキがいて、キツネがいて・・村の夏はとても賑やかです。
<豚の角煮> 
梅雨に入り、暴雨こそありませんが、山形でも毎日が曇りか雨の日が続いています。それに、コロナに、無茶なオリンピック、雇止めへの不安や小粒になった国会議員たちの汚職がらみの政治・・と。鬱陶しさが増すばかりです。
 こんな時には酒でも飲んでフトンかぶって寝るのが一番なのでしょうが・・雑務に追い回されている身としてはそれもできません。
そこで・・と考えたのが、せめて夕方まで待って、日ごろ食べていない大好きなモノでも食べること。根が単純なんです。昨晩、まちの居酒屋から「豚の角煮」を買って来ました。小皿の上に並べてしばし眺めてみました。バラ肉が黒っぽく照っています。沖縄のラフティのように黒砂糖と泡盛を入れて煮込んでいるのかな。
ずいぶん久しぶりだが元気だったか?角煮は当然何も応えてはくれませんが、だけど返事の代わりにタマラナイ香りをあたり一面に放っています。箸を入れてみました。スッと入ります。柔らかい。そしていよいよ角煮を口に・・。たまらんですねぇ。口の中でゆっくりと溶けて行きます。それを味わいながら、グビッと酒を飲む。しばし続く至福の時間。口に運ぶほどに、飲むほどに肩のコリが取れていくような良い時、良い酒、いいツマミ。実際、あれやこれやの出来事はどうでも良くなっていったのです。

ずいぶん安上がりな男ですねぇ。志の低い男ですねぇ。小粒なんですねぇ。
南国タイの農民たちの話だ。俺は日本各地の仲間や、タイ、韓国、フィリッピンなどの農民たちと一緒に「アジア農民交流センター」を作っていて、農業を中心とした経験交流を行っている。立ち上げたのは1990年ごろからだから、かれこれ30年ほどになろうか。分けてもタイの東北部(イサーン)には幾度も訪れている。
そんな我々の事業に対して「タイの村に行って、何か参考になることってある?彼らの農業は遅れているだろう?」との反応が多い。確かに我々が行く村には日本のように圃場整備が行き届いている水田があるわけではない。水は雨期を利用して貯めた天水。田植えは、ほとんどが手植えで、稲刈りも人力だ。このように日本とは大きな違いがあるが、土を耕す同じ農民として考えさせられることは実に多い。
その一つが、「生きるための農業」と呼ばれているものだ。そう、生産性を上げて利益を増やす為の農業ではない。もちろん生きて行くためには利益も必要だが、それを他の何よりも優先させるということではなく、穏やかに暮らし行くことを目的とした農業。生きるための農業。生きていくための農業だ。
 背景には、農民たちが政府から奨励された輸出専門の換金作物生産によって借金まみれになってしまった現実があった。利益を目的に誘導され、破たんした農業があった。それまでの自給自足を中心とした農業には、貧しくはあっても借金苦はなかったという。
それを政府の方針で、自給中心型から換金を目的としたサトウキビだけ、あるいはキャッサバだけを作る輸出作物栽培に切り替えた。しかしその作物価格は国際市場の動向に左右され、浮き沈みが激しい。
また、それらの作物は土壌からの収奪性が高く、継続して栽培するには作物とセットになって奨励されていた高い化学肥料と農薬を使うしかなかった。作物が暴落しても経費は安くはならない。それまでの自給的暮らしと比べれば、とてもお金のかかる農業に変わってしまった。
やがて輸出作物が暴落し、借金だけが膨らんだ。農民たちは農業を捨て、出稼ぎに活路を見出さざるを得なくなっていく。イサーン農村は出稼ぎ労働者を多く生み出す地域となっていった。家族はバラバラになってバンコクへ、中東へ、トウキョウへ、ソウルへと出て行った。
 そんな中で、かろうじて残った農民から始まったのが「生きるための農業」である。当初、それは村の中の「変わり者」の農業だったという。変革者は必ず「変り者」として登場するのが世の常だが、「生きるための農業」は間違いなく少数者の農業だった。そこには生活を守ろうとする自給の為の様々な工夫があった。農地の真ん中に池がほられ、魚を飼う。台所の生ごみは細かく刻まれて魚たちに与えられた。池の周囲にはマンゴなどの果物が植えられ、木陰には小さな豚舎や鶏舎を建て、家畜を飼う。堆肥を作り、肥料も自給する。その外周には水をうまく活かして野菜畑を作る。いわば、自給と資源循環の農業である。農業と暮らしの操縦桿は再び、国際市場から農民の手に取り戻した。

 さて、日本である。自由主義市場経済の名のもとに、あくまでも「利益と効率」が中心で、水田や畜産、畑作の大規模化が半ば強引に進められ、たくさんの家族農業、小農の淘汰が行われている。経営の操縦桿は、大規模化が進めば進むほどに農家の手を離れ、機械、肥料、農薬関連の企業の手に移り、他方で健康や環境問題への不安が広がっている。この利益と効率のレースにはゴールはなく、勝者もいない。少なくとも身近なところには、それで幸せになった人はいない。ただ辛い日々が続くだけの毎日。
 近頃、農水省から「みどりの食料システム戦略」なるものが出されたが、遺伝子組み換え技術やゲノム編集などの上に農薬や化学肥料の削減などを接ぎ木しようとする訳の分からないものとなっている。
我々はいったいどこに向かおうとしているのか。自分たちで操縦桿を手にしたタイの農民のように、そろそろこの辺で立ち止まり、穏やかに暮らすことを目的とした農業、みんながともに生きて行けるための社会づくりに舵を切ってみたらどうだろうか。


今から60年ほど前のことになるが、母親はよくカレーを作ってくれた。それは俺たち兄妹にとって、とても楽しみなご馳走だった。小麦粉とカレーの粉を水で溶き、肉の代わりにクジラの白身。ニンジンやジャガイモ、ネギなどを加え煮込んでくれたもの。
夕方、遊びから帰ると、その香りが近所まで広がり、「あ、今日はカレーだ!」と、とても誇らしく、うれしかったことを覚えている。皿にご飯と香り豊かなカレーをかける。福神漬けなどのコジャレタものはなかったが、それがとってもおいしく、腹がはち切れるまで食べた。
それから随分時が経った。102歳になった母親は今も健在だ。何年か前に、子どもの頃に食べたカレーを再現してもらったことがあった。小麦粉にカレー粉、クジラに野菜は昔と一緒。出来上がった香りも、黄色の色合いも当時と同じ。
「よし!」とスプーンですくい口に運ぶ。ん? これがあの頃食べたカレーか? 味が淡白過ぎてコク感じられない。深みもない。まずくはないがおいしくもなかった。あんなに喜んだ味だったのに。母親には申し訳ないが、全く期待外れだった。
「お前たちはこのカレーをおいしい、おいしいと、いつも喜んで食べていたんだよ」と、母親は笑みを浮かべてはいたが、どこか淋し気だった。
なぜおいしく感じなかったのか?それは俺の味覚が変わり、昔の味では満足できなくなったからに違いない。今のカレーに感じるコクや深みは、カレーのルーの中に含まれている化学調味料の力なのだろう。母親が作った昔のカレーには、そうした調味料は全く含まれていなかった。
和顏施(わがんせ)
誰にでもできる笑顔の贈り物。この言葉を知ったのはずいぶん前の事になる。それ以来今日まで、誰かの笑顔に出会い、新しい力を得たように思える度にこの言葉を思いだす。この言葉は仏教の教えの一つで、地位や財産がなくても心がけによって誰もがいつでも簡単にできる他人への「施し」の一つだという。まわりがホッとして、うれしくなるような贈り物。
 笑顔をもらう立場から言えば、いつだってうれしい。暖かい笑顔に出会うとなにかうれしい贈りものをもらった様な、どこか浮き浮きした心もちが続く。あらためて考えて見れば不思議な力だ。笑顔。「和顔施」。なるほどな。
 さて、今日、コロナによって誰もがストレスの多い暮らしを強いられていて、イライラ感はコロナ以上に伝染する。こんな時だからこそ、そこには「自分を引っ張る笑顔」、「周りを支える笑顔」、「気持ちを明日につなぐ笑顔」など、意識的、自覚的な笑顔があっていい。鏡を前にし、口角を上げて練習してみるというのも大いに有りだな。鏡を前に・・今日は止めておこう。

 月刊「地域人」(大正大学出版会)所収・拙文より抜粋

 最近、主要な農作業は息子にまかせ、実務労働に特化していますが、飯は美味いし、酒も美味いので肉体は動かさないくせに今までと同じような食生活を続けていましたから太る一方でした。ここに来てようやくそのバカさ加減に気付き、食事を減らしています。6kgほど減って、目標まではあと7kg。え、そんなに!と思う必要はありません。少し古い例えですが、小錦から数キロg取ったってあまり見かけは変わらないのと同じように、私も6kgぐらい減ったところで外見上ほとんど変わっていません。
 かの大谷選手は193cmで102kgだそうですが、私は今、191cmで102kg。ほとんど大谷君と一緒。それを言うと周りに軽い笑いが起こり、私はすこし「キズ」つきます。
 コロナがヒト治まりしたらお気軽においでください。大リーグ迄行かずとも、山形においでになれば、大谷君に会えたような気に・・ならないかな。
 今日(5/26)、田植えが終わった。
やれやれと思っていたら、
「いま、果樹全般が、今まで経験したことがないほどの甚大な被害に襲われている。サクランボ、ブドウにリンゴも・・、この時期に花が咲く果樹のほとんどが『遅霜』(おそじも)の被害で壊滅的打撃を受けている」との百姓仲間からの一報。収量はほとんど期待できないかもしれないとのこと。その範囲は程度の差はあろうが、少なくとも山形県全域。もしかしたら関東から北の広大な領域に及んでいるかもしれないという。 

 原因は例年にないぐらいの春の早さと花芽の成育。そこに襲い掛かって来た「遅霜」。異常気象だ。友人の果樹農家は、「きっとこれが常態化するだろう。これでは果樹栽培は成立しない。」と話していた。コロナ禍の国民同様、農業もまた守られてはいない。共済はあっても掛け金が払えず、やめていく農家は多かったという。そんな中でのこの被害だ。危機に備えようとせず、目先の利益に追い込むだけの日本と言うシステムがここでも破たんを見せている。
 早急に果樹農家の支援と、異常気象に対応する共済制度の仕組みの再構築を行わなければならない。

10日ほどの間を置いてようやく2羽のツガイとなった。その二週間に何があったのか。考えると面白い。
旅の途中まで一緒に来た。だけど連れ合いが我慢できない程にわずらわしくなり、とても一緒に巣作りする気持ちになれず、話し合いの結果いったん別々に生きて行こうとなったのだけれど、それにもまた別のわずらわしさがあり、半分人生を諦めてもどってきた・・・とか。あるいは同じ境遇の相手を見つけて一緒になったとか。いろいろあるだろうけど・・まずは良かった。

 さて、若葉が広がり、我が家のニワトリ達も毎日、外で遊ぶことが多くなった。ツバメのツガイはまだ卵を産んでいないが、我が家のニワトリたちは毎日おいしい玉子を産んでくれている。
 春もたけなわ。20日ごろから田植えの予定だ。