ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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それぞれの地域にはその地固有の風土があり、暮らしがあり、それに見合った食材と食べ方がある。それを「郷土食」というのだそうだ。その郷土食は近年、ファスト・フードやたくさんの冷凍食品などに押され影が薄くなっていた。でも最近その存在がみなおされてきたという。

「なんといっても健康が第一だよ。だから郷土食。」と若い友人はいう。
私はその郷土食で育てられてきた。思い出すことができる夏の郷土食といえばナスの漬物、蒸したナス、ナスの煮物、炒めもの、キュウリの漬物や煮物など、買ってきたものはほとんどない。旬の野菜というと聞こえはいいが自分の家の畑で採れたものばかり。ほとんど毎日が同じもののくり返しだった。

当時、郷土食という気取った言い方はなかった。あったとしてもそれは貧しさの別の表現だったと思う。今でもわが家の食事はそのころとあまり代わってはいないけれど。そんな身からすれば若い友人の言葉にいささか思いは複雑だ。
ふ〜ん、健康にいいってかぁ。そりゃそうだろう。でも大丈夫かい、質素だよ、と人ごとながら心配になる。

そんな折り、長井市の西根地区公民館から郷土食の調理本である「里のめぐみ」が発行された。作成したのは地区の60代、70代の四人の女性達。夏の郷土料理を食べながら、冊子の完成を祝いたいという案内をいただき参加した。出された献立は、お赤飯、くじら汁、だし、みずのおひたし、つけものなど。
        
「生まれて始めて取り組む、慣れない作業でした。郷土の素朴な料理や味を若い人達に伝えたい」とご婦人方の弁。

「残しておきたい郷土の料理」という副題のついた冊子を手にとり、めくってみる。「ふきのとう味噌」から始まるおよそ40品目。酢の物、あえ物、煮物、佃煮、炒り物、からめ物・・・そこには春、夏、秋、冬と季節ごとに分けられた様々な料理が丁寧な調理法と解説つきで書かれていた。

驚いた。質素だなんてとんでもない。限られた食材に加えられた多様な調理、工夫のかずかず。たしかにわが家の夏の郷土食といえば、ナスずくしだったが、一年を通してみればやっぱりいろんな物をたべていた。

ところで、郷土食というのはそれこそ何百年もの間、親から子、姑から嫁へと伝えられてきたものだった。しかしいま、郷土料理の本を都会の人達へではなく、おなじ郷土で暮らす人達にむかって発行しようとするのは、その伝達が立ち行かなくなっている現実があるからだろう。

この本の発行によって、若い人たちの中にも作ってみようという人が増えるかもしれない。そうあってほしいと思う。地元の風土に根ざした食の技(わざ)。このまま忘れられてしまうのはいかにもおしい。

冊子の問い合わせ;西根地区公民館(0238−84−6326)















 高校時代の三年間は、いい意味でも悪い意味でも、俺たちのその後の人生にずいぶん影響を与えているよね。えっ、その中の特に何がですと?笑うなよ、いいかい。それはな・・・こい・・koi・・恋。恋なんだよ。

 少し大きめの制服を着た同級生の中から、一人の女性の姿を眼で追うようになったのは一年生の夏ぐらいからかなぁ。

 以来、卒業までの三年間、悲恋、破恋、恥恋、笑恋、大失恋の数々。

 あまり胸はってよそ様に語れるものはないけれど、胸の中にはいつも特定の人がすんでいたよ。
廊下ですれちがった時にわずかに眼があっただけで、どんな部活の苦しさにも耐えられると思ったし、そこにほんの少しの笑顔でも付け加われば、それこそ一週間は天国に昇ったような気分が続いたね。

 当時はやった「高校三年生」という歌の中に「ぼくら、フォークダンスの手をとれば・・」という歌詞があったけど、そのフォークダンスが何日も前から楽しみで、前の日は念入りに髪を洗い、ツメをきり、と・・。でもね、笑っちゃうのは、イザその娘との番がまわってくるとガチガチになりながらも、わざとそっけなくするんだよね。ばかだねぇ、若いねぇ、かわいいねぇ、あのころの俺、俺たち。

 俺たちは三年間の中で、異性とのつきあい方を学んだと思うよね。想像をやたらふくらませ、美化しすぎることなく、また、その逆でもなく、様々な失恋や悲恋の中から、等身大の異性との関係のとり方、つきあい方を学んだんだと思うんだ。

 もっとも、俺の場合はまだまだ勉強が足りなかったとみえて、卒業後も悲恋、破恋・・は続くんだけどさ。

    






 今月の10日、長井市西根地区の公民館で、「菜の花の村・未来づくりの会」の新年会がおこなわれた。

 菜の花を楽しみ、その実であるナタネを搾って油をとり、使った後の廃食油を精製して車を走らせる。そんな目的をもった20名の老若男女が集まって会を結成したのは昨年の9月初旬のことだ。

 2.6ヘクタールの畑に種をまき、生育状態を見守りつつ始めての新年をむかえた
2、6ヘクタールという面積は決して小さくはない。昨年、ナタネ油用の栽培面積が山形県全体で5ヘクタール弱しかなかったことを考えれば、お分かりいただけるだろう。初めての年としてはいいスタートがきれたと思う。菜の花の成育も順調だ。みんなの気分はいい。

「春になって花が咲いたらきれいだろうね。」「花畑のまん中にゴザを敷いて酒宴というのはどうだろうか。」鍋をつつきながら、話題はとっくに5月にとんでいる。
そんなとき「これから先の菜の花の栽培だけど・・・」と言葉を選びながら話しだしたのは、会の世話役の敏夫さんだった。

 菜の花の栽培は転作作物として補助金の対象にはなっていない。そのため収入はナタネの販売利益だけだが、粗収入はうまくいって10アールあたり6万円ぐらいしか見込めず採算があわない。この現実の中でこれから先どうすすめるか。敏夫さんの話はこういうことだった。
栽培面積がふえている滋賀県などでは県や町の補助金をあてて小麦などと同じ10アールあたり10万円になるように不足分を補っているという。

 しかし山形県にはその仕組みがない。いくら菜の花畑がきれいで、ナタネ油が安全でおいしくてもそれだけでは栽培は広がらない。その話を聞きながら「理と利の調和」ということを考えていた。
私は地域づくりには理念と利益のほどよい調和が大切だと思っている。このことは25.6年ほど前の減反拒否の手痛い失敗から学んだものだ。

 理念の正しさだけでは仲間は増えず、地域を変える力にはなれない。理念の示すところには同時に利益があるということが、運動のダイナミズムを獲得するうえでは大事だ。これがなければ事業は広がりにくいし、継続しづらいだろう。

 生活している立場にたてば、このことはしごく当たり前のことなのだが、その渦中にいると時には見えにくくなることがある。

 ささやかな利益でいい。なるべくならそれを自力で確保したい。簡単なことではないことは分かっている。その難しさが「未来づくり」の醍醐味でもあると思えるのだが、現実には敏夫さんの話をどう受けとめたらいいのか。


 置賜農業高校飯豊分校生が日本学校農業クラブ全国大会のプロジェクト発表文化・生活部門で「食物アレルギーの理解を求めて」という実践発表を行い、最優秀賞を受賞した。昨年の東北大会優秀賞に続いてのこと。

小さな分校の大きな快挙である。

学校農業クラブというのはあまり聞き慣れないが、全国の農業関係科目を学ぶ11万人の高校生の全国組織だそうだ。飯豊分校の実践がそのトップに立った。

 地元の人達が集って開かれた「祝う会」で彼らの発表を聞き感動した。生徒達は実に堂々としている。内容もすばらしかった。

 その活動を紹介しよう。
スタートは食と健康の視点から玄米に着目したことだった。その効果と活用の実態を調べようと様々な分野の人を訪ね話を聞いた。その結果、玄米の良さに一層の確信を持つが、食べにくいということから敬遠されている現状を知る。そこで学校で作っていた無農薬玄米を使い数々の玄米料理のレシピをつくる。更にレパートリーを広げ玄米ケーキ作りに挑戦。地元のお菓子屋さんと協力して商品化にも成功する。保育園の依頼を受けて自分たちのつくった玄米ケーキを園児たちに提供するようになった。

 子どもたちはとても喜んでくれたが、中に食物アレルギーのために食べることができない園児がいることを知った。そんな子にこそ玄米を食べてもらいたいと、アレルギーの原因となる卵や小麦、乳製品を除いたケーキを作ろうと決意する。地元のケーキ屋さんからは「卵などがなければケーキは膨らまない。無理だ。」と言われたが、失敗を重ねて6ヶ月後、ついに成功する。
何度かくじけそうになったというが、苦しむ園児たちを助けてあげたいという思いが勝ったということだろう。

 更にそれにとどまらず、アレルギーを持つ子どもたちのことを少しでも知ってもらおうと紙芝居を作成し各地で上演する。食と健康の問題を地域の中で広く訴えるために町民に呼びかけ、玄米フォーラムも開催した。

こんな一連の活動が受賞の対象となった。

これは高校を地域に開き、地域の課題を地域の人達とともに考え、その参加のもとに組み立てられていく新しい教育実践なのではないだろうか。高校の授業の中に地域を活かすというような、よく聞く領域を越えている。生徒もすばらしいが、それを支え、指導する教師の力量と情熱、それに学校全体の協力体制もみのがせない。この受賞は飯豊分校全体が評価され獲得した賞といえるだろう。

残念ながら現代は「食についても学ばなければいのちが危ない時代」である。農業高校は職業としての農業後継者を育てるだけでなく、いのちのみなもとである食や環境について考える生徒、人間を育てる場として今後ますますその役割が大きくなっていくだろう。

飯豊分校はその先頭を歩んでいる。








 長井市ではレインボープランという名の生ごみと農作物が地域の中で循環するまちづくりをすすめているが、この事業に国内だけでなく外国からの視察者も多い。

先日、タイの東北部にあるカラシン県ポン市から市長一行がやって来た。

 すでに同じタイ国のコンケーン県ブアカーオ市では「レインボープラン」という名の、同じ事業が始まっているが、ポン市でもこのプランを実現しようと市長自らが視察に出向いて来られたというわけだ。

 タイでレインボープランを求める背景には環境や農業、食料のどれ一つとっても日本の私たちより深刻だという状況がある。たとえば農業だが、輸出用の商品作物を増産しようと農薬と化学肥料を多投してきた結果、土が疲弊し、満足に作物が育たなくなっている農地が増えているということだ。

「化学肥料によって栽培された作物を食べ続けてきたことも一因だと思いますが、人びとの免疫力が低下しています。糖尿病、高血圧、ガンなどの病気も増えてきました。私はいま市民の健康を、食の面から守ることが行政のとても大切な仕事だとおもっています。そのためにも是非レインボープランを実現したい」と市長は語る。

 日本の場合も輸出こそしなかったが、堆肥から化学肥料へと農法を変え、タイと同じように効率と増産による最大利益を追い求めて来た結果、土が疲弊し、それが主な原因となって作物の弱りを引き起こしてきた。

「食品成分表」(女子栄養大学出版部)によって1954年と、約50年後の2001年のピーマンを比較すると、100gあたりに含まれるビタミンAの含有量は600単位から67単位へとほぼ1/9に激減している。ビタミンB1も0,1mgから0,03mgに、ビタミンB2は0,07mgから0,03mgへ、ビタミンCも200mgから76mgへと、のきなみ成分値を下げているのだ。

これには驚かされる。

 今の私達がビタミンAをピーマンからとろうとしたら54年当時の9倍の数を食べなければ同じ分量にはならない。成分の下落は他の野菜にもいえること。身体は全て食べ物からつくられていくことを考えれば、この数値の低下はちょっと恐ろしい。

 ポン市の市長が指摘するように、作物の質の低下は、それを食する者の免疫力、生命力にも大きな影響を与えるだろう。

政治や行政の最大の課題は、人々の健康、すなわちいのちを守ることである。そのいのちを支えるのはいうまでもなく食べものだ。その食べものを育むのが土であるならば、土を守ることは第一級の政治課題でなければならない。ポン市の市長さんの話を聞きながらそんなことを考えた。
 
ぜひ成功して欲しい。俺たちもこれからだ。





 田植えの季節が終わった。今年も田んぼの主役は年寄り達だった。    

今年75才になる我が集落の栄さん。彼は5年前の70才の時、自分の田んぼ1ヘクタールの他に、近所の農家から60アールを借り受けるほど米作りに情熱を燃やしていた。でも、この春、借りた田んぼをもとの農家に返したという。

どんなにかがっかりしているだろうと、田んぼの水加減を見ての帰り、栄さんの家によってみたら、想像していたよりずっと元気だった。

「足腰が痛くてよぉ。これがなければまだまだおもしろくやれるんだがなぁ・・」 
「自分の田んぼはつくれるのかい?」
「あたりまえだぁ、だまってあと5年はできるぞ。生きているうちは現役よ。」
まだまだ意欲は衰えていなかった。やっぱりこの世代の人達は今の若い衆とモノが違う。

 集落44戸のうち20戸が生産農家で、主な働き手の平均年齢は64才と高齢だ。

 私が26才で農業に就いたときは、若い方から数えて三番目だった。若いということで寄り合いの時などは年輩者から「机をだして。」「灰皿ないよ。」と指示され雑用係を務めていた。そのときから28年たった。いまも私は若い方から数えて三番目だ。54才の私は、60代、70代の先輩のもと、同じように皿だ、箸だと率先して動かなければならない。おそらくは10年後も。あまり考えたくはないが。

 「俺たちはよう、若い者たちをいたわっているんだよ。」そう話すのは74才の優さんだ。毎朝4時半には目が覚めるけど、家の若い衆を起こしてはならんと、しばらくじっとしていて、田んぼにいくのは5時半をまわってからだという。それもそっと。
そばにいた優さんの奥さんが笑いながらつけたした。
 「私も、朝ごはんを出したり、掃除したりと、嫁を起こさないように注意しながらやっているよ。」
 外に出てからもな・・と優さんはつけ加える。「勤めに出ている村の若い衆を起こさないように、遠い方の田んぼに行って草刈り機械のエンジンをかけるんだ。」

村では年寄りはいたわられるものという、よそで普通に聞く話は通用しない。我が集落の水田は、栄さんや優さんが現役でいる限りは大丈夫だ。

だが、もう一つの現実もある。栄さんは今年、畔草に除草剤をまいた。除草剤をまけば、畔の土がむき出しになり、崩れやすくなるのだが、足腰の痛みにはかなわないということだろう。

緑が日々濃さを増していく6月の水田風景。そのところどころに、除草剤による赤茶けた畔がめだつようになってきた。これもまた、高齢化する農村と農民の現実である。

10年後、どういうたんぼの光景が広がっているのだろう。