ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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春の気配

「天気のいい日が今日で3日続いているねぇ。」
「春になったかな。」
雪国の春はこんな会話から始まる。
実際、冬の間なんか朝から晩まで一日中晴れだというのは1か月に2日もないぐらいだ。あとは雪が降っているか曇り空ばっかり。午前中晴れていても午後からは雪。こんな毎日だ。布団が干せない。洗濯物が乾かない。小鳥の声が聞こえない。あたり一面が白と黒の世界。冬の間、誰も勤めに出ていない我が家では雪かきをしたり、ニワトリや玉子の仕事をしたり、好きな本を読んだりして過ごす。

 3月になると冬には決してありえない3日続きの晴れた日が現れる。そうなれば春。やがてずんずん雪が融けていく。小鳥たちの声がにぎやかに聞こえてくる。裏にそびえる朝日連峰の急な斜面ではところどころで雪崩が始まる。雪の融けた小川のほとりからフキノトウが芽をだす。味噌汁に散らしたり、てんぷらにしたりして春の味と香りを楽しむ。こうなったら本格的な春の始まりだ。それは同時に農繁期の開始でもある。昼間からお茶と一緒に「藤沢周平」を楽しむなんてできなくなるんですよ。そんな季節、もうすぐそこまできている。

種もみが来た!

農協から種もみが配達になった。今年は「ひとめぼれ」、「つや姫」、「はえぬき」、「黄金もち」の4品種を作ることにした。「つや姫」は山形県の新しい品種だ。おいしいとの評判が広がっている。今年はこれを60aほど作ってみることにした。今年も主力は「ひとめぼれ」。もち米は小田原のお菓子屋さんなどとの契約栽培だ。これらは我が農園から直に消費者にお届けする米だけど「はえぬき」はJA出荷用。JAとのお付き合い米だ。

さあ!今年も

 今年も殺菌剤ゼロ、殺虫剤ゼロ、化学肥料ゼロでお米を作る。最初の試練は種もみに着くカビ。そして田植え直後の「イネミズゾウムシ」。これにやられると苗の葉が食べられ、田んぼが白っぽく見えるほどになる。そうなったら秋の収量は半分以下。その覚悟が要る。さあ!今年も。
                                                                                                 2012.3

    土といのちと循環の下に・・菅野農園 TEL;FAX・0238-84-3196






3.13 緊急市民国際シンポ
  やっぱりTPPでは生きられない!            ■
  http://antitpp.at.webry.info/201202/article_9.html ■■■

TPPをめぐる動きは国内でも国際的にも急ピッチで進んでいます。
政府はTPP交渉参加に前のめりで、情報も明らかにせず、今春にも参加を強引に決めようとしています。
いま急がなければならないのは、TPPの本質を見極め、ムラとマチ、国境を超えた人びとの連帯で、TPP包囲網をつくることです。
TPPに反対する何人かの国際的な活動家と、
日本で論陣の先頭に立つ東京大学の鈴木宣弘教授を招いて、TPPをめぐる状況と問題点、各国の運動状況、これからの運動のあり方を討論します。

「やっぱりTPPでは生きられない!」。
私たちは昨年2月と10月に討論会、シンポを開きました。
今回の緊急市民国際シンポジウムにも多くの皆さんの参加を呼びかけています。
0ぜひ、ご参加ください! 

●日時:3月13日(火)18:00〜21:00
●場所:総評会館2階204会議室(千代田区神田駿河台3-2-11)

    地下鉄「新御茶ノ水駅」「淡路町駅」「小川町駅」、JR「御茶ノ水駅」下車
    http://www.sohyokaikan.or.jp/access/

●スピーカー(予定変更の可能性あり)

◎ 鈴木宣弘氏(東京大学教授)
1958年、三重県生まれ。東京大学大学院農学生命科学研究科教授。1982年、東京大学農学部を卒業後、
農水省に入省。2006年より現職。
著書に「TPPと日本の国益(全国農業会議所)」「よくわかるTPP48のまちがい (農文協ブックレット)」など。

◎ ローリー・ワラック氏(米・パブリック・シチズン国際貿易監視部門Director)
NAFTA 、WTOなどに関する専門家で反グロ−バリゼ−ションの活動家。
ハ−バ−ド出身の法律家で著書も多数。
下院議員事務所などを経て、1995年より現役職。いくつかの市民団体の設立にも関わり、理事も務める。
共同執筆に「>異常な契約-TPPの仮面を剥ぐ」(ジェーン・ケルシー編・農文協)

◎ ピーター・メーバードック氏(米・パブリック・シチズン医薬品担当)

◎ ラッセル・ノーマン氏(ニュージーランド・緑の党国会議員)

◎ 宗基昊氏(韓国・弁護士)他

●参加費:500円 ※同時通訳あり

★主催★
TPPに反対する人々の運動(共同代表・山下惣一、菅野芳秀、天明伸浩、山崎洋子、色平哲郎、山浦康明)

【問い合わせ先】
「TPPに反対する人々の運動」事務局(担当・上垣)
E-mail:muramachitpp@gmail.com

【参考資料】
※「パブリック・シチズン」って何??
「Public Citizen(パブリック・シチズン)」について…
1971年設立の歴史あるNGOでワシントンに拠点を置く。
「企業はロビイストを雇っているが民衆には声を挙げ、届ける手立てがない」ということで、
「民衆の声を代表し、権力にその声を届ける」ことを活動の基本として調査・研究・分析・提言活動をしている。
特に製薬の分野、核、自動車産業に関する問題で成果を挙げており、
更に巨大企業の利益を世界の民衆の犠牲において実現するような貿易協定に関わる問題では主導的な役割を果たす。
そして企業に対抗し、我々の政府が民衆の利益のために政治をするべく戦っている。
パブリックシチズンには政府の監視部門、エネルギ−計画グル−プ、
国際貿易の監視グル−プ、保健に関する研究グル−プ、訴訟グル−プの5つの政策グル−プを置いている。

→ホームページ
http://www.citizen.org/



確定申告の作業に没頭しているために・・・などというと格好いいけれど
実際はふりまわされている状態で、ブログの更新はちょっとの間お休みです。
 どちら様も風邪などひきませぬように。

   
 長井市に「川の駅」構想が浮上している。
 その駅とレインボープランとの関係は?
うん、そうなんだよ。今のところ何もなし。
それではもったいないではないか。
だからと言ってレインボープラン野菜のレストランを作れなんていうのじゃなく、また、レインボープラン作物販売コーナーなんていう誰もが考えそうなことでもなくさ。第三のつながりっていうのはあるんじゃないかい?

長井市は最上川の最上流に位置するまちで、かつて米沢藩にとって
日本海の北前船とつながる舟運の拠点だった。
また、朝日連峰、飯豊連峰から流れくる清流の合流点で
町の中をくまなく水路てめぐっていて、人々と水との仲のいい付き合いが
昔から長く続いてきたまちでもある。

ま、こんな予備知識を前提にして、鉛筆をなめたのが下のメモだ。

1、循環はいのちの営み。自然は小さな循環、中ぐらいの循環、大きな循環とたくさんの循環に満ちている。それは大気、水、有機物(いのちあるもの)などの自然を構成するすべてのものに通っている摂理。

2、大気は植物と動物を通い、天空をめぐる。水は降っては大地を潤し、また天にのぼる。有機物はことごとく土に返り、養分となって次の生命に活かされていく。自然界はすべて循環。

3、環境問題は循環のなめらかにめぐるところには存在しない。環境問題は循環の渋滞から発生する。肝心なのは循環のスムーズな流れを取り戻すこと。

4、人々は昔から川を通じて交流、交易をおこなってきた。文化、産業、暮らしを相互につなぎ、運び、創りだす大切な役割を担ってきた。

5、川のもう一つの役割は、地上の水の循環の欠くことのできない一翼を担っているということ。

6、雨の一滴は川を通って大海に運ばれ、雲となって天に上り、雨となって大地を潤し、また川となって大海に至る。この大きな水の循環の中で、地上の生き物の生命活動が続いてく。

7、生きている者たちのすべての体の中に体液を持っていて、絶えず体内を循環している。(動物だけでなく草の葉っぱを切っても中から体液が出てきる。)その体内の循環は大きな循環の一部。いったん人間の体内に取り込まれた水は汗や尿となって体外に放出され、大きな循環に合流して行く。草や木に取り込まれた水も動物の体内に取り込まれた水も、大きな水の循環の一部。川―海―雲―雨―大地―川―の一行程を体内に借りているに過ぎない。

8、今、私たちが水をきれいにすること、川をきれいにすることは、とりもなおさず、私たちの生命活動を守ること、暮らしを守ること、未来を守ることにつながっていく。

9、「水のまち長井」は、暮らしの中に水が溶け込み、水との暮らしの智恵を持っているまち。ここに「川の駅」が生まれ、人々が川や水と仲良く暮らす術を広く全国に向って発信していくことは社会への一つの貢献の在り方。

10、この長井にレインボープランという有機物の循環の考え方が育ったことは決して偶然ではない。有機物の循環のまちは生まれるべくして生まれ、根付くべくして根付いた。

11、いのちの営みである水の循環と有機物の循環が、ともにまちの市民の暮らしの中に根付き、智恵となり、文化となって定着しているまち長井。

12、設立される「川の駅」はレインボープランとの関係を前面に押し出すことで、水の循環と有機物の循環をつなぎ、それを実現している模範的地域として長井市を全国に紹介し、発信する拠点として設立される。「川の駅」はその役割を果たすことで、21世紀の人類的課題である環境と循環の取戻しに応えようとする。これが「川の駅」を長井に設立する理由である。


 「それだけ?教育や、文化の話だけかい?それで飯が食えるのかねぇ。」
「いやいや何もこれで終わりっていうわけではないよ。土俵をまず描いてみてから何がふさわしいかを考えようということさ。」
「お前の話はいつもまわりくどい!」
「・・・」



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2/8〜2/12まで長井市長とともにタイの東北部コンケン県ポン市に行ってきました。
と言いますのは
ポン市は早くから長井市のレインボープランを参考にしたまちづくりを進めていました。

ポン市からこれまでも二度、市長、職員、住民が長井市のレインボープランを視察に来られています。
その都度、「我々のレインボープランをぜひ見ていただきたい。今度はポン市にもおいでください。」というメッセージが長井市長に届けられていました。
ようやく今回、長井市長以下市民がポン市を訪れ、友好を深めてきたというわけです。
ポン市の「郡役所前の市場」、「100年の杜プロジェクト」、「生ごみ堆肥化プラント」、小学校の子どもたちの歌や踊りと民族楽器の演奏など本当に学ぶことの多い感動的な歓迎のなか、これからの両市の友好関係について話し合われました。
稔り多い交流だったと思います。



これまであったようなODAではなく、NGOでもなく、
山形県下の小さな田舎のまちづくりが国境を越えてタイの田舎町ポン市にとどけられポン市が少しずつ変わる。そのポン市を見て長井市も自分たちのまちづくりをあらためてとらえ返す。
今までにもよくあった、同じような観光資源を持っているとか、ゆかりの人物の縁とかの友好都市と違って、地球的課題であるグローバリズムの中における地域のあり方、農を基礎とする循環型社会、工業化する農と食への地域的対策、食と健康、住民参加・・・など、これからのまちづくりについての共通の目標をもつ田舎町同士というのが面白いと思います。

食糧の輸入国と輸出国という違いがあれど同じように地域経済はグローバリズムによって翻弄されてきました。ポン市はそこから輸出のための農業ではなく、生きるための農業に、生きるための地域づくりに向って方向転換をしてきました。「郡役所前の市場」も「100年の杜」もレインボープランの採用もその転換のなかでのことです。
これらのことは次回に報告いたしましょう。
長井市とポン市のような友好都市関係は生まれるべくして生まれた、実に新しい、21世紀的関係だと思います。

ポン市には県議のメッセージも届けられました。



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そうなんですよ、冬が来るのがいつも楽しみなんです。
冬になり、時間ができたらこれをやろう、これを読もう、ここに行こうって。
いい季節です。
ですが太るんですよ。想像してみてください。
 190cmの大男の体重が三桁になり、110kgに果てしなく近づいていくのです。ほとんどの人にとって実感できないでしょうね。ま、たとえて言えばかのダルビッシュよりも身長で6cmほど負け、体重で6kgほど勝ち、収入ではちょっとだけ負けているてといえばお分かりいただけるでしょうか。



 とにかく、冬になっても労働シーズンと同じようにご飯がおいしいし、お酒がうまいし・・・。
だけど働かない。動かない。太る一方なんです。
春になればもとに戻ろうとするのですが大変です。
からだが重いのなんのって・・。
光と影、山と谷、幸と不幸・・・これらは常に一対で
光だけ、山だけっていうのはないものなのですね。
長所をほめるなら、それと一対の短所も受け入れなければならない。
だからさ・・・、時間的余裕と太ること、
今は達観してこの両方を楽しんでいますよ。
ダルビッシュ、お前もがんばれよな、関係ないかもしれないけど・・・。
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「氷が溶けたらなんになる?」

 こんな「なぞなぞ」がありましたね。答えは「水になる」。でももう一つ答えが準備されていて、答えは「春になる」。


 大雪ですよ。積雪2mはありますね。屋根に1mぐらいたまればふすまの戸のあけ立てが不自由になり、「ヨイショッ、ヨイショッ」なんて掛け声をかけながら、2,3度引かなければ出入りができなくなる。夜中のトイレはまどろみのなかで用をたし、すぐに布団にもぐりこみたいのだけれど、「うっ、あかねぇ!」なんて言いながら力仕事をやっているうちにすっかり目が覚めてしまうのです。
 その頃は軒から厚く雪が垂れ下がり、「このままでは軒が折れてしまうよぉ。」なんて年寄りが騒ぎ立てるし、母屋だけでなく作業所、鶏舎、農機舎なども同じようなことになっていて、我が家の犬までも早くやれと吠えてくる。上だけならまだしも下の方も玄関から道路までの除雪をしなければ通れないし、車だって動かせない。台所の水道もちょろちょろと出しっぱなしにしておかないとすぐに凍って出なくなってしまう。鶏舎の水道管は何度か破裂してパイプから水が噴出した・・・こんな感じなんですよ。
 でもね、それでも春が待ち遠しいなんて思わない。雪が消えてなくなってほしいなんて考えないですよ。不思議でしょぅ?なぜだかわかりますか?雪に振り回されてはいますが、春の忙しさ、あわただしさに比べ、冬の方がずっと自由な時間があるからです。雪はいやだけど冬がいいというわけです。俺が駄農だからだろうが・・。

 来年度の作付け

 季節がめぐり、来年度の作付を決めなければならないころとなりました。種もみを定めるたんです。
 山形県の奨励品種に「つや姫」というのがあります。最近デビューしました。おいしいとの評判です。来年度から作ってみようと思っています。今までみなさんにご紹介してきましたのは「ひとめぼれ」、「コシヒカリ」の二種類。来年度からは「つや姫」が加わることになり、いくらなんでも品種が多すぎるとの声が家族から上がっていて何の作付けを止めるか・・どうしようかを迷っているんです。我が家の米を食べた方からは「ひとめぼれ」の方がおいしいとの評判を戴いていて、止めるとなると「コシヒカリ」かなとなるのですが、これも捨てがたく・・やっぱり「つや姫」を止めるかぁなどと・・どうどう廻り。正直迷っています。


 家庭科の先生方の大会によばれました。その際、声をかけられたのが家庭科の教科書うを作っている出版社の方でした。その方に依頼され書いたのが1200字。下の文章です。同じような文は読んだよと思われる方もおいでかと思います。ま、いいじゃないですか。ゆるゆるとまいりましょう。


菅野農園は山形県の南部にそびえる朝日連峰の麓、雪深い里にある。
水田の副産物(くず米や米ぬかなど)をニワトリたちに。ニワトリたちのフンを水田に。“土・いのち・循環のもとに”のキャッチコピーのもと、水田4ヘクタールと自然養鶏1,000羽でつくる小さな循環型農園だ。働き手は我が夫婦。そこに5年ほど前、農業の専門学校を終えた息子が帰ってきた。以来、今日まで、田んぼだ、畑だ、ニワトリだとよく働いている。
 「あんなに働いてくれて悪いなぁ、もごさいなぁ(かわいそうだなぁの意)。家のためなら、うんといいけど・・。でも、よろこべないなぁ。このまま歳とらせていいものかといつも思っているよ。」
 息子が出かけた夜に、93歳の母はため息まじりに話す。長きに渡っていろんなものを見てきた母が、農業では幸せにはなれない、離れたらいいと話す言葉には説得力がある。でも、息子は充分そのことを知った上でなお農業に就いた。いまは有機農業の体験を積みながら、農協青年部や消防団の一員、地域の一員として会合や事業に忙しい。
その息子が最近、「TPP(環太平洋経済連携協定)が国会を通ったなら農業を続けられないだろうな。」と言い出した。TPPとは関税などの貿易上の垣根をなくし、国境を越えた貿易・投資などの企業の自由な経済活動を補償しようというもの。TPPに参加すれば外国の農作物が無関税で入ってくるため、とくに日本の水田農業は大きな打撃を受け、場合によっては壊滅するかもしれないという識者は多い。
「まわりの農家が離農していけば、田んぼに入る水路の管理などできなくなり、やっぱり我が家もやめざるを得なくなるだろう。」と息子。
 農家の不安をよそにテレビでは評論家が「日本のコメは778%という高い関税率で守られていて、消費者は不当に高いコメを食わされ続けている。」と話し、外国産の輸入やむなしと繰り返している。
日本の米は高いと言うけれど、彼らはご飯いっぱいの値段を知っているのだろうか?お米にして70g。104000円のコメを買ったとしても28円にしかならない。2杯食べたって56円。この価格が目くじらを立てて論じるほどのものなのだろうか?それほどの高さなのだろうか。
それに政府はTPPをきっかけにして大規模化をはかり、1.8ヘクタールの水田平均耕作面積を20〜30ヘクタールに変えていくと言っているが、たとえそうなったとしてもオーストラリアの3,000、アメリカの180ヘクタールと競争などできるわけがない。その渦中からたとえ数%が生き残れたとしても省力化による化学農業への一層の傾斜をはからざるを得ず、環境や食の安全を求める声に逆行することになろう。
いま時代が求めているのは土や海、森を始めとしたいのちの資源と共にあろうとする新しい人間社会、農を基礎とした循環型社会を築くことだ。
「ばあちゃん、大丈夫だよ。」と笑う息子の人生が、はたして母親の心配とは違うものになれるだろうか。日本がTPPに参加するか否か。今年のこの一年が正念場だ。

 

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菅野農園は山形県の南部にそびえる朝日連峰の麓、雪深い里にある。
くず米など水田の副産物をニワトリたちに。ニワトリたちの鶏フンを水田に。水田4hと自然養鶏1,000羽とでつくる小さな循環型農園だ。水田は殺虫剤、殺菌剤、化学肥料を排し、レインボープラン堆肥と発酵鶏フンによって栽培する。ニワトリたちも外に放し、なるべく自然に近い形で健康な玉子を得ようとしてきた。「土・いのち・循環のもとに」。これが我が農園のうたい文句だ。中心的な働き手は息子(28歳)。すでに結婚し妻と2人の子どもがいる。

 3・11で一変した。少しばかりの蓄えを郵便貯金にまとめ、息子たち家族がいつでも避難できるよう準備をしながら、落ち着かない日々を送っていた。山形県の汚染状況が分かるにしたがって緊急避難の必要性はなくなったが、息子は「自分の子どもに与えられないものを消費者に食べてもらうわけにはいかない。検査機関に調べてもらい納得のいかない数値が出たら農業をやめる。」と気を緩めてはいなかった。もし・・・その時は我が家が終わるときだ。

 茨城大学の「応用粒子線科学」高妻孝光教授の研究室が検査に応じてくれた。米と玉子。検査結果は「検出せず!!」。両方からわずか1ベクレル/1kgも出なかった。一家離散せずにすんだ。ホッとはしたが喜びは全く湧いてこなかった。

 福島では手塩にかけた農地を捨てて逃げ惑う農家がいる。家族がある。これまで「顔と顔の見える関係」と盛んにいっていた消費者の多くは問題にならないほどの低レベルでも一緒に考えようとはせず、一方的に関係を断ち切っていったという。長年培ってきたと思われていたものが簡単に壊れていった。そんな中、12月24日、リンゴ農家の仲間が、自分の育ててきたリンゴ畑で自ら命を絶ってしまった。

 問題は農家の側にはない。福島の側にはない。

 一人ひとりの生き方、覚悟を問いつつ、問われつつ、「福島」は続く。




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 迎春
 今年も新年を迎えてからの年賀となりました。
元旦の朝、雪深い朝日連峰の麓に分け入り「山の神様」(この地の微生物たち)に新年のご挨拶に行ってきました。


新しい一年、正念場の年ですね。

 原発と沖縄とTPP・・。求められているのは今までの価値観を温存したままの小手先の処方箋ではなく、全く新しいモノサシに基づいた別の日本の創出です。 
 私は「土はいのちのみなもと」を合言葉に、土を基調とした循環型社会への取り組みを通してこの流れに合流しようと思います。

 一緒に進めなければならない課題があります。
少し気負った言い方ですが、フクシマの被災者とともにあろうとすること。そしてTPP阻止です。

 本年もよろしくお願いします。


  2012年 元旦
                     菅野芳秀  



またまた農民の犠牲者です。
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-11117836481.html


寺山修司の脚本の中にこんな一節がある。ちょっと長いが引用する。「中学校の頃、公園でトカゲの子を拾ってきたことがあった。コカコーラの瓶に入れて育てていたら、だんだん大きくなって、出られなくなっちまった。コカコーラの瓶の中のトカゲ、コカコーラの瓶の中のトカゲ。おまえにゃ、瓶を割って出てくる力なんてあるまい、そうだろう、日本。(後略)」コカコーラの瓶はアメリカで、トカゲは日本だ。その一節はやがて有名な「身を捨てるに値すべきか、祖国よ。」と続くのだが、TPPに関する民主党内閣の姿勢を見ていると思わずこの文言を思い出す。

<農の希望はTPP、グローバリズムとは共存できない。>

私は農民だが、同時に日本列島に住む一人の生活者であり、また、今と未来に責任を負う1億2千万人分の一人でもある。そして、そのどれから見てもTPPへの道は危険だ。
ご存知のように、TPPは独立国の主権である関税自主権の放棄、貿易障壁の撤廃を柱として、内政干渉をルール化しようとするものだ。自由貿易とは言うが、あきらかに貿易上の取り決めという範疇を超えている。TPPとは強国がグローバリズムという名のもとに、国民国家の枠を超えて創り出した収奪システムだ。今まであったような交易上の範疇には入らない。いったん参加すれば国内法の上にTPPのルールが位置付けられ、この取り決めに違反したり制限を加えたりして外国企業に不利益を与えたとしたら、国が外国企業に訴えられ、莫大な賠償金を支払わなければならなくなるなど、今までの条約とは全く違う衝撃力を持っている。例えば日本の森が水資源の供給地として外国の企業に買い占められたとしても、国内法では制限を加えることができないのだ。(註;末尾に)
東日本の復旧には20兆円の資金が必要だと言われるが、当然のことながらこの公共事業も外国資本から自由ではなくなる。TPPは参加国の形を変える。単なる農業の問題ではない。
そもそもTPPはどこからやってきたのか。私は民主党政権が普天間問題で作ったアメリカとの「関係のゆがみ」を修復しようと携えていった「お土産」だと思っている。菅前総理が初めて口にしたのは横浜でのAPECの前、2010年の10月1日、国会での所信表明演説だ。そのときにはまだ野党はおろか肝心の民主党の国会議員ですらほとんど知らなかったという。それから1年と数か月。これまでいったいどれだけの議論を重ねてきたというのか。前に述べたようにTPPはこの国の形を変えるほどの大きな衝撃力をともなっている。だが、国会で議論が尽くされたとはとうてい言えない。国民の多くもよくは知らない。にもかかわらず、昨年(2011年)の11月、ハワイで開催されたAPEC首脳会談において、TPP参加に向けて事前協議に入ると明言してきた。参加の可否をめぐって、国会を解散し民意を問うぐらいのことは最低必要なことではないのか。民主党政権は、ことの重大性にもかかわらず、何ほどの説明も行うことなくTPP参加に前のめりになっている。マスコミだってそうだ。彼らはTPPのプラスとマイナスの両面を国民の前に明らかにしようとしてきただろうか。やってきたことは誰もが知っているように、ただ「バスに乗り遅れるな」とばかりに危機感をあおり、「TPP参加」を国民に押し付けようとしてきただけだった。ジャーナリズムの基本的な役割を放棄している。すべてが浮ついていて、原発と同様、肝心なことは国民に何も知らせず、政治権力、マスコミ情報権力、経済団体が一体となって、あたふたとことを進めようとしている。だが、ここでも彼らに未来があるとは到底思えない。
トカゲにビン瓶を割る力があるのかって?当たり前だ。割れる。石に噛り付いても割らなければならない。それ以外の道はあるわけはない。そういうことだ。

新年早々、いきなりのタンカでもうしわけない。だけど新春にふさわしく、夢のある「農業・農村の今後の課題・展望」を語ろうとしても今はTPPを避けては通れない。またTPPを知れば知るほど危機感が深まっていき、このような言葉になってしまうのだ。

<日本のコメが「不当に高い」?それって「不当に安い」の間違いでねえの?>

TPPをめぐる論議の中でまたぞろ農業攻撃が盛んになってきた。
「日本のコメは778%という高い関税率で守られていて、消費者は不当に高いコメを食わされ続けている。」と為政者やマスコミは盛んに水田農業をやり玉にあげ、規模拡大を進める必要があると合唱する。このような論に接するたびに、この国の「指導者たち」は農業をどうしてこう規模の面からしか見ることができないのだろうかとうんざりする。
そもそもだよ。高いとは言うけれど、彼らはご飯いっぱいの値段がいくらにつくのかを知っているだろうか?白米にして70gだ。104000円のコメを買ったとしても28円にしかならない。私のコメは殺菌、殺虫剤を使用せず、堆肥だけで育てたお米で105,000円だ。それでもお椀一杯が35円。2杯食べたって70円。コンビニに行けばペットボトル500mlの水は120円で売っている。この水よりも安い。この価格が「不当に高い!」と目くじらを立てて論じるほどのものなのだろうか?それほどの高さなのだろうか。
私の村は山形県の穀倉地帯、置賜地方の中にある。周りは水田ばっかりだ。そんな俺たちの今年のJAへの売り渡し価格は1俵(玄米60kg)あたり10,500円だ。「戸別補償」を加えても12,000円ほどにしかならない。一方、東北農政局は最新情報としてH22産の生産原価を発表しているがその価格は米一俵あたり14,445円。これが通常栽培の原価だという。実際はもっとかかっているのが実感だが、ま、いい。今年も似たようなものだろう。それを12,000円で農協に売り渡す。ちなみに生産資材は一切値下がりしてはいない。下がっているのは農家の売り渡し価格だけなのだ。事業としては全く成立しない。販売価格が生産原価を下回るという異常な事態はすでに10年を超える。
ちなみに12,000円という米価は38年前のS49年(1974年)の13,615円を下回る。当時の朝日新聞の一ヶ月の購読料はいかほどだったかといえば1,700円。それが今日では3,925円となっている。およそ2.3倍だ。それを米の価格にあてはめれば一俵あたり33,223円とならなければならない。それが12,000円だからツライ。
新聞がほぼ毎日のように「日本の米は高い」と書いてきた。新聞にそんなこといえるか?今日、一ヶ月の新聞購読料が1,700円でやれますか?お前たちもそれをやってみたら、農家の気持ちも多少は分かろうというものだ。それをやった上でなお、「日本の米が高い。」といえば話を聞こうじゃないか・・・なんてね、だんだんタンカ口調になってくるのですよ。
水田とともに、数千年の歴史を刻んできた村はいま、少しずつ崩壊に向かっている。わが村の水田農家の平均年齢はおよそ67歳。日本の農家の平均年齢とほぼ一緒だ。後継者なんて育つわけがない。規模の問題ではない。大規模経営の農家の方が立ち行かないのだ。

<何が「新成長戦略」か>

TPPをきっかけにして大規模化をはかり、1.8haの水田平均耕作面積を20〜30ha(山間部では10〜20ha)に変えていくと言っているが、たとえそうなったとしてもオーストラリアの3,000ha、アメリカの180haと競争などできるわけがない。俺は身長190cmで体重100kgの体格だが、俺をアメリカだとすれば、日本は30haになったとしても1/6の大きさ。赤ん坊より小さい。俺とまともに競争して勝てるわけがない。
外国からの安いコメが入ってきても日本のコメは輸出すればいいという意見もないわけではない。しかし、これほど現実を見ない話はない。コメの年間生産量は848万tだが、輸出量は2010年実績で2,000t。全体の0.23%でしかない。一部の特殊的な例をもって全体の危機を覆い隠すことはできない。
近年、環境と生態系に負荷をかけず、何よりも食の安心、安全を第一とする循環農業、有機農業への流れができてきたように見えたが、一転して農法は、農薬、化学肥料により傾斜したものにならざるをえないだろう。省力化、コストの削減、土からの収奪と土の使い捨て。未来の世代にはぼろぼろになった土しか渡せない。それでも生き残ることは難しいだろうが、そんな農業、そのような「国づくり」が進行していくのだ。それを民主党は「新成長戦略」という。でも、それがどのような意味で「成長」なのだろうか。
TPPには未来はない。農業、食糧生産をそのような「成長」路線から解き放ち、未来の世代を脅かすことのなく、いまある日本型農業を守り、土や海、森を始めとした、いのちの資源を基礎とする新しい人間社会のモデル、農業を基礎とした循環型社会を広くアジアに、世界に示していくことこそが日本の進むべき道ではないかと思うのだ。

<それでも考えたい!農業・農村の今後の課題・展望>
―――――そのための前提条件について―----------

1、“土はいのちの源”の上に立って
長年、百姓してつくづく思うことは、「土はいのちのみなもと」ということだ。作物は言うまでもなく土の産物であり、その育った場所の土の影響を全面的に受ける。
かつて山形県で収穫したキュウリの中からおよそ40年前に使用禁止となった農薬の成分が出て問題になったことがあった。農薬は40年経ってもなお土の中に分解されずにあった。そこにキュウリの苗が植えられ、実がつき、成長し、汚染されたキュウリができてしまったというわけだ。同じような例だが、隣の市ではかつてお米からカドミュウムがでたこともあった。企業が廃坑になった鉱山の後始末を充分にしなかったからだが、農民にはつらいだけの話だった。米は全て回収されて焼却処分された。つまり、作物は土から養分や水分だけでなく、化学物質から重金属まで、いい物、悪い物を問わずさまざまなものを吸い込み、実や茎や葉に蓄えるということだ。それらは洗ったって、皮をむいたってどうなるものではない。何しろ身ぐるみ、丸ごと溶け込んでいるのだから始末が悪い。土の汚染はそのまま食べる者の汚染につながっていく。
一方、土の力の衰えは作物を通して食べる者の生命力、免疫力に影響を与えていく。
作物の中のミネラルなどの養分をみてみよう。「食品成分表」(女子栄養大学出版部)によって1954年と、約50年後の2000年の野菜を比較すると(表参照)100gあたりに含まれるカルシウムや鉄分などの含有量は軒並み減っている。この傾向はここに上げた野菜にのみいえることではなく、ほぼ全ての作物にあてはまる。
原因は何か。それは土の力の減退にある。1954年まではほぼ堆肥だけで作物を作っていた。だが、60年代に入って堆肥中心のいわば有機農業から化学肥料や農薬を中心としたものへと農法を変え、効率と増産による最大利益を追い求めて来た結果、土の力が衰え、作物の質が落ちて行ったということだ。子どもたちは50年前と比べ、その含有養分が数分の一に成分値が下がった作物を取り入れながら、骨や肉、血液を作らざるをえないのだ。子どもを取り巻く基礎的食料の質の劣化。このことが子どもたちの生命力や精神力に少なからざる影響を与えているに違いない。
このように、もしその土が汚れた土ならば作物も汚れ、食べる私達も汚れていく。もしその土が疲弊した土ならば作物のもつ生命力は弱く、それを食べる私達の生命力、免疫力も弱くならざるを得ない。「土はいのちのみなもと」なのだ。土を喰う。そう、私たちはお米や野菜を食べながら、それらの味と香りにのせてその育った所の土を喰っている。私たちはさながら土の化身だ。土の健康は即、人間の健康に結びつく。食を問うなら土から問え。いのちを語るなら土から語れ。健康を願うなら土から正そう。生きて行くおおもとに土がある。そういうことだ。
土を食べ、土に依存することによって生きる。このことは我々のみならず、100年後の人たちにとっても、200年後の人たちにとってもかわらない。土の事情は食べる人たちに密接に影響を与える。土は世代を越えたいのちの資源なのだ。政治や行政の最大の課題が、人々の健康、すなわちいのちを守ることであるとすれば、そのいのちを支える土の健康を守ることは第一級の政治課題でなければならない。切実にそう思う。この食と土とのいのちの関係を抜きにし、面積や、規模だけを追う農業政策はすでに過去のものとしなければならない。必要なのは土に有機物や堆肥を投入し、農薬、化学肥料を極力軽減することが可能な政策、生産体制を築くことである。土を守る。これが前提の第一だ。

2、国民皆農を織り込んだ新しい道

個人的には、家族農業をそれ自体としてどう守るかというだけではなく(その課題はとても大切だが)、たとえば、農を志す都会の若者たち、農を織り込んだ暮らしを実現したいと思う市民や、自給的な生活を望む人たちにも広く農地を解放するような仕組み。農民的土地所有(利用)から市民的土地所有(利用)への転換。望めばできる国民皆農への道作りなどを織り込みながら、新しい生産のあり方、暮らしのあり方を提案する。
国民皆農といえばとんだ現実離れした話といわれそうだが、決してそうではない。今のロシアにその実例をみよう。ロシアのダーチャ。それは農業とは別の職業を持つ人々が、休業日を利用して自らのための食料を生産できる農地利用の仕組みのことである。このダーチャによって、1991年、ソビエト連邦が崩壊しロシア連邦になった政治・社会体制の激変時においても、国民生活はそれほど混乱することもなかったという。ロシアではこのダーチャのもと、都市の住民によって準主食であるジャガイモの8割、野菜の7割以上が、生産されている。わずかな年金しか受け取れない年金生活者にとっても、ダーチャの産物を自給にまわし、余ったものは換金の対象にすることができるという。
この市民的な農地利用が日本でもロシアのように国の自給率の多くの割合を占めるようになるにはずいぶん時間もかかるだろうし、それに見合う暮らしや労働のあり方、教育など、社会全体の仕組みも変えていかなければならないだろうが、決して不可能なことではない。
すでに家族農業を守ろうというだけではどうにもならない現実がある。しかし、だからといって、企業農業がその代替となるとはとうてい思えない。家族農業か然らずんば企業農業かではなく、それとは違う価値、それとは違うつながりのもとに、「環境」、「循環」、「健康」、「福祉」、「自給」、「教育」などを織り込んだ新しい農(土)と人々の関係を築いていくことが求められている。効率だけを追い求めてきた「成長神話」の中で、土から離れ、自然から離れ、人と人との結びつきもバラバラになってしまったかに見える社会のただなかに、土と食、土と暮らし、人と人の共同の原点に立ち返って、足元からもう一つの仕組みを創りだしていこうということだ。求められているのはこのような成長だ。
農業の一層の大規模化とケミカル化。挙句の果ての食の海外依存という道ではなく、家族農業と日本型「ダーチャ」の組み合わせ。これを次世代型農業の柱として政策化すること。これが前提の第二の条件であろう。

3、自給的生活圏の形成を

話は少し変わる。原発の話だ。以前、下のような文章をある新聞に書いた。その抜粋だがお読みいただきたい。
「地方に建設された原発は、地方の貧しさに付け入った政治の醜い姿をあらわしている。その上での今回の放射能被害。地方は息の根が止められる事態に追い込まれている。
以前、「朝まで生テレビ」で東京都副知事は「原発を都心からもっと遠くにもって行く必要があった。それが失敗だ。」と話していた。原発が必要だという人たちに共通しているのはその果実だけを求め、生まれるリスクを自分(たち)では背負わず、遠く離れた地方に押し付けようとすることだ。未来の子孫に肩代わりさせようとすることだ。今もなお必要というならば自分(たち)の暮らしの場に原発を誘致するよう働きかけるべきだろう。さらに放射線の汚染水も小分けしてそれぞれの地元や企業、家庭で引き受けるべきだろう。そのように働きかけとセットにして原発必要論を語るならば認めよう。果実とリスクを併せ呑むよう足元を説得してみればいい。それ以外のどのような必要論も詭弁である。地方を利用しようとするな。地方は都会に奉仕する家来ではない。地方は都会の植民地ではない。
都会の家来でなく、植民地でもなく、エネルギーから食料まで、小さくてもしっかり地域に根を下ろした自給圏の形成を目指すことが求められている。農業を基礎にした脱原発、脱成長の循環型社会を目指すこと。その余剰を他の地域に回す。この点では地方も都会もなく、一様に自立する。日本の社会をこのように構成しなおすことが求められている。「3・11」以後、少なくとも意識レベルでは生き方、暮らし方を変えようと考える人たちも多くなっていると聞く。不幸な中にも希望はある。この機を逃すことなく、エネルギー政策も食糧政策も新しく組み替えることが大事ではないかと思うのだ。」
電力のみならず食糧においても、大都会に一元的につながれてきた生産地と消費地の関係の転換を図ることが第三の条件だ。地域はまず何よりも大都会への供給地だ、というのは今までの考え方だ。地域の人たちの食、暮らしを考えた場合、大都会の前に地域の自給をまず実現し、その「余ったもの」を大都会へという順番だろうと思う。そのように地域自給圏を全国に形成する。そのモザイク的集合体として日本列島を構成しなおすのだ。その点では都会も例外ではない。圏内の農地を活かし、足りないところをなるべく近い県から支援してもらう関係を築くことで、災害に強い、自給的な地域に脱皮していくことが求められる。「国家的自給」の前に「地域自給」を。これによって日本の農と食の関係が今までとは全く違ったものになっていくだろう。(ここで言う生活圏、地域とはかつての「藩」の広がりを指している。)
日本の「食料・農業・農村への提言」を論ずるにあたって、今や小手先の手直しではどうなるものでもないということをはっきりさせなければならない。抜本的な視点からの政策が求められるところだ。もとよりこのことはTPPとは両立することはできない。
そう、これらの前提条件のすべてはTPPとは相いれない。TPPの阻止こそ食料・農業・農村にとっての「希望」の前提条件である。

<風前にともし火をかざす!だからこそ・・>

TPPは日米関係の総仕上げとしての役割をもっている。これによってアメリカは日本を政治的、軍事的のみならず、社会・経済システムと食料の面においても従属関係におくことができるだろう。アメリカと日本国内「ポチ」にとっての総仕上げ、「理想的な日米関係」が成立するということだろうか。
私は今まで農の危機を時代の転換期ゆえの危機と捉え、「対案」をもって時代に参加しようと訴えてきた。しかし、日本がTPPに参加することになれば、各地のさまざまな「対案」も、嵐の中の小船のように、大波にもみくちゃとなり、沈没してしまわざるを得ないだろう。まず、政府にTPPへの参加を断念してもらわなければならない。それを通してのみ、希望の道が開かれていく。もともと「対案」の平穏無事な成長などはありないが、TPPはひどすぎる。

今は時代の転換期。風前にともし火をかざすことが求められているが、すべてはTPPを葬ってからだ!

(註)ただ、それらは日本がアジア各地でやってきたこと。フィリッピンなどの山々をはげ山にしてきたのは日本である。それへの反対運動も当然あったわけで、私たち日本人はTPPの前のアメリカ国民がそうであるように、それには無関心であった。いま、TPPの議論において、「被害者」、「弱者」の立場に陥りがちだが、加害者の視点かもとらえ返してみる必要があろう。大切なことは日本を含め、アジアの人々の暮らしや権利にとって、TPPやグローバリズムはどのような意味を持つのかを明らかにすることである。

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