さがえ九条の会

▼私の戦争体験
 〜最終回〜

 昭和28年4月頃から、鶴岡炭鉱で働いていた強制残留の日本人は、待ち焦がれていた日本への帰国が出来るようになり、何回かに分かれて次々と日本へ帰国して行きました。
 私たちの帰国が何時になるのかと気を揉んでいると、結局一番最後までのこされて、9月
中旬に、二十代後半の独身者百数十名がようやく帰国する事になりました。
 鶴岡市の鉱務局と市の人民政府により歓送会と宴会が持たれた。その席上、人民政府の
副市長が祝辞を述べられた。

 「終戦1年後の廃坑寸前みたいに荒れ果てた炭鉱の再開に苦労している時、皆さんは劣悪な生活環境で、襤褸切れを継ぎ足した雑巾のような衣服をまといながら、なれない坑内作業を厭わず、中国の工人と共に苦難を分かち合って、愚痴一つこぼさず、中国の工人を励まし頑張ってくれた。鶴岡炭鉱の復興と驚異的な発展は、皆さんの積極的な貢献を抜きにしてはありえなかった。中国人民と日本人民が共に手を取り合って戦争に反対し平和と民主主義のために闘おう。日本人民の平和と民主主義を守る闘いの戦列に加わる君たちの健闘を期待する」
 その後副市長さんは、私たちの座っているテーブルを回り一人一人と握手されました。
この祝辞は単なる社交辞令やお世辞でもない本当の気持ちを話してくれたのだと思いました。
鶴岡での7年間の生活を想い起こすと、当時の印象深い情景が次々と甦ってきます。
昭和25年五月下旬頃、日本人の労働組合の幹部から日本への帰国が可能になったと話があり、日本人は帰国の準備のため、坑内の作業を止めて郊外の仕事をすることになりました。私たちはこれまで何回か、日本への帰国について騙された事があるので信用できなかったが、今度は本当らしいと小躍りして喜びました。
 でも叉雲行きが怪しくなったのです。寝耳に水のような朝鮮戦争が勃発し、その戦争が拡大の一途をたどり、中国の政府から「朝鮮戦争が終結に向かう兆しがまったく無く、玄海灘の汽船の航行の安全が保証されないので残念ながら今回の帰国は見合わせる」との事で、日本への帰国は暗闇の中に消え去った。

 鶴岡には終戦後、北朝鮮から出稼ぎでなく、移住して働くようになる朝鮮人が家族ぐるみで来ていたのが少なくなかった。その中の青年たちが、救国の情熱に燃え、朝鮮人民軍に志願し従軍することになるのです。彼らの乗った列車が私たちの生活していた南山地区の独身寮の直ぐ近くを通り、窓から身をのりだして、手を大きく振り、見送る私たちに「頼むぞ頑張れ」と叫び、私たちも頑張れと声援をおくりました。
 坑米援朝運動は全中国人民を巻きこみ、私たちも国際連帯の意気を示そうと、生産を高めるだけでなく、中国人民義勇軍を直接支援しょうと、坑内で仕事をしているものは三日間の工賃を、郊外作業のものは1日の工賃を支援しようと自主的な話し合いで決めました。
 私たちでよかったらと中国人民義勇軍に志願しましたが、外国人は駄目だと断られました。でも私たちには、日本の平和と民主主義の闘いに参加しなければとの意思がありました。
 色々な事情から昭和28年九月の帰国は出来ず。日本に帰国できたのは、昭和33年4月でした。
竹のカーテンで閉ざされた未知の国から着た私たちを、よく帰って来たと温かく迎えてくれたのは身内だけでした。
 
 10回目で私の戦争体験を終ります。
  有難うございました



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〜鶴岡炭鉱での七年間 東海林正志〜

 私たちの義勇隊開拓団から鶴岡炭鉱に強制残留させられた仲間は、10名でした。その中から、身体の衰弱による結核で二名が帰らぬ人となり、一名が酸欠事故、もう一人の仲間は落盤で犠牲となりました。鶴岡には、最初の列車で千数百人が強制残留させられ、その後、元奉天、元薪京、ハルピン、鶏西、中国人民解放軍に従軍していた日本人が復員してきました、その合計人数は三百人近くおりました。ですから、鶴岡には、千六百人を超える日本人がおりました。
 明確な統計は出ておりませんが、身体の衰弱による病死、落盤、酸欠事故などによって四百名近くの死者が出ているのではないかと思います。
鶴岡に強制残留させられた日本人は、夏服の着たきりでした、それに精神的に、日本に帰国できると信じていたのが、なんと、帰国の見とおしは消え、賠償の見かえりで、何の期限もつけない炭鉱労働で一生扱き使われるのではないかとの不安にさいなまれていました。でも生きて日本に帰るためには、働き食を得なければならないと、自問自答し働き始める。

 当時の鶴岡炭鉱は、戦前の日本人経営者から受けついた、採炭夫の安全をまったく無視した採炭法による採炭が行われていた。日本の炭鉱の炭層は、二メートルと言えば、最も炭層が厚いほうで、それ以下のところがほとんどでした。ところが鶴岡の炭層は六メートルもあるので私たちもびっくりしました。六メートルの炭層の底辺から掘進で縦横二メートルの切羽を二十五メートルぐらい掘り進み、そこが採炭現場の切羽で、炭壁に発破を掛けて、広げて行くと、四メートル四方ぐらい広がると天盤を坑木で抑えていないので、天盤が落ちてきます。そのようにして切羽が広がって行き、六メートルの炭層が落ちて石の天盤が見えてくると、そこの切羽の採炭は終わりです。
 切羽が広がって行くと何時なんどき落盤があるかわかりません、大きな落盤がある時は必ずバラバラと小さな石炭が落盤の前ぶれとして落ちてくるのです。その前ぶれを見逃すと落盤の下敷きになるのです。ですから、私たちは緊張し、全神経を集中しておるのですが、スコップや鶴嘴を使い、夢中で働いているのですから、前触れに気ずかず、落盤の犠牲になるのです。

 採炭の切羽で、十二畳ぐらい広がった切羽で厚さが一・二メートルぐらいの炭層が落ちて、三名の仲間が下敷きになり即死でした。そこには断層があって、前触れが無かったみたいなのです。
当時を振り返ると、八時間の仕事が終って、坑外に上がってくると、「やれやれ今日も生延びることが出来た」とほっとします。本当に大げさではありませんが、戦場におる時とおなじように、坑内に入れば何時何処で身の危険が待っているのかわからないのです。
 当時は、終戦後、次の年から内戦に突入し、中国共産党の八路軍と国民党軍との死闘が展開されておりましたので、私たちだけでなく中国人も坑内で精一杯働いても食っていくだけのようでした。
私たちも、鶴岡で3年間働き、昭和24年初め頃、ソ連制の毛布を買うことが出来て、それまでの着どころ寝から解放されて、のびのびと寝る事ができるようになりました。
 鶴岡では落盤による死者が事故関係では最も多かったのです。私も落盤で下顎骨折と裂傷で気を失い、病院で負傷したことに気づきました。幸いな事に日本の歯医者さんがおりましたので、下顎の骨折を直してくれました。その後遺症で現在でも、指が二本口に入るくらいしか口が開かないのです。
  〜鶴岡炭鉱での七年間 東海林正志〜

 私たちの義勇隊開拓団から鶴岡炭鉱に強制残留させられた仲間は、10名でした。その中から、身体の衰弱による結核で二名が帰らぬ人となり、一名が酸欠事故、もう一人の仲間は落盤で犠牲となりました。鶴岡には、最初の列車で千数百人が強制残留させられ、その後、元奉天、元薪京、ハルピン、鶏西、中国人民解放軍に従軍していた日本人が復員してきました、その合計人数は三百人近くおりました。ですから、鶴岡には、千六百人を超える日本人がおりました。
 明確な統計は出ておりませんが、身体の衰弱による病死、落盤、酸欠事故などによって四百名近くの死者が出ているのではないかと思います。
鶴岡に強制残留させられた日本人は、夏服の着たきりでした、それに精神的に、日本に帰国できると信じていたのが、なんと、帰国の見とおしは消え、賠償の見かえりで、何の期限もつけない炭鉱労働で一生扱き使われるのではないかとの不安にさいなまれていました。でも生きて日本に帰るためには、働き食を得なければならないと、自問自答し働き始める。

 当時の鶴岡炭鉱は、戦前の日本人経営者から受けついた、採炭夫の安全をまったく無視した採炭法による採炭が行われていた。日本の炭鉱の炭層は、二メートルと言えば、最も炭層が厚いほうで、それ以下のところがほとんどでした。ところが鶴岡の炭層は六メートルもあるので私たちもびっくりしました。六メートルの炭層の底辺から掘進で縦横二メートルの切羽を二十五メートルぐらい掘り進み、そこが採炭現場の切羽で、炭壁に発破を掛けて、広げて行くと、四メートル四方ぐらい広がると天盤を坑木で抑えていないので、天盤が落ちてきます。そのようにして切羽が広がって行き、六メートルの炭層が落ちて石の天盤が見えてくると、そこの切羽の採炭は終わりです。
 切羽が広がって行くと何時なんどき落盤があるかわかりません、大きな落盤がある時は必ずバラバラと小さな石炭が落盤の前ぶれとして落ちてくるのです。その前ぶれを見逃すと落盤の下敷きになるのです。ですから、私たちは緊張し、全神経を集中しておるのですが、スコップや鶴嘴を使い、夢中で働いているのですから、前触れに気ずかず、落盤の犠牲になるのです。

 採炭の切羽で、十二畳ぐらい広がった切羽で厚さが一・二メートルぐらいの炭層が落ちて、三名の仲間が下敷きになり即死でした。そこには断層があって、前触れが無かったみたいなのです。
当時を振り返ると、八時間の仕事が終って、坑外に上がってくると、「やれやれ今日も生延びることが出来た」とほっとします。本当に大げさではありませんが、戦場におる時とおなじように、坑内に入れば何時何処で身の危険が待っているのかわからないのです。
 当時は、終戦後、次の年から内戦に突入し、中国共産党の八路軍と国民党軍との死闘が展開されておりましたので、私たちだけでなく中国人も坑内で精一杯働いても食っていくだけのようでした。
私たちも、鶴岡で3年間働き、昭和24年初め頃、ソ連制の毛布を買うことが出来て、それまでの着どころ寝から解放されて、のびのびと寝る事ができるようになりました。
 鶴岡では落盤による死者が事故関係では最も多かったのです。私も落盤で下顎骨折と裂傷で気を失い、病院で負傷したことに気づきました。幸いな事に日本の歯医者さんがおりましたので、下顎の骨折を直してくれました。その後遺症で現在でも、指が二本口に入るくらいしか口が開かないのです。

〜北満の果てに置き去りにされた朝鮮人従軍慰安婦〜

 千数百人が乗せられた十六輌連結の列車が日本に引き上げる事になっていた。ところがその列車は南下せず、東に向かっておりました。
そして着いたところは、日本ではなく北満の果ての鶴岡炭鉱でした。昭和21年9月半ば過ぎでした。鶴岡の北東は満ソ国境まで延々と森林地帯が続いていた。
 ここで昭和28年まで約七年間、坑内の石炭掘りに、否応なしに働くことになります。
私たち独身の通興組三十名は上水道の水源地の導水菅の補修工事が終わり、その後市街の地下二メートルに埋設されている上水道菅補修の穴掘りをしていた。
水源地に行く道路の左側約六百メートルのところに終戦前、煉瓦作り集落があり、そこには関東軍が一個大隊約三百人が駐留していたと中国人が教えてくれた。
 市街の外れの右側に細長い板張りの長屋みたいな建て屋が二軒あり、その真中が通路になっていた。通路の両側の長屋には1メートルぐらいの高さから透かしのガラス戸がはめられていた。
二坪ぐらいの土間があり、そこに長方形のテーブルと椅子がおいてありました。土間の奥は壁で仕切られた部屋で引き戸がついていた。土間を見ると人の住んでいる気配がなく、蜘蛛の巣が垂れ下がり空き家が目立っていた。私たちの中に中国の各地を転戦してきた、三十歳近い元軍曹の古年兵がおり、彼は、ここは元関東軍の慰安所のようだと話した。

 私たちもそうかなと注意深く見ていると、隣の土間の椅子に座ってこちらをじっと見ている中国の紺の長い服を着た女性のいること気づくのです。その女性は青白くどことなく元気のなさそうな顔をしておりましたが、眉毛が濃く目もぱっちりしてふくよかな丸顔で均整の取れた品のある表情をしておりました。中国人にしては何となく垢抜けしているので、もしかしたら朝鮮人ではないかと思った。
 もう戦争が終わって1年一カ月過ぎているのに、故郷の朝鮮に帰ることが出来ず、慰安所におるのですから、関東軍が置き去りにしていったとしか考えられません。この慰安所にはまだ数人残っていました。私たちは、ぼろほろの服をまとった敗残兵が浮浪者のような身なりをしていたので、中国語の少しできる仲間もおりましたが、恥ずかしくて、何も話できませんでした。慰安婦の方も私たちをどんな気持ちで見ておったのでしょうか?
 慰安婦たちは、日本に行けば、よい仕事があって、給料もよけいにもらえると、騙して、日本ではなく北満の果てに性の奴隷として強制的に連れてこられたのです。
日本の自民党政府は、まだ従軍慰安婦の問題では裁判でも争われておりますが、まだその責任を認めておりません。

 〜終戦前後の私たちの義勇隊開拓団〜

 この前の大公河義勇隊開拓団の小興安嶺越えの逃避行の日数は約二十五日前後で、通北地区の開拓団にたどり着いた隊員は五十数名で、そのほとんどが、昭和21年9月に鶴岡炭鉱に強制残留させられる。昭和28年に日本に引き上げる。
 昭和18年10月に元北安省通北県の通興駅から36キロのところに天ケ原義勇隊開拓団として入植する。入植当時約200名の団員がおりました。その後兵役で団員が次々と団を去り、昭和21年に入ると一番年下だった私たちが、1年繰り上げの徴兵検査で第二乙種まで召集され団に残った団員は十数名になり、団長にも召集が来て、幹部が二人残り,ご主人が召集されて残された奥さんが9人おりました。
このような時に、補充入植の形で、満州国の万里の長城を境とする熱河省の点在する農家が、抗日ゲリラの隠れ家になると、強制的に集落に集め、その集落に入れきれない農家約二十戸が私たちの開拓団に来たのです。

 終戦後、地元の治安維持会による武装解除が行われて間もなく1回目の元満軍と元満警と見られる十名前後に襲撃される。私たちの団に補充入植した現地人は口こみで私たちより早く終戦を知り一部の現地人は残ったが、一緒にいてはどうなるのかと不安になり脱走して行く。
 数日後、団本部の北側の道路を2列に並び,先頭は銃を持った元満軍らしき者十名ぐらいで、後続は槍を携えた農民五十名前後でした。
先頭の一人は畳一枚ぐらいの青天白日旗(中華民国の国旗)を持っていました。
彼らは歓声を上げて北側から突入してきた。団員たちは東側の土塁を越えて草むらに潜んで見守っていた。襲撃してきた彼らのリーダーらしき者の訴えが聞こえてきた。

 「中華民族は日本帝国主義の傀儡であった満州国の圧制に身も心も削られるように虐げられてきた
貧苦のどん底にある中華民族は生きて行くためにこのような行動に出ざるを得ない」と自らの行動の正当性を主張した。
(満軍の中には、国民党軍と八路軍の工作員が潜入し、じっと潜伏しておりました。終戦と同時に満軍の反乱などに動き出したが、ソ連軍が絶大な権力で治安維持にあたっておりましたので、水面下で沈黙していた。昭和21年初め頃から満州国からの撤退が始まると、国民党軍と八路軍の工作員は自らの勢力圏を拡大するため活発に動き出し、内戦が避けがたい情勢になって行きます)
襲撃してきた彼らは、兵役で召集された団員の所有物が一杯はいっている倉庫を散々荒らして主に衣服などを持ち出し、開拓団の日本馬に乗せたり、背中に小山のように背負い引き上げて行きました。彼らが襲撃してきた時は、昼飯の時間でしたので、これから飯を食べようとしていた折でした。そこに襲撃してきたので、飯を食べずに逃げました。

 彼らが引き上げていったので、腹が減って飯だと部屋に入ると。肝心の飯やお汁、副食などが食い散らかされていたのでびっくりしました。彼らの襲撃に無理な反撃をしなかったのでこちらには一人の犠牲者も出ませんでした。
その後は、現地人の襲撃は少なくなり、それから冬をこして昭和21年9月の日本への引き上げまでは受難の時期で、開拓団の地域から南下することなく、開拓団跡地で生活したのですが、やはり多くの子供や年寄り、団員も、食うもの困り、身体の衰弱により、発疹チウスなどが蔓延し、おおくの犠牲者を出しております。
(続) 〜満ソ国境地帯に置き去りにされた義勇隊開拓団〜

 孫呉駅より40数キロ離れた孫克県(満ソ国境まで10数キロ)に先輩中隊が昭和16年に入植し、その後次々と兵役で召集されて、団員が少なくなり、昭和20年5月に、補充入植で第5次の静岡県の池谷中隊百十数名が大公河義勇隊開拓団に入植するのです。
 昭和20年8月9日、団員たちは、普段と同じように大豆や小麦の除草などの仕事をしていた。午後2時ころ、北西の上空から見慣れない飛行機が飛来し、孫克街の上空を過ぎたと思っていると、轟音と共に物凄い黒煙が上がり、ソ連軍が満ソ国境を越えて侵入してきたものと直感する。

 この開拓団は、十七・八歳の独身者だけでしたので、すぐに脱出するには、何処に行けばよいのか皆目見当がつかず、軍用道路を通って孫呉方面に出れば、ソ連軍の戦車部隊に追いつかれればもう助かる見こみがないので、馬車を仕立て、食料や寝具日常品などを積み、団で飼育している日本馬に乗り武装して、山道に入る。
その山は、国境地帯から西南に連なる小興安嶺の大山脈を通過しなければならないのです。そして大公河開拓団から、北安街を過ぎて、通北地区の開拓団地域までは300キロ近くあるのです。この距離を知っていなかった団員は、無謀というか、一週間で小興安嶺を越えることが出来るとの予想だったのです。
 山に入ると馬車を捨て、積載している荷物も捨てて、人跡未踏ともいえる、背だけほどの草や雑木を掻き分け、あてども無くさ迷うように歩き、食料も無くなり、連れてきた馬を次々と殺して、食い、1日一切れの馬肉で過ごす日もあったようです。
 途中で行き倒れの遺骸などを見ながら、明日はわが身と思う日々だつたようです。
大公河開拓団のすく近くに入植していた大青森郷開拓団も、小公興安嶺越えで、一般開拓団でしたので、年寄りや子供、ご婦人も多くおりましたので、歩けなくなった人たちを、後で迎えにくるからと一定の食料をおいて、置き去りにしてきたのです。

 このように難儀してようやく北安街を左にみがら、現地人の集落を見つけ、その集落の様子見に行った5人の団員が、突然集落の現地人にみつかり、銃の集中攻撃を受け、高粱畑に逃げ隠れていたのですが、その後一緒に行動を共にしていた、仲間と離れてしまい、そこからそんなに遠くないところの、七つある通北地域の日本人の開拓団にたどり着きます。
この折り一部の団員は、ハルピンを目指して南下していったみたいでその人数は分かっておりません。
 小公安嶺を越えて来た団員のほとんどは、この地域の開拓団に御願いして、お世話になることになるのです。ここの開拓団にたどり着いた団員は、途中で犠牲になった方や南下した方もおりましたので、50数名だったみたいです
 (続)〜満ソ国境地帯に置き去りにされた義勇隊開拓団〜

 孫呉駅より40数キロ離れた孫克県(満ソ国境まで10数キロ)に先輩中隊が昭和16年に入植し、その後次々と兵役で召集されて、団員が少なくなり、昭和20年5月に、補充入植で第5次の静岡県の池谷中隊百十数名が大公河義勇隊開拓団に入植するのです。
 昭和20年8月9日、団員たちは、普段と同じように大豆や小麦の除草などの仕事をしていた。午後2時ころ、北西の上空から見慣れない飛行機が飛来し、孫克街の上空を過ぎたと思っていると、轟音と共に物凄い黒煙が上がり、ソ連軍が満ソ国境を越えて侵入してきたものと直感する。

 この開拓団は、十七・八歳の独身者だけでしたので、すぐに脱出するには、何処に行けばよいのか皆目見当がつかず、軍用道路を通って孫呉方面に出れば、ソ連軍の戦車部隊に追いつかれればもう助かる見こみがないので、馬車を仕立て、食料や寝具日常品などを積み、団で飼育している日本馬に乗り武装して、山道に入る。
 その山は、国境地帯から西南に連なる小興安嶺の大山脈を通過しなければならないのです。そして大公河開拓団から、北安街を過ぎて、通北地区の開拓団地域までは300キロ近くあるのです。この距離を知っていなかった団員は、無謀というか、一週間で小興安嶺を越えることが出来るとの予想だったのです。
山に入ると馬車を捨て、積載している荷物も捨てて、人跡未踏ともいえる、背だけほどの草や雑木を掻き分け、あてども無くさ迷うように歩き、食料も無くなり、連れてきた馬を次々と殺して、食い、1日一切れの馬肉で過ごす日もあったようです。

 途中で行き倒れの遺骸などを見ながら、明日はわが身と思う日々だつたようです。大公河開拓団のすく近くに入植していた大青森郷開拓団も、小公興安嶺越えで、一般開拓団でしたので、年寄りや子供、ご婦人も多くおりましたので、歩けなくなった人たちを、後で迎えにくるからと一定の食料をおいて、置き去りにしてきたのです。
 このように難儀してようやく北安街を左にみがら、現地人の集落を見つけ、その集落の様子見に行った5人の団員が、突然集落の現地人にみつかり、銃の集中攻撃を受け、高粱畑に逃げ隠れていたのですが、その後一緒に行動を共にしていた、仲間と離れてしまい、そこからそんなに遠くないところの、七つある通北地域の日本人の開拓団にたどり着きます。
この折り一部の団員は、ハルピンを目指して南下していったみたいでその人数は分かっておりません。
 小公安嶺を越えて来た団員のほとんどは、この地域の開拓団に御願いして、お世話になることになるのです。ここの開拓団にたどり着いた団員は、途中で犠牲になった方や南下した方もおりましたので、50数名だったみたいです
 私は1943年、旧満洲国奉天市(中国遼寧省瀋陽)で生まれた。当時、親子4人、奉天、新京とそれぞれの満鉄社宅で暮らしていたそうだ。父はあと3ケ用で戦争ガ終わるという45年5月に招集され、敗戦後、3年間のシベリア抑留のあとようや<引き揚げてきた。
 母は疎開先の新安州で敗戦を聞いたという。翌46年9月、ようや<帰国の途につ<ことが出来そうだ。母は大きな荷物を背負い、妹を胸に縛り、私に小さいリュックを背負わせ、私の手を取り、馬車と貨車を乗り継ぎ約1ケ用かけて帰国したという。この時、もしも、母とはぐれたり、母に置かれたら、私は確実に残留孤児になっていただろう。そうすれば、今頃「お父さんお母さんいませんか」と捜しに来ていたと思う。よ<もあの混乱の中、私たち幼い兄弟を連れて帰って来たと、母の信念、根性には感謝の念でいっぱいである。

 この残留孤児という呼び名、なんと嫌な言葉だうう。
残留孤児のみんなは、あの無謀な戦争の犠牲者で、両親や兄弟と離れ離れになったり、事情で中国に残されたり等の結果であって、好きで残留孤児になったのではないはずである。私も−歩間違えば残留孤児になっていたと思うと、戦争には心の底から憤りを覚える。
 このように戦争とは、国民を守るのでな<、権力者の領土争いで、いかに多<の人間を殺すかの最大暴力である。現実、その証拠として旧日本国軍隊は沖縄戦で都合が悪<なると島民(女子や子供たち)を殺戮している事実があるではないか。それを自衛隊(軍隊)はあたかも国民の生命と財産を未来永劫守って<れるものと勘違いしている人がいかこ多いかと残念でならない。
 今日の日本があるのは、敗戦後、国民みんなが真面目に一生懸命働いてきたからでもあるが、それと「憲法九条」があったからでもある。この平和憲法が国の発展に大き<貢献していることは誰もが認めるとこるである。
 これを改正して戦争が出来るようにするという、いつか来た道の過ちは絶対に許してはならない。声を大にして訴え、体を張って行動し、なんとしても阻止しなければならない。
 〜見捨てられた義勇隊開拓団〜
 
 昭和18年以後、義勇隊開拓団に入植した方々は、関東軍の戦略上の一方的な意図により、北満の孫呉北東の国境周辺と、東満の虎頭、虎林の国境周辺と、東寧の国境周辺に入植させられたのです。
 孫呉駅より北東92キロの満ソ国境に十数キロの孫克県に入植した大日記義勇隊開拓団は、昭和20年8月九日、現地人の服装をした特務機関の数人が草っ原を掻き分けて団本部に慌しく駆け込み「ソ連軍が国境を越えて侵入してきた、もう時間がない、すぐ脱出するように」と告げるとすぐ、身の危険を感じているのか足早に出て行く。
 この開拓団も、兵役で団員が次々と召集されて残った団員は十数名と、ご主人が召集で団を去り残された奥さんたちで、緊急に団員と家族を集め、脱出することになり、この団の地域内に農業をしていた現地人を平等に取り扱い、彼らと共に開拓団を建設することにしていたので、馬車十数台と現地人十数名の同意を得て、脱出は、関東軍が橋を爆破して去ったので、河を渡り、夜中も休むことなく進み、二日目に孫呉義勇隊訓練所のところで、運良く軍のトラックが通り、そのトラックに婦女子を乗せてもらい、南孫呉駅の南下する最終列車に間に合い南下します。
 孫呉街に到着した団員たちは、県公署に集合を命じられ、赤紙なしの応召者として、孫呉の部隊が陣取る陣地に配属され、新兵さんの二等兵で否応無しに戦場で戦うことになります。

 炎天下にタコ壷掘りをさせられ、ソ連軍の戦車に包囲され、飛行機の低空爆撃で多数の死傷者を出し、壊滅的な打撃を受けて、包囲網をくぐり抜け脱出した団員がおりました。八月二十八日に敗戦を知ったのです。
 その後捕虜としてシベリヤに連行され、山林の伐採に狩り出され、飢えと寒さで仲間の三分の一が帰らぬ人となりました。シベリヤで生き残った仲間は、昭和23年の夏頃までに、日本に帰国しております。私たちの天ケ原義勇隊開拓団でも、日本が敗戦になったことは、何処からも知らせが無く、現地人の口込みでソ連軍が北安街に着たとの情報で、日本の敗戦は間違い無いと思うようになりました。私たちの入った入植地は、無住地帯の原っぱで、匪賊の通り道で、現地人もこの地帯を通るのを恐れていました
 関東軍は、酷いじゃありませんか、俺たち、第3次義勇隊を満ソ国境まで連れてきてこき使い、ソ連軍が侵入してくると、置き去りにして、お前たちは勝手に何処へでも、逃げて行けとは、良心の一欠けらも無い、無慈悲な仕打ちではないでしょうか?
 〜孫呉義勇隊訓練所の終焉〜

 昭和16年に孫呉義勇隊訓練所に移行してきた私たちと第4次義勇隊の四ケ中隊は、昭和18年に、私たちの中隊が義勇隊開拓団に移行し、第四次義勇隊の中隊は、昭和19年に義勇隊開拓団に移行し、その後、新入所の義勇隊が昭和19年に四ケ中隊が来て、昭和20年五月に一ケ中隊が入所しました。
 昭和20年8月9日、「ソ連軍が満ソ国境を越えて侵入した」との第一報が入ると間もなく,訓練所の婦女子は訓練所のトラックで南孫呉駅に向かい、列車で南下する。孫呉の師団司令部から、赤紙ではないが、「義勇隊の諸君は、直ちに出頭せよ」の命令が来ます。寝耳に水で、国境地帯におりましたが、案外のほほんと生活しておりましたので、ソ連との戦争に行かされるのかと、動転したようです。訓練所の幹部の指揮で、徒歩で孫呉の部隊まで行くのです。
 孫呉の師団司令部に行くと、現役の新兵さんと同じように、二等兵の肩書きで各陣地に配属されたようです。孫呉には、関東軍特別大演習の時は3万の関東軍がおりましたが、戦況が思わしくなく、南方の戦線や、沖縄などに精鋭部隊が転戦してゆき、戦争で使える精鋭は五千名となり、それに、ねこそぎ動員で、まったく訓練をうけていない中年でしかも、ろくな武器も、もっていない召集兵を含めて一万数千名でした。孫呉の花見山陣地に派遣された義勇隊員は、「もうソ連軍と戦う第一線ですから、戦わざるをえないのかと、覚悟を決める」
 花見山陣地の兵士たちは、幼顔の、のこっているちっちゃい義勇隊員を「よく来てくれた」と喜び歓迎してくれたのです。陣地の兵士たちは、ソ連軍との戦いが激戦になり、死を覚悟しなければならない戦いになる。我々は戦争するためにこの陣地におるのですから死を恐れない、でも義勇隊の君たちは、満州開拓という使命をもってきている、
故郷に親兄弟がおるはずだ、ソ連軍が攻めて来たら、我々が戦うから君たちは塹壕に隠れていろ」
 この陣地には、ソ連軍が攻めてくることなく、終戦となり、陣地の兵士たちとソ連軍の捕虜となり、ソ連に連行されるも、身体が小さく使い物になないと中国に送りかえされるが、身体の大きい隊員は、シベリヤに残されて、過酷な労働に絶え数年で日本に帰国する。
 孫呉訓練所の約千名の義勇隊員は、ソ連との戦闘で犠牲になった方もおり、ソ連に連行された後、中国に帰された後に鶴岡炭鉱に強制残留させられ、私たちと一緒に坑内で石炭掘りをさせられ、昭和28年に日本に帰国した方もおりました。
 十五、六歳で、ソ連軍との戦いに参加し、犠牲になった方は、どんな想いであの世に行ったのでしょうか、また両親の嘆きはさっするにあまりあります。
 愚かで空しい戦争はどんなことがあっても許してなりません。
 黒河省孫呉義勇隊訓練所に移行して九ケ月が過ぎた、昭和16年九月3日に思いがけない事件が起きました。
 私たちの第四中隊から約15キロ離れた山林に、四十名が小屋に泊まりこみで孫呉の部隊に納入する炭焼きをしていた。夜9時30分頃、不寝番に付いていた2人の隊員が小屋の前の道路に人が通る気配にきずき、しかも一人のようで、こんな時間に一人で通るなんて怪しいと、この不審な現地人を取り調べようと、現地人の前に立ちふさがり、小屋に連れてきて取り調べようと、両脇から挟むようにして小屋に向かった。

 身の危険を感じた現地人は、一瞬の隙を突いて隠し持っていた拳銃を至近距離から発射し、一人は腹部貫通銃創で即死、もう一人は胸部盲貫銃創で数時間後息絶える。
 銃声を聞いた小屋の隊員は銃を持つて捜索するも夜間である事と、もし現地人が一人でなく、その仲間が山林の藪に隠れている可能性もるので、現地人を追って追撃するににも躊躇いがあり、その現地人を取り逃がしてしまうのです。
 小屋の前の道路は、関東軍が多く駐屯している孫呉を迂回して、北へ行けば満ソ国境に、南に行けば森林地帯を通って孫呉の手前の清渓に抜け北安まで行く事ができるので、ソ連と繋がっている現地人の情報員や、反満の坑日ゲリラの偵察員、日本の特務機関が情報収集に雇っている現地人が頻繁に利用している、道路ですから、ここは国境地帯なので、現地人は、武器を持っていないが、こちらは武器をもっている事からくる過信と言うか、大胆になり、最新の注意がおろそかになったのではないかと思います。この二人の方は、身体が大きく一メートル六十五センチを越えて、口数が少なく真面目で模範的な青年でした。

 まだ16歳です。二人は、北東村山郡の方でした。二人の故郷の近くの方が二人の遺骨を持って二人の家を訪問しました。二人の家を訪問した方は、気が重く、どのような慰めの言葉してあげればよいのかで頭が一杯だったようです。
 訪問した家のお母さんは、差し出された遺骨を前に「何でこんな姿になって帰ってきたのか」と溢れる涙を押さえきれず、泣き崩れてしまいました。
遺骨を届けた方は、畳に土下座して、じっと聞き入り、慰めの言葉どころか、何も話す事が出来なかったと言っていました。
 昭和16年三月末、黒河省孫呉義勇隊訓練所に移行しました。孫呉街には、関東軍特別大演習の折は三万の関東軍が集結しておりました。その孫呉街から北西に20キロぐらい行ったところに訓練所がありました。5ケ中隊1千二百名ほどの訓練生がおりました。
 孫呉訓練所から二十数キロ北西に行くと満ソ国境があり、その後ろ約4キロのところに勝武屯義勇隊訓練所(一個中隊)があり更に後ろに国境警備の1個大隊約600人の関東軍が駐屯しておりました。
昭和16年6月頃、第4中隊の営門に警備の立哨をしておりました。営門から50メートルぐらい下がったところに、孫呉街から国境に向かう軍用道路がありした。
昼間は軍用道路を通る人も少なく、殺風景な風景を眺めているだけですから退屈で時間が長いなと軍用道路を見ていると、孫呉街のほうから黒っぽい衣服を着た集団が長い列を作ってこちらに迫って来ます。野次馬根性が出てきて、軍用道路に下りて行きました。その隊列は四列縦隊で約百メートルぐらい続いており、少なくとも約三百名はおるみたいでした。

 彼らは孫呉街から二十キロの道を歩いて来たのですから、どの顔も疲れきっているようで隊伍は乱れがちでした。彼らの胸元を見ると、白い布切れが細長く縫い付けてあり、そこには北安省何々県何なに屯と姓名が書かれていました。私は、ほん の少し満語がわかるので、「何処に何しに行くのか」と聞こうとしたが、彼らが、みずから運命を知っているような寂しげで、どうにもならないのだと言う様に、口をもぐもぐしてしゃべっている表情でしたが、聞き取れませんでした。
 当時満州では「労工」と言い日本流に良く言えば勤労奉仕ですが、満州では強制奉仕で、満州国の黒子で影の権力者であった関東軍はこの「労工」を各屯(日本の村と同じ)強制的に割り当てたのです。この「労工」の隊列を指揮し、看視している、憲兵か特務機関がおったと思いますが、彼らの姿が見えず、「労工」の服装で「老工」の隊列に潜りこんで、隊列の指揮と看視をしていたのではないかと思いました。
この「労工」の皆さんが、再びこの軍用道路を通って故郷へ帰る事はありませんでした。
 鶴岡炭鉱に戦後強制残留させられた日本人の中に、元黒河省の勝武屯近くの陣地の戦闘に参加した方がおりました。その方にお聞きすると、強制連行された「労工」は、陣地構築が終わると、大盤ぶるまいのご馳走で酒を飲まされ、其の後虐殺されたと話しておりました。
満州の国境地帯の陣地構築に狩り出された「労工」の皆さんは、ほとんどの地域で、陣地の秘密を守るとの立場から、横暴で、非人間的な虐殺おこなわれました。

3のところでは孫呉訓練所での思い出に残る事について書きます。
            東海林正志

 私の戦争体験について書きます。
私は1940年3月小学校を卒業して間もなく、14歳で満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、内原義勇軍訓練所の三ケ月の訓練を受けて渡満しました。
私の身長は、1メートル30数センチで、日本軍の三八式歩兵銃とほとんど同じでした。
 渡満して、勃利義勇隊訓練所に入所する途中、日本軍のトラックに乗せられて現地人の集落を通過しました。その時ショックを受けた情景が現在でも鮮明に甦ってきます。
 集落の人々の服装は継ぎ接ぎだらけて、袖口から胸のあたり、ズボンの両脇などどこでも手ぬぐい代わりに使うと見えて、垢と汗が染み付いて、黒光りし、顔や喉首、手なども、元の肌が見えず黒ずんた汚い肌で、老若男女ともに、顔も手も洗わないのではないかと思いました。
 集落内には豚や鶏、家鴨などが野放しにされ、鼻を突き刺すような悪臭で、こんなところで生活できるものかと感じました。
私たちの訓練所での生活は、井戸があっても日本のように、いくら汲んでも出てくる井戸ではないの で、1個小隊で60名おる隊員に四トウ樽一つですから、まごまごしていると顔を洗えないのです。.
勿論風呂も勃利訓練所に九ケ月程おりましたが其の間風呂に入ったのは一回だけでした。
 ですから虱に悩まされるだけでなく、顔や手足だけでなく、身体も垢だらけで、現地人よりいくらかましぐらいだったと思います。
それに、飯も元海軍の食器に豆が多く入った飯が7分目ぐらいで、副食も一汁1菜もない、赤丸大根の三切れぐらいが浮いた岩塩の太平洋汁の時もありました。
娯楽も皆無で、時たま関東軍の映画巡回班が来て勃利訓練所では二回映画を見ております。
 ホームシックにかかり、仮病を使って、宿舎で布団を被りゴロゴロしている隊員もおり、その隊員がゴロゴロしているのが嫌になり、起き上がるのを待つだけでした。
 厳寒の最も厳しい12月から1月、二月に関東軍から、少尉と下士官兵など5、6名が来て,軍事教練で徹底的に扱かれました。私のように、背が低く体力もないものなどお構い無く、重い三八式歩兵銃を持たされ、訓練開始の集合が遅いと、後ろから二十番まで、もう一回宿舎に帰って出てこと、帰され、次は十番まで、5番までと三回も早駆けで走らされ、ヘトヘトでした。
気合を入れた下士官は、ニヤニヤ笑っているだけでした。

1回目としては、義勇軍で渡満して訓練所での生活についてありのままを書きました。
二回目からは、孫呉義勇隊訓練所で、日本軍の陣地構築のため強制的に農村から駆り出されて来た、労工との出会いと、其のことに関連したことを書きたいと思っています。
                           2月1日         

26歳で戦争未亡人になった母親        宇野 峰子

私は新宿の知人宅のかまぼこ型をしたコンクリートの防空壕で終戦を迎えたらしい。2歳と6ヶ月だった。「4月9日の空襲で焼け出された。自分の誕生日だから、決して忘れられない」と母は言う。その後、知人や親戚宅を転々とした。私の記憶は戦後の混乱の時からである。瓦礫の中で摘んだアカザを食べたこと。買出しに行き混んだ汽車の窓から乗ったこと。配給の順番取りをしたこと。農家から食料を貰うため子守りをしたこと。虱がいるとDDTを吹き付けられて真っ白にさせられたこと。上野の地下道にはたくさんの浮浪児がいた。
 父の戦死の知らせが来たのは、終戦真近であった。遺骨の箱の中に入っていたのは、父の名前と階級が書いてある紙が1枚だったそうだ。それでも母は横須賀の海軍基地に父の消息を確かめに行った。父は震洋隊に所属しており、震洋隊はハッチを閉めると中からは開けることの出来ない人間魚雷の部隊だった。父はフイリピンのコレヒドールで海の藻屑となったのである。
 母は26歳で戦争未亡人になり、それから姑と2人の子どもを育てるために必死で働く人生が始まった。昭和23年11月、古河鉱業の独身寮の寮母の職を得、私たち家族は一緒に住み込んだ。母はそれから70歳になるまでその仕事を続け生きてきた。
 一方私は父がいないことをあたりまえのこととし、のほほんと生きていたような気がする。ただ母が、女が一人で生きて行かなければならない時、頼りになるのは資格を生かした職業だと言う口癖に触発されたのか、私は教師を目指すようになった。母の苦労を思うと、「負けるわけには行かない」と言う気持ちが私を支えつづけてくれた。そして多くのことを学んで分ってきた。
 あの太平洋戦争がどんな戦争だったのか。誰のための戦争だったか。「父はそのために殺されたのだ。そして父も人を殺したかもしれない。」と強く思った。
退職した秋、母と夫と3人で戦没者追悼式に参加するため沖縄にいった。追悼式後、はるかコレヒドールの海に向かって手を合わせた時、どんな気持ちで死んでいったかを思うと胸が詰まり涙があふれました。そして、捨石にされた沖縄戦で死んだ20万人もの犠牲者を思うと、のどを抑えられたように呼吸をするのも苦しく感じられた。沖縄の摩文仁の丘にある「平和の礎」は沖縄戦で犠牲になった人々を国籍や軍人・民間人を問わず刻名してある平和記念碑である。ここは本当に平和を祈念出来る場所だと思う。
今日は12月8日、太平洋戦争がはじまった日、平和を守る母親行動に参加し、今帰ってきた。平和は世界中の人々が主義主張を超えて願えるものと思っていた。しかし再び戦争が出来る国にしようとするたくらみが急速にすすんでいる。同じ過ちを繰り返しては、心ならずも戦死していった、犠牲になって死んでいったたくさんの人々に申しわけないと思う。広島の原爆慰霊碑の『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから』この深い祈りを、9条を守るために私は死物狂いで頑張らなくてはならないと思う。