昭和52年2月28日夜。深く息を吸うと鼻毛が凍り、吐く息で眉毛が白くなる寒い夜であった。
「月見の会」(現:観月会)は、この日上杉神社社務所で雪見酒を楽しんでいた。
会員は東光蔵元の小嶋弥左衛門、米沢女子短期大学教授の上村良作、山形屋染物店の佐藤富寿、河北新報記者杉村敬三、上杉神社宮司大乗寺健、小山内鴻、小野栄の諸氏7人。会長も会則もなく、季節折々の月をめで、酒を楽しむ集いであった。
酒宴の始めに、誰かひとりが10分か15分、自分の得意な話をするのが慣わしで、その夜は上村教授が「北越雪譜」の話をした。この本は、越後の豪商鈴木牧之が、天保年間に江戸で出版した当時のベストセラーである。その講和がきっかけとなって、酒宴では雪の功罪について喧々諤々の論戦が始まった。
雪の美、雪の風情、それを楽しむ催しがないものか。雪をめでながら酒を楽しむことができないものか・・・に話題は集中した。小嶋氏からは十日町の雪祭り、横手のかまくらまつりの視察談が披露された。
そのうち「雪の中にローソクを点したらどうなるだろう」という話になり、物は試しと、神社社務所の庭の雪の壁に、頭ほどの穴を穿ってローソクを立て火を点した。部屋の電気を消すと、白銀の中にオレンジ色の光が揺らめく幻想の空間が出現した。夢想だにしなかった妖しい光芒に、一同思わずハッと息をのんだ。
雪ぼんぼり、雪灯篭の誕生である。
このように美しいものを、われわれだけで楽しむべきではない、多くの市民に呼びかけ雪灯篭の宴をやろうと、話は発展した。名称は上村氏の提案で「上杉雪灯篭まつり」と決まった。
善は急げと、その日を3月3日のひな節句の夜と定め、雪洞造り、雪見の宴の世話人を立て、各団体に案内を出した。最終打ち合わせ会は3月1日、上杉神社内の臨泉閣で開いた。雪洞造りは、東光・丸の内青年会、南部体育振興会、佐藤造園の面々を中心として行われた。雪見の宴は佐藤氏が中心となり、鍋料理と雪菜の漬物が準備された。酒は米沢酒造組合の協力を得て、会費は1000円とした。
参会者は予想を超える200名に達した。鍋の煮えるまでの間、上村氏から「雪の美と雪灯篭と」の講和があり、参会者に深い感銘を与えた。