最上義光歴史館

最上義光歴史館
ログイン
メモ メール Q&A  リンク 地図 ウィキ 特集 プラン
指揮棒(しきぼう)

山形市指定有形文化財
鍛鉄造
桃山時代(16世紀)
作者/不明
長さ/86.5cm・重さ/1.75㎏
最上公義氏寄贈

 最上義光が愛用した鉄製の指揮棒です。古記録や屏風絵などにも登場する義光を象徴する遺品です。
 日本刀と同じ技法で鉄を鍛錬して形成されています。長さは86.5センチ、重さは1.75キログラムもあり刀二本分の重量です。義光がこの指揮棒を振り回していたとすれば、相当な腕力の持ち主だったことが推測されます。
 義光の一生を記した古い書物には、「(慶長五年の)慶長出羽合戦まで(義光は)いつも手もとに置いていて、戦争がない時代になると、自分の名前を彫って、『子孫に持てる器の人物が現れたら使いなさい』と言ってお蔵にしまわれた」と記されています。
 表面には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)」と陰刻され、清和源氏であること、山形出羽守であること、剃髪していないが仏に仕える身であることなどを示しています。
 古記録には金象嵌を施したと記されているものもありますが、残念ながら現在は象嵌に使われた金は残っていません。


(撮影:松本正光氏)

軍旗
Battle Standard

A Mogami family heirloom, this battle standard was said to have been captured as a war trophy when Mogami forces defeated the Uesugi Army during a battle of the Dewa Campaign at the entrance to Kaminoyama in the year 1600. This standard features the distinctly modern design of a single wild goose in flight upon a white background. In the Battle of Hasedō Standing Screen, a flag with a very similar design can be seen in the upper half of the sixth panel of the left-hand screen.(L)


鉄製指揮棒・鉄扇
Iron Baton, Iron Fan

Passed down through the Mogami family, these two implements of warfare were used by Yoshiaki himself. The iron baton is 86.5 cm in length and weighs 1750 grams, making it as heavy as two swords. Inscribed on the surface of the baton is “Descendant of the Seiwa Emperor, Lord of Yamagata in Dewa, the Monk with Hair, Yoshiaki”, indicating Yoshiaki’s lineage and honorary title and attesting to his devout nature. Although the iron fan would originally have had a covering, this cover has been lost through the years, with only the iron spokes remaining. Weighing 575 g, this fan could be used not only as an actual fan, but also as an offensive weapon as well as for deflecting swords and arrows.(L)


長谷堂合戦は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦です。

山形県のほぼ全域で、東軍の最上軍と西軍の上杉景勝の重臣直江兼続の軍が戦いました。
長谷堂は山形城から目と鼻の先、山形市の西方に位置します。

屏風は右隻が9月15日の様子、左隻が10月1日前後の様子です。

最上軍、直江軍とも有名な武将は名前が表記されています。
大将の最上義光も直江兼続もしっかり描かれています。
作者はこれまで戸部正直といわれてきましたが、近年その伝承について見直されています。詳細は>>こちら


▲右隻:長谷堂の攻防。右手には、長谷堂城主志村伊豆守の出陣姿が描かれています。左手には、軍配を持つ直江山城守ほか上杉軍の精鋭が描かれています。右上の建物が長谷堂城です。(※クリックすると拡大します)


▲左隻:退却する上杉軍と追撃する最上軍が描かれています。中央には、有名な鉄の指揮棒をふるって猛追する大将最上義光、左手には、鉄砲隊に守られた寄せ手の大将直江山城守が描かれています。(※クリックすると拡大します)

【参考】
解説シート~長谷堂合戦図屏風
解説シート~武将詳細図


軍旗(伝直江軍部隊旗)

桃山時代(16世紀)
作者/不明・材質/絹
縦156.0cm×横222.0cm
最上公義氏寄贈

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦・出羽合戦(通称:長谷堂合戦)の上山口の戦いで、東軍の最上軍が西軍の上杉軍の直江兼続の家来本村親盛の部隊に勝利したときに、戦利品として持ち帰ったものと伝えます。
この旗は「かりがねの旗」と呼ばれ、絹の白地に墨で飛翔する一羽の雁を描いた斬新なもので、モダンなデザインです。
旗の素材に絹を用いる例は、上杉家だけでなく最上家や伊達家にも現存しています。
『山形市史 中巻』に、『米沢五十騎組旗明細帳』に「かりがねの旗、行衛不明」とあるのがこの旗だと記されていますが、はっきりしません。

最上家に伝わる義光愛用の兜です。
織田信長より拝領したと伝えられています。

慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦(通称:長谷堂合戦/関ヶ原合戦の地方戦)に出陣したときに、敵将直江兼続の鉄砲隊から狙撃され、命中、しかし、この兜のおかげで命が助かりました。
兜は篠垂(しのだれ)一条(いちじょう)が失われ、激戦を物語る弾痕がいまも生々しく残されています。

鍬形と利剣は平成20年3月に復元されました。

※「三十八間金覆輪筋兜」は平成20年11月の山形市指定有形文化財の指定の際に「三十八間総覆輪筋兜」に名称変更になりました。