最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 現在当館では、山形城の御城印を販売しています。通常版の他、数量限定の最上義光のイラストが描かれた特別版があり、戦国武将のイメージを前面に出したものとなっています。しかしながら最上義光は、連歌にも大変すぐれており、現在、248句が確認されています。連歌の発句数も戦国武将では、細川藤孝(細川幽斎)に次ぐ第2位とのこと。発句は連歌会(れんがえ)の主客が詠むことが多く、つまり頻繁に、主客として迎えられていたということです。当館学芸員は、この文人としての最上義光にも光を当てたいそうです。
 多くの戦国武将が理想としていたのは「文武両道」。細川幽斎は「歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ」、つまり武芸だけではお里が知れるとまで言っているそうです。また連歌は、古典に通じていなければ「本歌取り(ほんかどり)」などの歌のやりとりができません。当時、戦国武将の間では古典の教養として、「源氏物語」や「伊勢物語」などが読まれていました。最上義光は在京中に、古典学者である乗阿から「源氏物語」を学び、切り紙(免許状)を伝授されるほどでした。
 さて、連歌の成り立ちについてですが、「日本書紀」や「万葉集」にある、二人で一首の歌を即興的にかけ合う唱和に端を発する、との説があります。このようなものを単連歌といいますが、平安時代後期に盛んになり、やがて句を付け連ねてゆく鎖連歌(長連歌)となります。
 鎌倉時代には、百句を続ける形式が定着し、やがて百韻を十集めて千句にといった具合に規模が拡大します。北野天満宮にあった連歌会所では、足利義満は明徳2年(1391)に北野一万句興業をし、永享3年(1431)には足利義教も千句興業を催し、豊臣秀頼も十万句の連歌会を催したそうです。
 一方、様々な制約を加える「式目」というルールが定められるようになりました。同じような付句を繰り返す「輪廻」(いわゆるループ)などを避けるためです。式目はいろいろな所でつくられましたが、全国統一の式目としたのが「応安新式」(1372年)です。新式とは言え、戦国時代からすれば結構、古典です。式目では、例えば「月」と「花」の句は必ず入れるとか、それはどこに入れる(定座)とか、ある数以上繰り返えさない言葉とか、発句(一句目)、脇句(二句目)、第三句、挙句(最後の句)はどうあるべきだとかが記されています。例えば第四句は、特に軽い句を出すところ。発句、脇、第三と工夫が必要な句が続いた後で、また頑張ってしまうとかえって単調になる。これをさけるために古事、本説、本歌取り等は勿論、月や花のような重要な句は出さない、とのことです。このように古典と式目を基礎としながら、前の句の内容に呼応したものを考え、次の展開が広がる句を繋がなくてはなりません。
 連歌会は誰が開いてもいいのですが、会を統括する「宗匠」という連歌に熟達した人物を入れます。また、その宗匠を補佐し、連歌を記録する「執筆」をおきます。発句は主賓が詠むことが多く挨拶句とも言われ、発句の季語によって会の季節が示されます。脇句は会を催した亭主が句を付けます。第三句はその日の連歌の「行様」(全体の流れや方向性)を決定付ける重要な句でとなります。挙句は、挙句の段階で迷うと風情がなくなるため、すんなりと詠むことが良しとされ、前もって挙句を考えておくこともあったそうです。また、亭主や主客は挙句を詠みません。
 戦国武将などに対し、古典や式目を教授し、連歌を指導し、宗匠も務めたのが連歌師です。連歌師は、都や各地の有力者、公家なども回るため、多くの情報を持ち合わせていて「情報屋」の顔もありました。また、大名家と公家との間をつなぐなどの役目もあり、ゆえに政治の混乱に巻き込まれることもありました。
 と、ここまでの内容なら、私なんかよりchatGPTのほうが、もっと要領よくまとめられたかもしれませんが、次回に続きます。

(→ その2へ続く)