最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 当館では現在、特別展示として火縄銃5挺(ちょう)が間近に見られる展示をしています。さて、火縄銃と言えば、「種子島」、「長篠の戦い」、「山形市鉄砲町」といったところでしょうか。んっ、「山形市鉄砲町」とは?!、と言われそうですが、そこは最上義光が関係するのでご容赦を。まずは早速、その話を。
 最上義光は城下町をつくるにあたり、町人町も含め守りを固めるため、城の南の出口に鉄砲鍛冶町を設けました。泉州堺から招いた鉄砲鍛冶や鉄砲衆を置き、町割りをしたそうです。今も「鉄砲町」という地名を残しており、最上義光の菩提寺である光禅寺がある場所でもあります。
 「鉄砲町」というのは全国各地にあるようですが、鉄砲鍛冶が集まる職人町であったり、鉄砲足軽たちが住む役人町であったりしたようです。ところが、戦国時代が過ぎ、天下泰平の世ともなると、鉄砲町はその役割を潜めてしまい、江戸時代中期の「山形市の歩き方」ともいえるガイド本「山形風流松木枕」でも鉄砲町についての記述はあるのですが、神社仏閣(六椹八幡宮、宝光院、玄妙寺など)しか記述がなく、その名の由来である鉄砲については「て」の字も出てきません。
 ここで、火縄銃について教科書的な話を。1543年(天文12年)種子島に中国船が漂着、この船に乗っていたポルトガル人により火縄式鉄砲が伝えられました。島主・種子島時尭(たねがしまときたか)は2挺を購入し,惣鍛冶・八板金兵衛清定に鉄砲の模作を命じました。銃身と銃底を塞ぐネジ切りが難問でしたが,翌年来島したポルトガル人によってこれらの技術を習得,伝来後8か月目にして国産銃が完成しました。当時は鉄砲のことを「種子島」と呼んでいました。(鹿児島県HPより)。
 この時の種子島、じゃなくって火縄銃1挺の購入金額は2,000両(1両の「金」含有量は天保小判で約6.38g、現在の金価格を1万円/gとすると、その金額はざっと1億3千万円!)。その後、火縄銃は摂津国堺(現在の堺市)の鉄砲鍛冶などの国産化で大量生産とともに低価格化も進み、秀吉の時代には、火縄銃(6匁銃)1挺は9石(1石米は2.5俵=150kgなので、現在の金額は「つや姫」(地元スーパーで約4,000円/10kg)換算で約54万円?)だったそうです。参考までに某オークションサイトでの最近半年の火縄銃の落札平均価格は約38,000円です(火縄銃関係商品も含む)。なんか教科書というより、某局の「突撃!〇ネオくん」のようになってしまいましたが。
 そして、火縄銃伝来から約30年後の1575年(天正3年)に起きた「長篠の戦い」では、織田信長は3,000挺の火縄銃を用いて勝利。それから25年後の関ヶ原の戦いに投入された火縄銃は、東軍・西軍合わせて約25,000挺。この時には世界有数の銃保有国になっていたとのことで、例えば、仙台藩は鉄砲普及率が高く、大坂の陣では半数近くの兵が銃を持っていたそうです。
 今や全国各地で火縄銃の実演イベントがあり、多くは5月連休やお盆の前後に開催されるのですが、特に今年は種子島で「鉄砲伝来480周年全国火縄銃大会」が8月19日に開催され、全国各地から15の火縄銃隊が参加したそうです。短筒や大筒,長筒など多彩な火縄銃による一斉撃ちや段撃ちなどの演武等が披露されたとのこと。ただ、これらの実演は、火縄銃保存会等に集うボランティアによるもので、銃も自前で管理費用もかかり、本物なので当然、殺傷力があり、火薬の規制や取扱いも厳しく、単なる武将の恰好だけという場合とは、生じる責任や負担は全く違うとのことです。
 さてさて、ひとまずこのへんで火縄銃ネタは尽きてしまうのですが、ここでいつものようにことわざを。鉄砲で思い浮かぶのはやはり「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」でしょうか、この館長日誌もそんな感じかと、いや、まだ数も撃ってはいないのですが。むしろ「闇夜に鉄砲」と言った感じでしょうか。目標も定めず、当てずっぽうで、やるのが無駄なことのたとえなのですが、確かにそうかと。まあ、生き様もそんな感じなので、すみません。


展示中の火縄銃5挺。手前の銃は五十匁筒!!

→ 裏館長日誌