最上義光歴史館 - 山形県山形市
▼館長裏日誌 令和8年1月18日付け
■ 「天童原の馬揃え」の話
「天童原の馬揃え」の話のようなことは現在でもよくあることで、特に皇族が行啓する催しなどでは、施設などの改修がなされたりします。一番わかりやすい例が国民スポーツ大会、かつて国体といわれていたものですが、山形で開催された時は、体育施設には特別な応接室が設けられ、幹線道路も新しくなり花まで植えられるといった具合でして、あわせて立ち寄る建物もトイレまで新しくなるという具合です。皇族も用を足すわけでして。とにかく国の補助金などが得やすくなるとのことでした。
山寺芭蕉記念館にも立ち寄られるということで、控室ともなる会議室は立派なものとなり、例えば壁紙などは布製のもので仕上げられました。その会議室には現在も来館時の写真が飾ってあります。そう言えば、山寺には明治41年9月18日、当時東宮(皇太子)であった大正天皇が、山寺に行啓(参詣)された時に御休憩なされた「行啓記念殿」という建物があります。この建物は腕利きの大工さん156人で、わずか26日間で建てたそうです。そのときの自ら植えられた松やその後建立された記念碑とともに当時のまま保存されています。特別な時期に内部が一般公開されることもあります。皇族の行啓はかくも効果絶大です。
実は当館でも皇族の来県を機に国体の年に、普段ならまず借りられない北野天満宮所蔵の名刀「鬼切」を貸していただき展示できました。こうして、おこぼれにもあずかれることがあるのです。
ところでこの「天童原」とはどこか、という話ですが、これを郷土史研究家の矢野光夫さんが、史料の他、地図や市史なども調べ現地調査まで行った研究成果が当館のホームぺージに「奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか」というタイトルで掲載しています。
その調査過程は具体的で面白く、古地図、土地の歴史、市史、現地調査など、調べるにつけていくつかの候補地が浮上してはまた消えるのですが、結論として「最上郡天童の野」は現天童市糠塚から東方、天童市立第二中学校及び山形県立天童高等学校周辺、地籍名は大字久野本、老野森などを、「天童原」と考えるのが妥当と思われる。と推察するに至っています。歴史ロマンとはこういうことなのか、その一端をみることができます。
■ 頼みごとにも馬という話
最上義光がかなりの謀略家であると印象付けることになったのが、白鳥十郎長久を討った話で、ここでは織田信長公に馬を贈る話がでてきます。1584年6月のことですが、義光公が重病と偽って白鳥十郎を山形城中に呼び寄せ、床の下に隠していた小太刀で切り倒した話で、「最上記」の「城取十郎討捕給事(白鳥十郎を討ち取り給うこと)」にはつぎのようにあります(一部略)。
出羽の国、谷地というところに白鳥十郎という大名があった。十郎は義光公を退治して自分が出羽の支配者になろうとし、まず中央権力者の力を頼りにしようと思った。そこで織田信長公へ大鷹一羽と御馬一頭を差し上げ、「私は、出羽の国最上の主でございます」と、偽りを申し上げたところが、信長公も遠国のことで少しも存知なかったため、十郎の言葉を信用していねいな御返状を下された。
義光公はこのことを聞き、使者に最上家の系図とともに、白羽の大鷹一羽、御馬一頭、槍十挺を揃えて進上した。信長公は使者の説明を聞き、最上家代々の系図をご覧になって、すぐに「最上出羽守殿」として御返状を出された。
義光公は、最上家の地位を奪おうとした白取十郎を何としても討ち取らねばならぬと考え家臣と相談、使者により十郎に申し入れた。「近隣の問題が起きないように、十郎殿のご息女を義光の嫡男義康にめあわせてはいかがか」。これに対し十郎も「了解いたした。義光公と和睦いたしましよう」と返事に及んだが、用心深くして山形の城にくることはなかった。
そこで義光公はまた家臣と相談して、使者に伝えさせた。「近頃わが身の病が、もってのほか重くなった。なんとか十郎殿に対面し、国の政治をお頼みしたい。また、跡継ぎが幼少の間は、家の系図もお預けしておきたい。」
十郎は、これこそ願うところの幸いと喜び、時日を移さずに山形へ来ると、義光公病臥の次の間には御一門衆が詰めていた。医師・陰陽師が大勢出入りし、まことに容態が重大であると見えた。
十郎は義光公の枕元近く寄り、「これほどに重いご病状とは存じず遅参し申し訳ございませぬ。」と申された。義光公は起き直り、「最後の対面、まことにもって喜ばしいこと。」と言って代々の系図を出した。十郎はそれ受け取って三たび頭上におしいただき、「こうなれば出羽の主は我なり」と口には出さねど、その顔色にありありと見えた。
すると義光公は居直るように見せかけて、床の下に置かれた太刀を取り、抜き打ちに斬り付けた。この不意打にさすがの白取十郎も、二つに断ち切られて倒れた。十郎の供者は御馳走のため広間に置かれていたが、奥で打つ合図の太鼓で、討手を命じられていた若侍たちが三方から取り卷き、一人も残らず討ち取ってしまった。
絵にかいたような騙し討ちではありますが、しかしながら、最小限の死傷者をもって成敗したという評価にもなっています。
ところで贈り物の話に戻りますが、ここにもあるように献上品としては馬や鷹ですが、下賜品となると刀剣や茶器、着物などになるようです。どちらにも使える贈り物はやはり金銀です。ちなみに天皇からのものは恩賜ともいいますが、近年まではタバコでしたが、現在は菊花紋章入りボンボニエール(菓子容器)に入れた金平糖です。やはり下賜(菓子)だけに、いや、失礼しました。
■ 長男暗殺事件の話
白鳥十郎討捕事件とともに、最上義光が冷徹・非情で残忍とされたエピソードに、長男を暗殺したという話があります。また、伊達政宗の母つまり義光の妹である義姫が政宗を毒殺しようとしたという話もあり、兄も妹もそれぞれの長男暗殺を謀った「戦国一のワル」と称されることがあります。ただ、最近の研究ではいずれも否定的な論証がなされています。
まずは最上家の話から。「最上記」にある「修理太夫殿生害之事」という話です。ここで「修理太夫」というのは義光の嫡男で長男の義康です。
義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、さまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。
「大殿(=義光)もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」、そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。一方、義光の近臣からは、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。
ある日、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をした。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。それ以後、親子の仲はひどく不和になってしまった。一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解をと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。
江戸に上った義光は、この状態について家康に相談した。家康は、「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。
「仰せの趣、恐れ入ります。帰国次第切腹いたさせます」と申し上げたところ、
「そうしたなら、子供のうちでは、誰に家督を譲られる存念かな」と尋ねられた。
義光は謹んで「誰と申すまでもございませぬ。次男ですから、駿河守に家督を仰せ付けますなら、有り難く存じ奉ります」と申し上げた。家康公も、駿河守は十三歳のときからお側に召し置かれ、たいそう贔屓にしておられたので、お喜びなされ、「なるほど、駿河守は穏やかで才もある者。その方から家督を譲られでも差し支えない器量である。まことに義光は武勇のみならず、子供の目利きさえしっかりしておる」と甚だ機嫌がよかった。
ここで駿河守とは義光の次男、家親(いえちか)のことで、1582年(天正10年)生、1594年(文禄3年)から徳川家康の近侍として仕え13歳で元服する。1595年(文禄4年)からは家康の3男・秀忠の家臣として仕えた。初めは父より一字を与えられて義親と名乗っていたが、家康の名から一字をもらい受けて家親と改名、後に駿河守家親となった。
さて、義光公は翌年春に帰国、修理大夫殿へ使いをだし、「このたび、父子の仲が絶えたことが上聞に達し、家康公からお言葉があった。『一門不和なるは、他方より侮られるものである。たとえ義康によからざるところありとて、老体ゆえに耐え忍び、仲直り申すよう』と直々の上意であった。黙止することできず、お請け申し上げてきたところだ。であるから、直接会って語り合い、日頃胸にたまっていた不満を解消したいと思う。急ぎ登城されよ」と仰せられた。
修理大夫はもちろん異存なく、すぐさま御使者と連れ立って父君のおられる御殿へ出かけた。ところが対面もされず、「まず高野山へ入るように」との指示があった。出家して先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに、まことに物哀れなる様子で山形を立ち去る。
1603年(慶長8年)8月16日、義康一行が月山を越え庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門の一味だった。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。家来たちも必死に戦ったが全員討ち死にした。
ここで悩ましいのは義光が、家康には「帰国次第切腹いたさせます。」と応えつつ、義康には「老体ゆえに耐え忍び、仲直り申すよう」と家康から言われたとしていて、これを謀略とみるか、高野山に逃がすことが真意だったのか、やはり謎ではあります。
この事件については、当館ホームページ「最上家をめぐる人々♯11」(片桐繁雄著)では次のような推察があります。
義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。
■ 長男毒殺事件の話
政宗毒殺未遂事件というのも有名な話ではありますが、最上義光の妹であり伊達政宗の母である義姫が政宗を食事に招き毒を盛ったという事件でして、「貞山公治家記録」によると1590年(天正18年)4月5日に起きました。
事件の前年、伊達政宗は会津地方を平定したが、惣無事令に反して領土拡大を続けた政宗の行動は豊臣秀吉の怒りを買った。最上義光は義姫に、政宗を殺して、小次郎を当主にすれば許されるだろうと助言。しかし、その魂胆は、政宗が死んだあと、小次郎をも殺害し、自分が伊達領を横取りしようというものであった。
義姫は小次郎を溺愛していたため、義光の言葉を鵜呑みにして政宗を食事に招き、毒を盛った。しかし政宗は腹痛を起こし嘔吐したものの、解毒剤を飲んだため、大事には至らなかった。
小次郎に家督を継がせるための母の犯行と知った政宗はたいそう怒って、4月7日に小次郎を手討ちにした。しかし、義姫については、実の母を殺すことはできないと、同日、山形の兄、最上義光のもとに出奔させた。
当時、伊達家の家臣は政宗派と小次郎派に分裂していた。この状況を打開するために政宗は、母に毒を盛られたと一芝居打ち、表向きは小次郎を手討ちにしたことにして、実は大悲願寺に匿ってもらった、という説が有力視されています。義姫と小次郎も伊達家を守るために、一枚かんでいたとも。大悲願寺の十五代住職秀雄が小次郎本人である可能性が高いという説が有力視されています。
さて、豊臣秀吉の小田原攻めが本格的に開始されたのは同年の3月29日です。政宗は3月25日に黒川城に重臣を集めて評定を行い、秀吉に味方することを決めます。そして翌日には秀吉に向けて使者を出し、出陣を4月6日と定めていました。
政宗は、留守の間に弟の小次郎が謀反を起こすことを警戒していたのですが、毒殺未遂により小次郎はなきものとなりました。4月15日に出立しますが、北条氏の領土を通れず帰還。政宗の家臣の中には秀吉に降ることに納得しないものも多かったのですが、ようやく5月9日に再出立。越後の上杉領を通過し6月5日に小田原に到着。小田原城の開城が7月5日なのでギリギリでした。当然、秀吉は立腹。切腹を命じられても仕方がない状況でしたが、政宗と義姫は遅れた理由とするため、この毒殺未遂事件を自作自演したとも考えられています。
当館の「歴史館だより30」で佐藤憲一さん(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)からの寄稿につぎのような説明があります。
何故このような事件を捏造したのだろうか。これを解く手掛かりとなる資料がある。事件直後に政宗が側近の鬼庭(もにわ/後に茂庭)石見守綱元に宛てた書状である。全文は「貞山公治家記録 付録」に収録さえている。その中で弟殺害の理由を将来内乱が起こることを未然に防ぐため、と述べている。つまり弟擁立の芽を摘んで伊達家の一本化を図るためであった。
しかし、弟を殺しては小田原で政宗に万が一のこと(豊臣秀吉の命による切腹、打首など)があった場合、伊達家の血統が途絶えかねないおそれがあった。当時政宗には実子がなく、長男の秀宗(後の宇和島藩主)が誕生するのは事件の翌年、天正十九年(1591年)のことである。血統を絶やしかねないたった一人の弟殺害は考え難い。
ということで、一芝居をうってわが子を殺すことなく寺に逃がした、という説のとおりとすれば、義姫にせよ、その兄の最上義光にせよ、「戦国一のワル」兄妹ではなく「戦国一の役者」兄妹と称されてもいいのでは。とにかく最小限の犠牲で、内部組織の統制と対外的な面目を保つことができたわけでして。これも歴史ロマンなのかしらん。
■ お駒の話
もうひとつ、馬つながりということで「お駒」と名付けられた最上義光の娘「駒姫」の話も。この駒姫の悲劇というのは、義光にまつわる話では最も有名ではありますが、「最上記」では駒姫のことを全く触れておらず、駒姫の死を語る初見史料は、伊達氏の重臣である伊達成実の「成実記」であるとのことが、当館のホームぺージ「駒姫の死について」(著:胡偉権/歴史家)にあります。
通説では、1590年(天正十八年)の大崎葛西一揆に際して、豊臣秀次は駒姫の美しさを知り、山形に立ち寄り、義光に対して駒姫を強要した。義光は固辞したが、秀次の執拗な要請に負けて、可愛がる娘を渋々と差し出した、となっています。
しかし「成実記」によれば、秀次は家康とともに九戸一揆を鎮圧するため奥羽に下向。家康は岩出山に、秀次は山形に立ち寄った。その後、秀次事件に駒姫が巻き込まれたきっかけは、「義光の娘は奥州一揆の時、秀次が最上に御在陣の時、(義光から)献上された」ことにあったと。それが18世紀初頭に成立した「奥羽永慶軍記」でようやく、秀次が駒姫の美しさに魅了され執拗に強要する、という通説での内容が見られるそうです。義光が自ら娘を献上したのか、秀次が強要したのか、ああ、これも歴史ロマンかと。
義光と秀次との交流については、天正十九年と推定される五月三日付の書状によれば、義光は京都から尾張を経て山形に帰る際、秀次に厚意を受け、その後、山形に着いた義光は、山形の到着を報じると共に、秀吉と秀次に馬をそれぞれ献上したいと伝えています。胡偉権さんは、義光は秀次に急接近し、それを通じて秀吉との関係を緊密化する思惑は容易に読み取れる、と述べています。駒姫の死にともない最上家と豊臣政権のパイプは葬り去れたが、最愛の娘の横死を悔みながらも、新しいパイプ役を差し出すことも忘れてはならない。そこで嫡男の義康の登場が見られる。義康は慶長年間、秀頼の近習となったが、駒姫の死の直後に、豊臣政権に召し出され、人質とされた。最上家の安泰のために、義光は知恵を絞り、豊臣政権と必死に結び付こうとしていたが、その結果は悲惨だった。関ヶ原の戦いに義光は家康に絶対的な忠誠を誓った裏目には、豊臣政権への「恨みが深かった」からかもしれない、とも指摘しています。
義康を豊臣側に、家親を徳川側にと、言わば戦国時代のセオリーどおりに御家存続を図ったわけですが、これが家臣においてデリケートな問題に。しかも後を継いだ次男家親は36歳で急逝。その後継ぎとなる家信はまだ12歳で、やはり一族重臣の間でごたごたが起きてしまいます。これは歴史ロマンではなくて、歴史の悪戯とでも言うべきことかと。
さて、駒姫という名の由来ですが、陸奥国、大崎氏の娘は、栗駒山の麓を通って出羽国の最上義光に嫁ぎました。嫁ぐときに見た残雪を頂いた美しい山「御駒山(おこまやま)」に因んで、義光は愛娘に「お駒」という名を付けたとされます。
「奥羽永慶軍記」には、「駒姫が生まれた日、伊達政宗と最上義光が和歌の贈答を行った。義光の妻は、政宗からの和歌に因み「千年(ちとせ)」と名付けたいと言った。しかし義光は、安倍貞任の娘「千年」は、父母を滅ぼした悪い名前だと採らず、出羽の名山「御駒山」に因んで「お駒」と名付けたという」とあるそうです。その御駒山は、「国立花山青少年自然の家」(宮城県栗原市)から登ることができます。
2023.01.18:最上義光歴史館
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