最上義光歴史館
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最上義光のこと♯3
【「悪人」義光を定着させたもの】 義光についての評価が大きく変わったのは昭和四十年代、きっかけとなったのは『山形市史』である。この浩瀚な通史は、戦国奥羽の諸侯のなかでもリーダー格であった義光を、まことにつまらぬ人物として叙述した。 『市史』では、中世末から近世初期における義光時代に多くのページを割き、多方面にわたる彼の業績を紹介しながらも、義光の人間像については、傲慢で残忍、冷酷、一族を根絶やしにし、謀略をこととし、権威におもねる人物というような性格づけで貫いている。 「義光の強引にして不遜な態度には義守も怒り」(中巻 近世編 P8) 「義光は武勇のみならず、謀略にも長じ…」(中巻 近世編 P18) 「ここに義光は、残忍とも言える態度で、一族等の根絶やしにかかった。」(中巻 近世編 P13) 「谷地を屠った義光は、勢いに乗じて川西地方の掃討を断行した。」(中巻 近世編 P22) 文章記述だけでなく、「義光の追従外交」(中巻 近世編 P37)という見出しを設けて、豊臣・徳川に臣従したのは義光の権威にへつらう「追従」であるとした。だが、そもそもこの時代はどこのどんな大名にしても、豊臣や徳川に反抗できる情況ではなかったのだ。 このような文言でもって、義光の人間性を、俗な言い方をすれば、引きずりおろしてしまったのであつた。 昭和五十二年に山形城址に義光像を建立しようとしたとき、文化人の間からは猛烈な反対運動が起きた。 「血で血を洗う武力闘争と、権謀術数でもって地域を制覇した最上義光のような人物の銅像を、平和都市山形の市民憩いの場に建てるとはなにごとか。」 反対者の意見はつまるところ、こういうことだった. そしてそれは、ほかならぬ 『山形市史』が作り上げた義光の人間像を、鵜呑みにした考え方だった。 『市史』が信頼すべき公的出版物として大量に発行され、全国の都道府県や大学の図書館に頒布されたのだから、戦国時代を研究する人たちや、戦国に主題をとる文筆家は、たいていこれに従うこととなる。 「羽州の狐」「狡猾無慈悲」「冷酷残忍」式の枕詞が義光を形容する言葉となった。某女流作家などは 「私のもっとも嫌いな人物」と一刀両断するにいたる。 本来なら客観記述を要請されるはずの歴史辞典でさえ「冷酷、最上義光」を潜めた記述になっているものがあって(戦前発行の辞典類はそうではない。)、『山形市史』の影響の根深く強いことに驚いてしまう。 だいぶ前のNHKの大河ドラマ『独眼龍政宗』では、主人公政宗に光をあて、彼を愛すべき尊敬すべき大人物とするために、対照的な役まわりにされたのが最上義光であった。時には競争相手となり、時には敵対して小競り合いを起こしたこともある義光が、その損な役にされたのも、劇の構成上は仕方がなかったのかもしれない。 しかし、多くの人は、このフィクションを、史実であるかのように受け取ってしまった。 「山形の殿様最上義光とは、あんなふうに陰気で残忍な、暗い人間だったのか。そうだったのか。わかった。」 多くの人がそう思い込んでしまったところがある。そして、その余波は今以て消すことがむずかしい。わたしの狭い経験でも、いろんな人からそういう意味のことをまともに言われた。 このことは、やや大げさに言えば、山形人の精神にまで影響を及ぼしているような感じがするのだが、どうだろうか。 出羽の国が成立してからまさに千四百年。その長い歴史のなかで、最大の業績を成し遂げた出羽の人、現山形県の最上川流域の発展に絶大な功績を残した山形人武将が、陰険で狡猾、卑小な人物だったとなれば、山形人としてはふるさとの歴史そのものに自信を失いかねない。 たいせつな故郷と、山形人自らのプライドを失うことにつながっていくだろう。 それならば、本当に最上義光はその程度の、つまらぬ人物に過ぎなかったのか。 かれが武人としてなした仕事、ひとりの人間として残した文学作品や近親知人にあてた手紙類、領国の支配者としてなした地域発展のための業績、もたらした文化的な遺産等々をつぶさに見ていけば、今世上に行き渡っている義光像は、大きな誤解から生まれたものだと言って間違いあるまい。 ■■片桐繁雄 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
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最上義光のこと♯2
【今までの最上義光評価】 大正二年(1913)は、最上義光没後三百年に当たっていた。 山形城を築き、山形市の原型をつくりあげた英傑ということで、山形市民は盛大な記念行事を行なった。 その総括として翌年に発行された記念誌では、次のように最上義光をたたえている。読みにくい文体だが、一部を抜き出してみよう。 「国民にして尚武の気風甚だ貧弱なるに於ては到底宇内列強の競争場裡に立ちて対峙的態度を取ること能はざるを知らざる可らず、由来英雄栄拝が日本国民性として意義あるも亦た以なきにあらざるなり、我が山形中興の最上義光公の如きは此意味に於て最も崇仰すべきグレートマンたると同時に山形市が今日に於て東北地方の一都市として雄を競ふに足れるも亦た要するに公が遺徳と遺績の之が因たらざる可らず」 このように、西欧に追い付き追い越そうとする時代風潮を反映して、高い評価がなされている。 戦後は武人的な面は強調されず、単純に 「山形の城や町をつくった大名」となり、義光祭もまた商店街に活気をもたらすイベントとなったのだった。 ■■片桐繁雄 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
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最上義光のこと♯1
【人間評価のむずかしさ】 ひとりの人物をどう評価するかということは、なかなかむずかしい問題である。 戦時中私たちは、足利尊氏は乱臣逆賊の典型のように教えられた。戦後では、田沼意次が贈収賄に明け暮れて、腐敗政治の元凶のように教えられたこともある。 しかし、その後聞いたり読んだりしたところでは、尊氏にしても意次にしてもなかなかすぐれた人物であり、その業績も高く評価される面があるとのことだ。 時代が変わることで判断の基準が変わり、従来目の向けられなかった面が脚光を浴びたりして、人物評価はさまざまに変わるのだろう。 さらには、史料の取り上げ方によって実像から離れた人物像が形成され、それが広く流布してしまい、一般の評価がなされてしまうというような場合もある。 実は、最上義光に対する現今世上の評価は、どうもこれらしいのだ。 ■■片桐繁雄 次をみる>>こちら |
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最上義光に殉じた寒河江十兵衛
(一) 慶長十九年(1614)一月十八日、最上出羽守義光は病により生涯を閉じた。その際、寒河江肥前、山家河内、長岡但馬、寒河江十兵衛の四人は、二月六日に義光墓前にて腹を切り主の死に殉じた。これが世間に取り沙汰され、後世に語り伝えられてきた。この話しの誕生は、元和八年(1622)の最上家改易から十二年後の寛永十一年(1634)に、最上の旧臣と思われる人物が書き残した『最上義光物語』(原本が『続群青類従』に収録)に日く、「慶長十九年寅の正月十八日、六十九歳にて逝去したまひけり、法名玉山白公大居士とそ申ける、然に寒河江肥前守、同十兵衛、長岡但馬、山家河内は内々御供可仕と存ける故、妻子に暇乞し諸事懇に申置、光禅寺にて切腹致けり」とあるのが話しの発端であろうか。それに何かと解釈を加え世上に喧伝されてきた。しかし、それら全てを事実を伝えるものとして受入れてよいのか。ここに、寒河江十兵衛の後裔が伝えた『寒河江家文書』(以下、『文書』)から当時の記録を拾い、少しでも真実を知る手立てを探っていきたい。なお、『文書』は「拾兵衛」とあるが、ここでは「十兵衛」に統一した。 (二) 「寒河江家略系」 十兵衛元茂−親清−勝昌−勝弘−広政−範勝−元清−元澄 十兵衛の没後は、草苅薩摩二男の織部(親清)が、娘の婿養子に入り跡を継ぐ。織部は鶴ヶ岡に在勤、最上家改易の際には城内の諸道具引渡役を勤めた。最上家退散後は会津蒲生家に三百石で仕官、主家破綻の後は加藤家に仕え寛永十九年(1642)に没、行年五十五歳。三代・勝昌の時に加藤家没落後の慶安元年(1648)に、松平大和守家に再仕官を果たすと以後、主家の重なる転封に一度は禄を離れたこともあったが、前橋藩にて寒河江の名跡を維新まで伝えた。 『文書』から四代・勝弘の「勝弘聞書」(以下、「聞書」)に、十兵衛の貴重な生前の姿を垣間見ることができる。その主な箇所を拾い、原文を多少、現代文に書き改め述べてみよう。 日く、「十兵衛ハ義光公二仕エ、武頭鉄砲預リ弐百六捨石ヲ賜ル、義光公折紙黒印有、近所居御心易被召之由、アル時、近習ノ若輩者卜争イガ起キタ、家老達ハ十兵衛ノ非ヲ責メ、切腹ヲ申シツケタ、シカシ義光ノ温情ニヨリ、兎角命御貰御暇被下候由、夫ヨリ仙台在中エ夫婦ハ引篭、義光公ヨリ年々金子給り露名送由、ソノ後、文禄ノ役二義光ノ出陣二際シ、コノ事ヲ遅レテ知ツタ十兵衛ハ、其頃道中筋食物等モ不自由ノ折柄ナレバ、煎粉具足肩懸ヲ支度、義光ノ後ヲ退ツタノデアル、ソシテ御陣小屋参御供支度旨願、則義光公御出有テ御勘気御免、夫ヨリ前々通リ御心易被召仕由、高麗陣ヨリ帰還ノ後、長岡但馬守、寒河江肥前守、寒河江十兵衛三人、面々日頃忍深キ故、追腹御物語申上由、義光公老病六拾九歳、慶長十九甲寅正月十八日御逝去、同二月六日ニ右三人者光禅寺ニテ切腹ス、十兵衛行年五拾五歳、則最上山形三日町光禅寺義光公御廟并三人者墓今有、最上山寺中坊ニモ右之通廟三人者共墓有、十兵衛義光公御在世時、数度取合之砌武功モ有由、委ハ我幼少ニシテ父親類離不具事計也」 このように、十兵衛の生前を僅かながらも知ることができる。特に義光から目をかけられ、切腹を免れ最上家を退散後の浪人時代、義光から年々扶助を受けていたという事実、そして文禄の役に降し帰参を許されたことなどから人一倍、義光に対して深く恩義を感じていたのであろう。寒河江肥前、長岡但馬にしても、十兵衛と共通したものを持っていたことから、義光の生前中に共に主の死に殉じようと、誓い合った仲間であったのだろう。 (三) しかし、「聞書」に山家河内の名が見えないのは何故か。勝弘は十兵衛の死から五十五年後の寛文二年(1669)に生まれ、元文二年(1737)に没した。父からは寒河江の由緒や曾祖父の殉死の話しを、目を輝かせながら聞き入ったであろう。だが、特に寒河江の家の特筆に値いする殉死物語の内に、山家河内の姿が無かった。勝弘の意識の中に河内は存在しなかったのだろうか。 光禅寺が七日町から現在地に移ったのは、最上家の後に山形に入った鳥居忠政が、寛水五年(1628)に死去の後、長源寺を前任地の岩城から移すため、光禅寺を現在地に移したのだという。その際、旧臣達が義光などの遭骸・石塔などを掘り出し、運んだという。しかし、殉死者の墓についての記録は無い。日く、「…(光禅寺)ニ義光・家信(家親)・義俊三代ノ石塔并殉死四人ノ石塔アリ、殉死ノ石塔ハ百年忌之立申トアリ…」と、百年忌にあたる正徳三年(1713)に、四人の墓が建てられたという。それは従来の粗末な墓を新たに建て直したものなのか。「聞書」は三日町光禅寺に義光と三人(河内を除く)の墓があったことを伝えいる。七日町に在った光禅寺が、三日町(現在鉄砲町二)に移ったことは承知していたのである。 勝弘の白河藩時代の松平家は東根に飛地を有し、勝弘は代官として元禄十二年(1699)から三年間、東根に在勤していた。山形城下はさして遠くはない。また職務として本藩白河に出向くこともあったろう。その際には光禅寺を訪れ、曾祖父の墓前に手を合わせることもできたであろう。それは正徳三年(1713)以前の、古いまゝの姿であった筈だ。そこには、山家河内の基は無かったのだろうか。若し有れば、勝弘は河内を忘れることはなかった筈だ。また、新しく建てられた墓についての情報は、勝弘周辺には伝えられてはいなかったのだろうか。 河内を除いた三人は、義光より受けた共通した恩義に報いるため、生前に話し合い腹を切ったと伝えている。仮に河内が三人とは別行動で腹を切ったとしても、同輩の河内を殉死者から除いて伝えていくだろうか。この「聞書」から、山家河内の名が除かれているということは、勝弘が見聞した限りに於いて、正徳三年(1713)以前の様子を、「聞書」に書き残したのであろう。また幕末に生きた七代・元清の「覚書」も、「聞書」を踏襲しており河内の名は無い。 (四) 現在、この殉死の話しが色々な形で語り伝えられている。話しの多くは十兵衛と肥前の二人の寒河江氏であろう。日く、「肥前守ははじめ義光に強く反抗したが和解し、後に協力したため義光も大いに報いた。 十兵衛も肥前守と同じく義光に反抗したが後に和解、十兵衛は肥前守の子で父と共に義光に反抗、和解後は義光の信任を得る。 中野義時が義光との一戦に滅亡、この戦いに四人は義時に味方したが、以外にも家臣に取り立てられた」などである。 このように、何ひとつ風聞の域を出ない話しばかりが、世上を賑わし伝えられてきている。しかし今回、僅かながらも十兵衛の生前の姿を知ることができた。また「聞書」は肥前についても書き残していた。日く、「寒河江肥前守卜云者、最上村山郡中野村エ義光公鷹場ニテ、同村安楽寺御休之節小僧有、生付発明故御貰有テ御側坊主勤、段々御意ニ入、壱万五千石迄被下置、肥前守江寒河江苗字被下置由、地下人子卜聞并越前大守仕官寒河江甚右衛門卜云者有、此者肥前守家来跡絶ニ付名乗、云々」とある。これが福井藩の記録では、寒河江監物の子の甚右衛門の系統と、肥前の子の新次郎俊長の子、惣右衛門との二系統の寒河江氏として仕えている。 このように、十兵衛の一族とは直接の血縁関係は無さそうである。ただ三代・勝昌(延宝七年没)頃までは文通していたようで、故郷を離れてからある時期まで、互いにその消息は分かっていたようだ。山家河内については、山家城主であったという。そして子の勝左衛門が楯岡(本城)豊前守の家臣となったという。長岡但馬についても、はっきりしたことは分からないが、子の伴内が庄内藩酒井家に仕えている。 天明八年(1788)、幕府巡見史に随行し東北の地を歩いた古川古松は、『東遊雑記』に荒れ果てた最上家墓地の有様を書いている。日く、「……山形に光禅寺という禅院あり、最上氏墳墓の地にて百万石領し給う節建立あり、その節は堂塔魏然として結構なりしに、物替わり星移りて今は破壊の古跡となれり、境内広く、最上義光その外の塚など苔むして残れり…」 ■■小野未三著 |
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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門
【六 [土肥家記]を解いて】 この[家記]の編者は、加賀藩前田家に仕える有沢永貞(俊貞)である。永貞は最上家の旧臣有沢采女長俊の孫にあたる。采女は土肥氏の越中弓庄以来の旧臣で、半左衛門と行動を共にし最上の臣となる。最上時代は下次右衛門の配下として、小国の城を預かる。元和二年(1616)四月、半左衛門の死後に、自ら最上を退去する。有沢氏の[先祖由緒]に、「微妙院(利常)様御代元和二年、於金沢被召出、知行千石拝領仕金之番鳥ニ被仰付……寛永八年六月廿三日病死仕候」と、幸いに前田家に仕えた。 延宝九年(1681)二月、孫の永貞は無残にも果てた旧主を回顧、天正以来の土肥の事跡を書き残す。ここに半左衛門の半生の一端を探求、その知られざる部分に光を当て、真実に迫って行きたい。 まず、[家記]は旧主の汚点とされる二大事件を、どのような扱い方をしていたであろうか。 …然るに慶長年中出羽守殿の嫡子修理亮に家督を譲り、其後悔敷成候哉、修理亮不幸之旨申上而押籠、三男駿河守家親に国を渡さる、出羽守殿死去以後、駿河守殿以外驕悪の行跡共にて、家中諸侍も疎ミ、果修理殿をしたふゆへ是を気遣、終に修理殿を殺し、其方人として大名十余人殺さる、 …二男ハ清水大蔵少輔とて三万石計領知せられしか、駿河守殿仕置やすからす思はれ、一栗兵部と云侍に密談をなし、庄内三郡をかたらひ、駿河守殿を押倒すへき心さし有処に、早く是を察して大蔵少輔を不時に殺さる、 このように、[家記]は事件の概要のみの記述に終始し、これに加わって相対峙する勢力は誰と誰なのかは、全く触れてはいない。そこには半左衛門を始めとする下一党の影は無い。永貞は旧主を始めとする勢力の、不名誉に近い行為を書き残すことはできなかったのであろうか。 慶長十九年(1614)は義光の死から家親への襲封へと幕が開く。それは、里見一族の誅罰、一栗兵郎の乱、そして清水義親襲撃事件へと続き、藩内で抱える不安な材料の積もり重なった時期であった。続いて大坂の陣に於いては、家親は江戸留守居の任を勤め、その時には半左衛門も江戸へと出陣している。 …其時庄内の人数ヲハ土肥半左衛門殿下知たるへしとて、最上殿と供奉し、両度共庄内の人数をハ半左衛門殿引率して江戸へ在城、誠に威勢有し事共也、 しかし、この晴れがましい行動などが、半左衛門の命取りの一因ともなったのかも知れぬ。それは、次のような記述からある程度、知ることができよう。 …爰に下対馬が取立召遣し、原美濃と云者、本ハ上方武士にて、加州なとにも小身にて居たりし由なるか、□才を以立身し、対馬より老分になりしゆへ、此時節陣代をも可相勤と存候処に、半左衛門殿に権をとられ不安思ひ、最上殿へ次而を以て密に訴へ申けるハ、云々 このように、半左衛門の栄達を妬み密告に及んだのは、、計らずも越後以来の同輩であった原美濃だという。続いて[家記]は云うには、一栗兵部の乱にて死亡した下次右衛門の後は、自然と半左衛門の支配下となり、越中以来の譜代の者達を集め謀反の兆しがある。また清水義親にも心を寄せているなどと、讒訴に及んだとしている。そして、これらを真に受けた家親は、 …さらハ土肥を絶すへし、乍去いかにもして不意に討へしとて、先佐賀井(寒河江)と云処へ所替可有之由にて、云々 として、所替の途中に追手を差し向け、倉津にて一行の襲撃を命じた。そして、ここに半左衛門とその一党の最期を見るのである。 …扠半左衛門殿ハ、四月六日に下対馬養子分たりし下長門と云者と共に、佐賀井へ可被越旨にて、其支度をなし、其時半左衛門殿、若党三十人、弓五張、鉄砲五挺、長柄五本、馬五疋ひかせ、以上八、九十人計にて御越候、此内、藤田丹波、采女方などより添たる者も有之、くら沢と云所にて、下長門ハ先へ通り、半左衛門殿ハ古堂の内へ入、下々ハ昼飯を食し候処へ、近郷に大勢討手を云付置、俄に出て取囲む、半左衛門殿、此程の為体、加様之事可有之と覚悟の上なれば、たばかれぬる事無念千万なから、此期に至りて不及了見次第とて、久敷家人に石黒忠兵衛・島田兵太夫と云者を使にして、我等儀ハ是にて切腹可仕候、下々の事ハ故も無之者ニ候間、助られ候様ニ願所ニ候旨両人行向、云はつるやいなや、大勢鑓にて突すゝめ候を見給ひ、扨ハ是非なき事、下々迄助間敷体也、何も覚悟極候へとて、半左衛門殿長刀を取出、向四人切倒し、今一人柳木の傍に居けるを木共ニ切付、長刀折てたゝよはるゝ候処を、鉄砲にて両股を打抜候故、今ハ叶はしと堂の内へ入、静に切腹したまふ也、行年五十歳計に成給ふと、云々 このように、半左衛門は己を取り巻く異様な雰囲気を、事前に察知していたようだ。しかし、最期の場にあたり己の死のみの願いは適わずと知ると、僅かな抵抗を示しながらも切腹し果てていった。そして[家記]は続けて云うには、「上下八、九十人も不残討れし也、采女方より遣したるハ、河島三太郎と云者、是も則同死せし也、元和二年四月六日の事也、半左衛門殿御子息十歳に成給ふ男子も此時生害也、女子二人幼少なりしか、何方へ哉覧、逐電有由也」という。 また同じ日に、他所にて弟の次郎兵衛も討たれ、「是にて土肥殿一家悉く断絶也、天正十一越中弓庄を退去有しより、元和二年迄三十四年の間、主従辺土に流浪し、終に安堵の事もなく一家被果候儀、誠に申も甲斐なき次第也」と、弓庄以来、上杉、最上へと苦楽を共に歩んできた有沢氏は、ここに旧守の悲壮な最期の時を書き残した。 思うに、この事件の最大の目的は、半左衛門一族の抹殺のみに絞られ、現場に居合わせていなかった弓庄以来の者達には、手を回さなかったことだ。そして事件の後に、有沢采女・栃屋半右衛門・有沢多左衛門、また下氏一族も最上家を退去したことだ。 ■執筆:小野未三 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



【義光の戦いぶり】
戦国時代に生まれ生きた義光は、当然戦いはしなければならなかった。しかし、その戦いぶりには、明らかな特徴が見て取れる。
一つは、人命の損害をできるだけ少なくしようという努力である。もう一つは、降伏した敵の将兵をすべて許し、家臣団に編入したことである。
上山が伊達と最上義光の間にあって去就に迷っていたとき、義光はあえて武力に訴えなかった。上山の重臣層が内部分裂を起こして結局最上に従った後は、その地の支配を上山里見家の一族にゆだねている。
ことは天童家(里見氏か)との対戦でも同様である。天童を中心とした村山北部の勢力は同盟して最上に反抗した。義光は軍勢を差し向けたものの、力づくで殲滅しようとはしなかった。同盟の結束を政略結婚で弱体化し、そのうえで攻撃をしかけ、盟主天童頼澄が奥州へ逃亡するのを見逃したのであった。もし義光が天童家を完全に滅すつもりなら、いともたやすい情況だったにもかかわらず、彼はそれをしなかった。
天童氏が今なお宮城県内に名族として残っている背後にはこのような歴史事実があつたのである。
金山、真室川の領主、佐々木典勝が、最上に抵抗を続けていたのを、無駄に殺すなという義光の方針で生き延びて、後日最上義光に帰参して一万千石余の本領を安堵された例もある。
戦って敗れた寒河江一門や、降伏した上杉軍の将兵に対する扱いの寛大さも驚くほどだ。寒河江肥前は、二万七千石(異説あり)という高禄を与えられた。下次右衛門は、降参後は庄内攻めの先鋒とされて功績を賞され、一万二千石を与えられた。
慶長六年(1601)に、上杉領だった酒田東禅寺城を、最上軍は大挙して攻撃した。城将川村兵蔵、志田修理亮らは死力を尽くして戦うが、及ばずして降伏する。山形にいた義光は、降伏したものが最上家に仕えるならそれもよし、会津に帰るならそれもよしとした。まことに大らかな扱いだ。両将は、この扱いに感謝しながら素直に上杉家にもどつていく。
よく知られている白鳥十郎誘殺事件。これなどは、もし戦えば惨憺たる大戦になるところを、トップを討ち取るだけで済ました、という見方をすれば、残酷とか非道とかいうには当たるまい。多くの民衆にとつては、このほうが遥かにありがたいことだった。
なお、そのときも白鳥家の重臣(一門のものも含むか)は許されて現地の有力者となった。現にその子孫といわれる家が存続しているのは、何よりの証拠といってよいだろう。
ちなみに白鳥十郎をだまし討ちにしたときの血飛沫が散った桜樹が「血染めの桜」であるという、広く知られた物語は、江戸時代、明治時代を通して、山形の名所名木ないし物語としてまったく記録されたものが見当らない。明治最末期の明治四十四年『山形県名勝誌』、四十五年『山形略記』にもなく、私が見たかぎりにおいて、大正五年発行の『山形市誌』が最もはやいものだ。
その前後から、「血染めの桜」はその他の印刷物にも取り上げられるようになったのであろう。
更に兵営内で生活を送る兵隊たちは、上官から士気を鼓舞する趣意で繰り返しこの話を聞かせられたはずだ。「連隊にいるときよく聞かされたものだ」と語る人が、しばしばある。兵隊は、除隊して家に帰るとそれを親類知人に語って聞かせる。こういうことが終戦までの約三十五年、入営、除隊の度に継続されたために、あたかも史実であるかのように「血染めの桜」は、民間に広く深く行き渡ってしまったのだろうと、私は推定している。
■■片桐繁雄
つづく
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※「血染めの桜」は山形城二の丸(現霞城公園)にあった桜の老木。昭和32年に倒壊。明治31年から山形城二の丸には歩兵第三十二連隊が駐屯し、「血染めの桜」は連隊のシンボルとされ、その老木の前に連隊旗が安置されて、一般市民にも拝観が許されたという。