最上義光歴史館

最上義光の四男 山野辺義忠の成長期を探る

【一 はじめに】

 山辺町にお住まいの、永きに渡り郷土史研究にご尽力なされておられる後藤禮三氏は、山野辺義忠について、次のように述べられておられる。

 「山辺町にとって山野辺義忠公の位置付けは、神様・仏様に次ぐ時代が在ったのではないか。寺社を保護しつゝ精神的に地域を一つにまとめる施策を行い、政治的には地域の課題を的確に促えた施政で、民心の安定を図っている。確かに彼がやったものだという具体策としては、はっきり資料に残されているのは少ないにしても、これほど「名領主」として語り伝えられた方は、そう多くはないのではなかろうか」

 羽州山形の地に、確固たる地位を固めた最上出羽守義光の四男として生れ、慶長五年 (1600)の関ヶ原戦以後の、山辺地方で採った施政が後の世まで語り伝えられ、良き評価を与えてきたようだ。
 義光の亡き後の元和八年(1622)の家内騒動に際しては、一方の旗頭として藩政を担い、幕閣の一部勢力との繋がりを持ちながらも、結局は意に反して藩の解体へと最悪の道を採るのではあったが、その後の義忠の生き方を見ると、水戸徳川家に迎えられ、最上家の旧臣の中では異例の出世を成し遂げている。
 本稿は、その一連の過程を云々するものではない。僅かに伝えられてきた史資料を基に、成長期に限定して、その足跡を探し求めるものである。それは、天正二十年(1592)の一家臣の「知行状」の解明から、義忠の成長期を知る新たな発見として、ここに取り上げ解明に努めるものである。しかし、これらが従来の郷土の諸先輩方のご研究に対し、多分に異を唱えることになろうかと思われるが、ご容赦頂ければ幸いである。
■執筆:小野未三

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山野辺義忠とその時代

 平成12年は「慶長出羽合戦四百年」に当たり、各地で記念行事が開催されたのは記憶に新しい。それらを通して感じられるのは、近年の最上義光の人物像の再評価である。以前は何故こういう評価になるのか、不思議に思う文言が多かったのである。しかし、山形市・武田喜八郎氏は自筆書状の文体・文言からの人間性への提言があり、最上義光歴史館・片桐繁雄氏は多様な資料を駆使して解明を深め、「山形合戦」の鈴木和吉氏は実地を自分の足で歩きつつの考察等があり、真の人物像が構築されていくのは嬉しい極みである。
 平成13年の山辺町では、山野辺義忠の山野辺城入部四百年に当たり、当ふるさと資料館では「特別記念展」を開催して彼の業績と生涯を紹介した。実は、義忠の人物像については義光の場合と同じく一面的で客観性が無く、時代的背景を考慮しない内容で書かれた場合が多かったのである。しかも、それでも当地方では「神様・仏様、そして義忠公」というように、特別に高い地位を与えられてきた独特の存在でもあったのである。
 それでは、「義忠」はどういう人物で、時代をどう生きたのだろうか。彼は最上義光の四男として生まれたが、現在の大石田町深堀地区出身の女性を母とし、楯岡城主楯岡氏の庇護を受けて育ったのではないかという説がある(伊藤芳夫氏、後藤嘉一氏)。その縁であろうか、慶長五年、13歳で楯岡城代に就き、翌年、1万9千300石・山野辺城主となって入部している。山野辺家系図は義忠が最上家の證人(人質)として徳川家康の許におもむいたことを記録し、彼に「将来恐るべき怪童である」と言わせたと伝えられている。
 彼の領主としての業績のひとつに釣樋堰の改修がある。宮宿方面に西流する鵜川を畑谷の途中で分水して山形盆地に流れるこの堰は、上反田で上江堰(相模地区中心)を開き、沢江堰(若木・古館等)との二つに分け、現・山辺町南部の灌漑用水の安定を考えている。次は寺社への対応で、創設・優遇した寺等、それぞれに使い分け、その位置も分散して城下町としての万一に備え、同時にそれらに繋がる領民の精神生活の統一と安定を図っている。地理的にも周辺地域の中心に位置するので領民の生活の利便を考え商業の繁栄策をとり、後の九斉市につながっている。城下町としての縄張りは近世のことなので比較的単純であるが、道路の三叉路や喰違いの部分があちこちに散在していることにその面影が偲ばれる。それらを総合した城郭は中世においては最上氏に属する「山野辺氏」が当地方を支配し、白鷹丘陵から山形盆地に突き出た形の舌端部の小高地に主郭、その周辺に副郭がめぐらされていたのを、義忠はそれらを本丸、二の丸としつつ、さらに三の丸を計画し、西方は山岳地帯になるので四の塀を備え、全体としてまとまった城下町を形成している。
 ここで興味深いのは、義忠の行った業績をさらにスケールを大きくしてみると、義光が全て成し遂げているのである。つまり、偉大な父・最上義光の業績を模範として、領内ですばらしい治世を展開している。だからこそ、長い江戸時代の僅か約20年間の治世なのに、「名君」としてその名が語り伝えられている。最上家では義光の後の家親が頓死して義俊が継いだが、義俊を支持する派と山野辺義忠を宗家にという派に分かれてしまい、「最上百万石」と称される義光の偉業が崩れてしまった。この間の経緯については他の大名家の記録等、「第三者」の資料をもっと検討・研究し、真実に迫る必要があると思う。「武家諸法度」「武士道」等、当時の武家社会の規範を考えると、彼の行動は時代の中で生きているのが分かる。後に水戸・徳川家に客分家老として一万石で招かれ、その子孫は藩主・徳川家と婚姻関係を深め、その補佐役となっている。彼の人生は山形の地では開花不十分でも、水戸・徳川家においては考えられない程の大活躍をしているのである。

■執筆:後藤禮三(山辺町ふるさと資料館館長)「館だより?9」より
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【はじめに】

 羽州の地に五十有余万石の領国を築きあげた最上義光が、栄光に満ちたその生涯を終えたのは慶長十九年(1614)一月のことだった。それから八年後の仲秋の頃、孫の源五郎が何故に領国崩壊への道をえらばねばならなかったのか。
 徳川恩顧の父家親早なる死の後は、家中の源五郎の排斥の気配も、さして感ずることなく幼年の源五郎に家督が許されたことは、それが家中の総意に適うものとは限らないにせよ、本領安堵に落ち着いた現状を見るとき、家中一同も一時の安堵の思いに身を馳せたことであろう。しかし、それも束の間のことであって、次第に高まる一族の重臣達を筆頭にしての抗争が、藩主義俊の家中統率の無能さを、表面に出しての論争に発展するところとなっていった。
 義俊の五年余の山形藩主時代は、一片の自己主張すら藩政に反映させることは困難であったろう。それは若年の身に加えて、身辺に漂う悪しき風評の全てが、必ずしも自己の為せる業とは言えないまでも、己の意思の欠如を如実に物語ったものといえよう。祖父義光が営々として築き上げた大藩を守りきるには、若き藩主とそれを支える側の体制では、どうすることもできなかったのである。
 元和三年(1617)五月の襲封から、三年後に起きた幕府監察の導入は、それは最上家内での醜聞を白日のもとにさらけだす結果となった。そして改易を迎えるまで、幕府の表向きの政治的な関与は無かったにせよ、絶えず監視下のもとに置かれていたのであった。そして藩内を二分しての対立の構図がやがては幕閣要人達の利害に絡む論争の場へと、発展して行ったという。
 遠く中世の代に端を発した最上の家を、破滅の道に追い込んだ原因、そしてその責任は誰が取らねばならぬのか。若き源五郎義俊にその全責任を負わせるのは酷であろう。むしろ己の権力保持に汲々としていた重臣達に、義俊を満足に支え切れなかった責任を問うべきである。
 ここでは、最上家側での義俊に関わる記録の希薄さから、その生きざまを満足に語る程に、充実したものを探しだすことは難しい。それでも、何とか義俊の痕跡を捜し求めながら、その生涯をたどって行ってみたい。なお源五郎が家信から義俊に改名したのは、改易後のことであるが、本稿では義俊に統一している。
■執筆:小野末三

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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 

【あとがき】
 
 本稿は、世に余り語り継がれて来なかった、最上義俊の短き生涯に視点を当て、僅かながらもその実像に迫るべくまとめ上げたものである。その生涯の最大の山場となった改易事件については、最上家自体が真実を語るに足る記録類の持ち合わせも無く、現今の多くの著作は、藩主の無能振りを柱に単なる政争として片付けている感がある。
 その中でも、[最上氏の改易について](改稿、『慶長・元和期のお家騒動』福田千鶴)や、山形県下では[山野辺義忠公と最上家の改易](『山辺郷・2号』後藤禮三)などに見るように、この時期のお家騒動の特質を、武家諸法度の立場から武士道の世界にまで踏み込んだ、素晴らしい解釈を披露している。
 現在、義俊に対する評価は全く芳しくない。元和五年(1619)の福島正則改易事件に際して、「秀忠公再び源五郎を召して、今後正則家人等野心を挟む処を、汝が才覚にて和議を繕ひ互いに異事無く、彼屋敷を受取る事神妙の至りなり、父祖に劣るまじき若者と褒させられ、長光の御脇差を賜ふ(『中興武家盛衰記』)」という記事から、『山形の歴史』は「彼は大器ではなかったが、小才に長けた人物であったことを伝えている」と表現している。これらが、世間の義俊を評価する一つの指針となっているのかも知れぬ。しかし、この記述のいずこに小才に長けた義俊の姿があるだろうか。このような見方が積み重なり、世間に誤った義俊観を広めた要因となったことは、否定できないだろう。
 大沼浮島稲荷神社の石灯籠の銘文から、藩を牛耳る一族・重臣達の狭間に身を閉ざされ、如何ともしょうがない立場に置かれた、義俊の苦悩に満ちた真の姿を見ることができる。これが何故に江戸の町中で、酒食に溺れ不行跡な行為に走らねばならなかったのか。しかし、このような常軌を逸した行動を取り上げ、これから義俊の人格の全てを否定するのは酷であろう。その責任の大半は、義俊を支え藩の運営に当たらねばならない、一族を中心とする重臣達が負うべきであろう。
 元和四年(1619)五月、幕政に関与するはどの異色の僧の大僧正天海は、立石寺一山の衰退に心を痛め七ケ条の「立石寺法度」を定めている。その法度状には天海と並び「最上源五郎」の著名が見られる。この年は、他にも慈恩寺本堂の再建、酒田の亀ヶ崎八幡神社の造立などにも名を止めているが、この義俊の天海との連署を別の視点から見ると、これは少年藩主義俊の存在を、公の場に改めて世間に周知せしめたともいえる。
 しかし、四年後の元和八年(1622)四月、天海は義俊に立石寺の再興を重ねて委嘱する書状を送った(『東北の一山組織の研究』・『山寺名勝志』)。それは四年前の「立石寺法度」の送致にも拘らず、依然として一山の衰退は改められず、天海は重ねてその再興を求めたものであった。
 しかし、この時期は江戸にて最上騒動の審議の最中であった。そこには天海自身の姿も有ったというから(『続々本邦史記』)、幕府と最上家との間の異常な雰囲気は、熟知し
ていた筈である。それがこのような時期にも拘らず、何故に立石寺の再興を促すような行動をとったのだろうか。
 先述した[細川家史料]を改めて見ると、七月廿八日に最上の公事(訴訟)も終り、国替で決着がついたようだと言っている。ということは、この公事が江戸表にて正式に審議の場に乗せられたのは、年が明けてからであろう。その審議半ばの四月の時点に於いて、天海がこのような措置を採ったことは、未だ審議もさほど進展も見せず、白紙に近い状態であったからではないだろうか。天海自身も、最上家が数ケ月後には羽州を失うとは、思いもよらなかったであろう。
 国替で義俊を守り最上家の存続を望んだ「上意」であった。しかし、その意に反し服さなかった一部の重臣達の行動が、結局は「上意」に背く違反行為として、改易処分の決定を見るのである。言うなれば、この重臣達には当初から義俊を排斥し続け、もり立てる意思は全く持ち合わせは無かった。義俊の若き藩主の器量の欠如を補う責務は、当然のこと周りの重臣達にある。しかし、彼等はそれを放棄してしまった。そして羽州の地を失ってしまった。
 もうこの辺で、義俊の真実の姿を見極めながら、羽州の大藩三代藩主として新しい義俊像を伝えて行くことが、研究者としての責務であろう。これが義光・家親に対する従来の史観をも併せて見直す機会ともなれば幸いである。    
 おわり

■執筆:小野末三
  
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