最上義光歴史館

山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【七 寛永六年の江戸城普請役】

 前年九月、赦免の沙汰を受けた義俊が、晴れて公の場に名を連ねたのは、この年の江戸城普請手伝いを命ぜられた時であろう[注1]。前年の七月十一日、江戸を襲った大地震により、江戸城の石垣が所々で崩壊した。その修築のため全国の諸大名の動員となり、この手伝いは九月頃から予想はされてはいたが、実際に動員が下ったのは十一月であった。

十一日午刻、大地震あり、御城石垣方々崩、足利学校寒松物語被申ニハ、三十三年以前伏見ニ而今日大地震あり、三十年以前ニも今日大地震、今年又如斯波と之物語也[注2]、

 この年は大坂城の普請も行われ、両者併せて百六十家に及ぶ大名・旗本達が動員された。
この年の江戸城普請は、石垣を築き掘を掘る作業を主としたようで、石材を伊豆地方から切り出し江戸まで運ぶ「寄方」と、その石材を使用して石垣を築く「築方」とに分かれての作業であったようだ。
 義俊にとっては、山形時代の元和六年(1620)以来の普請役である。これが大藩当時の過大な経済的負担とは比べものにはならないだろうが、この度の最上家に課せられた一万石の「本役」での勤めは、ようやく表舞台に復帰した義俊としては、厳しい船出であったといえるかも知れぬ。しかし、この年の普請手伝いに於ける最上家に関わる記録を見出だすのは、なかなか困難である。知る限りでは水戸家史料から〔日次記拔書[注3]〕の寛永六年二月の条から、寛永五年辰十二月廿六日の日付のある「御普請之時役之覚」に、辛うじて最上源五郎の名が記載されていたのである。

      御普請之時役之覚
        三 河 衆    
 一 三万石     吉田    松平主殿頭
 一 五万千五百石  岡崎    本多伊勢守
 一 四万(千)石         水野遠江守
 一 三万五千石   西尾    本多下総守
 一 五千石           松平玄蕃頭
 一 五千石           松平庄右衛門
 一 壱万石           最上源五郎
 一 壱万石           水野大和守
     内五千右御番役ニ引之由、雅楽頭奉
    小以て拾五万五百石、内以五千石御番役引
    役高残而拾四万五千五百石、

     半役之衆     参 州 衆
     (以下、三河衆半役四家の記事は略す)

 関連記事の中から、義俊に関わる箇所のみを取り上げてみた。はじめの八家は知行高全てに係る「本役」での勤めであり、次の四家は「半役」での勤めで、三河衆十二家に割当てられたものである。この三河衆に続き残りの参加衆の記録が続き、この年の普請役の全体像を知ることができる。
 最上家が三河衆の内に編入されていることは、それは工事の持ち場の編成上のことばかりではなく、三河に所領地を有していたことを示す、一つの証しとなるだろう。最上家の作業区分の「寄方」とは、石の産地の伊豆(伊東市近在)の石場から、平石・角石に区分されたものを定められた大きさに切り、数を揃え舟で江戸まで運んだ。義俊としては公の場に復帰した最初の勤めであり、それはまた一万石の大名として、唯一の公的な勤めであったのではなかろうか。しかし、これが大地震に伴う必然的な普請手伝いであったとは申せ、義俊個人また最上家全体にとっても歓迎せざる出来事であったろう。だが「一万石・最上源五郎」を証明する証拠となることには間違いな心。最上家自体の記録の稀薄さの中で、この[日次記拔書]の存在はまことに貴重である。
 この普請手伝いが始まる寛永六年(1629)の二月頃、義俊が家臣達に「知行書出」を発給したと考えられる、重臣の柴橋図書宛のものが残されている。推察すれば、義俊の晴れて天下に復帰したこの時期に、改めて家臣団の禄高の見直しを行ったのではなかろうか。図書は柴橋石見の長男で、改易後も義俊の近臣として仕えた。

         知行書出シ之事
 一 今度何角万」奉公被申候儀」一意候、一角之」忍をもと恩召候
   へ共」未進之通ニ候故」無其儀候、定而」手前成間布候間」
         被申請」取可被申候、為其一筆」如此ニ候、巳上
     寛永六年
      巳ノ
      壬二月二日   (黒印)
          義俊
       柴橋図書とのへ[注4]

 この書出しの内容は難解で判読は難しい。しかし、これが図書個人のみに発給されたとも思われず、この年の二月を以て、全家臣の禄高の確認を改めておこなったのではないか。思うに義俊にとっての寛永六年は、とにもかくにも新しき船出の年であった。尤もそれも束の間の夢ごとに終り、僅か三年有余で終りを告げるのである。
■執筆:小野末三

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 [注]
1、松尾美恵子 [近世初期大名普請役の動員形態・寛永六年江戸城普請の場合](『徳川林政史研究所研究紀要・昭60年度』)
2、[江城年録](『東京市史稿・皇城篇』)
3、[注1]と同じ、この[目次記抜書](水戸彰考館所蔵)から、僅かながらも義俊の消息を掴むことができた。この年の普請役については、他にも関連文献をも参考にはしたが、義俊の記録は見出せなかった。「二月より江戸御石垣御普請有之」とあることから、工事は二月から始まったようだ。義俊が柴橋図書に与えた「知行書出」の発給も二月であった。
4、粟野俊之[柴橋文書](『駒沢大学史学論集・11号』昭56年)
柴橋図書は、改易後に福山藩水野家に預けられた石見の長男である。図書は引き続き義俊に仕えたが、義俊の死後は最上家を退散した。子孫は或る旗本に仕えている。
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (8)】


  5  小 括

 鮭延に関する基礎的な問題について述べてきた。根本史料が限られている上、軍記物史料という難しい制約を抱える史料を用いながらの検討であった。

 まず鮭延氏と最上氏、あるいはそれにかかわる南出羽の国人衆についての研究史を整理した。市町村史等で考察されているが如く、大きな歴史の流れの中での多くの登場人物の中の一人として鮭延秀綱を捉えているものが大多数で、いくつか優れた個別論文はあるものの鮭延に関する個別研究の蓄積はまだまだ多いとは言えない。これは、最上家のその他の家臣、ないし南出羽の国人についてもあてはまる。

 第1節では、鮭延氏が真室地方に割拠した当初の状況を整理した。また、天正九年に最上義光の傘下へ降った直後から、天正期に最上家が勢力を伸張させていく段階において、最上家中において鮭延がどのような立場にあったか、またどのように立場を変化させていったかにスポットを当てて検討を進めた。
 鮭延秀綱は、その利用価値を大きく認めた最上義光の期待を受けてその傘下に加わった。その「利用価値」の一つに挙げられるのは、小野寺氏や武藤氏ら周辺大名や、その麾下にあった国人領主達とのコネクションであったと推察される。秀綱は、そのパイプをバックボーンとして、最上家が武藤氏・小野寺氏ら周辺大名との抗争を繰り広げる過程での外交活動や抵抗勢力の調略に尽力した形跡がみられた。義光はその働きを高く評価し、最上家内での鮭延の存在感は次第に高まっていったと考えられる。

 第2節では、仙北検地に伴う雄勝郡の領有問題に関わる鮭延秀綱の動向を追った。
 鮭延は、奥羽仕置軍の先導として小野寺氏領国へと進駐した。元々鮭延氏は小野寺氏の麾下にあり、仙北事情に精通した鮭延は先導者として適任であった。湯沢に進駐した鮭延は、「公儀」の権威を背景に主君の最上義光と連携しつつ雄勝郡の実効支配を進めた。その過程において、鮭延は一貫して現地責任者の立場であり、上杉家家臣の色部長真や小野寺家中との折衝を行っていた事が史料から読み取れる。結果として最上家は、豊臣政権より上浦郡(雄勝・平鹿郡を合わせた通称とされる)の一部を領土として追認されたと見え、湯沢城主として楯岡満茂が配置された。しかし、同地域での火種はくすぶり続け、以降幾度かの軍事的衝突が小野寺氏と最上氏の間で繰り広げられたと考えられる。これら一連の仙北問題において、鮭延秀綱は非常に重要な役割を果たしていたのである。

 第3節では、慶長期から元和期にかけての最上家内における鮭延の立場の変化を検討した。
 慶長五(1600)年に発生した、いわゆる「慶長出羽合戦」において、鮭延秀綱が長谷堂城救援・庄内反攻などに活躍した事は諸書の記すとおりである。徳川政権下において、最上家領国五十七万石が成立した後も鮭延は重用されたと見え、義光没後も最上家内の中枢重臣の一人として領国経営に参画していた。家中における序列では、由利本城に四万五千石を領する本城満茂には劣るものの、非親族系家臣の中では一際高い立場に位置していたとみられる。

 第4節では鮭延の官職名について時期的推移も考慮しながら考察した。鮭延秀綱は、その生涯において「典膳」と「越前守」の二つの官職名を名乗っているが、書状史料・軍記物史料の記事を見る限りその二つの官職名は慶長五(1600)年前後を画期として使い分けられている可能性を指摘した。その理由の仮説として、鮭延郷に勢力を確立した鮭延秀綱の父貞綱も「典膳」を名乗っており、慶長五年の出羽合戦において初陣を飾った嫡子左衛門尉の元服時に、父から受け継いだ鮭延郷の守護者としての「典膳」という名乗りを継がせた、あるいは継がせる前段階として自らの官職名を越前守と変えた可能性を提示した。

 以上の問題について考察を行ったが、鮭延氏にまつわる問題はこれだけではない。鮭延氏の鮭延郷入部時期、最上家改易時の動向等残された課題は少なくない。後稿を待ちたい。
<了>

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