最上義光歴史館
ワシが最上義光(もがみよしあき)ダ!!
いまから自己紹介(じこしょうかい)をするゾ! ワシは約450年前の天文15年(1546)1月に山形城で生まれた。山形城は知っているか?いまは霞城公園になっているところダ!! ワシの父は義守(よしもり)といって、最上家の10番目の殿様ダ。ワシはその長男として生まれたのダ!!子供のころは「白寿丸(はくじゅまる)」という名前で呼ばれておった。 ワシは永禄3年(1560)という年に15才で「元服(げんぷく)」したゾ!「元服」は知っているか?大人として認めてもらうための儀式ダ!これでワシも一人のサムライとして認めてもらったのダ!それから、その時日本で一番えらいサムライだった将軍(しょうぐん)足利義輝(あしかがよしてる)から「義(ぎ)」という字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ることにしたのダ!!まあ、親しい人間からは源五郎(げんごろう)と呼ばれておったがな。 ワシが25歳になった元亀元年(1571)に、父の義守が引退(いんたい)したので、11番目の殿様になったゾ!! 11番目の殿様という意味はわかるか?ワシの先祖はいまから約650年前に山形に来て山形城を作った斯波兼頼(しばかねより)という人だが、その人から数えて11番目の最上家の殿様であり、11番目の山形城の殿様ということダ!! 殿様になってから、ワシは山形に住んでいるたくさんの人たちが、平和で幸せにくらせるように、たくさんいろいろな事をしたゾ。その事は、また別のページで教えよう!! ワシはたくさん戦争をしたが、ムダな命はとらなかった。降参(こうさん)した人やかしこい人は自分の家来(けらい)にしたりしたゾ!「だましてあいてを殺したズルイ殿様」だって?ノー!!ノー!!そのやりかたが一番死ぬ人が少ないんだゾ!!たくさんの兵隊があつまって戦うよりも、あいてのえらい人だけやっつけた方が、死ぬ人の数が少くないし、大切な町や田畑がこわされなくてすむのダ!!そんなことも知らないのか!?ワシは人の命が一番大切なものだと思っている。 約400年前の慶長5年(1600)に、山形で大きな戦争(慶長出羽合戦/けいちょうでわかっせん)があったが、そのとき無敵(むてき)の軍隊(ぐんたい)からワシの軍隊が勝ったのダ!だれの軍隊に勝ったかわかるか?そう最強の軍隊上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家来の直江兼続(なおえかねつぐ)の軍隊ダ。どうだ、すごかろう!! そのあとワシは、そのすごさが認められて、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)という広い土地を管理する大大名(だいだいみょう/大名よりもすごい大名)になったのダ。 ワシも66才になった、慶長16年(1611)に従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)という位(くらい)をもらったゾ。ワシのことをみんな「虎将(こしょう)」というニックネームで呼ぶが、どうやらその位である近衛少将⇔虎賁郎将(こほんろうしょう)が関係しているらしい!!「虎将」という文字もかくれているゾ!! ![]() 残念ながらワシも人間ダ、慶長19年(1614)1月18日、69才のときに病気で死んでしまった。69才…昔はそれでも長生きしたほうだと思うゾ!! ワシのお墓は山形市の光禅寺(こうぜんじ)というお寺にあるゾ。ぜひお参りにきてくれ!! それではひとまずお墓にもどるとしよう… |
最上家に伝わる義光愛用の兜です。
織田信長より拝領したと伝えられています。 慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦(通称:長谷堂合戦/関ヶ原合戦の地方戦)に出陣したときに、敵将直江兼続の鉄砲隊から狙撃され、命中、しかし、この兜のおかげで命が助かりました。 兜は篠垂(しのだれ)一条(いちじょう)が失われ、激戦を物語る弾痕がいまも生々しく残されています。 鍬形と利剣は平成20年3月に復元されました。 ※「三十八間金覆輪筋兜」は平成20年11月の山形市指定有形文化財の指定の際に「三十八間総覆輪筋兜」に名称変更になりました。 Googleで検索 ウィキペディアで検索 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
また、見学の最後には、ホンモノのヨロイを着用し、青い目のサムライたちは「重い!!」「サムライは大変だ!!」などと感想を述べていました。