最上義光歴史館

 風薫る5月も終わり梅雨の季節に入ろうとしていますが、5月の入館者数は5月16日時点で目標人数を超え、月間では想定の1.5倍以上となりました。恐らく今年は11連休だのダブル4連休だの安・近・短だのが影響しているのでしょうが、ただ、団体さんとかインバウンドさんとかが目立つわけでもなく、入館者増の原因分析には悩んでいるところです。いずれの博物館などでも同じかと思われますが、この入館者数というのは施設運営の重要な評価指標となっており、目標よりも少なければ説明と対策が求められるのですが、多すぎても要因を分析しなければなりません。もっとも当館の目標人数については良くも悪くも無料施設のため採算ラインなどというものはなく、実はこれまでの実績などからエイッと勘を頼りに定めているものではありますが、まずは、ご来館いただきました皆様に感謝申し上げる次第です。
 ちなみに当館と同じ霞城公園の敷地内にある山形市郷土館の昨年度の入館者は、昭和46年の開館以来、過去最高とのことでした。特に海外からの旅行者の来館が多いようで、確かに記念撮影スポットとしてはもってこいの場所ではあります。海外からの来館者数は当館の4倍近くあったということですが、当館は同じ公園内の施設なのに、その方々がそのまま流れてくるわけでもないことが、なんとも難しいところではあります。



↑ 風薫る中の最上義光立像


↑現在開催中「鐵の美2025」展示風景

 さて、当館では現在、「鐵[kurogane]の美2025 〜武士と日本刀〜」と題して、鎌倉から江戸末期までの刀10振(太刀4、刀3、脇差1、短刀2)を6月29日までの期間、展示しています。
 ここで刀剣の時代分類についてざっくりと述べますと、平安初期以前を「上古刀」、平安中期から慶長年間(1596 -1615年)より前を「古刀」、以後のものを「新刀」と呼び、概ね安永年間(1772- 1781年)以降のものを「新々刀」と呼びます。
 上古刀の時代には直刀であったものが、平安時代に彎刀つまり反りのある刀となり、騎馬戦に適した太刀となります。ところが応仁の乱(1467年〜)以降からは徒歩(かち)戦となり接近戦に適した刀(打刀)となっていきます。当時、刀は作られた地域により特徴があり、主に「五箇伝」と総称される「大和伝」「山城伝」「備前伝」「相州伝」「美濃伝」の他、例えば山形には月山鍛冶などがありました。この時代から戦国時代までは当然、刀の需要が多く、全国各地で刀は作られ地産地消状態でもありましたが、特に備前と美濃は二大生産地として数多く出荷されていました。一方、既存の太刀を短くし、徒歩戦や自分の頭身にあわせた「磨上(すりあげ)」も使われていました。
 これが関ケ原の合戦(1600年)以降、政権が安定し物流が円滑になると、刀剣の材料の均一化が進み技術交流も活発となって、地域差が少なくなったそうです。やがて江戸時代の中期ともなると、天下泰平の世を反映して刀工の数が減少し、作刀が衰退しはじめました。
 そのような時代、山形で生まれ育った水心子正秀は、農具鍛冶から刀鍛冶に転身し、山形城城主の秋元永朝(あきもとつねとも)に仕えながら、古刀期の鍛刀技術を学びます。水心子正秀は、当時の華美で反りの少ない日本刀に対して、独自の刀剣理論である「刀剣復古論」を提唱し、後に「新々刀」と呼ばれる反りが深く実用本位の日本刀を作りました。
 さらに、以上の時代区分とは全く異なるのですが「赤羽刀」というものがあります。赤羽刀とは、第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって接収された日本刀のうち、元所有者が不明で返還できずに全国の公立博物館などに無償譲与されたものを言います。東京都北区赤羽にあった米軍の施設に保管されていたため「赤羽刀」と呼ばれました。ということで、ある意味、時代とか戦とかに関係すると言えなくもなく、ひとつの来歴と言えるかもしれません。
 現在、当館で展示している刀剣は10振ばかりですが、古刀も新刀も新新刀も赤羽刀も磨上された刀も全てご覧いただけます。展示期間は残すところあとひと月ですが、これを見逃すと、次はなんと山寺芭蕉記念館との共同開催「妖怪大博覧会」という展示になります。現在の展示の流れとしては、次は鬼や妖怪を斬ったとされる刀剣でも展示したいところですが、他所からそういう刀剣をお借りするには先立つものが必要でして、地獄の沙汰も金次第と言いますか。とにかく刀剣をご覧いただくのなら今です。


(→館長裏日誌へ続く)