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1868〜1928

「亀の尾」の創始者。東田川郡小出新田村。百姓。

18才のとき政府の「済救趣意書」に感激し、土地の改良と稲の選定に一生をかけた。始めは余目村の老農佐藤清三郎によって、湿田の乾田化と東北の気候にあう寒冷に強い早生稲を選ぶことの必要を学んだ。

また、1891年(明治24年)酒田の本間家が、乾田化、馬耕のために福岡県から伊佐治八郎を呼んで伝授させたが,亀治はこれを視察して帰村すると、ただちに濠を掘り乾田化にのりだし、馬耕を始めた。周囲の笑いをものともせずにこれに取り組み、強力に部落への普及に努めた。そしてこうした新しい技術に適応できる新品種を捜し続けた。

明治29年9月26日、立谷沢の中村にある熊谷神社の例祭に詣でた時、行く道々の水田が冷害で惨擔たる中に、見事な穂をつけた不思議な稲を発見して穂を持ち帰った。翌年からこの穂種の試作に取り組み、4年後の1897年には在来種を圧倒する優秀なものとして固定した。この年はこの地方はウンカの大被害を受けたが、亀治の田だけは被害がほとんどない上作で、これをみた親友の太田頼吉はこの穂種に「亀の尾」と命名した。翌年には大和村中に広がり、庄内平野はもちろん県外にも種子が送られた。

1907年頃には東北六県ををうめ尽くす勢いとなった。

1906年最上川左岸の開発を同志とともに着手し、耕地整理組合を組織、吉田堰の開削工事を起こした。これは大和・得川、その他五ヵ村の原野を美田とするものであった。4年の歳月をかけ1911年工事は完成し、1913年(大正2)には大和村全域 650歩の耕地整理を指導し、乾田化することができた。

1927年には藍授褒賞が下賜され、村・郡・県の農会が中心になって亀治翁頌徳碑が、小出新田の八幡神社境内に建立され、病床にあった亀治には二千円の養老金が贈された。

「亀の尾」は東北の王者として一世を風靡し、その作付けは20万町歩に及んだが、のちドイツから科学肥料が輸入されるようになると、稲熱病に弱くなり、「陸羽 132号」さらに「農林1号」へと改良され発展的解消をとげた。

※青木恵一郎氏「農林水産業につくした人々」より引用

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