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庄内平野の田園地帯に デンマーク製の風車9基が並びます。 2009年7月23日放送
奇跡体験!アンビリバボー/フジテレビ
山形県最上川流域、旧・立川町(現・庄内町)は人口8000人足らずの小さな町だった。庄内平野を吹き抜ける激しい風は『清川だし』と呼ばれ、長年にわたって町に大きな損害をもたらした。風速20mにもおよぶ凄まじい風は、町から未来をも消し去ろうとしていた。 この地で代々農家を営んできた長南一美さん、彼には今でも忘れられない光景があるという。それは16歳の秋のこと、この日の風はいつもに増して強かった。長南さんが目にしたのは、収穫間際の稲を懸命に守る母の姿だった。その目には涙が溜っていた。 その後、農家を継いだ長南さんは24歳の時に隣町に住む行さんと結婚。それから間もなくのこと、農作業中に行さんは風に飛ばされて転んでしまった。彼女にとってそれは初めての経験だった。しかし、行さんは辛いとは決して口に出さなかった。 1976年、戦後最大の冷害が東北地方を襲い、町の被害総額は5億円にも上った。立川町は、春から秋にかけて奥羽山脈から庄内平野に吹き抜ける風の通過地点、両側を山に囲まれているため特に風が集まり易い地域だった。さらに、冬も日本海からの季節風に影響され、主要な農作物は米だけとなっていた。 他に産業もなく過疎化が進む中、立川町はある画期的な事業に乗り出した。それは、風力発電だった。出力1kwの国産風車を設置、強風によって電気を起こし、温室栽培で作物を育てようと考えた。 1980年代当初の日本で、これは初の試みだった。立川で米以外の農産物を作ることができるという町民達の願いは虚しく、だし風は風車の羽根をへし折った。 落胆する住民達に再び朗報が舞い込んだ。通産省の新エネルギー開発プランにより、立川町に再び、国産風車2基が設置された。今度こそ、風力発電は軌道にのると思われた。だが1986年冬、いままでにない凄まじい地吹雪が吹き荒れ、風車が発電機ごと吹き飛ばされてしまった。最終的に国が出した結論、それは「日本での風力発電は困難である」というものだった。 2度の事業の失敗で町が落ち込む中、立川町に新しい町長が誕生した。館林茂樹さんは元庄内経済連合会の米穀部長、町民達が命をかけて育てた庄内米を山形から全国各地へと売り歩いた。館林さんはこの苦しい状況をなんとか改善し、町を活性化させたいと考えていた。 1988年11月、政府は地方振興のため全国の市町村に1億円の予算を計上した。館林さんは、町民達に予算の使い方の意見を聞いた。そこで、長南さんはもう一度風力発電に挑戦したらどうかと意見を出した。 過去2度の風力発電事業に館林さんは直接関わっていなかった。しかし、それ以前に町民達の貴重な意見を無視することは出来なかった。 町長の命を受け企画開発課の阿部さんはある人物の元を訪ねた。そこは海外の風力発電を研究している清水幸丸教授の研究室だった。 阿部さんの熱意が伝わり清水教授に牛山教授が加わり、二人の風博士が立川町を訪れることになった。すると・・二人の風博士はだし風に大喜び!阿部さんは驚いた、この町の風をこんなに喜ぶ人間は見たことがなかった。 1991年『風車村推進員会』が発足、3度目の挑戦が始まった。二人の教授は早速調査を開始、学生達を引き連れ、風速を計測した。研究しなければならないことは山ほどあった。 そんな中、国内の工業メーカーに巨大風車建設を依頼したところ全て門前払い。計画が暗礁に乗り上げかけた時だった。二人の風博士があるアイディアを提案した。 調査の結果、それまでの風車の100倍の能力を持つアメリカ製の最新型の風車が1基3000万円で購入出来ることがわかった。これなら、温室栽培に十分な電力を生産することができる。さらに、電力会社に余剰電力を売却できると考えた。 しかし前例がないからと、話しもろくに聞いてもらえなかった。だが電力会社の対応も当然だった。当時の日本の法律では、風力発電によって生み出された電力は自家使用に限定されていたのだ。 さらにある重大な事実が判明した。大規模な発電を行うには送電線や変電設備が必要になり、総事業費が予定の2.5倍に膨れ上がってしまったのだ!!町長をはじめとする推進派達は完全に窮地に立たされてしまった!! 先の見えない中、町役場の今田さんと阿部さんは風車の輸入許可を取るため、毎日東北通産局へ通い詰めた。だが、肝心の風車の輸入に国からストップがかけられたのだ。なんとか粘った結果、安全性の審査をするから風車の設計図を提出するようにとのことだった。しかし、アメリカのメーカーからの返答は「企業秘密なので設計図は渡せない」というものだった。 一方、館林町長も売電の実現に向け国との交渉に奔走していた。電車を乗り継ぎ、毎日往復9時間かけて東京へ通った。 町に風車を、その思いでプロジェクトを立ち上げてから早くも2年の月日が流れていた。町長は町に風博士を招き、風がエネルギーに成り得ることを町民達に根気づよく説明し続けた。 長南さんも自分に出来ることはないかと考えていた。そして、孫の顔を見ているうちにあることを思いつき、自ら机に向かい絵本を作った。主人公の風が町を救うという物語で、子供たちに夢を与えたいと考えた。 『町を変えたい』という男達の思いは少しずつ浸透し始めていた。そして、今田さんも諦めることなく、通産省に通い詰めていた。通産省の役員は、もし羽根が落ちて事故が起こったとき、国には一切の責任はなく、町が責任を負うという念書を今田さんが書くように迫った。今田さんはこれを了承。 1992年4月、ついに東北電力による余剰電力買い取り制度が認められ、その後立川議会は2億4千万円の拠出を決定したのである。その年の暮れ、アメリカから巨大な3台の風車が立川町に届き、町のどこからでも見える岡の上に設置された。 だが、アメリカ製の風車は一定方向から安定した風を受けなければ上手く回らない、果たして立川で風車は稼働するのか!? 1993年4月24日、風車始動の記念式典、近隣市町村から多くの客が招かれていた。この日は朝から風がなかった。しかし、館林町長が稼働スイッチを押したその時、強いだし風が吹き、勢い良く風車が回り始めた。男達の夢が実現した瞬間だった! 3台の風車は120世帯、1日分の電力を生み出した。この電力はビニールハウスなどに利用され、イチゴなど果物の栽培が行われるようになった。 2_08 さらに、この小さな町の大きな挑戦は日本だけに留まらず、世界中に風の町・立川として知れ渡り、年間7万人もの視察団や観光客が訪れるようになった。そして現在、風車は11基に増え3400世帯の1日分の電力を力強く生み出している。 最初の風車完成から16年、立川町の風に惚れ込んだ二人の風博士は、現在も大学で風車に関する研究を行っている。 町を背負い交渉を続けた町役場の今田さんは、民政児童委員となり、社会福祉の活動に尽力している。風博士を町に連れてきた阿部さんは、今も庄内町役場で地域の発展に努めている。 そして館林町長は2001年に退任する際、心の中に風を起こして新たな目標に進んで欲しいという気持ちを込めて『新風誘志』という言葉を町に残した。 長年立川の風に特別な思いを持っていた長南さんは、製作していた絵本が完成、子供たちは真剣なまなざしで聞き入っていた。だし風と風車、それは町の誇りとして子供たちが未来へと受け継いでいってくれるだろう。
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