おさむ茶マイルーム

▼音楽
 自分の音楽的記憶を遡っていくと、必ず突き当たる曲ってありませんか?自分の場合は、欠かせないのがキングトーンズの「グッドナイトベイビー」という曲。あの当時、日本アーチストにあるまじきバタくささで登場した時には、正直ビックラこきました。それまでのコーラスグループといえばダークダックスとかデュークエイセスとか、オーソドックスなグループが定番でしたからね、度肝を抜かれたものです。時たま、ナツメロ番組に顔をだすようですが、まだ現役ライブやってるらしく(45年も)正に伝説グループですね。

 メジャーデビュー当時は日本におけるドゥー・ワップ・コーラスの草分けと、当時和製プラターズとしてもてはやされ、リーダー内田正人さんの日本人離れしたテナーにカルチャーショックを覚えた記憶が生々しく残っております。

きっといつかは 君のパパも
わかってくれる(二人の愛を)
後ろを向いた ふるえる肩を
だいてあげよう だから
グッナ〜ァイ、ぐッナァ〜イベイベ〜

 いいよな〜昔の曲って…、昨夜のナベプロドラマ観ました?「3丁目の夕日」を髣髴させる昭和のセットにウルウルきました。


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 一昨夜、柄にもなく「コンサートとお話の夕べ」という集いに参加してきましたが、バイオリンとピアノのデュオで、「アメージンググレース」や北の国からのテーマ「遥かなる大地」などポピュラーな曲が多かったせいか、得もいえる空間に浸ってきました。あららためて音楽の力というか癒し効果を思い知った次第です。
 音楽評論家の湯川れいこ氏が、ある雑誌で音楽の持つ力を次のような言葉で表現していた。「子どもの頃に聞いた音楽は体の奥底にいつまでも残っている」と述べ、音楽がいつまでも人間に影響を与え続けることを指摘、まさに言いえて妙。音楽には昔から人の心を動かす力があり、祭りの時など音楽は楽しい雰囲気を作り出し、戦いの時の音楽は興奮させる効果を発揮するようですね。よくアスリートが試合前に集中力を高めるために音楽を聞いてるシーンに遭遇するが、あれなどは後者なんでしょうね。
 ただし、ひどく悲しい気分であったり落ち込んでいる時に無理やり明るい音楽を聞いて元気を出そうというのは、かえってストレスを増長させる原因になるので、その時の気持ちに合った悲しい音楽を聞くことで心が慰められ、落ち着くことができるそうですから、なんでもTPOがあるようですね。
 双子といえば誰を思い出すでしょうか?今はなき金さん銀さん?おすぎとピー子?いやいや、ワタクシの年代で忘れてはならないあの双子ザ・ピーナッツでしょう。高校のとき、初めて生のコンサートがザ・ピーナッツショーだったので、よけい感慨深い。
 昭和34年“可愛い花”でデビューし昭和50年「良い状態の時に惜しまれながらカッコよくやめたい」と綺麗さっぱり引退してしまった文字通り伝説となった歌手、ザ・ピーナッツこそ、日本の歌謡史上最高の女性デュオなのではないかと思う。『恋のバカンス』、『恋のフーガ』、『ふりむかないで』、『東京の女』・・・どの曲も素晴らしいことこの上ないのだが、今思えばハーモニーは異次元の音色だったように思う。それと二人の双子っぷりは見事であった。歌の振り付けや仕草に至るまで完全に一緒だったのだから、しかも完全に。
 デビューの年から紅白に出場し、以来連続16回出場という記録が示す通り国内での人気は凄まじいもので、世界を相手に活躍した日本人歌手の先駆けでもあった。

そしてザ・ピーナッツといえば、テレビ草創期の象徴的存在でした。そして映画“モスラ”での“小美人”役など、まさに日本の芸能史を語るに置いて欠くことのできない活躍をしてきました。映画の中で何のことやら意味の分からない歌詞の『モスラの歌』が今も耳に残っている「モスラ〜ヤ モスラ〜 ドゥンガン カサクヤン インドゥムウ〜 ルスト ウィラードア…」
これからも、ザ・ピーナッツを越えるデュオは生まれないだろうと思えるのだが…。

 最近とんとカラオケ歌ってないな〜。ないものねだりで一時期森田公一とトップギャラン「青春時代」(作詞阿久悠、作曲森田公一)をよくシャウトしたものですが、今の若い人は曲さえ知らないでしょうね。昭和51年のヒット曲で、青春というよりは残春時代のころの曲でした。歌詞にある「青春時代の 真ん中は道に迷っているばかり」恥ずかしながら、この年になってもいまださ迷いっぱなしです。
 人は年齢を重ね,経験を積み,世間に慣れていく過程で,青春の劇が失われて行く,だから「夢」として回想するしかないのかもしれませんね。さ〜在りし日の青春の熱き心を一緒に歌いましょう(笑)!

「卒業までの 半年で。
  答えを出すと 言うけれど
  二人が暮した 歳月(トシツキ)を
  何で計れば いいのだろう
  青春時代が 夢なんて
  後からほのぼの 思うもの
  青春時代の 真ん中は
  道に迷っているばかり

  青春時代が 夢なんて
  後からほのぼの 思うもの
  青春時代の 真ん中は
  胸に刺射すことばかり」
 ブリティッシュロックといえばザ・ビートルズ、ローリングストーンズが双璧ですが、でもこのグループも忘れてはなりませぬ。「恋はワイルド・シング」のヒットで日本でもなじみのトロッグスというグループ、60年代後半の一時期小ブレークしました(笑)。その度肝を抜くような音楽スタイルとフレーズなど、忘れないグループでした。大仁田のプロレスラー時代登場テーマとして採用していたし、映画「メジャーリーグ」の挿入歌という「ハハーンあれか」と耳的にはお馴染みかと思います。
 「ワイルドシング」は、発売当時放送禁止になった記憶があり、かなり内容のヘビーな?歌詞であったとか…英語ができないのでわかりませんが。ジミーヘンドリックスもこの曲を演奏していたし、映画、メジャーリーグでチャーリーシーンのテーマ曲になっていたので、この曲が一躍有名になりましたね。 ワタクシ的には「恋はワイルド・シング」よりB面の「ウィズ・ア・ガール・ライク・ユー」が好きでしたね。
 特に「ババンバンバーン ババンバンバーン …」とバックコーラスが心地よく、ノリのいいいテンポの曲で、当時のGSがよくコピーして歌っていました。あのころ流行っていた曲は、ほかにモンキーズの「恋の終列車」ホリーズ「バス・ストップ」ウォーカー・ブラザーズの「ダンス天国」ETC…ああ〜みんな懐かしい。
 奇しくも平浩二の歌謡曲とホリーズが同名曲「バスストップ」、どちらもジャンルは違えども大好きな曲でした。平浩二の歌謡曲は、甘く切ないハイトーンで私には絶対歌えない曲です。歌詞はあきらかに「演歌」のそれだが、そう思わせない不思議な曲でもある。
 
♪バスを〜待つ間に〜 涙を拭くわ
  知ってる 誰かに見られたら 
  あなたが 傷つく〜♪
 この歌をうまく歌える知り合いがいましたが、歌い終わった後義理拍手ではなく、スタンディングオペレーションしてしまいました。ゲスな話だが、スナックでこの曲をこなせたら相当うけること間違いない!私には「羨望の曲」だ。
 この曲を聴いて改めて思ったのですが、この歌は女心を唄っているのですが、関西の漫才師のセリフではありませんが「こんな女おらんやろ。」です。
 
 もう一方ホリーズの「バス・ストップ」ですが、昔イントロ・クイズっていう番組ありましたが、この曲はイントロですぐこれだ!とわかる感じで、メロディもアレンジもシンプルで覚えやすくポップスの古典でした。
 ホリーズは1960年代から1970年代にかけて,イギリスで17曲,アメリカで6曲ものTop10ヒットを放っているのですが,日本ではこの「バス・ストップ」が一番人気でした。フォーク・ロック風のアコースティック・サウンドにマイナー調の胸キュンで甘酸っぱいメロディーと日本人の琴線に触れまくるサウンドですから,それも当然でしょう。
 ホリーズの「バスストップ」は最近ついぞ,聞かないが,確かミリオンヒットなったハーモニアスなメロディーは,しっかりおぼえている(ハーマンズ・ハーミッツ,アニマルズ,シャドーズ,ピーターとゴードン等とともに60年代のリバプールサウンズを彩った筈です、確か。)。
 TVのCMでたまに流れる小田和正の「言葉にできない」という曲をご存知だろうか。毎回胸が締め付けられるような思いに駆られながら聴いている。明治生命のテレビ・コマーシャルに使われていた曲である。テレビでは二月に一度くらいしかオン・エアされていない“たったひとつのたからもの編”だ。 その数少ないオン・エアに対して、全国から感動の投書が1000件以上も寄せられていると聞く。 登場しているのは、埼玉県に住むご夫妻とその息子さん。息子さんは、生後一ヶ月でダウン症と判明し、約一年の余命と医者から告げられても、健気に前向きに生きていく姿に目頭がいつも熱くなる。

♪人間は一人では生きていけない
また、誰かを愛している 心、悲しくて
言葉にできない
lalala…lalala…
言葉にできない

切ない嘘をついては言い訳を飲み込んで
果たせぬ、あの頃の夢はもう消えた
誰のせいでもない
自分が小さすぎるから
それが悔しくて 言葉にできない
lalala…lalala…

言葉にできない
あなたに逢えて本当によかった
うれしくて、うれしくて 言葉にできない
lalala…lalala…
 昭和の日曜日の昼時間といえば一家団らんのひととき、家族そろってよく観た番組が「ロッテ歌のアルバム」。玉置宏の「一週間のこぶさたでした」の名文句とともに「お口の恋人ロッテ」を広めた歌番組で1958年〜1979年までの21年間にわたって、1110回放送された長寿番組でした。坂本九やパラキン(パラダイスキング)、飯田久彦、当時キラ星の如く現れたスターの輝きに、心ときめかせたものでした。番組開始は昭和33年で終了は54年といいますから足掛け21年、実に長い!
 いつしかその玉置さんも1000回を迎えた昭和52年、司会を千昌夫、小島一慶にバトンタッ
チしましたが、玉置宏イコール「ロッテ歌のアルバム」のイメージが強すぎて、視聴者離れのせいか、わずか2年でその幕を下ろしました。
 年末年始に入ると、様々な企画TV番組も楽しみの一つですが、昨日80年代の音楽特集番組で久々に「大橋純子」の勇姿に遭遇しました。当時、日本人離れした歌唱力(特に高音部分)と音楽センスにビックラこいた記憶が残っています。今でも実力派シンガーという言葉は、彼女のような人のためにあるのではと、頑なに信じているワタクシです。
 なつかしいついでにインターネットで調べたら「元々ボサノヴァが好きだった彼女は、地元北海道の短大時代、先輩のバンドのリードヴォーカルに抜擢されR&Bに目覚め、上京後にレコード会社のオーディションに合格し'74年ソロデビューを果たした」とか…。その後、"大橋純子&美乃屋セントラルステイション"を名乗った時代もありましたね。「たそがれマイ・ラブ」が代表ヒット曲ですが、ワタクシ的には、結婚式で今もよく歌われる「シルエット・ロマンス」が大好きです。
12月8日は、ジョン・レノンの25回目の命日でした。彼は1980年12月8日、一人の熱狂的なファンに銃で撃たれ、この世を去った。享年40歳であった。彼がビートルズのメンバーであったことさえ知らない若い人に比較して、今のオヤジ族はビートルズをリアルタイムで体感した『ビートルズ世代』だ。60年代のポピュラーミュージックをすべて塗り替えたビートルズの音楽は、現代でも輝きを失わなっていない。そのビートルズの新譜LPを、わくわくしながらターンテーブルに乗せ、同時代で進行する音楽の進化を体験できたことを幸せに思う。
 ビートルズを超えるポピュラー音楽グループはもう現れないと言われるが、実際解散から30年経ってもあの時代を超える音楽の革命は起きていない。昔はビートルズもロックグループの中のひとつ、といった認識もあったが、時代が経つほど、その存在の大きさが際立ってくる。

もとい、ビートルズのメンバーで一際異彩を放っていたのがジョンレノンでした。オノヨーコと出会ってからは、特にメツセージ色の強い音楽に傾斜していったような気がします。良い歌に古いも新しいもないが、ジョンがその40年の生涯において、感じるままを歌にして残したその感性こそが、すばらしい。 ジョンの冥福を祈りつつ、「イマジン」という名曲を味わって見ようと思う。(日本語訳版)

想像してみて、天国はないって
やれば簡単だよ
足元に地獄はなく
頭上には空だけ
想像してみて、みんなが
今日のために生きてるって
想像してみて、国は存在しないって
難しくないよ
そのために殺したり死ぬことないよ
宗教もない
想像してみて、平和な人生を
想像してみて、財産はないって
できるかな
欲張りや飢えは必要ない
人はみな兄弟
想像してみて、みんなが
全世界を共有しているって
僕が夢を見てるって思うかな
でも僕ひとりだけじゃない
いつか君たちも一緒になって
世界がひとつになってほしい


寺内タケシ、日本を代表するインスツルメンタルプレーヤーというよりエレキの神様と表現した方が正しいだろう。60年代のポップス創生期からから現在も第一線で活躍中というからスゴイ!
5歳の時からギターを手にし、9歳でエレキギターを製作。中学時代にバンド活動を開始したというから、エレキの申し子と言っても過言ではない。寺内タケシを生で初めて聴いたのは高校3年のころ、第1期ブルージーンズの時代だ。当時は、ベンチャーズが日本の若者をとりこにし、ネコも杓子エレキにシビレていた時代で、コンサートはもちろんご法度、エレキは不良のやるものといわれた時代だから…。監視の目をかいくぐって山形県民会館に行った記憶が残っている。
初めて目の当たりにするギターテクニックはパワフルでダイナミック、腰を抜かしそうになったものである。ベンチャーズ全盛時代にあって、逸早く「津軽じょんがら節」などの民謡や「運命」などのクラッシックの新しいジャンルに取り組む先進性は寺内たる所以である。
加山雄三主演「エレキの若大将」にも出ていましたが、始まった瞬間のタイトルバックから、エレキの音とそのカッコ良さに一遍でシビれてしまい、2回も見たことも鮮明に覚えています。
 2回目が1966年、当時はGSブームでブルージーンズを解散して、ボーカル主体のバニーズに衣替えした時代です。ボーカルが入ると演奏と相殺されて、魅力が半減したような思い出が残っています。
そして3回目が、10年前でなんと寒河江のビアパーティコンサートでした。30年前と変わらぬパワフルさに頭が真っ白になり感動したものです。「人に歴史在り」といいますが、まさにそのとおりだと思います。神様は不滅、4回目のコンサートを楽しみにしているところです。

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「昭和は遠くなりにけり」そんな思いを強くする昨今ですが、先日上京の折オールディズ専門のライブハウスに行ってまいりました。70年代の音楽を聞きながら、昭和のよき若きあのころにタイムスリップしてきました、そしてツイスト&ジルバなんか踊っちゃったりして…長生きはするもんです。
 晩秋になるといつも思い出すのが「♪枯れ葉散る〜夕暮れは〜」五輪真弓のこの曲。ゼッタイ春には思い出さない、何でだろう(笑)。確かデビュー曲は「少女」でしたね。ほかに「煙草の煙」というのもいい曲でしたですね。「たば〜この〜けむりの〜なか〜で〜あなた〜が見えない〜」っと。

 フランスに在住の時、フランス語で歌う彼女は、「フランス語を話せないのにフランス語の歌を歌っている」と、人ずてで聞いたそうです。彼女は上手にフランス語の歌を歌っていても、やはり外国人なんだと思ったそうです。そして、ふと、気が付きました。私には日本語が有ると。
究極の別れの歌を思案中に、恩師の作曲家交通事故に遭い、そのとき作ったのが、この「恋人よ」だそうです。いつ聞いても暗くなるな〜。

 作詞・作曲: 五輪真弓  歌  : 五輪真弓

1.枯葉散る夕暮れは 来る日の寒さを物語り 雨に壊れたベンチには 愛をささやく歌もない
 恋人よ 側にいて こごえる私の 側にいてよ  そして一言 この別れ話が 冗談だよと 笑ってほしい

2.砂利道を 駆け足で マラソン人が行き過ぎる まるで忘却を 望むように 止まる私を誘っている
 恋人よ さようなら 季節は巡って くるけれど  あの日のふたり 宵の流れ星 光っては消える 無常の夢よ
 恋人よ 側にいて こごえる私の 側にいてよ  そして一言 この別れ話が 冗談だよと 笑ってほしい
 「卒業」、小学校、中学校、高校、そして大学と、人それぞれに節目の卒業が思い出されると思いますが…ワタクシもあと数年で、職場人生を卒業する年代となりました(涙)。
 尾崎豊が昭和60年、20歳になる年に歌った「卒業」は、ワタクシが37歳、ちょうど子供が多感な時期の曲でしたが、よくCDを拝借して聞いたものです。世代は違えども、なぜか尾崎の感性がフィットし、気分が昂じると年甲斐もなくカラオケで歌ったものです。彼の曲は、当時の若者の心を代弁しているかのようで、年代を超えてワタクシもこの「卒業」が大好きでした。
 同時期、斉藤由貴も「卒業」をリリースしていますが、尾崎の「卒業」は単なる卒業ではなく、大人への卒業を歌っているというか、これまでの自分自身を卒業しようとして、サビの部分で「この支配からの卒業 たたかいからの卒業…」と唄っていましたが、尾崎は本当の卒業しきれずに人生まで途中で辞めてしまいました、高校を中退したように・・・。見かけは大人のようでしたが、そんな自分に戸惑っていたのでしょう。そして、卒業しきれずに、尾崎はどうしたら卒業出来るのか悩んでいたと思います。
 私も自分自身、考え直すことがあります、いつもこれでいいのだろうかと…。
でも、最近の若者はそんなことを考えることすらない人が増えています。子供のままだということに気付いてもいない人もいます。私も偉そうなことは言えませんが、若い人にはもっと悩んで欲しい、考えて欲しい、自分自身を見つめなおして欲しいと思う今日この頃です。

「♪あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう…この支配からの卒業 たたかいからの卒業」今でも、この年になっても、本当の自分にはたどりついてないんだろうなあ。お酒が入ってカラオケするときは、年甲斐もなく、今でも歌います。シャウトします、声が出なくてでも(笑)
If you’re going to San Francisco 
Be sure to wear some flowers in your hair
If you’re going to San Francisco

なつかしいですな〜60年代の音楽ですよ。スコット・マッケンジーの『花のサンフランシスコ』当時流行ったハッピーじゃない、ヒッピーの象徴的な曲でしたね。若者はみんなロングヘアーにベルボトムのジーンズで固め、泥沼化するベトナム戦争への平和運動や既存の社会への抵抗として,平和と愛を求めて定職に付かず自由放漫な暮らしをするのを良しとしたヒッピーの賛歌がこの曲でした。 
 他にママス・アンド・パパスの『夢のカリフォルニア』なんていうのもありました。たまにラジオから流れ出すと、オヤジにはたまらなくなるのです。当時ロン毛だった元ヒッピーも、今はすっかり後頭部まで天然そりこみ入ってるかと思うと、時代の流れを感じます。

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