戦国観光やまがた情報局

大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会で募集・選定を進めておりました、直江兼続マスコットキャラクターが決定しました!

名前は「かねたん」、愛の甲冑を身にまとった「犬」がモチーフのキャラクターです。デザインした方によると、「主君に忠義を尽くす、そのイメージから犬のキャラクターにしました。」とのこと。
これからPRにバンバン活躍していきます。皆さんどうぞ応援よろしくお願いします。

 米沢「天地人推進プロジェクト」公式発表ホームページ
直江兼続マスコットキャラクター「かねたん」がいよいよデビュー!
忠義に厚いイメージがある「犬」のキャラクターです。
これからたくさんのイベントに出演予定です。
皆さん応援よろしくお願いします。
...もっと詳しく
米沢市「天地人推進プロジェクト」
“直江兼続”マスコットキャラクター
第2次審査は皆様の投票によって10点にしぼります!

投票はこちら米沢市ホームページ

米沢市の天地人推進協議会で
3月から募集していた“直江兼続”マスコットキャラクター。
応募作品438点の中から、第1次審査により候補作品が
以下の20点に決定しました!
2次審査は皆様の投票によって行い、作品を10点にしぼります。
投票によって選ばれた10点を最終審査し、
キャラクターを決定いたします。
ぜひ皆様の1票をよろしくお願いします!
投票者には抽選で記念グッズのプレゼントもあります。

詳しくは米沢市ホームページをご覧下さい。

投 票 要 領
主催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会
投票期間
2008年5月21日(水)〜2008年5月30日(金)
投票方法
E-mail、市内に設置する投票箱にて受け付けます。
E-mailの場合、件名を「キャラクター投票」とし、
本文にキャラクター番号、〒住所、氏名、電話番号を記入の上、
下記までお送りください。
E-mail:tenchijin@city.yonezawa.yamagata.jp

*投票は、1人につき1票。
(2票以上の投票が確認された場合は、
その方の投票は無効とさせていただきます。)

投票箱設置場所
米沢市役所 1階総合案内
JR米沢駅構内観光案内センター アスク

☆プレゼント☆
投票者の中から、抽選で30名様に記念グッズを差し上げます。
*当選者の発表は、賞品の発送をもって代えさせていただきます。

個人情報の取扱いについて
投票により得た投票者の個人情報に関しましては、
大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会で厳重に管理し、
本投票以外の目的に使用しません。


お問合せ先
〒992-8501 山形県米沢市金池5−2−25
米沢市役所 総合政策課
TEL:0238−22−5111(内線2805/2806)
置賜地域(旧米沢藩領)の直江兼続ゆかりの寺社を巡るコースです。
花公園との組み合わせも可能です。

9:30〜10:10
 米沢城址・松が岬公園散策
  ・上杉神社(上杉謙信公を祀る神社)
  ・上杉神社稽照殿(直江兼続所用「愛の甲冑」ほか上杉家伝来の宝物を展示)
  ・松岬神社(上杉鷹山公、上杉景勝公、直江兼続公ほかを祀る神社)
10:10〜11:00
 伝国の杜・米沢市上杉博物館
  大河ドラマ特別展「天地人博2009」開催中!

  車で移動【所要時間20分】

11:20〜11:50
 亀岡文殊堂(日本三文殊のひとつ、直江兼続主催の歌会の開催場所)

  車で移動【所要時間10分】

12:00〜12:50
 よねおりかんこうセンター [昼食&買い物タイム]

  車で移動【所要時間5分】 

12:55〜13:25
 高畠ワイナリー

  車で移動【所要時間20分】 

13:45〜14:15
 熊野大社(日本三熊野のひとつ、直江兼続が拝殿を修復)
 [6月:双松公園バラまつり、10・11月南陽菊まつり]

  車で移動【所要時間25分】

14:40〜15:10
 總宮神社直江杉(直江兼続が植えた杉が残る神社)
 [5月:白つつじまつり、6月:長井あやめまつり、9月:はぎ公園]

  車で移動【所要時間20分】

15:30〜16:00
 道の駅いいで めざみの里観光物産館
 [6・7月:どんでん平ゆり園、8〜10月:川西ダリヤ園]

宿泊先へのご案内
 小野川温泉 所要時間:車で約40分 到着時刻16:40
 赤湯温泉  所要時間:車で約20分 到着時刻16:20
 かみのやま温泉  所要時間:車で約40分 到着時刻16:40

※印刷用行程表をダウンロード(PDFファイル)
  (ダウンロード完了まで少し時間がかかります。)
 関ヶ原の戦い後、兼続は上杉家の生き残りのために奔走し、結果、上杉家は取り潰しを免れ、米沢30万石に削封となります。家臣の知行(給料)はそれぞれ3分の1に減り、大人数が一挙に米沢に引っ越してきたために、住む家さえない有様でした。
 兼続も6万石から1万石に禄を減らし、しかもそのうち半分を自分の家臣達に分け与えたため、自身の取り分はわずか5千石でした。この状況を打開するため、兼続は自ら先頭に立って殖産興業策を指揮します。
 米沢を流れる松川(最上川)の治水事業を行って町の基盤を整え、身分の低い士族にも開墾に当たらせ農地を拡大したほか、青芋(あおそ)、紅花、漆、うこぎなどの作物を奨励するなどして、米沢藩の基礎を築き、藩政を安定に導きました。
 これらの政策は、のちの米沢藩9代藩主、上杉鷹山の改革の手本ともなり、現代まで兼続の功績が評価されています。

 また一方で、蔵書家でもあった兼続は、その書籍を用いて学問所「禅林文庫」、のちの藩校興譲館を創設し、人材育成にも力を注いだほか、白布高湯の地には、技術者を招いて鉄砲製造工場を設け、家臣達に射撃訓練を奨励しました。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、上杉軍は鉄砲隊を用いて奮戦し、めざましい活躍で家康をはじめとする諸将から賞賛されています。

 元和5年(1620)、兼続は江戸の屋敷で死去し、米沢の徳昌寺に葬られました。享年60。後に林泉寺に改葬され、墓は現在も奥方であったお船の方の墓と並んで建っています。また、兼続所用として有名な「愛」の前立の兜は、上杉神社稽照殿(けいしょうでん)にて観ることができます。
 慶長3年(1598)、秀吉が病没すると、次に台頭してきたのは徳川家康でした。家康は天下人としての地位を固めるべく、まず加賀の前田家に謀反の疑いをかけ屈服させると、次に上杉家に矛先を向けてきました。
 慶長5年(1600)、領国に戻って軍備を整えていることについて、申し開きのために至急上洛せよと、家康が詰問状を送りつけてきたのに対し、兼続は堂々とした反論の書状を送ります。これが世に名高い「直江状」です。
 返書を読んだ家康は、激怒したといわれており、すぐさま上杉征伐の軍勢を招集します。この征東軍は総勢10万あまりに及ぶ大軍で攻め寄せ、下野国小山(現・栃木県小山市)までやって来ます。

 ところが、決戦開始も時間の問題となったころ、大坂にて石田三成らが挙兵したとの報告がもたらされます。
 征東軍では軍議が開かれ、三成率いる西軍との決戦に赴くことが決まると、西に進路を転じ退却を始めました。これぞ家康を討つ絶好の機会と、兼続は総攻撃を主張します。ところが景勝は、退きさがる敵の背中を討つのは、上杉の「義」に反するとして動きません。兼続もやむなく主君の命に従いました。

 このあと兼続は、東軍に属する山形城主の最上義光を攻めました。不戦の約束を破り、上杉領であった庄内地方に攻め込む姿勢を見せたからです。怒涛の進撃を開始し、山形城から南西の支城・長谷堂城を取り囲み、落城寸前までに追い込みますが、関ヶ原での西軍・三成の敗報を受け、米沢領への撤退を余儀なくされます。
 この撤退戦では、総大将である兼続自らが殿(しんがり:引き上げの際の最後尾の部隊)を務め、伏兵と鉄砲隊を用いて、少数の軍勢で追撃の大軍を防ぎきり、自軍の被害を最小限度に止めました。のちに敵将である義光や家康も賞賛するほどの見事な戦いぶりでした。
 秀吉が勝家を討ち破り、天下の形勢が秀吉に大きく傾くと、秀吉は朝廷から関白の叙任を受け、豊臣の姓を賜るなど、着々と天下人としての地盤を固めていきます。その秀吉から上洛要請が来ると、景勝はこれを受け入れ、天正14年(1586)、兼続ら重臣とともに、初めての上洛を果たします。
 これ以降、兼続は秀吉側近の石田三成をはじめとする豊臣政権の要人や、天下に名の聞こえた武将達と交流を深め、上杉家に直江兼続ありとの評判を高めていきます。
 天正16年(1588)の2回目の上洛の際には、兼続は朝廷から従五位下・山城守(じゅごいのげ・やましろのかみ)に叙任されました。また、上杉家では家老職が廃止され、兼続が執政として政務全般を取り仕切る体制となりましたが、兼続は驕ることなく主君の景勝を支え続け、忠義を貫き通します。

 兼続は、背丈が高く容姿秀麗、言語さわやかで弁舌に巧みであったといわれています。また、漢詩の創作を得意としており、のちに日本初の銅活字印刷といわれる「文選(もんぜん)」の出版を行うなど、当時一流の文化人でもありました。
 現在国宝として指定されている、宋版「史記」「漢書」「後漢書」をはじめ、たくさんの書籍を所有していた愛書家としても知られ、文禄の役に参陣して朝鮮に渡った際には、自軍に略奪行為を厳しく戒めるとともに、貴重な書籍が戦火により失われるのを惜しみ、書籍の保護収集に努めて日本に持ち帰ったといわれています。

 秀吉は、兼続を「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人しかいない」と評したとされ、景勝が越後から会津120万石に移封の際には、陪臣(ばいしん:家臣の家臣)である兼続に対し、直々に米沢30万石を与えています。これに対し兼続は、一家臣に過ぎない自分に30万石は多すぎるとして断り、6万石で米沢城の城主となっています。
 2年あまり続いた御館の乱では、謙信時代に保っていた領土の一部を失うなど、上杉家は勢力を衰えさせてしまいます。この状況のなか、天下統一を目指す織田信長は、加賀(石川県南部)から能登(石川県北部)・越中(富山県)へと軍勢を進めており、さらには、北越後の新発田重家と手を結び、上杉家に対し反乱を起こさせます。
 天正10年(1582)、織田軍は武田領への侵攻を開始し、たったひと月あまりで武田家を滅亡に追い込みます。続いて織田軍は、支配下に治めた旧武田領からも越後への侵攻を開始し、越中、信濃(長野県)、上野(群馬県)から越後を包囲しました。
 兼続も景勝に従い、各地での防衛戦に出陣しますが、多方面から押し寄せる敵軍に、しだいに追い詰められていきます。ここに上杉家は存亡の危機を迎えることになりました。

 ところがこの時、織田家重臣の明智光秀が主君の信長に謀反を起こし、京都の本能寺にて信長は命を落とします。主君を突然亡くした織田軍諸将は、越後への侵攻を取りやめ、それぞれ自分の領地へと引き上げていきました。この本能寺の変により、上杉家は危機を脱し、態勢を整えることができたのでした。
 謀反を起こした光秀は、織田家重臣の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に討たれ、織田家筆頭家老の柴田勝家と秀吉との間で、信長の後継者争いが起こります。景勝は、秀吉と同盟を結び、北陸に勢力を張る勝家と対峙します。この同盟交渉で手腕を発揮したのが兼続でした。
 直江兼続は、永禄3年(1560)越後国魚沼郡坂戸城下(現・新潟県南魚沼市)にて、坂戸城主長尾政景の家臣、樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。幼名は与六といい、元服して兼続(樋口与六兼続)と名乗ります。
 与六の利発さに目を留めた、政景の正室で上杉謙信の実姉でもある仙洞院の推薦により、政景の次男喜平次(のちの上杉景勝)に小姓として仕えるようになりました。兼続6歳、景勝11歳のことといわれ、これ以後、兼続が死ぬまでこの主従関係は続きました。
 その後二人は春日山城(現・新潟県上越市)に移り、そこで謙信から様々な薫陶を受け、上杉の「義」の精神を受け継いでいくようになります。

 天正6年(1578)、謙信が急な病により没すると、上杉家の家督をめぐる争い、御館(おたて)の乱が起こります。兼続はよく主を支え、景勝方は勝利を収めます。この時の功績により、兼続は21歳の若さで家老に抜擢されました。
 天正9年(1581)、御館の乱の論功行賞をめぐるいざこざに、上杉家重臣の直江信綱が巻き込まれ死去するという事件が起こると、上杉家中の名門である直江家が途絶えるのを惜しんだ景勝は、直江の名跡を継ぐよう兼続に命じます。
 兼続は命に従い、信綱の死去により未亡人となった、3歳年上のお船(おせん)と夫婦となり、直江家を継いで与板城(現・新潟県長岡市)の城主となって、名乗りも直江兼続と改めます。
父:樋口惣右衛門兼豊(ひぐちそうえもんかねとよ)?〜1602
   坂戸城主・長尾政景(上杉景勝の実父)の重臣。 
   のちに直峰城主。伊予守。
   上杉家の会津移封後は米沢城にて、兼続が不在の際の留守役を務めた。
   慶長7年(1602)9月12日死去。
 
母:蘭子(らんこ)1539〜1604
   北信濃の豪族泉氏:泉弥七郎重歳(いずみやしちろうしげとし)の娘。
   これとは別に直江景綱の妹という説もある。
   大河ドラマ「天地人」では“お藤”の名前で登場。

弟(次男):与七(よしち)1562〜1622
   兼続の2歳下の弟。
   天正10年(1582)小国家を相続。
   小国実頼(おぐにさねより)のち大国実頼(おおくにさねより)を名乗る。
   天神山城主、のちに鴫山城代、高畠城代を務める。 
   関ヶ原合戦後、兄の兼続と対立して高野山に逃れた。
   兼続の死後、密かに米沢北部の中小松村に戻り、同地で没したと云われている。
   「能書、連歌の上手」と評され、連歌会に度々出席している。
   元和8年(1622)2月9日死去。享年61。

弟(三男):与八秀兼(よはちひでかね)1580〜?
   他家を継いだ兄達に代わり、樋口家を相続、千石を領す。
   慶長19年(1614)大坂冬の陣に参陣。
   
妹(長女):きた ?〜?
   須田満胤に嫁ぐ

須田満胤(すだみつたね)?〜?
   須田満親の長男。景実、光義とも。父とともに上杉家に仕えていたが、
   慶長2年(1597)伏見舟入普請を担当した際に不備があり、
   同じく担当の柿崎憲家らとともに改易追放処分を受け、京で浪人となった。
   そのため、須田家は次男の長義が継いだ。
   室のきたは、本庄繁長を頼り、子の満統(みつむね)は、
   慶長19年(1614)になって上杉家に帰参した。

妹(次女):名前不詳?〜?
   色部光長に嫁ぐ

色部光長(いろべみつなが)1587〜1640
   色部長真の長男。幼名・竜松丸。父の死去に伴い、わずか6歳で家督を継いだ。
   父の遺言状には直江兼続の次女を息子の正室に迎えたいと書いてあると云われているが、
   実際に嫁いだのは、樋口兼豊の次女(兼続の妹)であった。
   上杉家の会津移封に際して金山城主となる。
   慶長出羽合戦では先鋒を務め、畑谷城を攻略した。

妹(三女):名前不詳 ?〜?
   篠井泰信に嫁ぐ

篠井泰信(しののいやすのぶ)?〜?
   篠井正信の子か。正信は直江親綱の三男で景綱の弟。
   慶長出羽合戦の際、第二陣として上山城攻略に向かうが、本村隊の敗北を受けて退却した。
   その後、長谷堂城攻略のため、直江兼続率いる第一陣と合流した。
   撤退にあたっては、春日元忠とともに先駆を命じられた。


妻:お船(おせん)1557〜1637
   与板城主・直江大和守景綱の娘。
   婿に迎えた信綱が死去したため、上杉景勝の命により、樋口兼続に再嫁し、
   一男二女をもうける。
   寛永14年(1637)1月4日死去。享年81。
   米沢徳昌寺に埋葬、のち林泉寺に改葬。

長女:お松(おまつ)?〜1605
   慶長9年(1604)閏8月、養子に迎えた本多政重(直江勝吉)の妻となる。
   慶長10年(1605)8月17日病没。
        
次女:名前不詳(お梅?)?〜1605
   慶長10年(1605)1月7日病没。

長男:平八景明(へいはちかげあき)1598〜1615
   慶長3年(1598)直江兼続の嫡男として生まれる。幼名竹松。
   うまれつき病弱で、病をおして大坂冬の陣に参陣。
   翌年の元和元年(1615)7月12日病没。享年18。
   
養子:与次郎(よじろう)?〜?
   本庄繁長の三男:本庄長房。
   文禄2年(1593)嫡子のなかった兼続の養子となる。
   後年、竹松(平八景明)が生まれたため、しばらくして帰家。
   のちに、本多政重が前田家に帰参する際に随行した。
   その後、上杉家に戻り小国城の在番を務めた。  

養子:勝吉(かつよし)1580〜1647
   徳川家康腹心の本多正信の次男:本多政重。故あって、徳川家を出奔。
   大谷家、宇喜多家、福島家、前田家を渡り歩く。
   慶長9年(1604)閏8月、兼続の婿養子となり、長女お松と結婚。
   大和守勝吉(のち安房守)と称した。
   慶長16年(1611)上杉家を去り、前田家に帰参した。
   
養女:阿虎(あこ)?〜1627
   直江兼続の姪。兼続の弟:大国実頼の娘。
   慶長14年(1609)直江家の養女に迎えられ、直江勝吉の継室となる。
   慶長17年(1612)前田家に仕えた本多政重(直江勝吉)のいる加賀に赴く。
   寛永4年(1627)5月10日死去。
城下町米沢の基礎を築いた直江兼続の功績を訪ねるコースです。

10:30〜11:10
 米沢城址・松が岬公園散策
  ・上杉神社(上杉謙信公を祀る神社)
  ・上杉神社稽照殿(直江兼続所用「愛の甲冑」ほか上杉家伝来の宝物を展示)
  ・松岬神社(上杉鷹山公、上杉景勝公、直江兼続公ほかを祀る神社)
11:10〜12:10
 伝国の杜・米沢市上杉博物館
  大河ドラマ特別展「天地人博2009」開催中!
12:10〜13:00
 上杉城史苑 or 上杉伯爵邸 ほか [昼食&買い物タイム]

  車で移動【所要時間5分】

13:05〜13:35
 春日山林泉寺(直江兼続夫妻の墓所)

  車で移動【所要時間10分】

13:45〜14:00
 法泉寺(直江兼続が創設した学問所の跡)

  車で移動【所要時間15分】 

14:15〜14:45
 直江石堤蛇堤(兼続の指揮で築いた石積みの堤防)

  車で移動【所要時間5分】 

14:50〜15:05
 龍師火帝の碑(直江兼続が建立した石碑)

  車で移動【所要時間5分】

15:10〜
 武家屋敷(米沢市芳泉町・石垣町) ※車窓から見学

  車で移動【所要時間10分】

15:20〜15:40
 宮坂考古館(上杉謙信、直江兼続、前田慶次らの甲冑を展示)

宿泊先へのご案内
 小野川温泉 所要時間:車で約20分 到着時刻16:00
 白布温泉  所要時間:車で約35分 到着時刻16:15
 赤湯温泉  所要時間:車で約30分 到着時刻16:10

※印刷用行程表をダウンロード(PDFファイル)
  (ダウンロード完了まで少し時間がかかります。)
永禄3年(1560)〜元和5年(1620)
 樋口兼豊の長男として坂戸城下に生まれた。仙洞院に見込まれ、幼くして上杉景勝の近習となった。御館の乱において功績があり、21歳の若さで家老に抜擢、のちに執政となる。景勝の命により、直江景綱の娘・お船と結婚し直江家を相続、与板城主となった。
 上杉家の内政・外交を取り仕切り、豊臣秀吉や石田三成との関係を深め、豊臣政権内での上杉家の地位を確立した。会津移封にあたっては米沢城主となった。
 秀吉没後、対立した徳川家康から送られた詰問状に対し、世に言う「直江状」を送り返した。関ヶ原の戦いと同時期に行われた慶長出羽合戦では、山形城の最上義光を攻めるも、石田三成率いる西軍の敗報に接し、撤退。追撃に出た最上軍相手に見事な退却戦を演じた。
 戦後は、上杉家の存続に奔走。米沢の街づくりを推進し、藩政の基礎を固めた。大坂の陣には徳川方として参戦し、将軍・徳川秀忠から感状と太刀一腰及び小袖を与えられた。元和5年(1620)江戸鱗屋敷にて死去。享年60。
上杉家の執政・直江兼続の偉業を紹介する専門サイト。主に米沢での偉業を中心に紹介
 http://www.naoe-kanetugu.com/index.html

慶長5年(1600)9月14日、直江兼続が2万の大軍をもって長谷堂城を攻め、これに対し長谷堂城主の最上家の智将志村光安が将卒1千余を率いて戦い、野戦の駆け引きでは天下一といわれた直江を終始翻弄しました。
上杉軍は上泉主水泰綱が討死するなど苦戦し、9月29日の夜半、関ヶ原敗報を受けて山形領から撤退しました。

▼交通:JR山形駅から車で約15分
    東北中央自動車道山形中央ICから車で約15分
▼駐車場:長谷堂城址駐車場(無料) 大型バス・自家用車可
▼入場料:なし
▼所要時間:50分
▼トイレ:長谷堂城址駐車場
▼案内:ボランティアガイドによる案内可(予約制)
▼問合せ:山形市観光戦略課 TEL023−641−1212

▼地図:Google Maps