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直江兼続の生涯 3 上杉の智将
秀吉が勝家を討ち破り、天下の形勢が秀吉に大きく傾くと、秀吉は朝廷から関白の叙任を受け、豊臣の姓を賜るなど、着々と天下人としての地盤を固めていきます。その秀吉から上洛要請が来ると、景勝はこれを受け入れ、天正14年(1586)、兼続ら重臣とともに、初めての上洛を果たします。
これ以降、兼続は秀吉側近の石田三成をはじめとする豊臣政権の要人や、天下に名の聞こえた武将達と交流を深め、上杉家に直江兼続ありとの評判を高めていきます。
天正16年(1588)の2回目の上洛の際には、兼続は朝廷から従五位下・山城守(じゅごいのげ・やましろのかみ)に叙任されました。また、上杉家では家老職が廃止され、兼続が執政として政務全般を取り仕切る体制となりましたが、兼続は驕ることなく主君の景勝を支え続け、忠義を貫き通します。
兼続は、背丈が高く容姿秀麗、言語さわやかで弁舌に巧みであったといわれています。また、漢詩の創作を得意としており、のちに日本初の銅活字印刷といわれる「文選(もんぜん)」の出版を行うなど、当時一流の文化人でもありました。
現在国宝として指定されている、宋版「史記」「漢書」「後漢書」をはじめ、たくさんの書籍を所有していた愛書家としても知られ、文禄の役に参陣して朝鮮に渡った際には、自軍に略奪行為を厳しく戒めるとともに、貴重な書籍が戦火により失われるのを惜しみ、書籍の保護収集に努めて日本に持ち帰ったといわれています。
秀吉は、兼続を「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人しかいない」と評したとされ、景勝が越後から会津120万石に移封の際には、陪臣(ばいしん:家臣の家臣)である兼続に対し、直々に米沢30万石を与えています。これに対し兼続は、一家臣に過ぎない自分に30万石は多すぎるとして断り、6万石で米沢城の城主となっています。
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これ以降、兼続は秀吉側近の石田三成をはじめとする豊臣政権の要人や、天下に名の聞こえた武将達と交流を深め、上杉家に直江兼続ありとの評判を高めていきます。
天正16年(1588)の2回目の上洛の際には、兼続は朝廷から従五位下・山城守(じゅごいのげ・やましろのかみ)に叙任されました。また、上杉家では家老職が廃止され、兼続が執政として政務全般を取り仕切る体制となりましたが、兼続は驕ることなく主君の景勝を支え続け、忠義を貫き通します。
兼続は、背丈が高く容姿秀麗、言語さわやかで弁舌に巧みであったといわれています。また、漢詩の創作を得意としており、のちに日本初の銅活字印刷といわれる「文選(もんぜん)」の出版を行うなど、当時一流の文化人でもありました。
現在国宝として指定されている、宋版「史記」「漢書」「後漢書」をはじめ、たくさんの書籍を所有していた愛書家としても知られ、文禄の役に参陣して朝鮮に渡った際には、自軍に略奪行為を厳しく戒めるとともに、貴重な書籍が戦火により失われるのを惜しみ、書籍の保護収集に努めて日本に持ち帰ったといわれています。
秀吉は、兼続を「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人しかいない」と評したとされ、景勝が越後から会津120万石に移封の際には、陪臣(ばいしん:家臣の家臣)である兼続に対し、直々に米沢30万石を与えています。これに対し兼続は、一家臣に過ぎない自分に30万石は多すぎるとして断り、6万石で米沢城の城主となっています。