戦国観光やまがた情報局
八乙女神社縁起に「慶長年中(1596年頃)直江山城守が荒砥城補修の時、稲荷神社を修理宗敬せり」と記されています。 |
直江兼続は街づくりを行う上で先ずは山に登ってその計画を立てたと言われています。その登ったと思われる山の一つが「赤崩山」です。尾根の先端部分にはかなり古い年代の板碑群があり、直江兼続が米沢に入る前の伊達家の時代からこの場所は物見やのろし台として使われていた可能性があります。
眼下真下には松川が、さらにその下流左岸には谷地河原堤防(直江石堤)が位置しており、直江兼続の壮大な計画の第一歩がこの眺めから踏み出されたのかもしれません。 ※赤崩山に登る遊歩道が整備されています。(頂上まで徒歩5分) 登り口は、旧関根小赤崩分校のところにあります。 Google Maps ...もっと詳しく |
宮内館、宮内城、三桜城ともいい、慶長3年(1598)3月、上杉氏の国替えに伴い信州飯山の尾崎三郎左エ門尉重誉(兼続の母方の実家)が配置され、その後色部竜松丸(興三郎光長:兼続の妹婿)が城代となりました。 |
總宮神社に隣接する真言宗の寺院。もともと「奥の高野」と呼ばれた置賜地方でも古い寺です。 |
貞観2年(860)慈覚大師が安久津の豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われています。 |
米沢藩祖である上杉謙信公を祀る神社。 ...もっと詳しく |
直江兼続の指揮で松川左岸に築かれた石積みの堤防で、その地名から谷地河原堤防(やちがわらていぼう)とも呼ばれています。 ...もっと詳しく |
直江兼続が奉納した刀剣などを収蔵している宝物殿です。 |
直江兼続が米沢城に入る際に總宮神社に参拝し、杉(直江杉)を植えたと伝えられています。その後、最上川の舟運などでは、船頭が長井の地の目印にしたと言われています。 |
慶長9年(1604)、直江兼続は江州国友村と泉州堺から鉄砲職人を呼び寄せ、ここ白布高湯で密かに火縄銃を作らせ、戦時に備えました。 |
三の丸の西および北の外堀代用として、慶長14年(1609)、家臣の平林氏に命じて拡幅し、掘り拡げた川です。
新田開発・生活用水・農業用水路などとして新設されました。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps ...もっと詳しく |
綱木・田沢・梁沢など鬼面川の上流から、薪木を運ぶために掘られた川です。上流の山間から流された薪木は帯刀堰から木場川に入り、木場町の貯木場に積み上げられ、ここから城中に運ばれて行きました。
▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps ...もっと詳しく |
大頭堰または西川堰とも呼ばれ、舘山城の外堀の跡を利用して堀削されたものです。 |
細野かぶと松(ほそのかぶとまつ)
御楯稲荷神社(みたていなりじんじゃ)
赤崩山(あかくずれやま)
宮沢城址・双松公園(みやざわじょうし・そうしょうこうえん)
遍照寺(へんじょうじ)
安久津八幡神社(あくつはちまんじんじゃ)
上杉神社(うえすぎじんじゃ)
松岬神社(まつがさきじんじゃ)
直江夫妻墓所(なおえふさいぼしょ)
直江石堤(なおえせきてい)
總宮神社宝物殿(そうみやじんじゃほうもつでん)
總宮神社の直江杉(そうみやじんじゃのなおえすぎ)
円通寺山門(えんつうじさんもん)
酒田城址(さかたじょうし)
朝日軍道(あさひぐんどう)
越後米沢街道・十三峠(えちごよねざわかいどう・じゅうさんとうげ)
小国城址(おぐにじょうし)
亀岡文殊堂(かめおかもんじゅどう)
熊野大社(くまのたいしゃ)
總宮神社(そうみやじんじゃ)
宮坂考古館(みやさかこうこかん)
五色温泉(ごしきおんせん)
鉄砲鍛造遺跡の碑(てっぽうたんぞういせきのひ)
堀立川(ほったてがわ)
木場川(きばがわ)
帯刀堰(たいとうぜき)
白旗松原(しらはたまつばら)
武家屋敷(ぶけやしき)
龍師火帝の碑(りょうしかていのひ)
猿尾堰(さるおぜき)
御入水堰(おいりみずぜき)
蛇堤(へびつつみ)
桜の馬場(さくらのばば)
白子神社(しろこじんじゃ)
神達明神(かんだちみょうじん)
法泉寺(ほうせんじ)
春日山林泉寺(かすがさんりんせんじ)
上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)
上杉博物館(うえすぎはくぶつかん)・<伝国の杜>
上杉神社稽照殿(けいしょうでん)
米沢城址(よねざわじょうし)