戦国観光やまがた情報局
山本寺景長(さんぽんじかげなが):1550〜1582
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永正21年(1524)〜慶長14年(1609)
綾姫。上杉景勝の生母で、上杉謙信の姉でもある。父は越後守護代長尾為景、母は虎御前。 坂戸城主長尾政景に嫁ぎ二男二女をもうけた。長男義景は10歳で早世、二男顕景は後の景勝、長女は上条城主・上条政繁に嫁ぎ、二女は上杉景虎(北条氏政の七男で謙信の養子)に嫁いだ。 夫政景の死後、才気煥発な少年樋口与六(後の兼続)を見出し、喜平次(景勝)の小姓として推挙。その後謙信の招きで、景勝とともに春日山城へと移り、景勝は謙信の養子となった。 仙洞院は、「御館の乱」で景勝と景虎(二女の夫)が争うことになり辛い立場に置かれながら、動乱の時代を景勝とともに歩んだ。 その後、景勝の移封に伴い会津そして米沢城へ移る。慶長14年(1609)2月15日、米沢城二の丸で死去。享年85。墓は米沢市林泉寺にある。 大河ドラマ「天地人」では、仙桃院、二女は華姫となっている。 |
弘治3年(1557)〜寛永14年(1637)
与板城主・直江景綱の娘。長尾信綱を直江家の婿に迎えるが天正9年(1582)死去。その後、樋口与六(後の兼続)が直江家に婿に入り、一男二女をもうける。 お船の方は内助の功に徹した聡明な女性で、四辻大納言公遠の姫(景勝の側室)が生んだ玉丸(後の定勝)の母かわりとなり養育する。 兼続の死後は後室と呼ばれ、定勝の政治に裏から尽力。女性としては異例の禄三千石を与えられる。兼続の遺志であった『文選』の刊行を手がけ、寛永14年(1637)1月4日、81歳で死去。墓は米沢市林泉寺にある。 |
永禄元年(1558)〜慶長9年(1604)
武田信玄の五女。宿敵だった武田と上杉との同盟を条件に、天正7年(1579)上杉景勝と結婚。 その後、織田信長に武田家を滅ぼされ、帰る故郷を失った菊姫は景勝の正室として、奥向きの諸経費節約を奨励するなど夫を陰で支え、家中からの信頼も厚かった。 秀吉の人質政策によって永く京に滞在し、景勝の米沢移封の際も当地へは行けず、一人伏見での生活を余儀なくされた。 菊姫には子がなく、側室が懐妊したあと、病に付し慶長9年(1604)伏見屋敷で死去。享年47。墓は米沢市林泉寺にある。 |
天文23年(1554)〜天正7年(1579)
小田原城主・北条氏康の七男。幼名・三郎氏秀。宿敵同士だった北条と上杉の同盟が結ばれたことで、上杉謙信の養子として春日山城へ迎えられる。謙信が名乗っていた景虎の名を与えられたほか、景勝の妹・華姫との結婚など一族として厚遇される。 天正6年(1578)謙信の死後、兄・北条氏政の援軍を受け、景勝と家督を争う(「御館の乱」)が、翌7年(1579)篭城した御館は景勝軍の猛攻を受け落城。小田原へ逃亡するが、途中立ち寄った鮫ヶ尾城で城主・堀江宗親の謀叛に遇い、3月24日自害。享年26。 景虎の子・道満丸は、3月17日、四ツ屋砦で前関東管領・上杉憲政と自害。わずか9歳であった。 |
生年不詳〜慶長17年(1612)
武勇に優れた武将でもあり、和漢古今の文学にも通じた風流人。派手な姿、振る舞いを好む傾奇者としても有名。 加賀の前田利家の義理の甥であり、実母が利家の長兄・利久に再嫁したため、その養子になったと言われている。本来は前田家を継ぐ身であったが、織田信長が利家を跡継ぎとするよう命じたため、父とともに浪人となった。のちに能登の大名となっていた利家に仕えた。 利久が死去すると利家との折り合いが悪くなり、前田家を出奔。京都で様々な文化人と交流し、なかでも文武両道に秀でた直江兼続と親交を結んでいた。 上杉景勝が会津120万石に加増移封されると、上杉家に1千石で仕官した。慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、兼続に従い出陣。長谷堂城からの撤退戦では殿軍(しんがり)を務め、追撃する最上軍相手に奮戦し、上杉軍を見事に撤退させた。 戦後、数多の仕官の話を断り、上杉家に残った。米沢近郊の堂森の地に「無苦庵」という庵を結び、悠々自適な晩年を過ごしたといわれる。 |
父:樋口惣右衛門兼豊(ひぐちそうえもんかねとよ)?〜1602
坂戸城主・長尾政景(上杉景勝の実父)の重臣。 のちに直峰城主。伊予守。 上杉家の会津移封後は米沢城にて、兼続が不在の際の留守役を務めた。 慶長7年(1602)9月12日死去。 母:蘭子(らんこ)1539〜1604 北信濃の豪族泉氏:泉弥七郎重歳(いずみやしちろうしげとし)の娘。 これとは別に直江景綱の妹という説もある。 大河ドラマ「天地人」では“お藤”の名前で登場。 弟(次男):与七(よしち)1562〜1622 兼続の2歳下の弟。 天正10年(1582)小国家を相続。 小国実頼(おぐにさねより)のち大国実頼(おおくにさねより)を名乗る。 天神山城主、のちに鴫山城代、高畠城代を務める。 関ヶ原合戦後、兄の兼続と対立して高野山に逃れた。 兼続の死後、密かに米沢北部の中小松村に戻り、同地で没したと云われている。 「能書、連歌の上手」と評され、連歌会に度々出席している。 元和8年(1622)2月9日死去。享年61。 弟(三男):与八秀兼(よはちひでかね)1580〜? 他家を継いだ兄達に代わり、樋口家を相続、千石を領す。 慶長19年(1614)大坂冬の陣に参陣。 妹(長女):きた ?〜? 須田満胤に嫁ぐ 須田満胤(すだみつたね)?〜? 須田満親の長男。景実、光義とも。父とともに上杉家に仕えていたが、 慶長2年(1597)伏見舟入普請を担当した際に不備があり、 同じく担当の柿崎憲家らとともに改易追放処分を受け、京で浪人となった。 そのため、須田家は次男の長義が継いだ。 室のきたは、本庄繁長を頼り、子の満統(みつむね)は、 慶長19年(1614)になって上杉家に帰参した。 妹(次女):名前不詳?〜? 色部光長に嫁ぐ 色部光長(いろべみつなが)1587〜1640 色部長真の長男。幼名・竜松丸。父の死去に伴い、わずか6歳で家督を継いだ。 父の遺言状には直江兼続の次女を息子の正室に迎えたいと書いてあると云われているが、 実際に嫁いだのは、樋口兼豊の次女(兼続の妹)であった。 上杉家の会津移封に際して金山城主となる。 慶長出羽合戦では先鋒を務め、畑谷城を攻略した。 妹(三女):名前不詳 ?〜? 篠井泰信に嫁ぐ 篠井泰信(しののいやすのぶ)?〜? 篠井正信の子か。正信は直江親綱の三男で景綱の弟。 慶長出羽合戦の際、第二陣として上山城攻略に向かうが、本村隊の敗北を受けて退却した。 その後、長谷堂城攻略のため、直江兼続率いる第一陣と合流した。 撤退にあたっては、春日元忠とともに先駆を命じられた。 妻:お船(おせん)1557〜1637 与板城主・直江大和守景綱の娘。 婿に迎えた信綱が死去したため、上杉景勝の命により、樋口兼続に再嫁し、 一男二女をもうける。 寛永14年(1637)1月4日死去。享年81。 米沢徳昌寺に埋葬、のち林泉寺に改葬。 長女:お松(おまつ)?〜1605 慶長9年(1604)閏8月、養子に迎えた本多政重(直江勝吉)の妻となる。 慶長10年(1605)8月17日病没。 次女:名前不詳(お梅?)?〜1605 慶長10年(1605)1月7日病没。 長男:平八景明(へいはちかげあき)1598〜1615 慶長3年(1598)直江兼続の嫡男として生まれる。幼名竹松。 うまれつき病弱で、病をおして大坂冬の陣に参陣。 翌年の元和元年(1615)7月12日病没。享年18。 養子:与次郎(よじろう)?〜? 本庄繁長の三男:本庄長房。 文禄2年(1593)嫡子のなかった兼続の養子となる。 後年、竹松(平八景明)が生まれたため、しばらくして帰家。 のちに、本多政重が前田家に帰参する際に随行した。 その後、上杉家に戻り小国城の在番を務めた。 養子:勝吉(かつよし)1580〜1647 徳川家康腹心の本多正信の次男:本多政重。故あって、徳川家を出奔。 大谷家、宇喜多家、福島家、前田家を渡り歩く。 慶長9年(1604)閏8月、兼続の婿養子となり、長女お松と結婚。 大和守勝吉(のち安房守)と称した。 慶長16年(1611)上杉家を去り、前田家に帰参した。 養女:阿虎(あこ)?〜1627 直江兼続の姪。兼続の弟:大国実頼の娘。 慶長14年(1609)直江家の養女に迎えられ、直江勝吉の継室となる。 慶長17年(1612)前田家に仕えた本多政重(直江勝吉)のいる加賀に赴く。 寛永4年(1627)5月10日死去。 |
享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
越後守護代・長尾為景の末子として、春日山城に生まれた。幼少期を春日山城下の林泉寺にて学問を学んで過ごした。14歳で元服すると、越後国内の反乱鎮圧に活躍、家臣団の信望を集める。そのため、兄・長尾晴景と対立するも、越後守護・上杉定実の仲介で、晴景の養子となり、19歳で越後守護代長尾家の家督を継いだ。 定実には跡継ぎが無く、越後守護上杉家が断絶すると、将軍・足利義輝から越後国主の地位を認められた。また、助勢を求めてきた関東管領・上杉憲政を庇護し、のちに憲政から関東管領職と上杉家の家督を譲られた。 信濃方面では、村上義清らの救援要請を受けて、武田信玄と激戦を繰り広げ、この戦国史上に有名な川中島合戦は五度に及んだ。また、関東地方にもたびたび出陣し、北条家と戦った。のちには、北陸方面で織田軍とも戦い、これを打ち破っている。 天正6年(1578)春日山城内で倒れ、急死した。享年49。このため相続争い(御館の乱)が起こった。謙信の養子の二人が争い、上杉景勝が勝利を収めた。 尊骸は、越後、会津、米沢と、上杉家の転封とともに移され、現在は米沢市内の上杉家廟所に祀られている。 |
弘治元年(1555)〜元和9年(1623)
坂戸城主・長尾政景の次男として生まれた。父・政景が死去すると、春日山城に移って叔父・上杉謙信の養子となった。天正6年(1578)謙信が急死すると、謙信のもう一人の養子・上杉景虎との間で相続争いが勃発。この御館の乱に勝利し、上杉家当主の座についた。 その後、豊臣秀吉に臣従、関係強化に努めた。のちに五大老の一人に列せられた。慶長3年(1598)、会津120万石に加増移封され、会津若松城主となった。 秀吉の死後、台頭してきた徳川家康と対立。家康は上杉征伐の軍勢を催し、下野国小山まで出陣したものの、上方で石田三成らが挙兵したことを知ると、軍勢を反転。腹心の直江兼続が追撃を主張したものの、景勝はこれを聞き入れなかった。 関ヶ原の戦いの後は、米沢30万石に削封され、米沢藩初代藩主となった。大坂冬の陣では、徳川方として参戦、先鋒として鴫野の戦いで勝利を収めた。元和9年(1623)、米沢城で死去。享年69。 |
永禄3年(1560)〜元和5年(1620)
樋口兼豊の長男として坂戸城下に生まれた。仙洞院に見込まれ、幼くして上杉景勝の近習となった。御館の乱において功績があり、21歳の若さで家老に抜擢、のちに執政となる。景勝の命により、直江景綱の娘・お船と結婚し直江家を相続、与板城主となった。 上杉家の内政・外交を取り仕切り、豊臣秀吉や石田三成との関係を深め、豊臣政権内での上杉家の地位を確立した。会津移封にあたっては米沢城主となった。 秀吉没後、対立した徳川家康から送られた詰問状に対し、世に言う「直江状」を送り返した。関ヶ原の戦いと同時期に行われた慶長出羽合戦では、山形城の最上義光を攻めるも、石田三成率いる西軍の敗報に接し、撤退。追撃に出た最上軍相手に見事な退却戦を演じた。 戦後は、上杉家の存続に奔走。米沢の街づくりを推進し、藩政の基礎を固めた。大坂の陣には徳川方として参戦し、将軍・徳川秀忠から感状と太刀一腰及び小袖を与えられた。元和5年(1620)江戸鱗屋敷にて死去。享年60。 |
上杉家の武将たち
仙洞院(せんとういん)
お船(せん)の方
菊姫(きくひめ)
上杉景虎(うえすぎかげとら)
前田慶次(まえだけいじ)
直江兼続の家族
上杉謙信(うえすぎけんしん)
上杉景勝(うえすぎかげかつ)
直江兼続(なおえかねつぐ)