長井市中央地区公民館

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 この墓石は、碑文はかなりわかりにくくなっているが、寺嶋和泉守
正貞のものである。慶長6年(1601)8月20日に直江兼続は寺島和泉を
上長井郷の代官、須田善右衛門を下長井郷の代官に任命したが、事情が
あって後で支配地が変わり、寺嶋和泉が下長井の代官になった。代官は
支配地の年貢の徴収や民生全般の許認可・指導にあたったので、非常に
大きな権力を握っており、江戸中期まで世襲であった。
 正貞の父六蔵長資は上杉謙信の武将として織田信長の上杉攻撃の時、
魚津城を守って奮戦して討死した武勇の人であり、その後第5代代官
信政は明暦3年(1657)の遍照寺殿堂の葺替の時、様々な特典を与えて
援助したので、子孫は代々檀頭総代職に任命されている。

平成元年度設置。平成19年度支柱交換。令和2年修復。(遍照寺境内)



 供養のために石材を板状にはいで作った塔婆(とば)を板碑(いたび)と
呼んでいる。年号が入っていて市内で二番目に古いことがわかるのがこの
遍照寺の板碑である。材質は凝灰岩なので、かなり太目であるが、山は山型
で二段の切り込みがあり、額が出ていて模式的な形をしている。
 この板碑は、遍照寺10世権大僧都法印大阿闍梨日瑜(だいあじゃりにちゆ)
の歿した寛永17年2月9日(1630)に、その菩提を弔うために建てられたもの
である。遍照寺が伊達氏、蒲生氏と相続く国替えの騒ぎのため、血脈・法流を
紛失したのを、日瑜が他国の縁故寺を尋ねて、中院流の法流を開壇し、道場
の形を整えるきっかけを作った功労者である。

平成元年度設置。平成15年度一部内容変更。(遍照寺境内)





 当寺は古来奥の高野(こうや)と呼ばれ、東北における真言宗の
名刹である。
室町時代永享8年 名僧宥日上人を中興開山として、現住職は50世に
当たる。
明治維新までは38の末寺を持った常法談林の寺であった。
 境内の大銀杏は周り約7メートルで宥日上人の手植えと伝えられて
いる。
 遍照寺の塔頭であった普門坊の馬頭観世音は霊験殊勝、毎年の旧7月
10日の馬の祭りは此の地方第一のにぎわいを呈した。
 本堂正面の山門(勅使門)は昭和7年4月の火災に類焼を免れたもので、
この地方として希にみる貴重な建造物である。

昭和59年度設置。平成2年度修復。令和3年更新。

▽遍照寺の山門


▽長井文化財保護協会と長井市教育委員会による立て看板もあります




 宮遺跡は、昭和26年に発見された遺跡で、同31年と62年に発掘調査が
行われました。その結果縄文中期の初頭から中葉(大木7b式〜8b式期)
にかけて栄えたむらの跡がでてきました。(大凡4700〜4800年前)
 住居跡が10棟、復元できた土器が20、それに玦状耳飾(けつじょうみみ
かざり)や耳栓(みみせん)なども出土し、当時の中心的なむらであった
ことがうかがわれます。
 遺跡は野川の河岸段丘上に立地し、居を営むのによく、食料も豊富に
得られたところと思われます。

昭和63年度設置。



 丸大扇屋は寛永年間(1635)に椿より十日町に進出し、蓑(みの)・
草鞋(わらじ)・縄・五穀等の生活必需品の販売をはじめ、元禄7年の
最上川上流舟運の開通で宮舟場ができると、京・大阪を拡げ、村山・
北条から撰苧(よりそ)を集荷して越後小千谷に売って業績をのばし、
安永元年には三町五反の地主にもなった。文化の頃から絹糸・真綿の
仲買いも行い、7代目忠兵衛政成は宮村肝煎を努めた。一方宮鎮守の
祭りの屋台を飾る人形や衣装・小道具の貸出しもしている。京大阪と
取引をした遺産として仏壇・雲州灯籠が現存する。
 明治になると長井紬の生産を始め、28年の商品仕入量は反物1959反、
既製品1155点、足袋・糸・小間物を多量に京阪・東京より仕入れて
販売している。
 道路に面し、格子の美しい店。小間屋門・店蔵と並び、何れも嘉永
元年の建造物で、長井の店屋造りの典型的な形を残している。又味噌
蔵(天保3年)主屋(明治23年)蔵座敷(明治31年)新座敷(大正2年)と
同一敷地内に各時代の建物が並んでいるのも興味深い。

平成7年度設置。平成14年度一部内容の変更。



文教の杜ながい



 伝承によると、康平(1058)の頃、安倍貞任の娘 卯の花姫が宮村に
館をつくり、源義家と戦ったので「卯の花の館(やかた)」と呼ばれて
いる。伊達の時代になり、植宗・晴宗親子が争った天文の乱(1542)が
おこった時、宮村館は片倉伊賀守の居館で、伊賀守は智勇兼備の名将で
晴宗党として片倉一族や野川以南の村地頭を率い、強敵 鮎貝・大立目・
最上の連合軍を野川から蚕桑境まで押し返し、晴宗の置賜制覇の糸口を
つくった。戦後の論功行賞で片倉家総領の意休斉景親が宮館主となり、
伊達氏の岩出山移封まで続いた。天正15年の鮎貝討伐戦の時も伊達政宗
は宮村館を根拠地としており、北への備えの要地であった。
 一説には片倉小十郎景綱の居城であったという説もある。宮村館は
館の内一町歩ほどの濠と土塁をめぐらした方形の館で、蒲生氏の時に
廃された。小桜城の名は後世の命名である。

昭和63年度設置。平成23年度板のみ修繕。