長井市中央地区公民館

長井市中央地区公民館
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 当社は平安の昔、坂上田村麿将軍が蝦夷地征服の際、日本武尊の
御神徳を追尊して白鳥の杜をここに創建されたのが始まりと伝承さ
れているものである。
 鎌倉時代以降、長井・伊達・蒲生・上杉と歴代の領主の信仰厚く
下長井郷44か村の神社をここに合祭し、下長井郷総鎮守の杜として
総宮の社号を定めたものと伝えられる。当地の旧村名宮村はこの杜
に由来するもので特に「宮の明神参り」は江戸時代に最高の賑わい
を呈したものであったという。
 現在の御本殿は、名君上杉鷹山公ゆかりの官財を下賜せられ、郷民
のすべてが浄財を寄進して建立されたものである。
御宝物に木像男神像、木造観音立像外懸仏・鬼面・古鏡・獅子頭など
貴重な文化財を伝えている。


昭和59年度設置。平成26年度修復。





立像は山形県指定有形文化財

札 所:置賜三十三観音札所 第十番
本 尊:馬頭観音立像(木像彩色)
御詠歌:夜もすがら 月を見上げて おがむなり 
              沖の川瀬に 立つは白波

 当所は地勢的に西国三十三番札所第十番三室戸寺(宇治川のほとり)に
なぞらえて定められたもので御詠歌もほとんど同じである。ご本尊は鎌倉
時代の初期に都の仏師の手になるすぐれた作品である。
 現在の本堂は天保年間の造立東側に祭礼の日(旧7月10日)参詣の馬が
本堂に登る渡り廊下が設けられてあった。

昭和61年度設置。平成22年度修復。





長井市指定天然記念物

目通り 6.20m  根回り 10.66m  高さ 26.90m
枝張り(南北)23.30m  枝張り(東西)24.90m

 12本の枝が張り出して大木をなしており、第1枝には「乳」(ち)(気根)が
生じている。このイチョウは、遍照寺の中興宥日上人(1393生〜1473没)が
植えた木だと言い伝えられており、ほぼ600年近い古木であるが、樹勢は旺盛で
昭和51年(1976)秋の台風で大枝にかなりの被害を受けたが、全貌は変わっていない。

平成2年度設置設置。(遍照寺境内)
平成21年度「市まちづくり基金」を受け、遍照寺檀徒会が大イチョウ周辺
環境整備を実施。現在の案内板を整備。
令和2年修復。





 大宮大明神は小国の大宮神社の神様で、死産や乳幼児の死亡率の高かった
江戸時代(1603〜1868)に、安産の神・乳幼児の無事成長を守ってくれる神
として厚く信仰された。
 当時、小国は僻遠の地で、直接参詣することは困難だったので、講を作り
代表者に代参してもらってお札を受け、4月吉日に講中の女が集まって安産祈
願・お札の配布、餅、赤飯等を食べての会食歓談をした。
 この碑の裏に「辰女」と母の記銘があるので、難産をきりぬけ、母子ともに
無事だったことを感謝して建立されたものだろう。女の建立した碑は当時と
しては珍しい。

平成4年度設置設置。令和2年度修復。(遍照寺境内)





随筆「牛のよだれ」の著者(長井市指定文化財)

 長沼牛翁は宝暦11年宮村の豪商長沼惣右衛門の長男に生まれた。幼名を
源太郎という。
少年の時から医学に心を傾け、壮年の頃家業を弟に譲り江戸に出て医学の
外諸般の学を修め西国を歴遊して特に音楽の道を極めた。
異境にあること29年。文化6年故郷に帰り撞木橋のほとりに居を構え医業に
励み、その住居を丁橋庵(ていきょうあん)と名づけて多くの文人と交わ
った。天保5年丁橋庵で没した。74歳。
 牛翁は諸国遍歴中から絶えず見聞した所を随筆に認め、帰国後も書き続
けたので、その量は莫大なものだったというが、随筆の題名を「牛のよだ
れ」と名付けたのである。現存するのは本編60巻(うち4巻欠)続編10巻
(うち2巻欠)。牛翁は比類ない随筆家としてその名は永久に伝わることで
あろう。

昭和59年度設置設置。平成18年度修復。(遍照寺境内)





 遍照寺の境内にあるこの宝篋印塔は時代も古くないので細身ですらっ
とした美しい形をそなえている。真中の石板の四隅にある隅飾りも外側
にそっていて美しい。
遍照寺24世の住職鏡周が寺の本堂や庫裡の柱根が朽ち、屋根も大破した
ので、大修理を発願し、藩に願って、材木の伐採の許可や普請費用の割
り当てを許してもらい、苦労の末立派な建物に改造した。その功績をた
たえ弟子の浄智たちが追善供養のため延享2年(1745)に建てたもので
ある。

平成4年度設置。(遍照寺境内)