長井市中央地区公民館

史跡案内板
 宮遺跡は、昭和26年に発見された遺跡で、同31年と62年に発掘調査が
行われました。その結果縄文中期の初頭から中葉(大木7b式〜8b式期)
にかけて栄えたむらの跡がでてきました。(大凡4700〜4800年前)
 住居跡が10棟、復元できた土器が20、それに玦状耳飾(けつじょうみみ
かざり)や耳栓(みみせん)なども出土し、当時の中心的なむらであった
ことがうかがわれます。
 遺跡は野川の河岸段丘上に立地し、居を営むのによく、食料も豊富に
得られたところと思われます。

昭和63年度設置。

 丸大扇屋は寛永年間(1635)に椿より十日町に進出し、蓑(みの)・
草鞋(わらじ)・縄・五穀等の生活必需品の販売をはじめ、元禄7年の
最上川上流舟運の開通で宮舟場ができると、京・大阪を拡げ、村山・
北条から撰苧(よりそ)を集荷して越後小千谷に売って業績をのばし、
安永元年には三町五反の地主にもなった。文化の頃から絹糸・真綿の
仲買いも行い、7代目忠兵衛政成は宮村肝煎を努めた。一方宮鎮守の
祭りの屋台を飾る人形や衣装・小道具の貸出しもしている。京大阪と
取引をした遺産として仏壇・雲州灯籠が現存する。
 明治になると長井紬の生産を始め、28年の商品仕入量は反物1959反、
既製品1155点、足袋・糸・小間物を多量に京阪・東京より仕入れて
販売している。
 道路に面し、格子の美しい店。小間屋門・店蔵と並び、何れも嘉永
元年の建造物で、長井の店屋造りの典型的な形を残している。又味噌
蔵(天保3年)主屋(明治23年)蔵座敷(明治31年)新座敷(大正2年)と
同一敷地内に各時代の建物が並んでいるのも興味深い。

平成7年度設置。平成14年度一部内容の変更。



文教の杜ながい

 青苧(あおそ)はイラクサ科の多年草で、茎から皮をはぎ取り蒸して
晒して繊維にする。上杉藩では江戸時代始めから生産され、「からむし」
とも呼ばれて重要な生産物であった。
 これらの青苧繊維は秋に収穫して麻糸にし束ねて一時青苧蔵に収められ、
奈良や小千谷に輸出され晒し(さらし)や縮(ちぢみ)の原料となった。
 青苧繊維を収める宮の青苧蔵御門は寛文3年(1663年)に建てられた。
青苧御蔵の正門が青苧蔵御門で、屋根は昔木羽葺で、厚さが17cmもあり、
重厚な感じのするもんで長井では中世に作られた数少ない門の1つである。

平成2年度設置。平成28年度修復。



 宮市の始まりは、總宮神社の祭りであった旧暦の9月18・19・20日から
約1か月開かれた明神市であろう。それは大永年間(1521)のころだった。
産業が発達し分業が進んだ万治元年(1658)に、新町を開いた井上小左衛門
が、小出市から3日分の市場開設の権利を分けてもらって、月に3日、新町・
十日町・河原町で宮市を定期的に開くようになった。
 文久2年(1862)に十日町の長沼惣右衛門が世話役になって宮市の繁盛を
願い、市神を今の安部印房店前に立てた。明治になって道路を拡張するとき
現在の白山神社に移された。

平成元年度設置。平成27年度修復。



 創建年月不詳。古来加賀の白山権現を勧請し白山宮として鎮座。
同じ境内にあった白山寺(明治3年廃寺)が別当寺であった。明治初年
の神仏分離に際し、白山神社と改め宮村一村の鎮守とした。明治6年
宮村大火で類焼した後、土蔵造りの本殿に再建した。昭和6年3月不審
火により社殿焼失、氏子の寄付によって9月に再建したのが現社殿で、
棟梁は黒坂秀吉であった例祭には十日町子供会の獅子舞が行われる。

昭和61年度設置。平成5年度再設置。平成29年度修復予定。


 橋の形がT字形で、鐘を鳴らす撞木に似ていたので撞木橋と呼ばれた。
昔ここで2本の川がY字形に合流し、横50m、縦17mの大きさの橋だった
という。
 今の橋は昭和6年(1931年)に架けかえられたが、橋の欄干の常夜燈は
太平洋戦争中に供出された。昭和59年(1984年)長井市制30周年を記念し
て再び安らぎの灯をともし旧状を復元するため、県と市と町の人々の善意
と奉仕によって昔の形のままの常夜燈が設置された。
 また、西にある名刹摂取院は信仰と学問の中心で、寺子屋修身館(1853年)
があった。近くの常楽院に隠居した名僧宥日上人が袈裟を枝に架けた松も
この橋の北たもとにあった。

平成6年度設置。平成28年度修復。