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コロナ禍の首長たち…試されるその資質

  • コロナ禍の首長たち…試されるその資質

 

 「少し個人的な思いも入りますが、かねてから自分としては困っている人の具体的な力になりたい、そういった思いで子ども時代から過ごしてまいりました。そういった思いの中で弁護士になり、活動などもしておりました。そういった思いの延長線上で市長になり、今仕事をしているつもりです。今まさに目の前に、明石市内に困っている方が数多くおられます」―。熱のこもったこの言葉に不覚にも目頭が熱くなった。今回のようなパンデミックの危機に際しは為政者が発する言葉のひとつひとつが国民に希望を与えたり、逆に絶望の淵に突き落としたりする。それは国内外の首脳やや地方自治体の首長も例外ではない。

 

 冒頭に兵庫県明石市の泉房穂(ふさほ)市長(56)の言葉を引用したことについては少し、訳がある。泉市長はパワハラ疑惑の責任を取って、いったん辞職した後の出直し選挙で見事に返り咲きを果たしたという剛腕の持主である。コロナ危機が叫ばれ始めた3月上旬、花巻市の上田東一市長にも同じ疑惑を指摘する“怪文書”騒動が持ち上がった。私は泉市長の「パワハラ」始末記の潔(いさぎよ)さに共感し、3月18日付の当ブログに「他山の石、以て玉を攻むべし」というタイトルで、その奇跡の復活劇を紹介した。

 

 あれから1カ月弱の4月16日、泉市長は総額6億900万円にのぼる緊急コロナ対策費を予算計上したことを公表、その気持ちを記者会見で冒頭のように述べた。個人商店にすぐに100万円、ひとり親家庭の児童福祉手当に5万円の上乗せ、困窮家庭に10万円の支給…。「困っている市民に手を差し伸べるのが行政の使命・役割」―という合言葉ですべてを独自財源の「財政資金」から捻出した。泉市長は同じ記者会見でこうも語っている。熱がじかに伝わってくる。市民が“パワハラ市長”をふたたび担ぎ出した理由を得心する思いである。

 

 「ポイントをお伝えしますと大きくは3点です。当然のことながら、感染症対策の徹底は当然のことであります。そして2点目は、市民生活への緊急支援であります。今月分の家賃も払えないという悲鳴が聞こえております。一人親家庭などにつきまして、しっかりと今こそ行政が役割責任を果たすべきだという思いで考えております。そしてもう1つは、いわゆる社会的弱者へのセ-フティネットであります。こういう状況の中で、高齢者や障害をお持ちの方や子どもたちに、いわゆるしわ寄せが行きかねない状況もございます。例えばデイサ-ビスになかなか通いにくくなってしまうと、ご自宅にこもっている状況で、果たしてそれまでのような福祉的サ-ビスが得られていない状況で、ご高齢の方が大丈夫なのだろうかというテ-マであるとか、子ども達につきましても、いわゆる虐待の問題やネグレクトなどが大変心配でございます」……

 

 「4、550万円」―。花巻市は22日、臨時市議会を招集し、非接触型体温測定器(サ-モグラフィ-)15台や不織布マスク10万枚、温泉施設への日帰り入浴の費用、温泉ホテルなどの観光協会への会費補助などの名目でコロナ関連事業費を計上し、可決された。きめ細かい施策と言えばその通りかもしれない。しかし、個人の飲食店やタクシ-業界など零細事業者への支援の必要性を求める質問に対し、上田市長は「今後の推移を見ながら、財政調整基金の活用を考えたい」と今回の危機対応のための独自財源の取り崩しには慎重な態度を示し、泉市政とは際立った姿勢を見せた。財政規模が異なる自治体としては当然、その施策にも異同が生じて当たり前である。私がこの日の市長発言の一部始終を聞きながら、不安に感じたのは「言葉の力」ということである。

 

 「現在、当市の行っている対応により、ご迷惑をおかけしておりますが、新型コロナウイルス感染症の爆発的な感染拡大による市民生活・経済活動に対するさらに大きな被害を防ぐためにも、市民の皆様にはご理解を賜りたいと考えるところであります」―。上田市長はこの日の臨時市議会で市民へのメッセ-ジをこんな言葉で締めくくった。肩から力が抜けるような脱力感に襲われた。言葉の片々から「熱」が伝わって来なかったのである。世界中に感動を与えたドイツのメルケル首相は演説の最後をこう結んでいる。

 

 「私たちは民主主義社会です。私たちは強制ではなく、知識の共有と協力によって生きています。これは歴史的な課題であり、力を合わせることでしか乗り越えられません。私たちがこの危機を乗り越えられるということには、私はまったく疑いを持っていません。けれども、犠牲者が何人出るのか。どれだけ多くの愛する人たちを亡くすことになるのか。それは大部分私たち自身にかかっています。私たちは今、一致団結して対処できます。現在の制限を受け止め、お互いに協力し合うことができます」

 

 「この状況は深刻であり、まだ見通しが立っていません。 それはつまり、一人一人がどれだけきちんと規則を守って実行に移すかということにも事態が左右されるということです。たとえ今まで一度もこのようなことを経験したことがなくても、私たちは、思いやりを持って理性的に行動し、それによって命を救うことを示さなければなりません。それは、一人一人例外なく、つまり私たち全員にかかっているのです。皆様、ご自愛ください、そして愛する人たちを守ってください。ありがとうございました」(3月18日のテレビ演説から)

 

 

 

(写真は臨時市議会で答弁に立つ松田英基・財政部長。コロナ禍のさ中に過労で倒れたが、元気に現場復帰をした=4月22日、花巻市議会議場で。インタ-ネット中継の画面から)

 

 

 

《緊急追記》~HPから消えた「市長」発言

 

 この日開かれた臨時市議会が終了後、いったんは花巻市のHPに公開されたコロナ対応などに関する市長発言が夕方になって、そっくり消えていることに気が付いた。今年度の一般会計補正予算に係るコロナ緊急事業や行政報告などで、その中には今月初め、東京から市内東和町に転入しようとした男性が火災に巻き込まれて焼死するという不幸な出来事の経過についての報告も含まれていた。議事録に記録を残すことが義務付けられている内容が全面削除されるのは異例である。

 

 この件について、上田市長はこの日「転入届をめぐって事実誤認の記事(4月18日付)を掲載され、迷惑をこうむった。新聞社には抗議した」述べたが、その部分もなぜか削除された。コロナ危機に際し、花巻市は4月8日付で、東京など感染地域からの転入届について、2週間(ウイルスの最大の潜伏期間)の経過観察後に届け出を受け付けるように申し合わせ、その旨を市庁舎の窓口に掲示していたが、この日突然、この告示も外された。NHKも夕方のローカルニュースでこのことを伝えた。上田市長周辺で一体、何が起きているのか!?

 

 (※削除されたHP掲載の記事が4月23日午前に再掲された。また、転入届の手続きについてもこの日、改めて掲載された。削除に至った経緯については不明である)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「新図書館」構想⑲ 図書館特別委開催…副市長が“びっくり”発言

  • 「新図書館」構想⑲ 図書館特別委開催…副市長が“びっくり”発言

 

 当初予算案の撤回に伴って、事実上“白紙撤回”状態になっている花巻市の「新図書館」構想に関する議会側の「新図書館整備特別委員会」(伊藤盛幸委員長)の初めての会合が21日に開かれた。席上、説明員のひとりとして出席した長井謙・副市長が「行政の政策立案に当たっては最終的に“利益”があるかどうかが決め手になる」と発言。議員たちの間からその資質を疑う声が挙がった。しかし、この考え方は上田東一市長が一貫して主張してきた内容で、この日の初会合で逆にその方向性に変更がないことが裏付けられる結果になった(3月23日付当ブログ「上田流『クソミソ』思考の功罪」参照)

 

 「コストパフォ-マンス、つまり費用対効果を考える際、その事業にもうけが生じるかどうかがポイントだ」―。当局案を正当化しようという説明が延々と続き、弁解がましい発言に委員長が「少し簡略に」と注文を付けるひと幕も。そして、長井副市長が最後に手を上げた。「(集合住宅との)複合構想は行政判断として間違ってはいない」―。図書館のあるべき姿とは余りにかけ離れた論法に議員の間からはため息さえもれた。議会側としては今後、8人からなる「小委員会」を設置し、独自の図書館像を探っていくことになり、この日さっそく「ワークショップ」方式で当局案に対する意見や疑問が集約された。

 

 立地場所の選定や整備手法、市民参画のやり方などについて、ほとんどの委員が当局案に否定的な態度を表明し、「利便性が優先され、図書館としての機能性の議論がないがしろにされている。すべてがアベコベ」、「有識者からなる諮問機関『新図書館建設審議会』(仮称)のようなものを設置し、幅広い知見を得るべきではないか」、「コロナ危機で、国の補助金や地方交付税が先細りになるのは目に見えている。この際、新図書館問題はいったん、棚上げにすべきではないか」といった意見も出た。次回の小委員会は5月12日に開催される予定。

 

 現下のコロナ禍のもと、当局側の精神の貧しさとその劣化さ加減にはホトホト、あきれさせられる。いま必要なのは、万人に”開かれた”図書館とそれを実現しようという熱意である。現代の「デカメロン」の若者たちのように……

 

 

 

(写真は始動した「新花巻図書館整備小委員会」の初会合=4月21日午後、花巻市役所で)

 

「新図書館」構想⑱ 旅する本屋…パンデミックと知の伝道者たち

  • 「新図書館」構想⑱ 旅する本屋…パンデミックと知の伝道者たち

 

 「アレッシアは大丈夫だろうか」―。イタリア人ジャ-ナリスト、アレッシア・チャラントラさん(39)の安否を気遣う日々。お見舞いのメ-ルを送って1週間になるのにまだ、返事がない。心配だ。あれからもう、10年になる。東日本大震災の際、彼女はわが家を拠点に沿岸被災地の取材を続け、その惨状を世界に向けて発信した。遠く海を隔てた取材行はその後、数年間に及んだ。その国がいま、最悪の災厄のただ中に投げ出されている。胸がふたがれるそんなある日、「涙より笑みを/イタリアの品格―コロナ禍の若者たち」と題する新聞のコラムが目に飛び込んできた(4月7日付「読売新聞」)

 

 「緊急事態宣言が出た後、各地の高校生、大学生達と連絡を取った。イタリアの未来を支える彼らが、非日常へと突然変わってしまった日常をどうように暮らすのかを知りたかった。ボッカチョの『デカメロン』を読み返している、と話した大学生がいた」―。コラムの筆者はイタリア在住の日本人ジャ-ナリスト、内田洋子さん(61)。文中に登場する『デカメロン』は中世ヨ-ロッパを襲ったペスト禍から逃れ、フィレンツェ郊外で10日間を語り明かした若い男女の物語である。はたと心づいた。イタリアを発祥の地とする「ルネサンス」(再生・復活=文芸復興)こそがこのパンデミックをきっかけとした社会変革の運動だった、と…

 

 「この山に生まれ育ち、その意気を運び伝えた、倹(つま)しくも雄々しかった本の行商人たちに捧ぐ」―。イタリア北部の山岳地帯に位置する寒村・モンテレッジォの広場の石碑にこう刻まれている。『モンテレッジォ/小さな村の旅する本屋の物語』というタイトルの自著で、この村の歴史を追った内田さんはこう記す。「彫られているのは、籠(かご)を肩に担いだ男である。籠には、外に溢れ落ちんばかりの本が積み入れてある。男は強い眼差しで前を向き、一冊の本を開き持っている。ズボンの裾を膝まで手繰(たぐ)り上げて、剥き出しになった脹脛(ふくらはぎ)には隆々と筋肉が盛り上がり、踏み出す一歩は重く力強い」―。

 

 宮沢賢治の「サムサノナツ」(「雨ニモマケズ」)を彷彿(ほうふつ)させる光景だが、200年以上前の1816年、北ヨ-ロッパや米合衆国北東部、カナダ東部では夏にも川や湖が凍結するという異変に見舞われ、「夏のない年」と呼ばれた。モンテレッジォも壊滅的な被害を受けた。栗以外に主産物に恵まれない村人たちはかつて、岩を砕いた「砥石(といし)」をヨ-ロッパ中に売り歩いた。その時に鍛えた肉体が役に立った。「石から本へ」―。屈強な男たちは今度は石のように重い本をカゴに入れて担いだのである。「『白雪姫』、『シンデレラ』、『赤ずきんちゃん』、『長靴を履いた猫』など、子供向けの本はよく売れましたね。ことさらクリスマス前は盛況でした」と行商人の末裔は文中で語っている。

 

 「大勢の若者が、老人のために買い物代行のボランティアを始めた。『自由にお取りください』とカ-ドを付けて、パスタやチ-ズを入れたカゴを路地へと吊し下ろす人達がいる。恋人の下宿に移って外出禁止の生活を共に始めることにした男子学生は『コロナ時代には愛だ』と、父親からエ-ルを送られた。バリカンで自分の髪をカットしてくれる高校生の姉に、小学生の弟は『失敗しても気にしないで。髪はまた生えてくるから』と、礼を言う」―。内田さんはコラムの中でイタリアの若者たちのこんな姿を紹介している。時折、テレビが映し出すイタリアの惨状を見ながら、ふたたびアレッシアの消息が気になる。「老いた両親もいたはずだが、無事だろうか…」

 

 大学で日本文学を学んだアレッシアは夏目漱石の『こころ』を原文で読みこなすほどの日本通で、自らのHPには「雨ニモマケズ」を張り付けていた。この本は近代人のエゴイズムと倫理観との葛藤を描いた作品で、「明治」という時代の精神を浮き彫りにしている。「日本もイタリアも地震国。だから、日本人の心を知りたかった。それには本がいちばんね」とその時、彼女はケロッとして言った。東日本大震災の2年前、イタリア中部で300人以上が犠牲になった「ラクイラ地震」が発生した。三陸沿岸の被災地を初めて訪れた時、絶句して立ち止まった。「まるで古代都市『ロ-マ帝国』―ポンペイの遺跡とおんなじだ」

 

 「ルネサンスがそうであったように、パンデミックこそが内なる未来を宿しているのではないか。その未来は過去を背負っている。そして、過去の記憶をいまに伝えるものこそが活字、つまり本というものではないのか」―。日伊をまたぐ二人の女性ジャ-ナリストから、そんなことを教えられたような気がする。ペスト禍に触発されて『神曲』を著したダンテもかつて、モンテレッジォを訪れたという歴史がある。67年前、村人たちは本への感謝を込めて、最も売れ行きの良かった本を選ぶ「露天商賞」を創設。第1回目にはヘミングウエイの『老人と海』が選ばれた。コロナ禍を生きる現代版『デカメロン』の若者たちはどんな未来を予見しているのだろうか……

 

☆彡

 

 アレッシアよ、どうか元気でいてほしい!?

 

 (※彼女が17日付で自らのツイッタ-に投稿していることを当ブログを読んだ知人が連絡してくれた。イタリア語が読解できないので内容は分からないが、とにかく無事らしい。良かった。こんな形で安否を確かめ合い、情報を共有することができるツールを今度こそ「ポスト・コロナ」の未来に生かしていければ…)

 

 

 

(写真はモンテレッジォの村の広場に建つ「本の行商人」をたたえる石碑=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

ユヴァル・ハラリからのメッセ-ジ…その2

  • ユヴァル・ハラリからのメッセ-ジ…その2

 

 「新型コロナウイルス後の世界―この嵐もやがて去る。だが、今行なう選択が、長年に及ぶ変化を私たちの生活にもたらしうる」―(原題:the world after coronavirus―This storm will pass. But the choices we make now could change our lives for years to come)」(3月20日付「英フィナンシャルタイムス紙」より=要旨というより、剽窃(ひょうせつ)まがいの私的メモランダム)

 

 

●人類は今、グロ-バルな危機に直面している。それはことによると、私たちの世代にとって最大の危機かもしれない。私たちは迅速かつ決然と振る舞わなければならない。だが、自らの行動の長期的な結果も考慮に入れるべきだ。さまざまな選択肢を検討するときには、眼前の脅威をどう克服するかに加えて、嵐が過ぎた後にどのような世界に暮らすことになるかについても、自問する必要がある。

 

●この危機に臨んで、私たちは2つのとりわけ重要な選択を迫られている。第1の選択は、全体主義的監視か、それとも国民の権利拡大か、というもの。第2の選択は、ナショナリズムに基づく孤立か、それともグロ-バルな団結か、というものだ。

 

●感染症の流行を食い止めるためには、各国の全国民が特定の指針に従わなくてはならない。これを達成する主な方法は2つある。1つは、政府が国民を監視し、規則に違反する者を罰するという方法だ。今日、人類の歴史上初めて、テクノロジ-を使ってあらゆる人を常時監視することが可能になった。今や各国政府は、生身のスパイの代わりに、至る所に設置されたセンサ-と、高性能のアルゴリズム(算定式)に頼ることができる。

 

●油断していると、今回の感染症の大流行は監視の歴史における重大な分岐点となるかもしれない。一般大衆監視ツ-ルの使用をこれまで拒んできた国々でも、そのようなツ-ルの使用が常態化しかねないからだけではなく、こちらのほうがなお重要だが、それが「体外」監視から「皮下」監視への劇的な移行を意味しているからだ。新型コロナウイルスの場合には、関心の対象が変わる。今や政府は、あなたの指の温度や、皮下の血圧を知りたがっているのだ。

 

●ぜひとも思い出してもらいたいのだが、怒りや喜び、退屈、愛などは、発熱や咳とまったく同じで、生物学的な現象だ。だから、咳を識別するのと同じ技術を使って、笑いも識別できるだろう。企業や政府が揃って生体情報を収集し始めたら、私たちよりもはるかに的確に私たちを知ることができ、そのときには、私たちの感情を予測することだけではなく、その感情を操作し、製品であれ政治家であれ、何でも好きなものを売り込むことも可能になる。

 

●たとえ新型コロナウイルスの感染数がゼロになっても、デ-タに飢えた政府のなかには、コロナウイルスの第2波が懸念されるとか、新種のエボラウイルスが中央アフリカで生まれつつあるとか、何かしら理由をつけて、生体情報の監視体制を継続する必要があると主張するものが出てきかねない。近年、私たちのプライバシ-をめぐって激しい戦いが繰り広げられている。新型コロナウイルス危機は、この戦いの転機になるかもしれない。人はプライバシ-と健康のどちらを選ぶかと言われたなら、たいてい健康を選ぶからだ。

 

●だが、プライバシ-と健康のどちらを選ぶかを問うことが、じつは問題の根源になっている。なぜなら、選択の設定を誤っているからだ。私たちは、プライバシ-と健康の両方を享受できるし、また、享受できてしかるべきなのだ。全体主義的な監視政治体制を打ち立てなくても、国民の権利を拡大することによって自らの健康を守り、新型コロナウイルス感染症の流行に終止符を打つ道を選択できる。

 

●今は平時ではない。危機に際しては、人の心はたちまち変化しうる。兄弟姉妹と長年、激しく言い争っていても、いざという時には、人知れずまだ残っていた信頼や親近感が蘇り、互いのもとに駆けつけて助け合うこともありうる。監視政治体制を構築する代わりに、科学と公的機関とマスメディアに対する人々の信頼を復活させる時間はまだ残っている。

 

●このように、新型コロナウイルス感染症の大流行は、公民権の一大試金石なのだ。これからの日々に、私たちの一人ひとりが、根も葉もない陰謀論や利己的な政治家ではなく、科学的デ-タや医療の専門家を信じるという選択をするべきだ。もし私たちが正しい選択をしそこなえば、自分たちの最も貴重な自由を放棄する羽目になりかねない―自らの健康を守るためには、そうするしかないとばかり思い込んで。

 

●私たちが直面する第2の重要な選択は、ナショナリズムに基づく孤立と、グロ-バルな団結との間のものだ。感染症の大流行自体も、そこから生じる経済危機も、ともにグロ-バルな問題だ。そしてそれは、グロ-バルな協力によってしか、効果的に解決しえない。

 

●戦時中に国家が基幹産業を国有化するのとちょうど同じように、新型コロナウイルスに対する人類の戦争では、不可欠の生産ラインを「人道化」する必要があるだろう。新型コロナウイルスによる感染例が少ない豊かな国は、感染者が多発している貧しい国に、貴重な機器や物資を進んで送るべきだ。やがて自国が助けを必要とすることがあったなら、他の国々が救いの手を差し伸べてくれると信じて。

 

●人類は選択を迫られている。私たちは不和の道を進むのか、それとも、グロ-バルな団結の道を選ぶのか?もし不和を選んだら、今回の危機が長引くばかりでなく、将来おそらく、さらに深刻な大惨事を繰り返し招くことになるだろう。逆に、もしグロ-バルな団結を選べば、それは新型コロナウイルスに対する勝利となるだけではなく、21世紀に人類を襲いかねない、未来のあらゆる感染症流行や危機に対する勝利にもなることだろう。

 

 

 

(写真は2千万部を超える世界的なベストセラ-になった代表作=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

 

ユヴァル・ハラリからのメッセ-ジ…その1

  • ユヴァル・ハラリからのメッセ-ジ…その1

 

 「災害は忘れたころにやって来る」という。その“忘れ時”について、私たち日本人は「10年ひと昔」などという絶妙な表現を身に付けている。「苦あれば楽あり」という独特の無常感を背負っているせいかもしれない。今年は東日本大震災からちょうど10年目の節目に当たる。この10倍の100年前、世界人口の4分の1に相当する5億人が感染し、5千万人が死亡したとされるパンデミック(大流行)が発生した。インフルエンザウイルスが引き起こした、いわゆる“スペイン風邪”である。パンデミックはこのように人間が過去を忘れ去る時間軸にまるで照準を定めるかのように突然、襲いかかってくる。今回もそんな「思考停止」状態のさ中、しかもわずか10年前の「3・11」の記憶をわきに葬ったまま、「復興」五輪に浮かれていた「ニッポン」を直撃した。

 

 世界的ベストセラ―『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』、『21 Lessonsなどの著作で知られるイスラエル出身の歴史学者で哲学者のユバル・ノア・ハラリ(44)は3月15日付の米タイム誌に「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか―今こそ、グロ-バルな信頼と団結を」…さらにその5日後には英フィナンシャルタイムス紙に「新型コロナウイルス後の世界―この嵐もやがて去る。だが今行う選択が、長年に及ぶ変化を私たちの生活にもたらしうる」と題する論考を寄稿、「Web河出」で訳出されている。この二つの記事の中から心に引っ掛かった部分を2回にわけて転載する。

 

 読解にかなりのエネルギ-を要する文章からの抜き書きなので、前後の文脈が飛躍している感があるが、興味のある方はぜひ原文をお読みいただきたい。それゆえ、この引用は私自身が「コロナ」後に備えた備忘録あるいは処方箋…ひと言でいえば、残された「生」を生きるための“覚え書き”(メモ)といったものである(1回目は米タイムス誌より)

 

 

 

 

多くの人が新型コロナウイルスの大流行をグロ-バル化のせいにし、この種の感染爆発が再び起こるのを防ぐためには、脱グロ-バル化するしかないと言う。壁を築き、移動を制限し、貿易を減らせ、と。だが、感染症を封じ込めるのに短期の隔離は不可欠だとはいえ、長期の孤立主義政策は経済の崩壊につながるだけで、真の感染症対策にはならない。むしろ、その正反対だ。感染症の大流行への本当の対抗手段は、分離ではなく協力なのだ。

 

●1918年(スペイン風邪の発生)以来の100年間に、人口の増加と交通の発達が相まって、人類は感染症に対してなおさら脆弱になった。中世のフィレンツェと比べると、東京やメキシコシティのような現代の大都市は、病原体にとってははるかに獲物が豊富だし、グロ-バルな交通ネットワ-クは今日、1918年当時よりもずっと高速化している。ウイルスは、24時間もかからないでパリから東京やメキシコシティまで行き着ける。したがって私たちは、致死性の疫病(えきびょう)が次から次へと発生する感染地獄に身を置くことを覚悟しておくべきだった。

 

●(一方で)20世紀には、世界中の科学者や医師や看護師が情報を共有し、力を合わせることで、病気の流行の背後にあるメカニズムと、大流行を阻止する手段の両方を首尾良く突き止めた。進化論は、新しい病気が発生したり、昔からある病気が毒性を増したりする理由や仕組みを明らかにした。遺伝学のおかげで、現代の科学者たちは病原体自体の「取扱説明書」を調べることができるようになった。中世の人々が、黒死病の原因をついに発見できなかったのに対して、科学者たちはわずか2週間で新型コロナウイルスを見つけ、ゲノムの配列解析を行ない、感染者を確認する、信頼性の高い検査を開発することができた。

 

●(他方)たった1人の人間でも、何兆ものウイルス粒子を体内に抱えている場合があり、それらが絶えず自己複製するので、感染者の1人ひとりが、人間にもっと適応する何兆回もの新たな機会をウイルスに与えることになる。個々のウイルス保有者は、何兆枚もの宝くじの券をウイルスに提供する発券機のようなもので、ウイルスは繁栄するためには当たりくじを1枚引くだけでいい。

 

●ウイルスとの戦いでは、人類は境界を厳重に警備する必要がある。だが、それは国どうしの境界ではない。そうではなくて、人間の世界とウイルスの領域との境界を守る必要があるのだ。地球という惑星には、無数のウイルスがひしめいており、遺伝子変異のせいで、新しいウイルスがひっきりなしに誕生している。このウイルスの領域と人間の世界を隔てている境界線は、ありとあらゆる人間の体内を通っている。もし危険なウイルスが地球上のどこであれ、この境界をどうにかして通り抜けたら、ヒトという種(しゅ)全体が危険にさらされる。

 

●今日、人類が深刻な危機に直面しているのは、新型コロナウイルスのせいばかりではなく、人間どうしの信頼の欠如のせいでもある。感染症を打ち負かすためには、人々は科学の専門家を信頼し、国民は公的機関を信頼し、各国は互いを信頼する必要がある。この数年間、無責任な政治家たちが、科学や公的機関や国際協力に対する信頼を、故意に損なってきた。その結果、今や私たちは、協調的でグロ-バルな対応を奨励し、組織し、資金を出すグロ-バルな指導者が不在の状態で、今回の危機に直面している。

 

今回の危機の現段階では、決定的な戦いは人類そのものの中で起こる。もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう。

 

 

(写真は現代の〝知の巨人“と呼ばれるハラリ=インタ-ネットに公開の写真から)

 

 

《追記》~「新型コロナ/ここが政治の分かれ道」

 

 ユヴァル・ノア・ハラリが朝日新聞のインタビューに応じ、最後をこう結んでいる。「我々はそれを防ぐことができます。この危機のさなか、憎しみより連帯を示すのです。強欲に金もうけをするのではなく、寛大に人を助ける。陰謀論を信じ込むのではなく、科学や責任あるメディアへの信頼を高める。それが実現できれば、危機を乗り越えられるだけでなく、その後の世界をよりよいものにすることができるでしょう。我々はいま、その分岐点の手前に立っているのです」(4月15日付「オピニオン」欄)