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緊急報告―「花巻城址」残酷物語その7(完)…東公園と賢治

  • 緊急報告―「花巻城址」残酷物語その7(完)…東公園と賢治

 

 城址(しろあと)の/あれ草に臥(ね)てこゝろむなし/のこぎりの音まじり来(く)―。百年前、宮沢賢治はこんな短歌を詠んでいる。「不来方のお城のあとの草に寝て…」という啄木の有名な歌のオマージュ作品だと察しがつく。花巻と沿岸被災地とを結ぶ“メルヘン街道”の創設を提唱している岩手県立大学名誉教授で、ハ-ナムキヤ景観研究所所長の米地文夫さんは別の観点から、今回の新興跡地の売却問題に警鐘を鳴らした。
 

 賢治の代表作『銀河鉄道の夜』の中で、ジョバンニは天気輪の柱の丘で銀河鉄道に乗車する。この作品の初期形ではこの丘はまちの北側に位置しており、米地さんは「このモデルこそが花巻城址の旧東公園である可能性が強い。とすれば、この公園こそが銀河ステ-ションの始発駅だったことになる」と想像力を膨らませる。ずばり、旧東公園を舞台とした作品と考えられるのが次のような書き出しで始まる童話『四又(よまた)の百合』である。

 「『正?知(しやうへんち)はあしたの朝七時ごろヒ-ムキャの河をおわたりになってこの町に入(い)らっしゃるさうだ』。斯(か)う云(い)ふ語(ことば)がすきとほった風といっしょにハームキャの城の家々にしみわたりました」―。「ヒ-ムキャの河」は北上川、「ハ-ムキャの城」は花巻城を指していると米地さんは指摘し、こう解説した。「『虔十公園林』という童話に見られるように賢治は公園に強い関心を持っていた。花巻の東西に存在した二つの公園(東公園と西公園)こそがドリ-ムランドとしてのイ-ハト-ブ発想の核心だったのではないか」

 

 

 跡地の取得断念の報を受け、「花巻中央地区コミュニティ会議」の藤本純一会長と「花巻中央地区振興協議会」の上関泰司会長は3月定例議会に「花巻城址周辺景観保全条例」(仮称)の制定を求める請願書を提出し、こう訴えた。「県内主要自治体で『景観条例』がないのは当市だけ。花巻城址は中心市街地に隣接しており、今後のまちづくりにはその一帯の景観保全が欠かせない。また、隣接地には賢治の童話『黒ぶだう』の舞台となった菊池捍(まもる)邸や賢治の生家などもあり、『イ-ハト-ブはなまき』を象徴する空間として、重要な位置づけにある」

 

 請願に対する採決は3月18日開催の本会議で行われ、反対19人、賛成6人の大差で否決された。反対議員が全員、民間への跡地譲渡にもろ手を挙げて賛成した経緯を考えれば、この結末もけだし当然の成り行きではあった。不動産業者の手に渡った跡地の工場建屋の解体・整地工事は当初予定より十カ月近く遅れて平成二十八年初頭から始まった。十月末には工事が完了する予定になっている。かつて、鶴陰碑が建てられ、賢治文学の原点でもあった花巻城址(旧東公園)―。花巻市民はやがて、客寄せのための「軍艦マ-チ」を聞きことになるのだろうか。

 

 

 

(写真は往時の面影を伝える花巻城址の西御門(復元)=花巻市の鳥谷ヶ崎公園から)



 

緊急報告―「花巻城址」残酷物語その6…平成の“落城”

  • 緊急報告―「花巻城址」残酷物語その6…平成の“落城”

 

 「この店舗建設(パチンコ店とホ-ムセンタ-)をまちづくりの活性化へ」―。歴史的にも由緒がある花巻城址(旧東公園)の“里帰り”に期待が高まる中、一方でそんな動きに背を向ける発言が議会内で目立つようになっていた。「平和」と「環境」をことさらのように強調する「平和環境社民クラブ」(社民党系)所属の議員は自らの議会報告「市政ニュ-ス」(2015年1月14日号)の中で「たとえば、パチンコ店でもまちの活性化につながり、さらに雇用の場も確保できる」とキャンペ-ンを張った。

 

 「相手方は上部平坦地(旧東公園)だけの部分売却には応じられないという態度を変えていない。かといって、跡地全体を取得するには財政面のネックがある」―。当局側は買い取り協議の期限が1週間後に迫った議員全員協議会(1月19日)で、跡地の全面取得の事実上の断念を表明した。

 

 「解体費用などに多額な費用がかかる。財政面からも市政課題には優先順位があり、具体的な計画がない段階での全面取得はやめるべきだ」…。他方、ほとんどの会派からは当局側を援護射撃する発言が相次いだ。これに対し、花巻クラブ(5人)と私は「歴史的にも由緒のある花巻城址を市民の公共財産として取得すべきではないか」と主張したが、しょせん多勢に無勢だった。「議会の意志には逆らえない」というのが当局側の言い分だった。わたしは「義援金流用」疑惑をめぐる当局側と議会側との“癒着”をふと、思い起こした。

 

 1月27日、新興製作所側と不動産業者側との間で「土地譲渡契約」が交わされ、約1か月間に及んだ攻防に幕が下ろされた。この日のうちに旧東公園部分の跡地が札幌市内に本社を持つパチンコ業者へ所有権が移転していたことが明るみに出た。典型的な“土地転がし”だった。

 

 花巻城址が最終的に“落城”の憂き目を見ることになったこの日は実は147年前、戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」が始まった、ちょうどその日に当たっていることにハタと心付いた。東北一帯はこの日を境に「敗者の歴史」という悲運を書き連ねることになった。いままた目の前で、その歯車がまだ回り続けていたかのような歴史の符合に一瞬、たじろいでしまった。「花巻の文化を愛する市民の会」の秋山潔会長は激した口調で語った。「受難続きだった花巻城址にとって、今回の売却計画こそが究極の破壊につながる」

 

 

 

(写真は桜の名所として知られた旧東公園。芸妓さんたちを交えた花見の宴は欠かせない風物詩だった=『ふるさとの想い出 写真集(明治・大正・昭和)花巻』(図書刊行会)より。撮影年次不明)

 

 

 

緊急報告―「花巻城址」残酷物語その5…市民総決起集会

  • 緊急報告―「花巻城址」残酷物語その5…市民総決起集会

 

 鶴陰碑はいま、花巻市博物館の一角に移転・展示されている。ボタンを操作すると、人名が拡大されて映し出される液晶画面が用意されており、先祖をしのぶ関係者や歴史愛好家の来訪が絶えない。上田東一市長の遠い血筋に当たる人物として「上田弥四郎」(1768―1840年)という名前が刻まれている。説明文には「花巻城の大改修工事(文化6年)の際に指揮を取り、『造作文士』とも呼ばれた。儒者としても知られる」と記されている。

 

 ちなみに碑文の揮毫(きごう)の主は小原東籬(忠次郎)(1852―1903年)。わたしの曽祖父に当たる人物である。明治時代の筆札(ひっさつ=教師)のかたわら、書家の大家としても活躍し、五十三歳で没するまでこの地方の小学校で教師生活を続けた。その一方で公共事業にも足跡を残し、花巻市立図書館の前身である「豊水社」を創設したほか、花巻リンゴ会社、花き栽培奨励のための花巻農政社なども立ち上げた。

 

 「この碑にはわたしの先祖の名前も刻まれている。城に対する思いは誰にも負けない」―。跡地の売却問題が表面化した際、上田市長は苦渋の表情をあらわにした。先祖が改修を手がけた城址の存亡に向き合わされるという歴史の皮肉…。わたしは縁(えにし)の不思議に胸をつかれた。その決断の時は時々刻々と近づいていた。

 

 跡地の先買い期限が二週間後に迫った1月12日、「新興跡地を市民の手に!!あきらめるのはまだ早い」市民総決起大会が市内の会場で開かれた。地元住民の呼びかけに200人を超える市民が詰めかけた。参加者の中に『新花巻駅物語り』の筆者、渡辺勤さんの姿もあった。噛んで含めるようにこう語りかけた。「歴史を生きるということは未来のために何か大切なものを残すということ。あの時は子どもたちも貯金箱を持って募金に協力してくれた。目の前の新興跡地問題がまさにそれなんです」

 

 「1%の可能性に賭けた住民総ぐるみの誘致運動の光景がまだ瞼に焼き付いています」―。市民総決起大会の決議文には一揆の頭領―小原甚之助の思いが込められていた。参加者の間から雄叫びが上がった。「そうだ。今度こそ『団子より花』。善意の浄財を募ってあの時の運動を再現しようではないか」

 

 こうした市民の熱気に冷や水を浴びせたのはまたしても「さっさと帰れ」発言のもみ消しに躍起となった議員集団だった。(「新興跡地」の現状については、12月8日付当ブログ「猛毒『PCB』が所在不明に!?」を参照)

 

 

 

(写真は200人以上の市民が詰めかけ、熱気に包まれた総決起集会=2015年1月12日、花巻市の「まなび学園」で)

 

 

 

《注》~「さっさと帰れ」発言

 

 東日本大震災の際、議会傍聴に詰めかけた内陸避難者に対し、革新系議員が浴びせた暴言。私が義援金をめぐる“疑惑”を追及した際に発せられた発言だったが、結局、この発言は「なかった」ことにされ、逆に「議会の品位を汚した」と理由で私自身に懲戒処分が科せられた。

 

 

忙中閑―雪っ子たちとの対話

  • 忙中閑―雪っ子たちとの対話

 

 自室から降り積む雪をぼんやりと眺めていたら、生まれたばかりの“雪っ子”たちが木登りをして遊んでいるように見えた。素っ裸なのがいい。「堅雪(かたゆき)かんこ、しみ雪しんこ…」(宮沢賢治『雪渡り』)―。賢治もこんな光景を目にしたのだろうか。昨日、遠野出身の芥川賞作家、若竹千佐子さん原作の映画「おらおらでひとりいぐも」(沖田修一監督・脚本)を見てきた。人類の誕生にまでさかのぼる壮大な記憶の物語。コロナパンデミックの中、私たちはそのことを考えるべき時代を生かされているのかもしれない。映画については、いずれまた…。

 

 

 

 

(写真は人類の原初を思わせる雪っ子たちのストリップショー=12月15日午前11時すぎ。花巻市石鳥谷町の仕事部屋の自室から)

 

 

 

《追記》~図書館特別委が解散へ

 

 

 雪っ子たちのしなやかな演技に見惚れているうちに、今日17日が花巻市議会12月定例会の最終日だったことを失念してしまっていた。「住宅付き」図書館という市当局の構想に異議を申し立てる形で設置された議会側の「新花巻図書館整備特別委員会」(伊藤盛幸委員長)はこの日、①建設場所は市構想にある花巻駅前か、「まなび学園」周辺にする、②用地は市有地に限定する、③カフェや飲食スペースなどの機能を整備する―という3項目の提言を示し、委員会活動に幕を下ろした。議会独自の「理想の図書館像」を期待した方がバカだったというわけである。約10ケ月に及んだ”茶番劇”のエンドロールには議長を除く委員25人全員の名前が延々と映し出されていた。

緊急報告―「花巻城址」残酷物語その4…「おらが駅舎」物語

  • 緊急報告―「花巻城址」残酷物語その4…「おらが駅舎」物語

 

 「あきらめるのはまだ早い。駄目か駄目じゃないか、やって見なければ分らない。花巻百年の大計のために、我われの子孫のためにもう一度やろうじゃないか」(渡辺勤著『新花巻駅物語り』―。昭和60年3月、念願の東北新幹線「新花巻駅」が全国初の全額地元負担の「請願駅」として開業した。現代版「百姓一揆」とも呼ばれた、その苦闘の足跡を辿った元開業医の渡辺さん(90歳=当時)の著書には「甚之助と万之助」という副題がついている。甚之助とは一揆の頭領―「東北新幹線問題対策市民会議」の議長を務めた小原甚之助、万之助とは開業時の市長、藤田万之助(いずれも故人)のことである。

 

 「花巻への停車ならず」―。昭和46年10月、新駅実現が夢と果てた瞬間、市民の間には落胆と怒りが爆発した。2人を先頭にした「官民」一体の誘致運動が巻き起こった。「まるで山賊か虎が住んでいるから、恐ろしくて花巻は通れないと、そんな仕打ちを国鉄にされたんじゃないのか」、「現代の政治というものは1人の英雄に頼るものではない。点と線の政治から面の政治、大衆動員の政治となっているのであります」…。「甚之助語録」の中には血気盛んな言葉がずらりと並んでいる。

 

 ある日、国鉄理事のネクタイをつかみ、語気鋭く迫る甚之助の姿があった。「俺たちの隣町の横川(省三)を知らないか。日露戦争の時、シベリア鉄道を爆破した男だ。あなたがそう云うなら、我われにも考えがある」、「何したど、もう一度云って見ろ。岩手135万県民を馬鹿にする気か」

 

 前述した横川省三は日露戦争の開戦時、密偵として旧満州に潜入。鉄道爆破を図ろうとしたが、ロシア軍に捕えられ、ハルビン郊外で銃殺刑に処せられた。鉄道の名前は正しくは東清鉄道で、爆破は未遂に終わったのだったが、その誤りはご愛嬌としても当時の熱気が伝わってくるエピソ-ドである。この迫力満点の“演技”に居並ぶ国鉄の役員連中もたじたじとなった。余談だが、日露戦争の激戦地、旅順攻略をめぐる攻防を描いた映画「二百三高地」(舛田利雄監督、1980年)はラマ僧に身を隠した2人の日本人が銃殺刑に処せられるシ-ンから始まる。その1人が横川である。

 

 総工費約42億円。県が三分の一を負担することになり、残りの約12億円は市民や団体から寄せられた寄付金だった。大将、参謀、行動隊長、主計、先鋒…。国鉄本社に乗り込む面々の何とも時代がかった肩書もまた甚之助流だった。“喧嘩陳情”と呼ばれたこの時の大将はもちろんこの人である。目抜き通りの市民会議事務所には壁一面にこんな檄文(げきぶん)が貼ってあった。

 

 「政治が曲げた路線なら/民意で正すが民主主義/我ら花巻市民団/今ぞ赤穂の義士のごと/まなじり決して起ちました」

 

 

 

 

(写真は「新花巻駅」の設置に至る経緯を記した石碑。時代がかった巻物風の形もなんともユ-モラスである=10月末、花巻市矢沢で

 

 

 

《追記》~隔世の感…「おらがまちの幸せ」はおらがトップの“気概”の持ち次第

 

 「所有者と解体業者との訴訟が生じるなど複雑な状況の中、がれきが放置された状態は腹立たしを感じる」とまるで“あさって”の答弁をした上田東一・現花巻市長は「市民の大切なお金であり、跡地を取得するのは困難」と続けた。12月8日付当ブログ「『花巻城址』残酷物語…猛毒PCBが所在不明に!?」に関連し、地元紙「岩手日日」(9日付)は上田市長のこんな言葉を伝えていた。わずか35年前に君臨した「おらがトップ」の赤穂浪士の“気概”とはまさに雲泥の差である。