HOME > 記事一覧

忙中閑―「学生時代」と図書館と…

  • 忙中閑―「学生時代」と図書館と…

 

 「つたの絡まるチャペルで祈りを捧げた日/夢多かりしあの頃の想い出をたどれば/懐しい友の顔が一人一人うかぶ/重いカバンを抱えて通ったあの道/秋の日の図書館のノ-トとインクの匂い/枯葉の散る窓辺 学生時代」(平岡精二作詞・作曲、1964年リリ-ス)―。ひとり酒のテレビから、ペギ-葉山が熱唱した懐かしい歌が聞こえてきた。思わず、唱和した。ハタと心づき、本棚の奥に眠っていた文庫本を取り出した。背表紙はボロボロになり、茶色に変色した行間に赤ペンの傍線がかすかに痕跡を残している。

 

 アンドレ・ジッドの『狭き門』―。「誤りと無知とによって作られた幸福など、私は欲しくない。 幸福は対抗の意識のうちにはなく、協調の意識のうちにある。 幸福になる秘訣は、快楽を得ようとひたすらに努力することではなく、努力そのもののうちに快楽を見出すことである」…。初恋の人にこの部分を丸写しにしたラブレタ-をそっと手渡したのも、そういえば図書館の本棚の陰だったな。真っすぐに顔を向けることさえできなくて、くびすを返すともう、一目散。60年以上も前の青春のひとこまが走馬灯のように流れていく。2番目の歌詞が流れてきた。

 

 「讃美歌を歌いながら清い死を夢みた/何んのよそおいもせずに口数も少なく/胸の中に秘めていた恋への憧れは/いつもはかなく破れて一人書いた日記/本棚に目をやればあの頃読んだ小説/過ぎし日よわたしの学生時代」―。結局はふられてしまったが、意を決して彼女を賢治命名の「イギリス海岸」(北上川)に誘ったことがあった。当時、私たち高校生の間では「北上夜曲」(菊池規作詞、安藤睦夫作曲)がデ-トの成否を占うキ-ワ-ドのひとつとされていた。「宵の灯(ともしび) 点(とも)すころ/心ほのかな 初恋を/想い出すのは 想い出すのは/北上河原の せせらぎよ」…。顔をほてらせながら、私は必死になって歌った。彼女はじっと聞いてくれていたようだったが、それっきり音信は途絶えてしまった。

 

 コロナ禍のうっとうしい日々、梅雨の合間を利用してイギリス海岸に足を運んだ。ふいに『方丈記』(鴨長明)のあの有名な一節が口元からもれた。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」―。81歳の老いぼれはこんな感慨に浸りながら、泡盛の晩酌をあおる。「死して生きるとは何ぞや。ワクチンにまですがって、生き延びようという我が性(さが)のわびしさよ」…などとボソボソとつぶやきながら。6月30日、2回目のワクチン接種。

 

 

 

(写真は悠久の流れという言葉がぴったりのイギリス海岸)

「Mr.PO」の思想と行動(9)…その強権支配の実態

  • 「Mr.PO」の思想と行動(9)…その強権支配の実態

 

 一方が脱輪しただけで、車が走行できなくなるように「Mr.PO」(上田東一市長)にとって「JR花巻駅の東西自由通路(駅橋上化)」と「新花巻図書館の駅前立地」がまさに“車の両輪”であることが開会中の花巻市議会6月定例会の質疑の中で鮮明になった。その両輪が現在、議会側の必死の抵抗によって、脱輪状態になっているということはある意味で「不幸中の幸い」ということもできる。それにしても「Mr.PO」はどうしてこうまで強引に事を進めようとしているのか。自らの失政を糊塗(こと)しようという意図はミエミエだが、その強権支配を支えているのは何か。たとえば、図書館問題について―

 

 「新花巻図書館の整備は本市にとって、きわめて重要な事業。この整備計画の決定の権限と責任は社会教育を所管する教育委員会にあるのではないか」―。伊藤盛幸議員(市民クラブ)が6月22日の一般質問でこうただした際、“伝家の宝刀”のように振りかざしたのが、いわゆる「補助執行」という取り決めだった。花巻市は平成19年3月、地方自治法(第180条の7)の規定に基づいて、「花巻市教育委員会の権限に属する事務の補助執行に関する規則」を制定。「花巻市教育委員会の権限に属する事務を市長部局の職員に補助執行させるに当たり、必要な事項を定めるものとする」とし、それまで所管していた花巻市立図書館や宮沢賢治記念館、花巻新渡戸記念館などの事務を首長部局の生涯学習部に移管した。しかし、決裁手続きの権利などは従前のまま、市教委側に残るとされた。

 

 その後、2019年(令和元年)5月の、いわゆる「第9次地方分権一括法」(「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」)の成立に伴い、社会教育法や図書館法などの関連法が改正され、「補助執行」の法的根拠については「地教行法」(「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」)で、以下のように定められた。「地方公共団体は、条例の定めるところにより、当該地方公共団体の長が、教育に関する事務のいずれか又は全てを管理し、及び執行することとすることができる」(第23条1項)。この「教育に関する事務」には図書館のほか、博物館や公民館など社会教育に関する教育施設が含まれる。

 

 一方、文科省は法律制定に当たって「担保措置」を喚起する文書にこう記している。「教育委員会が所管する公立の図書館、博物館、公民館その他の社会教育に関する教育機関について、まちづくり、観光など他の行政分野との一体的な取組の推進等のために地方公共団体がより効果的と判断する場合には、社会教育の適切な実施の確保に関する一定の担保措置を講じた上で、条例により地方公共団体の長が所管することを可能とする」

 

 「(生涯学習部職員の指揮監督や図書館を含む教育財産の取得・処分、ならびに契約や予算執行などは)地方公共団体の長が事務を管理し、執行することになっている」―。「Mr.PO」は伊藤議員の質問に対し、法律の条文を早口で並べたてながら、まさに一刀両断の勢いで切って捨てた。ちょっと、待ってよと言いたい。こうした“暴走”に歯止めをかけるための「担保措置」の規定を知らないとは言わせない。たとえば、2年前の「第9次地方分権一括法」に際しては、「社会教育法」でこんな釘をさしている。「教育委員会は、事務の管理及び執行について、その職務に関して必要と認めるときは、当該特定地方公共団体の長に対し、意見を述べることができる」(第8条の3)。さらに、当時の文科省総合教育政策局長の「通知文書」の中にはこうある。

 

 「(図書館のような)当該機関が社会教育法、図書館法、博物館法等に基づく社会教育機関であることに変わりはなく、社会教育の政治的中立性、継続性、安定性の確保、地域住民の意向の反映、学校教育との連携等に留意するとともに、多様性にも配慮した社会教育が適切に実施されることが重要である。教育委員会には、総合教育会議等を積極的に活用しながら、首長部局やNPO等の多様な主体との連携・調整等を行い、社会教育の振興のけん引役としての積極的な役割を果たしていくことが求められる」(2019年9月26日発出)

 

 5月24日開催の「令和3年第6回花巻市教育委員会議定例会」で、市川清志・生涯学習部長が所管の図書館計画室が作成した「新花巻図書館整備基本計画(試案)」について「報告」した。佐藤勝教育長ら6人の委員が出席。内容に対する注文や疑問点が出されたが、文科省通知が求める“当事者”意識は皆無。「なにを今さら。犬の遠吠えではないか」とうつろな気持ちになった。「Mr.PO」の「パワハラ&ワンマン」とはひと言で言ってしまえば「独裁」ということである。その首に縄をかけるのは教育委員会、あなた方の出番ですよ。一般質問で別の議員が新花巻図書館のレファランス機能や学校図書との関係を問うた際も「Mr.PO」は議場に同席する佐藤教育長を差しおき、いけしゃあしゃあと答弁するという破廉恥(はれんち)ぶりを発揮していた。議会側も頑張っている。いまからでも遅くはない。

 

 

 

 

(写真は発言者も少なかった「第1回新花巻図書館整備基本計画」試案検討会議=4月26日、花巻市のなはんプラザで」

 

 

「Mr.PO」の思想と行動(8)…「橋上化」予算、“乱戦”模様の中で可決!?

  • 「Mr.PO」の思想と行動(8)…「橋上化」予算、“乱戦”模様の中で可決!?

 

 開会中の花巻市議会6月定例会は24日の議案審議で、“やらせ要請”の疑惑が晴れない中で再上程された「JR花巻駅東西自由通路(駅橋上化)」に関連する補正予算案を「附帯決議」を付すという条件つきで賛成多数で可決した。また、この日の質疑で駅橋上化の波及効果を問われたのに対し、鈴木之建設部長は「将来にわたる駅の乗車人員の増減などの予測調査はしていない」と発言。これまで橋上化に伴う利便性向上や市街地活性化などを強調してきた「Mr.PO」(上田東一市長)の説明と微妙に異なる見解を明らかにした。最前線の現場をあずかる管理職の発言は重く受け止めなければならず、図らずも「(いまの時点で将来に向けた過大な計画を策定すること自体が逆に)『絵に描いたモチ』になる」(23日付当ブログ参照)という「Mr.PO」の底意(そこい)を裏付ける結果になった。

 

 付帯決議では各種団体から整備要望が出され、市民の関心も高くなっていることを認めつつ、一方で「いまだ市民にとっては、花巻駅東西自由通路整備事業について、事業費や計画概要などで、不明な点があるとの声が寄せられている」として、①花巻駅利用者を含め、より多くの市民の意見聴取を図りながら、調査実施に努めること、②調査結果は速やかに市民や議会に公表し、事業実施の際は市民参画を図りながら進めること、③JR東日本との協議においては、応分の負担を強く求める等、事業費の圧縮に努めること―の3項目。

 

 再上程された関連予算の内訳は「花巻駅東西自由通路整備基本計画追加調査費」(1529万円)、「花巻駅東西駅前広場現況調査費」(869万円)、「土地鑑定評価業務費」(205万円)で、総額2603万円。3月定例会に上程されていったん否決された予算額と同額。なお、付帯決議に反対したのは8人(明和会=自民党系と無会派=公明党と無所属)で、“やらせ要請”を先導した議員が所属する会派(平和環境社民クラブ)の3人は賛成に回った。

 

 この日の質疑は休憩時間を含め、延々7時間近くに及んだ。ほとんどが「橋上化」」問題に集中し、時折、罵声が飛び交う緊張が続いた。一瞬40年以上も前、ハマコ-(故浜田幸一・自民党代議士)が“乱闘”国会で大立ち回りを演じた光景を思い出したが、お通夜みたいなこれまでの議案審議よりはるかに面白い。議場内の愁嘆場(しゅうたんば)の様子については追々、お伝えしたい。一方今回、予算措置した委託調査が完了するのは来年の令和4年6月になる見通しも明らかになった。「Mr.PO」の任期は同年2月4日、市議の任期は同7月31日となっており、行政の継続性や安定性の観点からは市民不在の“綱渡り”の年になりそう。一日も早く「二元代表制」の原点に戻って欲しいものである。

 

 

 

(写真は付帯決議の採決の瞬間。とりあえずの“休戦協定”のつもりか=6月24日午後、花巻市議会議場で。インタ-ネット中継の画面から)

 

「Mr.PO」の思想と行動(7)…「駅橋上化」戦争:従軍始末記

  • 「Mr.PO」の思想と行動(7)…「駅橋上化」戦争:従軍始末記

 

 「市内の高校5校の関係者からご要望をいただいた中には、とくに女子生徒の薄暮時以降の地下道の利用に不安があると。駅西口に近いある高校の女子生徒は地下道を通るのはイヤだと言って、わざわざ父親が東口に送迎している。そんな訴えもあった」(6月21日開催の花巻市議会一般質問答弁)―。「Mr.PO」(上田東一市長)の発言に私は一瞬、耳を疑った。たまたまこの日の市HPに「駅西口に近い西大通り地区で、女子小学生が70歳代の男から怒鳴られた」という“不審者”の出没情報が掲載され、スマホなどを通じて一気に拡散された。4日前に発生した事案がなぜ、この日に公表されたのか。普段なら詮索するほどのことではないが、タイミングのあまりの良さに思わず、眉につばを付けたくなった。「そうか、38億円の巨費を投じるこの事業の大きな理由のひとつが“痴漢防止”だったのか」―

 

 「後世の方々にとって、有意義な遺産とはなれ、決して“負の遺産”になるものとは考えていない。JR花巻駅の東西自由通路(駅橋上化)は新しい駅建設やまちが動いているというイメ-ジを与え、市街地活性化の起爆剤になり得る」―。今回の「駅橋上化」戦争の先陣を切った本舘憲一議員(花巻クラブ)の質問に「Mr.PO」はこう答えた。これは結局「何も答えていない」という絵に描いたモチ(空手形)の典型である。つまり、活性化の具体的なグランドデザインを示すことはせずに、一方で負の遺産にならないという確たる「担保」は何もないという「Mr.PO」の得意技…“詐術”に他ならない。

 

 と思っていたら、一般質問最終日の23日、鎌田幸也議員(市民クラブ)の同じ質問に対し、「いまの時点で将来に向けた過大な計画を策定すること自体が逆に『絵に描いたモチ』になる」と言ってのけた。「タネをまくから、あとは後世の手で…」―将来への責任を放棄したこんな首長の姿などかつて、お目にかかったことがない。「3月定例会で橋上化にかかる関連予算が否決された後、たとえばコミュニティ団体(9団体)から、一言一句変わらない予算再上程を求める要望が一斉に提出された。違和感を覚える」という鎌田発言を受け、櫻井肇議員(共産党花巻市議団)が語気するどく、迫った。「裏で市側が関与しているとしか思えない。議会無用論…議会制民主主義の根幹にかかわる重大な問題だ」―

 

 実はこの“やらせ要請”については、当ブログで再三言及してきたが、この日のやり取りでその構図が逆に鮮明になった。櫻井議員が「どう考えて見ても我われ議会側か市側が関与しているとしか考えられない」とさらに問うと、「Mr.PO」は「私ども市側が関与したという事実は一切ありません」と述べた後、上手の手からではなく、「口」からポロリと本音がもれた。「地下道の通行に不安を覚えるという高校生の訴えがあったので、こちらから出向いて橋上化の経過を説明し、その際に要望の形で書類を提出するようにお願いした」―。このように「一事が万事」が“猿芝居”なのである。市民の多くはもうおそらく、辟易(へきえき)していることだろうから、そろそろ種明かしをしようと思う。

 

 「ついては市当局におかれましては、JR花巻駅の自由通路(橋上化)の事業推進に向けての『調査費』予算の再提案を行い、調査の早期実施と事業の実現をここに強く要望します」―。件(くだん)の一言一句が同じという“やらせ要請”の文面はこう結ばれている。そして、このひな形を作成したのは革新を標榜する会派「平和環境社民クラブ」所属の照井省三議員だというのは議会内では周知の事実である。「Mr.PO」の後援会事務局長を自称するご仁の正体見たり―ということである。〝二元代表制”という神聖な規範を踏みにじり、相互に監視し合うべき双方がこともあろうにタッグを組んだ「イ-ハト-ブ歌舞伎『青天の霹靂(へきれき)』の、これが哀れな幕切れである。ついでに、もうひとつの「語るに落ちる」―という話を

 

 「自由通路こそが犯罪防止の決め手」という能天気でもっともらしいウソについて―。全国各地では自由通路化が進むにしたがって、イタズラなどの迷惑行為や器物損壊、盗みなどの犯罪行為が逆に増えつつあり、防犯カメラの設置や運用を定めた要綱を作成する自治体が急増している。この日、これまでの地下道の「不安防止」を放棄し続けてきた責任を問われた「Mr.PO」はモゴモゴと言葉を濁し、結局「不作為」を謝罪するひと言もなかった。花巻市民よ、もうだまされるは止めようではないか。

 

 今日6月23日は太平洋戦争末期、県民の4人に1人が命を落とした沖縄の地上戦から76年目の「慰霊の日」に当たる。遠く戦没者の霊を悼(いた)みつつ、目の前で繰り広げられる「駅橋上化」戦争の行く末からも目を離すことはできない。

 

 

 

 

(写真は駅橋上化の正当性に疑問を投げかける本舘議員=6月21日午前、花巻市議会議場で。インターネット中継の画面から)

 

「Mr.PO」の思想と行動(6)…提言~「銀河鉄道始発駅」構想

  • 「Mr.PO」の思想と行動(6)…提言~「銀河鉄道始発駅」構想

 

 「世界でも珍しい川の上の市場は、東民らしいヒュ-マニズムの架橋でもある」―と畏友(いゆう)のルポライタ-、鎌田慧さんが代表作『反骨―鈴木東民の生涯』(新田次郎賞、講談社)の中で書いている。文中の「東民」こと「鈴木東民」(1895―1979年)は戦前ジャ-ナリストとして、ドイツを拠点に活躍。徹底した反ナチス報道で追放され、敗戦後は読売新聞大争議を指導した。鎌田さんが“ヒュ-マニズムの架橋”と呼ぶのは、東民がふるさと・釜石市長に当選した直後に手がけた「橋上市場」のことを指している。

 

 波乱万丈の半生を送った東民は1955(昭和30)年、釜石市長に初当選。3期務めて落選した直後の市議選に挑戦して当選を果たすなど、文字通り「反骨」政治家の道を歩んだ。市長当選の直後、一通の陳情書が届いた。近郷近在から野菜や魚を持ち寄り、露店を開いていた行商人はいつも地主から追い立てを食らっていた。「安定した商いを」という切なる願いだった。かつて、イタリア・フィレンツェで見た、宝飾店などが立ち並ぶヴェッキオ橋の光景が目の前によみがえった。市中心部を流れる甲子川の大渡橋に幅12㍍、長さ110㍍の屋根付きア-ケ-ドが作られた。野菜や鮮魚、日用雑貨、食堂など約50店が軒を連ねる全国初の「橋上市場」は昭和33年に産声を上げた。

 

 「公道の橋の上での私的な営業活動は河川法上、許可するわけにはいかない」―。案の定、法の壁が立ちふさがった。ドイツ時代に培った「反骨」精神の気迫に圧倒されたのであろうか、国側は「聞かなかったことにする」として、黙認したというエピソ-ドが語り伝えられている。最盛期、1日1万人もが訪れ、観光名所としても知られた橋上市場は2003(平成15)年、橋の老朽化で閉鎖されるまで45年間も地元経済を底支えした。官立医学校(現在の東大医学部)を卒業した父親は3人の子どもに「民」いう字を当てている。「東民」はその長男。「自由民権運動のほてり、といったようなものを感じとることができる」と鎌田さんは同書に書いている。

 

 もうひとつの「橋上」物語が目の前で進行している。「Mr.PO」(上田東一市長)が強引に進めるJR花巻駅の「東西自由通路(駅橋上化)」である。その不合理性については当ブログで繰り返し指摘してきたので、ここではそれ以上の言及はしない。それはさておき、「同じ最高学府(東大)を卒業し、海外生活の経験も長い2人(そういえば、名前も「東民」と「東一」と似通っている)なのに、どうしてその発想に天と地ほどの隔たりがあるのか」―。学歴と“資質”は直接の関係はないと思いつつ、なおこの”雲泥の差“が私の素朴な疑問である。

 

 「Mr.PO」が開会中の6月定例会に提案した「駅橋上化」案によれば、線路をまたぐ東西自由通路の完成によって、現在東口と西口を結んでいる地下通路(約160㍍)が撤去されるほか、駅舎自体も建て替えられることになっている。この一帯は30年以上も前の平成元年度から7年間にわたり、東西にまたがる「花巻駅周辺地区土地区画整理事業」(10・7ヘクタ-ル)として、約6億円の事業費を投じて整備された。“レインボ-プロジェクト”と名づけられたように、郷土が生んだ童話作家、宮沢賢治の物語世界の再現を目指したまちづくりである。いま、そのイメ-ジが根底から破壊されようとしている。岐路に立たされつつある「賢治ワ-ルド」界隈を久しぶりに散策してみた。

 

 ステンドグラスのメルヘンチックな駅舎を出ると、21本のステンレス製のポ-ルが目に飛び込んでくる。「風の鳴る林」…先端に取り付けられている風車が風が吹くたびに回る。「どっどど・どどうど・どどうど・どどう」(『風の又三郎』)という賢治作品のモチ-フにすっぽりと包まれてしまいそう。右手に目をやると、賢治が「ドリ-ムランド」(夢の国)と呼んだ〝イ-ハト-ブ“を描いた巨大壁画が。その横では名作『銀河鉄道の夜』を模したからくり時計「銀河ぽっぽ」が時を刻み、賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」のアレンジ曲が流れるたびにジョバンニとカンパネルラが登場する。そして、夕闇が迫るころ、今度は駅から徒歩約4分の北側にある巨大擁壁(高さ10㍍、長さ80㍍)に宇宙を飛ぶ「銀河鉄道」の幻想的な光景が浮かび上がる。なんとも素晴らしい仕掛けではないか。

 

 ところで、賢治より1歳年上の東民は生前、賢治と意外なところで接点があった。「赤門前」(東大本郷キャンパス)での邂逅(かいこう)である。「宮沢賢治と識ったのは、1920年の初冬のころであった。そのころ東大の赤門前に、『文信社』という謄写屋があった。そこの仕事場でわたしたちは識り合ったのである。『文信社』は大学の講義を謄写して学生に売っていた。賢治の仕事はガリ版で謄写の原紙を切ることであった。(中略)何かの話からかれが花巻の生まれで、土地で知られた旧家の宮沢家の息子さんであることをわたしは知った。(中略)その袴(はかま)の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがっていた。最初、わたしはそれを弁当かと思っていたが、童話の原稿だということだった」(草野心平編著『宮澤賢治研究』所収の「筆耕のころの賢治」)―

 

 開会中の市議会が「駅橋上化」問題で揺れる中、「Mr.PO」は地下通路を利用する高校の同窓会やPTAの関係者から「防犯上で不安がある」と改善要望があった(この要望自体がいまや、“やらせ”であったことが明らかになっている)として、これまで放置してきた行政の不作為を棚に上げ、防犯カメラの設置を約束した。さ~て、大先輩の東民ならどう対処するだろうか。草葉の陰に声をかけてみたくなった。きっと、こんな答えが返ってくるだろうと思った。

 

 「そんなこと、聞く方が野暮というもんさ。地下通路こそが賢治の異界ム-ドを演出する最高の舞台装置。『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』(川端康成『雪国』)…じゃないけれど、トンネルを抜けると、そこは賢治ワ-ルドだった。これしかないじゃないの」―。さすが、ヴェッキオ橋を見習って橋上市場を実現した東民のことはある。悪夢なような「橋上化」物語の先に少し希望が見えたような気がした。パっと夢がふくらんだ。「そう、花巻駅が銀河鉄道始発駅だとしたら、その終着駅は〝イ-ハト-ブ図書館前“っていうのはどうだろうか」。賢治が創作の舞台のひとつに選んだ「東公園」(旧新興製作所跡地の花巻城址)はいま、まちのど真ん中に「Mr.PO」の負の遺産ともいえる廃墟をさらしている。その愚(ぐ)を繰り返してはなるまい。実はその東公園跡地に「賢治まるごと図書館」―つまり”イーハトーブ図書館”を立地するのが私のひそかな夢なのである。

 

 

 

(写真は幻想的な「銀河鉄道」の壁画。米国在住のダンサ-を案内した際、「ワンダフル」を連発して、いつまでも立ち去ろうとしなかった=インタ-ネット上に公開の写真から=花巻市愛宕町で)

 

 

 

《追記》~鈴木東民の賢治“交友”余話

 

 

 東民と賢治との交友は実は一般的にはあまり知られていない。長文になるために本文で割愛した部分を以下に再録したい。青雲の志に燃える2人の青年の生きざまがじかに伝わってくるようである。

 

 「アルバイト学生だったわたしはそこへ(文信社)ノオトを貸して1冊につき月8円、ガリ版で切った謄写の原紙を校正をして、4ペエジにつき8銭の報酬をうけていた。かれ(賢治)はきれいな字を書いたから、報酬上は上の部であったろうと思うが、それでも1ペエジ20銭ぐらいのものだったろう」

 

 「そのころわたしの母は宮沢家のすぐ近所、同じ町内に住んでいた。1921年の夏休みに、母のもとに帰ったわたしは、宮沢家に招待されて御馳走になったことがある。学生のくせにお酒まで遠慮なしに頂戴した。その時のお給仕役がかれで、不器用な手つきでお銚子などを運んで来たものである。もちろんかれは一滴も酒は呑まなかった。若いときのこととはいえ、今その時のことを回想して、わたしは自分の無作法さに汗の流れる思いがする」

 

 「もしこれが(腰にぶら下げた原稿)出版されたら、今の日本の文壇を傾倒させるに十分なのだが、残念なことに自分の原稿を引き受けてくれる出版業者がいない。しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑をうかべながら語っていた。そういうときのかれの瞳はかがやき、気魄にあふれていた」(いずれも「筆耕のころの賢治」より)