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「不条理を問い続けた生涯」…李鶴来(イ・ハンネ)さん

  • 「不条理を問い続けた生涯」…李鶴来(イ・ハンネ)さん

 

 『李鶴来さん追悼文集~不条理を問い続けた生涯を偲ぶ~』と題する大型の冊子が届いた。今年3月28日、96歳の生涯を閉じた元BC級戦犯、李鶴来(イ・ハンネ)さんを偲ぶ追悼集である。李さんは1925年、現在の韓国・全羅南道に生まれ戦時中、日本軍軍属としてタイの捕虜収容所の監視員を務めた。戦後のBC級戦犯裁判において捕虜虐待容疑で死刑判決を受け、その後減刑・仮釈放された。戦後の日本政府の援護制度の下では日本国籍を喪失したという理由で排除された。生涯、その「不条理」を訴え続けた。

 

 追悼文集には在日同胞や海外在住者、取材関係者、若者世代など110人が「名誉回復」に生涯を捧げた李さんに対する思いを寄せた。私もそのひとりで、以下にその全文を掲載する。次期花巻市長選への動きが風雲急を告げる中、現職の数限りない「不条理」を追及する源(みなもと)を与えてくれたのも李さんの「不屈」の精神だと思う。心からの感謝とご冥福を改めてお祈りしたい。

 

 

 「輝ける独立を前に希望に躍る朝鮮人諸君、諸君が永い間日本人から圧迫と差別を加へられて来たが、然し今は自由に解放されたのである。…今までの日本人の悪かつた点は許し、互に手を握りあつて平和世界の促進に努めよう。吾々アイヌも亦諸君の本当の友として進みたい」―。李鶴来(イ・ハンネ)さんが旅立った2日後に発行された書籍の一節に虚を突かれた。『「アイヌ新聞」記者 高橋真―反骨孤高の新聞人』(合田一道著)の中の文章である。敗戦翌年の1946年6月10日,在日本朝鮮人聯盟北海道本部が開催した集会で、アイヌ出身の新聞記者、高橋真は高らかにこう宣言した。植民地支配の「不条理」をいち早く見抜いていたのがアイヌ民族だったことに胸を突かれたのだった。

 

 「日本が国として、謝罪しないのなら、私自身が出向いて捕虜たちに直接、頭を下げたい。捕虜を虐待したという点では、私たちBC級戦犯にも加害の責任ある」―。ちょうど30年前の1991年、私はオ-ストラリアへの“謝罪の旅”に赴(おもむ)く李さんに同行取材した。映画「戦場にかける橋」で知られる泰緬(たいめん)鉄道(タイ~ミャンマ-間)の工事現場で、李さんは“日本軍”軍属として、連合国軍の捕虜監視に当たった。その多くがオ-ストラリア人捕虜だった。「ノ-モア・ヒントク、ノ-モア・ウォ-」―。李さんは最大の難所だった現場の地名「ヒントク」を刻んだ時計を当時の捕虜の代表に贈った。「心の区切りを付けるのに半世紀近くもかかってしまった」とその時、李さんの口からふ~っとひとり言のようにもれた言葉がまだ、脳裏にこびりついている。

 

 「戦争責任を肩代わりさせられたうえ、戦犯の烙印を押すという不条理が許されるのか。さらには祖国から注がれる対日協力者という厳しい目…」―。本来なら、植民地支配の“被害者”であるはずの李さん自らが“加害者”として、かつての敵国に赴くという視座の逆転。まぎれもなく「加害」の立場に身を置く日本人の私は揺れ動く気持ちに抗(あらが)いながら、その場の光景を写真に収めたことを覚えている。この不条理の瞬間を無意識のうちに「記憶」の底に刻み込もうとしていたのかもしれない。辛うじて「デス・バイ・ハンギング」(絞首刑)から逃れた李さんは終生、この「不条理」という言葉を口にした。

 

 「日本政府は私たち元戦犯を都合の良い時は“日本人”、悪い時は“朝鮮人”として扱った」―。戦後の援護政策から排除されるという究極の「人権侵害」を語る時、ふだんは温厚な李さんに怒りの表情がにじんだことを私は忘れない。元アイヌ新聞記者(高橋真)と元韓国人BC級戦犯(李鶴来)―。この二人の人物との邂逅(かいこう)がなかったなら、齢(よわい)81歳という軟弱な男はとっくの昔にこけていたにちがいない。この世の不条理にブツブツと悪態をつきながら、もう少し生きてみたいと思う。被差別の内奥を生き抜いた先達たちに心からの感謝を捧げつつ…。           

 

 

 

 

(写真はありし日の李さん=インタ-ネット上に公開の写真から)

「処分人事」疑惑―その3 まるで、”お手盛り”処分の見本市!?~「おごれる者、久しからず」

  • 「処分人事」疑惑―その3 まるで、”お手盛り”処分の見本市!?~「おごれる者、久しからず」

 

 今回、被処分者のHP上への実名掲載を指摘したのは実は、今年8月に起きた花巻市副市長のいわゆる“会食”事件が直接のきっかけだった。この際、上田東一市長の監督責任を問うた“処分”は給料の減額10の1(2か月)。前市政下の平成25年には入札妨害や著作権侵害などの重要案件について、当時の市長は10分の3(4か月)という重い“処分”を自らに科している。猛威を振るうコロナ禍の中、県が発出した緊急事態宣言下での不祥事にしては随分と軽すぎるのではないか…とHPを点検してみたら、出てくるわ、出てくるわ。で、三度目の正直はというと―

 

 「不適切な契約事務処理」という理由によって、令和元年7月2日付で40代の女性職員(係長級)が減給10分の1(1か月)の処分を受けたことが掲載されている。他の被処分者は部長級から係長級の5人に対する「訓告」。「決裁を経ずに契約を作成した」などとだけ書かれた事案の概要に目をむいた。世間を騒がせた“公文書”偽造問題が頭をよぎったからである。懲戒免職事案については当然のことながら、その処分理由が事細かに記載され、市長コメントも付されているケ-スもある。しかし、今回の事案については「契約事務」という市政運営の根幹にかかわる政策案件にもかかわらず、その処分理由の詳細はなぜか、伏されたままである。

 

 一連の「処分人事」疑惑をめぐって、その真相解明を求める「市長へのメ-ル」を提出してすでに1週間近くがたつ。この「黙殺」戦術に対抗するため、今回の事案についてもその詳細な処分理由を明らかにするよう、同日(10月31日)付で文書開示請求をした。“人事権”(アメとムチ)ちらつかせながら、霞が関(官僚)を支配下に置いた永田町界隈の光景が二重写しになる。まさに「上田流」の真骨頂ではある。

 

 

 

 

(写真は処分理由が不透明なHP上の掲載=花巻市のHPから)

 

 

 

《追記》~おごれる者、久しからず(コメント欄に写真掲載)

 

 

 総選挙投開票日の31日、花巻市内で“青い目”の筑前琵琶奏者、スイス生まれのシルヴァン・ギニヤ-ルさん(70)の演奏会が開かれた。市内の琴愛好グル-プ「筝曄会」のコンサ-トにゲストとして招かれ、『平家物語』の名場面「熊谷と敦盛」(敦盛の最期)の弾き語りを披露した。ギニヤ-ルさんの切々たる琵琶の旋律に聞きほれながら、私は無意識のうちに、あの有名な書き出しを脳裏に思い浮かべていた。

 

 「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり/娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす/おごれる者、久しからず、ただ春の夜の夢のごとし/猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」…。足元の“選挙狂騒曲”の光景がふいに「源平合戦」を呼び戻したのかもしれない。「(宮沢)賢治さんのふるさとで演奏できたことがとてもうれしい」とギニヤークさん。会場ではまるで、その賢治の物語世界を連想させるような「ひかるの世界」展がコラボ開催された。花巻小学校5年、大平ひかるさん(10歳)がカラ-マ-カ-を使って描いた個展で、会話が苦手なひかるさんは「自然の仲間たちの楽しい姿を見て…」とニッコリほほ笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「処分人事」疑惑ーその2 人生を左右する「処分人事」…まるで気まぐれな“上田流”!?

  • 「処分人事」疑惑ーその2 人生を左右する「処分人事」…まるで気まぐれな“上田流”!?

 

 懲戒免職処分を受けた元市職員の実名が1年8ケ月以上の長期にわたって、花巻市のHP(ホ-ムペ-ジ)に掲載されている事案に関連し、10月26日付の「市長へのメール」で一刻も早い「削除」を求めたが、4日たった29日現在も削除された形跡はない。ということは、上田東一市長にその意志がないものと判断。改めて、同様の事案との整合性について、見解を問いたい。

 

 当該事案が発生する約3年前の平成29年3月21日付で、30代の男性職員が同様の懲戒免職処分を受け、退職を余儀なくされた。有印公文書偽造・同行使で有罪になったケ‐スだったが、この際のHP上の掲載は匿名扱いになっている。「実名」と「匿名」の掲載基準はどう定められているのか。今回の発端となった実名掲載の事案は刑事罰よりは軽い“行政罰”だったのに対し、この異同は何を根拠になされたのか―まるで気まぐれで恣意的とさえいえる「人権感覚」にゾッとする。実名をさらされ続ける市職員が仮に自分だったらとふと、考えた。「処分に服した一個人の過去をまるで“見せしめ”のように公開し続けるのは立派な名誉棄損に当たるのではないか。もっと言えば、”公開処刑“にも匹敵する悪意ではないか」…

 

 実名の削除どころか、未だにHP上への処分事案の掲載基準の回答さえない。「待ったなし」という切羽詰まった気持ちでこの日、別途、「掲載基準」の文書開示請求をした。事あるごとに「コンプライアンス」(社会規範を含む法令遵守)を口にする上田市長の真意を知りたいと思う。「イーハトーブ」の首長であるこの人には前途ある若者の将来を気遣う”慈しみ”の心はないのだろうか―。最高学府で法律を修めたという触れ込みだったはずだが………。「罪を憎んで、人を憎まず」

 

 

 

(写真は同じ懲戒免職処分なのに「匿名」扱いの処分事例=花巻市のHPより)

 

 

 

 

「処分人事」疑惑ーその1 「市長へのメ-ル」…アッと驚く“人権侵害”!?~削除、拒否の構えか!!??

  • 「処分人事」疑惑ーその1 「市長へのメ-ル」…アッと驚く“人権侵害”!?~削除、拒否の構えか!!??

 

 “やってる感”だけが満載のHP(ホ-ムペ-ジ)に辟易(へきえき)し、これまで余りきちんとチェックしてこなかったが、次期市長選が現職と新人の一騎打ちとなる公算が高まる中、現(上田)市政を検証するためにじっくりと目を凝らしてみると…。開けてびっくり、玉手箱―ではないが、目をおおいたくなるような記述が飛び込んできた。さっそく、以下のような内容の「市長へのメール」を10月26日付で送信した。対応があり次第、すぐにお知らせをしたい。

 

 

 花巻市のHP(ホ-ムペ-ジ)上に、令和2年1月14日付で懲戒免職処分を受けた職員の実名が掲載されたままになっている。その期間はすでに1年8か月以上の長期に及ぶ。不特定多数に公開されているHP上に被処分者の実名をさらし続けるという行為はまさに“見せしめ”とさえいえる「人権侵害」に相当する。一方で当時、監督責任を問われた上司3人は匿名扱いになっている。

 

 当市をめぐっては今年8月、側近の副市長が県緊急事態宣言下のコロナ禍の中で多人数と会食するという不祥事が発生。当事者と貴殿が給料の減額10分の1(2か月)の“処分”を受けたのに続き、9月には医療費助成の書類交付に当たって、本人や家族が死亡していたと誤認する事案が発覚。さらには、災害公営住宅に入居する沿岸被災者に対し、併設されているコンビニ負担分の共益費(電気代)を肩代わりさせていたという信じられない事態も起きている。

 

 この種の処分事案のHP上への掲載基準はどうなっているのか。また、当該事案がなぜ、現在に至るまで削除されずに放置されたままになっているのか―その理由と認識をお尋ねしたい。貴殿は上記職員の処分に際し、「市民の安全・安心を守るべき立場にある消防士が、免許停止処分中の救急車を含む重大な交通違反行為を行ったことについて心よりお詫びを申し上げます」というコメントをHP上に載せているが、最近の“負の連鎖”の事例を見るにつけ、貴殿自身の「人権感覚」の欠如がまるでウイルスのように現場に蔓延しているのではないかという危惧さえ抱かざるを得ない。誠意ある回答を求めたい。

 

 

 

 

(写真は10月26日現在、実名(黒塗りの部分)が掲載されたままの処分事案=花巻市のHPより)

 

 

 

 

《追記》~「処分」の実名公開、削除されないままに!?

 

 10月26日午後4時過ぎに送信した「市長へのメ-ル」に対する回答は丸2日たった28日の開庁時間(午後5時15分)を過ぎたいま現在もなしのつぶて。当方のブログに同時掲載したのは一刻も早い「削除」を促すための“緊急避難的”な措置だったが、そのサインがどうも届いていないらしい。逆にブログ公開によって、当該事案へのアクセス数が増えたのではないかと内心、忸怩(じくじ)たる思いにもさせられる。その危機管理能力のなさには怖気(おぞけ)さえ感じる。「市民の安心・安全」(上田東一市長)が闇の彼方に葬り去られた不安―それはもはや、ある種の「恐怖」でさえある。”人非人”(にんぴにん)という忌まわしい言葉が頭をよぎった。

 

 

 

あぁ、無惨!?…「まん福」解体~WSは百花繚乱の趣き

  • あぁ、無惨!?…「まん福」解体~WSは百花繚乱の趣き

 

 「まるで、ゴジラだな」…。巨大な重機がうなり声を上げ、鋭い爪先が木造の建物をまるで舌なめずりでもするかのように次々と飲み込んでいく。かたわらの表示板には「旧料亭『まん福』解体工事/工期 令和3年9月1日~11月29日/発注者 花巻市長 上田東一/請負金額 40,359,000円」…などと書かれている。85年の歴史が幕を閉じようとしている21日、更地化を先取りするかのように「跡地活用」ワ-クショップ(WS)が市役所で開かれ、行政区長や近隣住民、リノベ-ション関係者ら約20人が今後の利活用などについて、話し合った。

 

 「華やかだったころがなつかしいねえ。宴席に座る芸者さんたちが口紅をなおしたり、あわててお色直しをしたり…」―。解体現場を目の前にしながら、私はすぐ近くにある化粧品店の女性社長が目を細めて語る往時の光景に思いを巡らせていた。1935(昭和35)年に開業されたこの老舗料亭の自慢は64畳の大広間。天井には樹齢2千年を超すとも言われる屋久杉の樹皮が使われ、床の間や柱には黒檀(こくたん)や紫檀(したん)などの銘木がふんだんに施されていた。当時はこの大広間で結婚式を挙げるのが市民の夢で、私の親戚筋でも結婚写真をまるで“冥途の土産”みたいに大事にしている年寄りたちが多かった。一方で、こんなエピソ-ドも―

 

 通算41年間も議長職を務め、「スケ」さんの愛称で呼ばれた強者(つわもの)がかつて、花巻市議会にいた。「息をまいて反対論をぶっていた市議連中が次の日には素知らぬ顔で賛成に回る。スケさんに一杯飲まされたのさ」―。こんな“料亭政治”の舞台もこの老舗料亭だった。しかしその後、料亭離れに拍車がかかり、2010年に閉店に追い込まれた。市側は3年後、5,800万円で土地を取得、建物は無償で譲り受けた。その後、改修費用として約3,000万円を投じるなどして、民間活用を含め、その利活用を模索してきたが、耐震工事や消防設備に億単位の費用がかかることが判明。結局は解体の憂き目を見ることになった。

 

 この日のWSに先立ち、布台一郎・財務部長から「まん福」前史の説明があった。料亭に生まれ変わる前の江戸期の約400年間、この地には寺院や花巻城の御給人屋敷や病院、果てはバプティスト教会などがあったことが明らかにされた。この立地について、「かつては西南からの攻めに対して花巻城を守る“裏鬼門”の位置にあり、眺望や利便性に恵まれていたことが多様な職種を生むことにつながったのではないか」と話し、教会立地に関わった人物として「小田代れん」という名前を挙げた。この女性は花巻・笹間が生んだ著名なキリスト者、斎藤宗次郎にも大きな影響を与えたといい、「不思議な巡り合わせとしか言いようがないが、100年前のこの日(10月21日)に小田代さんは76歳でこの世を去っている」という“秘話”を披露した。

 

 知られざる「まん福」”秘史”に集まった参加者は身を乗り出すようにして聞き入った。その余韻を引きずるように「跡地」の利活用を話し合うワ-クショップ(WS)はまさに百花繚乱のようにアイデアが飛び交った。「この地は中心市街地に唯一、残された財産。将来のまちづくりの生命線とも言える」とある参加者が口火を切ると…。「映画館などの文化施設」「老人と若者が共存する地域づくりの拠点」「新図書館の建設」「駐車場」「屋台村」「賢治村」「避難所」「エコハウス」「スケボーパーク」「花巻ヒルズ」「キッチン村」「太陽光発電所」などなど。果ては「芸者坂」(置き屋)が飛び出すなど持ち時間が足りないほどの盛り上がりを見せた。次回は11月4日で、“アイデア合戦”の面白みが期待できそうだ。

 

 一方、上田市長は旧まん福を取得後の2014年に就任。「前市政を引き継いだ責任ある立場だが、取得する際の調査が十分でなかったというのが正直な感想だ」と前市政への“責任転嫁”を強調してきたが、試されるのはむしろ今後の利活用の成果である。解体によって、更地になる面積はざっと3,840平方メ-トル。市中心部の一等地に位置する市有地は当面、ここだけとなる。私たち市民有志が立ち上げた「銀河の郷、輝く未来へ~『イ-ハト-ブ』の実現を目指す花巻有志の会」(略称「イ-ハト-ブ花巻有志の会」)でも将来課題として「まん福」跡地を含む「花巻三大跡地の利活用」(新興跡地、花巻病院跡地)を掲げており、この由緒あるレガシ-(遺産)の有効利用について、広く市民の意見を求めることにしている。
 

 

 

 

 

(写真は解体が進む旧料亭「まん福」=10月中旬、花巻市吹張町で)