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“震災”桜…安渡の一本桜に会ってきた~そして、不思議な邂逅へ

  • “震災”桜…安渡の一本桜に会ってきた~そして、不思議な邂逅へ

 

 東日本大震災から13年目の桜シ-ズンを迎え、急に安渡の一本桜に会いたくなって、会ってきた。三陸沿岸の大槌町のこの場所には当時、安渡小学校が建っていた。高台の眼下には鏡のような大槌湾が広がっていた。あの日、ひしめき合っていた漁師町は津波に一飲みされ、真っ黒い塊りは学校のすぐそばまで迫った。避難所に姿を変えた校舎と体育館には着のみ着のままの被災者があふれ、校庭には暖を取るための焚火が燃やされた。「3・11」のその日は雪まじりの寒い日だった。しかし、その後の季節の移ろいの記憶がすっぽりと抜け落ちている。桜の開花のその記憶が…

 

 「この桜の下で再会しよう」―。出征兵士がこう誓い合ったというから、植樹は先の大戦以前だったらしい。校庭のぐるりには十数本の桜が植えられていた。震災後、周辺の道路改修工事に伴う伐採計画が持ち上がった。「震災でバラバラになった人たちのためにも記念に残せないか」―こんな住民の声が届き、1本だけ生き残った。復興工事やコロナ禍の中で延期になっていた花見会が9日、満開の桜の下で開かれた。このニュ-スを新聞で知り、いてもたってもいられなくなった。

 

 私が有志と一緒に支援組織「いわてゆいっこ花巻」を立ち上げて現地入りしたのは3月下旬。念のため、震災時の当地の開花日を気象台の記録で調べてみると「3月31日」とあった。まさに、春爛漫のただ中にあるのに…。満開の桜に囲まれた校庭には塩をまぶしただけのおにぎりを求める長蛇の列ができ、まだ寒気が残る校庭の真ん中では倒壊した家屋の柱がくべられていた(コメント欄に写真掲載)。「もう、一体見つかりました」。周囲のがれきの中では自衛隊による行方不明者の捜索が続けられる日々…被災者もそして私自身も桜をめでる心の余裕などなかったのである。

 

 あれから丸12年―。旧小学校は中央公民館安渡分館に生まれ変わり、慟哭(どうこく)が絶えることがなかった校庭ではお年寄りたちがグランドゴルフに興じていた。おおいかぶさるような桜花に圧倒された。“焚火の番人”を自認していた白銀照男(享年73)はまだ、行方不明のままの3人の肉親との再会を待ちかねたように昨年12月21日に旅立った。同行取材したイタリア人の女性ジャ-ナリスト、アレッシア・チャラントラさん(当時30歳)は避難所になった教室の1室で被災者と寝食をともにした。「襲ったりしないから、安心して」と白銀さんが声をかけると、アレッシアさんはニッコリ笑った。こんな光景と会話が走馬灯のように去来した。

 

 「あんた、どっかで見かけた顔だと思った…」―。グランドゴルフの手を休めたおばあさんが声をかけてきた。「やっぱり、ゆいっこのあんたじゃないの。あの時は炊き出しをしてくれたり、お茶っこ会をしてくれたり、本当に助けられた。そうそう、でっかいテントも提供してくれたよね」…。雨風を避けるため大型テントを調達して、校庭の片隅に設置したことを思い出した。みんなのたまり場となったこの“テント村”の村長は生粋の漁師の佐藤正さん(愛称「タ-坊」)。いつも白銀さんに付きっきりで世話をしていた。「タ-坊は元気?」と私。「照さん(白銀)が逝(い)った時は力を落としていたけど、いまは元気を取り戻したよ。おれは大沢温泉(花巻)の自炊部に2か月近くも世話になった。あの時もゆいっこさんが支援物資を届けてくれた」…。こんな話に花が咲いた。

 

 別れ際、もう一度「安渡の一本桜」を見上げた。この花たちこそが、時空を超えた「記憶」の貯蔵庫ではないのか。そう思うと、年甲斐もなく胸に迫るものを感じた。そうしたら…。当ブログを書き上げた直後、携帯が鳴った。画面に「大分・幸野」の文字…一瞬、だれなのかと首をかしげた。「一緒に大槌の支援に連れて行ってもらった九州・大分の花屋の幸野(敏治)です。7月に再訪するのでぜひ、お会いしたい…」。あまりのタイミングの良さにブログ記事を読んだ上での連絡かと思ったが、そうではなかった。おそらく、一本桜が引き合わせてくれたのだと思うことにした。それにしても…。これまで感じたことがない感覚に襲われた。「まるで、呼ばれているみたいではないか。やり残したことを早く、片付けなくては…」

 

 

 

 

 

(写真は満開の「安渡の一本桜」=4月10日、大槌町安渡の旧小学校跡地で)

 

「生きる」3部作…そして、理想郷「イ-ハト-ブ」のいま

  • 「生きる」3部作…そして、理想郷「イ-ハト-ブ」のいま

 

 「最期を知り、人生が輝く」―。こんなキャッチフレ-ズの英国映画「生きる―LIVING」(オリヴァ-・ハ-マナス監督、2022年)を観た。黒澤明監督の不朽の名作「生きる」(1952年)のリメイク版で、ノ-ベル賞作家カズオ・イシグロが脚本を担当した。名優ビル・ナイの静寂にして鬼気迫る演技に圧倒されながら、オリジナル版の主人公志村喬の迫真の演技(コメント欄に写真掲載)を改めて思い出した。「『生きる』とは『生き直す』ことだ」…こんなメッセ-ジを体全体で受け止めながら、私は「70年という時空を経て、いまなぜ」という思いにとらわれた。符節を合わせるようにして、もうひとつの「生きる」が上映された。

 

 東日本大震災(3・11)で児童74人(うち、行方不明4人)と教師10人の命が奪われた大川小学校の遺家族が石巻市と宮城県を相手取った「国家賠償」訴訟を記録したドキュメンタリ-映画「生きる―大川小学校津波裁判を闘った人たち―」(寺田和弘監督、2022年、3月28日付当ブログ参照)である。学校側や市教委が避難訓練を怠るなどした「平時からの組織的過失」を認めた画期的な判決と言われた。しかし、未来を約束されていたはずの子どもたちの命は戻ってこない。上告を退けた最高裁はこう断じた。「学校が子どもの命の最後の場所になってはならない」―

 

 こんな行政の怠慢に安住してきた市役所職員が「自分の生を生き直す」という物語が70年前の黒澤作品である。縦割り行政に付きものの“たらいまわし”…。志村が扮する市民課長の「渡辺寛治」はただハンコをつくだけの役所人生に何のやましさを感じることなく、いやむしろそれが役人の心得とばかりに勤続30年を迎えようとしていた。そんなある日、胃に異常を感じ、余命半年というガンの宣告を受ける。自棄めいた日々を送る渡辺はかつての部下である女性職員のはつらつとした生き方からパワ-をもらったような気持になる。かつて、公園を作ってほしいという市民の陳情を邪険に扱ったことがあった。渡辺は病魔と闘いながら、まるで人が変わったように建設に奔走する。

 

 「これは、この物語の主人公の胃袋である。幽門部に胃ガンの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない。彼は時間をつぶしているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとはいえないからである。いったいこれでいいのか。この男が本気でそう考えだすためには、この男の胃がもっと悪くなり、それからもっと無駄な時間が積み上げられる必要がある」―。オリジナル版は冒頭に1枚のレントゲン写真を映し出し、こんな皮肉なナレ-ションで幕を開ける。「生き直そう」という渡辺の狂気のような振る舞いに度肝を抜かれながら、ふと余命幾ばくもないような足元の行政の腐敗ぶりにハッと心づいた。「生き直そう」という気迫のひとかけらも感じられないではないか(4月5日付当ブログ「ストップ・ザ~”東大話法”」参照)

 

 「いのち短し/恋せよ少女(おとめ)/朱(あか)き唇/褪(あ)せぬ間に/熱き血潮(ちしお)の/冷えぬ間に/明日の月日の/ないものを…」(吉井勇作詞、中山晋平作曲)―。渡辺こと志村喬は最後のいのちをかけた公園のブランコに揺られながら、「ゴンドラの唄」を口ずさむ。降り積む雪の中で志村の体は動かなくなる。同じラストシ-ンでビル・ナイが歌うのはスコットランド民謡の「ナナカマドの木」…こんな歌詞である。「ああ!ナナカマド、ナナカマド/私の親愛なる樹よ/幼い頃からお前の姿は/私の心に焼きついている/お前の葉は春、最初に開き/夏は誇り高く花を咲かせる/ふるさとにあるそんな愛しい樹/ああ!ナナカマド!」

 

 「生きる」3部作を観ながら、つくづくと実感した。「生と死とはいつの時代でもどこでも絶えることのない自らへの問いかけなのだ」と…。「イ-ハト-ブはなまき」はこれから先、一体どこに向かおうとしているのだろうか。

 

 

 

 

 

(写真は「ナナカマドの木」を口ずさみながら、死を迎えるビル・ナイ=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

今度こそ、“図書館王道論”の論議を…ストップ・ザ~”東大話法”!!??

  • 今度こそ、“図書館王道論”の論議を…ストップ・ザ~”東大話法”!!??

 

 「図書館建設 若者の声聞いて」(3月31日付「日報論壇」)への反論として投稿した原稿が4月5日付の同欄に「新図書館 分断なき議論を」というタイトルで掲載された。素早い対応に感謝したい。これを機会に混迷の度を深める図書館論議が原点に戻ることを期待したい。“東大話法”を操って、市民や議会を混乱させてきた上田東一市長にはこの際、猛省を促したい。『もう「東大話法」にはだまされない』(安富歩著、東京大学東洋文化研究所教授)の帯にはこうある。「わざとややこしく話して問題をウヤムヤにし、ケムにまいて責任逃れをする、徹底的な不誠実にごまかされないために」―。以下に投稿文の全文を転載する。

 

 

 

 「図書館建設 若者の声聞いて」(3月31日付)に反論したい。懸案の市政課題である新花巻図書館の立地場所に関して、市民の意見は市側が第1候補に挙げる「JR花巻駅前」と「総合花巻病院跡地」に二分された感があるが、投稿者は前者に賛成する立場で論を展開。その際、病院跡地への立地を求める市議会における一般質問の一部を切り取り、「大人の価値観を押し付けてしまって良いわけがない」と断じた。選挙で選ばれた議員の質問権に露骨に干渉するというやり方は当局側の意を体した「言論封じ」としか言いようがない。

 

 そもそも、立地論争がこれほどこじれた背景には根強い行政不信がある。市側は3年前、JR花巻駅前に住宅付き図書館を建設するという構想を突然、市民や議会の頭越しに公表した。その後「住宅付き」部分は白紙撤回したが、駅前立地の旗は現在も降ろしていない。そんな折、旧総合花巻病院が解体され、霊峰早池峰山を望む広大な空間がこつ然と姿を現した。「花巻城址に隣接し、生涯学習の場であるまなび学園と背中合わせのこの地こそが最適地」―こんな声が日増しに大きくなった。

 

 市側は昨年10月に17回にわたって、市民説明会を実施した。その結果、病院跡地への立地を希望した市民が32人だったのに対し、JR花巻駅前への希望は18人だった。高校生など若者世代の“駅前待望論”が目立ち始めたのはその直後からである。11月から12月にかけて市内6校を対象にグル-プワ-クが実施され、総勢130人が参加。駅前立地が93人だったのに対し、病院跡地が25人と市民説明会と数値が逆転した。何となく、うさんくささを感じた。

 

 「高齢者のためだけの図書館で良いのか。それなら今の図書館で十分。若い人は圧倒的に駅前を希望している」(2022年12月議会)―。同じ議会の場で上田東一市長は世代を分断するような発言をしている。今回の日報論壇はこの市長発言と軌を一にする内容である。花巻市まちづくり基本条例はこう定めている。「私たちは、まちづくりに関する基本的事項を共有し、市民が自ら考え、決定し、行動する市民参画と協働のまちづくりを進めることによって真に豊かな地域社会を実現するため、ここにこの条例を定めます」

 

 

 

 

 

(写真は“目くらまし"のような答弁を繰り返し、議員を翻弄する上田市長=花巻市議会議場の答弁席で)

 

 

 

 

《追記》~「図書館」論壇が花盛り。掲載基準は一体、どうなっているのか

 

 「図書館建設 若者の声聞いて」(3月31日)、「新図書館 分断なき議論を」(4月5日)、「図書館整備へ 冷静な対話を」(同6日)。わずか1週間の間に新花巻図書館に関する「日報論壇」が3本掲載された。同一テ-マでの集中掲載は寡聞にして知らない。その一方で私が昨年10月10付で投稿した同趣旨の論壇原稿(3月31日付当ブログ参照)はボツ状態で今に至っている。これでは読まされる読者の方が混乱するばかりである。

 

 社内に論壇の掲載基準はあるのかどうか。あるのなら、その掲載の可否はどのような基準に基づいて行われるのか。単なる“気まぐれ”なのか、それとも“御用新聞”が陥りがちな当局側に対する“忖度”なのか。記者経験がある私から見れば、現場の取材力の低下が実は大きな要因のような気がする(4月4日付当ブログ参照)。現にこの大プロジェクトについて、きちんと論点整理をした本紙記事にはお目にかかったことがない。根っこが腐れば、どんな大木だっていずれ倒れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“御用新聞”のなれの果て…取材拒否に無抵抗な自殺行為!!??

  • “御用新聞”のなれの果て…取材拒否に無抵抗な自殺行為!!??

 

 「図書館の立地場所については様々な意見があり、微妙な問題が絡んでいる。一部の意見が突出して報道されると市民の誘導にもなりかねない」―。まるで、大本営発表の垂れ流しみたいな「日報論壇」(3月31日付当ブログ参照)のショックが冷めやらない中、今度は図書館問題をめぐって当局側が地元紙「岩手日報」に対して、冒頭のような理由をあげて「取材は遠慮してほしい」と要求。新聞社側もこれを唯々諾々と受け入れていたという信じられない出来事が明るみに出た。

 

 新花巻図書館の立地場所をめぐっては、市側が第1候補に挙げる「JR花巻駅前」と「旧花巻病院跡地」の二か所に集約されつつある。ことの発端は今年1月、病院跡地への立地を求める女性グル-プが「イ-ハト-ブ図書館をつくる会」を結成して、当局側に要望書を提出した際のこと。新聞社側が写真撮影などの現場取材を要求したが、当局側はこれを拒否し結局、1週間後に写真なしのベタ記事が申し訳程度に掲載されただけだった。当市を取材範囲に持つ花巻支局の山本直樹支局長は「支局日誌」(2月1日付)にこう書いている。「両案に賛同の声がある中で判断が求められるが、波及効果やまちづくりの方向性を明確に示し市民の納得を得たい」

 

 ならばこそ、事実上の“取材拒否”に断固として抗議すべきではなかったのか。同じ釜の飯を食った同業者としてとても残念な気持ちである。この一件をあえて取り上げようと思ったきっかけは、12年前の東日本大震災の際の“悪夢”がよみがえったからである。当時、議会傍聴に来ていた内陸避難者に対し、議員の一人が「さっさと帰れ」という暴言を浴びせるという“事件”が起きた。1年生議員だった私はその真偽を求めたが、逆に「でっち上げだ」として、懲戒処分を受ける憂き目にあった。その時の支局長は「直言」と題するコラムで私を面罵して、こう書いた。

 

 「(懲罰特別委の)8人の委員が文言の細かい仕上げに入ったが、議会事務局員も最大で4人が張り付いた。まさに膨大な労力。しかし、市民の生活には直接の関係はない。議会人は議会のル-ルに従い、無用な混乱は避けるべきだ。混乱で不幸になるのは市民。忘れないでほしい」(2011年12月3日付「岩手日報」)―。「言論の自由」を守るべきメディアがそれに背を向ける…“被告席”に祭り上げられたこの時の体験を私はトラウマのように引きずっている。古巣(朝日新聞)も含め、「言論の危機」が叫ばれて久しい。それを食い止めるのは現場記者である。現場取材が長かった私自身のこれが教訓である。奮起を切に望みたい。

 

 

 

 

(写真は岩手日報本社の建物。地元紙としての矜持を示してほしい=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~高校生の“使いまわし”に足元からも??

 

 新花巻図書館の立地場所に関連し、3月15日開催の花巻市社会教育委員会議の質疑の中で、高校生など若い世代の“駅前待望論”に疑義を呈する意見が出された。生涯学習のプロ集団から高校生の“使いまわし”に「??」が出されたことになり、今後の立地論争に一石を投じそうだ。以下はいずれも会議録からの抜粋(要旨)―

 

 「この資料等では若い人たちの意見が非常に駅がいいという。若い人たちの意見、それはそれで大事なんですが、今後進めていく中で、様々な地域に住む、列車利用じゃなくてね、できない、あらゆる年齢層の意見とか様々聞いて、検討なさっていただければ。車の運転が不安になったとき、立体駐車場に停めて駅の図書館を利用するの はいかがかなと」、「高校生とか呼んでですね、ワ-クショップやったりなんかするというようなことで、もうちょっと広い市民の意見を聞いていかないと。高校生であれば当たり前かなと感じもするわけです。もうちょっと市民の多くの年齢層から聞いて、どうすればいいのかということを、そろそろ集約していくっていう作業も必要なんだろうなと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

報道の使命はいずこへ!?…“御用新聞”と化す地元紙~議会介入も何のその!!??

  • 報道の使命はいずこへ!?…“御用新聞”と化す地元紙~議会介入も何のその!!??

 

 「図書館建設/若者の声聞いて」―。31日付地元紙「岩手日報」の論壇の記事を見て腰を抜かした。現下の最大の市政課題である新花巻図書館の立地場所をめぐる内容(コメント欄掲載)で、投稿者は市側が進める「駅前立地」について、若者の希望が多いとして賛成する立場を主張。一方の「病院跡地」を望む声には「大人の価値観を押し付けてしまって良いわけがない」と手厳しい。賛否を戦わす「甲論乙駁」に異を唱えるつもりはさらさらない。いやむしろ、大いに結構なのだが、逆に私はこの投稿を掲載した地元紙の「報道の使命」について、ある種の怖気(おぞけ)を覚えた。

 

 「報道の使命は、真実を広く伝え、市民の知る権利に奉仕し、人権を尊重する自由で平和な社会の実現に貢献することである」―。新聞記者を生業にしてきた一人として、この心得は記憶の奥底にこびりついて離れない「澱」(おり)みたいなものである。前置きが長くなったが、私は昨年10月10日付で以下のような投稿をしたが、5カ月以上たった今も掲載されないまま「ボツ」になった状態になっている。二つの投稿を良く読み比べていただきたい。この拙文が果たして「大人の価値観の押し付け」なのかどうか…。それどころ、不採用の背後には「報道の使命」を放棄し、”大本営”と堕(だ)したメディアの退廃が透けて見えてくるではないか。

 

 もうひとつ…当該投稿の中に議会における議員の一般質問に不当に干渉する部分があった。これは議員の「質問権」いや、言論の自由を否定する暴論として看過できるものではない。投稿者だけではなく、採否を決める新聞社側の自堕落ぶりは目を覆うばかりである。まさに、“御用新聞”と化した地元紙の無残な姿がそこにある。この日の投稿の“捏造”ぶりについては別途、反論の形で同じコラムに投稿したいと思う。新聞社側がその採否をどう判断かということを含めて、今回の問題は「言論の自由」の根幹にかかわる重大事である。以下の投稿は「病院跡地」への立地を求める、私自身の率直な気持ちである(投稿時の原文に事実関係の訂正など一部加筆)

 

 

 

 

 目の前にこつ然と現れた広大な“空間”に身を置きながら、「図書館の立地はここしかないな」と直感した。花巻市は10月11日から27日まで市内17か所で新図書館の建設場所をめぐって、意見集約のための市民説明会を開催した。その第1候補に挙げられているのがJR花巻駅前のスポ-ツ店用地で、当局側はその取得に前向きな姿勢を見せている。

 

 こんな折しもかつて、花巻城跡に隣接した旧総合花巻病院の移転・新築に伴って、24棟を数えた病棟が解体された結果、私たちは約100年ぶりに由緒ある遺跡など城跡のおもかげに接するという幸運に恵まれた。晴れた日には高台の城跡から霊峰・早池峰など北上山地の雄大な姿を望むができる。当該地は郷土の詩人で童話作家、宮沢賢治の作品にも数多く登場し、たとえば『四又(よまた)の百合』に出てくる“ハ-ムキャの城”とはすぐに、花巻城跡と察しがつく。

 

 さらに、賢治が学んだ現花巻小学校と自らが教壇に立ち、“桑っこ大学”とも呼ばれた旧稗貫農学校に挟まれたロケ-ションはまさに「文教地区」にふさわしい立地条件と言える。現在「まなび学園」(生涯学習都市会館)として、市民に学びの場を提供している場所もこの地に隣接し、かつては賢治の妹トシが学んだ花巻高等女学校(県立花巻南高校の前身)の建物だった。これもまた、歴史の奇縁かもしれない。

 

 実は「図書館法」(昭和25年4月)の生みの親が当地ゆかりの「山室民子」だということは地元でも余り、知られていない。慈善団体「救世軍」の創設者・山室軍平の妻で、花巻の素封家に生まれた旧姓・佐藤機恵子が民子の母である。民子は図書館法を起案するに当たって、生涯教育の大切さを訴えた。

 

 1世紀という時空間をへて、今よみがえった「百年の記憶」と未来を見すえた「百年の計」と―。解体工事で全貌を現した「濁り堀」について、専門家グル-プは「一級品の貴重な遺構。現状保存が望ましい」と答申した。将来は原形を維持したまま、“歴史公園”として利活用できるのではないか。夢は広がるばかりである。いまこそ、山室民子の“遺訓”を生かすべき時ではないかと思う。花巻小学校とシニアが集う「まなび学園」の間にポッカリと浮かんだ空間。まさに、天啓(てんけい)とでも呼びたくなる、“生涯学習”の場にふさわしい環境ではないか。「天啓」とは「天(神)の啓示」を意味する言葉である。「魂の癒しの場」―。世界最古の図書館といわれるアレキサンドリア図書館(エジプト)のドアにはこう記されているという。

 

 

 

 

 

(写真は3月31日付「岩手日報」と同日付の論壇原稿)

 

 

 

《追記》~コメント欄に「図書館建設/若者の声聞いて」の論壇記事を全文掲載