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「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その1)…”打ち出の小槌”と宙に浮く文化財行政!!??

  • 「旧菊池捍」邸と『黒ぶだう』モデル説をめぐるミステリ―(その1)…”打ち出の小槌”と宙に浮く文化財行政!!??

 

 「本計画に基づき、文化財の適切な整備や情報収集、将来的な文化財の保存・活用基盤づくり、市民の参画などを中心に事業の展開を図ります」―。当市は今年度から13年度までの8年間を計画期間とする「花巻市文化財保存活用地域計画」(略称「地域計画」)を策定し、将来構想をこう記した。この計画は文化財保護法に基づく制度で、当市は昨年12月時点で、県内で初めて国によって認定された。一方、宮沢賢治の寓話『黒ぶだう』のモデルとされる旧菊池捍邸は昨年8月、国の「登録有形文化財」に登録され、新たな利活用の場としての位置づけが固まった。

 

 「伝統芸能や講演会、落語会、ライブなどを通じて、市民が伝統文化に触れる機会を今後も創出するほか、市民参加型のイベントなどを開催する」―。旧菊池捍邸の利活用について、「地域計画」の中では具体的にこう明記されている。同邸宅の所有権は現在、親族の手から第三者の手に移っているが、農業技術者だった菊池捍(まもる)の生誕150周年を記念した「内覧会とゆかりの人々展」が3年前に盛大に開催された。しかし、その後は見学希望者に開放される程度でいつも閑散とした状態が続いている。市側とのかかわりについて、佐藤勝教育長は「主体はあくまで建物の所有者やその関係者。市はお手伝いをする程度」と冒頭の勢いはない。

 

 その旧菊池捍邸がふるさと納税の“広告塔”として、利用されてきた経緯についてはすでに触れた(7月27日付と8月17日付当ブログ参照)。こんな折しも「ふるさと納税/文化事業救えるか」(8月20日付朝日新聞)という見出しの記事が目に飛び込んできた。人気の美術家、村上隆さんが洛中洛外図や風神図、雷神図などの伝統絵画を扱った「村上隆/もののけ/京都展」(京セラ美術館で開催中)を開催するに当たって、ふるさと納税を活用した資金集めをした結果、個人と企業向けを合わせて総額7億円以上が集まったという内容だった。

 

 「90億6千万円」―。とっさにこの数字が頭をよぎった。当市の令和5年度のふるさと納税の寄付総額である。全国市町村(1735団体)の中で堂々の第13位のランキングにつけている。返礼品の人気商品のひとつ「花巻黒ぶだう牛」も寄付金獲得にそれなりの貢献をしているはずである。であるなら、そのブランド名に付加価値を付けるための“広告塔”とされてきた旧菊池捍邸の「保存活用」(「地域計画」)に対し、幾ばくかの寄付金を向けてもいいではないか。村上流の「文化」再生の手法にウンウンとうなずきながら、そう思ったのだったが…

 

 当の文化財担当トップの佐藤教育長は「そんな形で旧菊池捍邸が利用されているとは知らなかった。いずれにせよ、私たち教育部門は文化財としての価値を評価する立場にあるので…」とボソボソ。気がつくと、上田東一市長がひとりで、“打ち出の小槌”をぶんぶん振り回しているではないか。旧菊池捍邸から歩いて数分の同じ地区内に瓦礫(がれき)の荒野が茫々(ぼうぼう)と広がっている。上田“失政””の負の遺産である花巻城址(旧新興製作所跡地)の無残な姿である。映画館ひとつもない文化が果つる地―賢治が「夢の国」とか「理想郷」と呼んだ「イーハトーブ」のこれがなれの果てである。ベジタリアン(菜食主義者)を自称した賢治のことをふと、思い出した。その名も『ビジテリアン大祭』と題する作品にこんな一節がある。

 

 「あらゆる動物はみな生命を惜(おし)むこと、我々と少しも変りはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪って食べるそれも一日に一つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思わないでいるのは全く我々の考が足らないので、よくよく喰(た)べられる方になって考えて見ると、とてもかあいそうでそんなことはできないとこう云う思想なのであります」

 

 

 

 

 

(写真は催しも少なく、閑散とした旧菊池捍邸。右側の突き出た部分が本玄関。まだ残っている「菊池」の表札が往時をしのばせる=花巻市御田屋町で)

 

 

 

これって、官製“詐欺”ではないのか…旧「菊池捍」邸をめぐるダブルスタンダード(二枚舌)…賢治寓話『黒ぶだう』モデル説の“真偽”論争にも波及か!!??

  • これって、官製“詐欺”ではないのか…旧「菊池捍」邸をめぐるダブルスタンダード(二枚舌)…賢治寓話『黒ぶだう』モデル説の“真偽”論争にも波及か!!??

 

 「宮沢賢治の寓話『黒ぶだう』の舞台になったということを仰(おっしゃ)る方もいますが、それが正しいかどうか分かりませんが、文化財としての評価をされたという意味では、市として残したい建物ではあると思います。しかし、残すためにはどうやって維持していくのか、しっかり考えなくてはならない」(令和5年3月定例記者会見)―。上田東一市長のこの答弁を聞きながら、不意打ちを食らったような衝撃を受けた。花巻市が新しいふるさと納税(イーハトーブ花巻応援基金)として、宮沢賢治が作詞・作曲した「星めぐりの歌」にあやかった新商品を売り出すなど、最近、過剰な賢治“利用”が目についたため、舞台裏を調べているうちに、この上田発言にぶち当たった。

 

 当市の中心部・御田屋町の一角に洋館風の瀟洒(しょうしゃ)な2階建ての建物が建っている。農業技術者として名を成した菊池捍(まもる)=1870~1944年)が大正15年に建てた自邸で、文化庁の「国登録有形文化財」の指定を受けている。また、北海道帝国大学の初代総長の佐藤昌介は菊池の義理の兄に当たる。上田市長が上記記者会見で、マンガふるさと偉人『佐藤昌介物語』を作成したことについて説明した際、記者からこんな質問が出た。

 

 「佐藤昌介さんとも関連がある旧菊池捍邸が国の登録有形文化財に登録された。まちの中心部にあり、今後まちづくりのために有効活用が期待される声もあるが、市としての今後の活用方法は」―。冒頭の上田答弁はこの質問には直接答えずに、いきなり『黒ぶだう』との関係に言及した。予防線を張ったのであろうか、いずれにせよ、不可解な問答である。しかし、虚を突かれたのは実は私の方だった。『黒ぶだう』をめぐっては、一部の賢治研究者らの間でさまざまの状況証拠から「その舞台(モデル)は旧菊池捍邸だ」という解釈がなされ、いまではある意味で“定説”になりつつあった。私自身もこのモデル説に納得してきた立場である。

 

 ところが、上田市長がいまになって、この定説に距離を置くような発言をしたことに逆にびっくりしたのである。その根拠はどこにあるのか…。これまでも『黒ぶだう』モデル説については、一部で疑義を呈する声もあったが、市長発言となると重みがちがう。今後、“真偽”論争に発展する可能性があるが、それはこれからの課題とし、今回は別の観点からこの件の問題点を指摘したい。以下の文章をじっくり、読んでいただきたい(再掲、7月24日及び同27日付当ブログ参照)。当市のふるさと納税の案内広告((HPのふるさとチョイス)には以下のように書かれている。

 

 

●「花巻黒ぶだう牛」は、花巻が世界に誇る株式会社エーデルワインが製造するワインのぶどうの搾りかすを飼料として給与しており、さらりとした脂と豊かな風味が特徴です。花巻出身の詩人で童話作家の宮沢賢治の寓話(ぐうわ)『黒ぶだう』で仔牛がぶどうを食べる描写があることから名づけられた、花巻ならではの「ブランド牛です!

 

 寓話『黒ぶだう』は、花巻市御田屋町の旧菊池捍邸が舞台とされ、赤狐に誘われた仔牛が、留守の人間の別荘に入り込み勝手に「黒ぶだう」を食べていたところに住人の公爵一行が帰宅し、逃げ遅れた仔牛は見つかってしまいますが、怒られもせず、逆に黄色いリボンを結んでもらうというものです。物語の中で、赤狐はぶだうの汁ばかり吸って他は全部吐き出しますが、仔牛は「うん、大へんおいしいよ」と種まで噛み砕いて食べてしまいます。賢治は、当時すでに、ぶどうの搾りかす(皮と種)が家畜の餌として使えることに気づいていたのかもしれません●

 

 

 旧「菊池捍」邸の『黒ぶだう』モデル説に疑義を呈す一方で、案内広告ではその関係性をこれ以上ないほどに強調するという“二枚舌”に驚いてしまう。寡聞にして、これ以上の“詐欺手法”を知らない。“虚偽“広告、いや「偽(にせ)ブランド」とさえ言える。花巻市は令和5年度のふるさと納税ランキングで、全国市町村(1735団体)の中で13位につけ、寄付総額は前年比約2倍の90億6千万円に達した。しかし、その背後には『黒ぶだう』モデル説に垣間見るような“賢治利権”の黒い闇がうごめいているような気がしてならない。

 

 

 

 

(写真は返礼品の人気商品のひとつ、「サーロインステーキ」用の黒ぶだう牛=花巻市のふるさとチョイスのカタログから)

<「平和」メッセージの発信拠点から、「イーハトーブ」の建国に向けて>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その5=完)~この日は79回目の「敗戦の日」、そして、あの女は!!??

  • <「平和」メッセージの発信拠点から、「イーハトーブ」の建国に向けて>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その5=完)~この日は79回目の「敗戦の日」、そして、あの女は!!??

 

 東日本大震災の際、米国の首都・ワシントン大聖堂で開かれた「日本のための祈り」やロンドン・ウエストミンスター寺院での犠牲者追悼会などで、英訳された「雨ニモマケズ」が朗読された。また、この詩に背中を押されるようにして、世界中からボランティアが被災地へ駆けつけた。そしてまだ、復旧のメドさえついていない能登半島地震の被災地でもこの詩に詠われた「行ッテ」精神が被災者を勇気づけている。そして今度は、追い打ちをかけるようにして宮崎・日向灘地震。さらに、海の向こうでは…

 

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)―。ウクライナやガザ…世界全体の悲しみの地にこのメッセージを届けたい。「平和」を希求する賢治の心の叫びを積み込んだ「銀河鉄道」…新図書館こそがその始発駅にふさわしいと思う。この列車が銀河宇宙の旅に出て、今年でちょうど100年を迎える。

 

 「豊かな自然/安らぎと賑わい/みんなでつなぐ/イーハトーブ花巻」―。当市は「将来都市像」をこう描いている。いうまでもなく、「イーハトーブ」とは賢治が未来に思いを馳せた「夢の国」や「理想郷」を意味する言葉である。一方、図書館学の父とも呼ばれるインド人学者のランガナータンは「図書館は成長する有機体である」と述べている。そして、賢治もまた、『春と修羅』の序をこう書きだしている。「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)」―。ことほど左様に、「まるごと賢治」図書館(IHATOV・LIBRARY)が目指す”夢の図書館”は世代を継いで成長し続ける永遠の有機体である。自らを「幽霊の複合体」と称してはばからない、この天才芸術家のその”お化け”の正体を暴いてみたいというのが偽らざる気持ちである。

 

 旧病院の中庭に「Fantasia of Beethoven」と名づけられた花壇があった。設計者の賢治は「おれはそこへ花でBeethovenのFantasyを描くこともできる」(『花壇設計』)と大見えを切って、こう豪語した。「だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに煉瓦(れんが)をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに煉瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑(おがくず)で花がなくてもひとつの模様をこさえこむ。それなのだ」
 

 「賢治とは一体、何者なのか」ー。いざ、「イーハトーブ」の建国に向けて…

 

 

 

《終わりに》

 

 私は“賢治教”の信者でも、いわゆる「オタク」でも、ましてや当然研究者なんかではない。かといって、賢治嫌いでも食わず嫌いでもない。『注文の多い料理店』にうぅ~と唸ったり、『風の又三郎』と一緒に風に飛ばされたり、『銀河鉄道の夜』の無辺空間に腰を抜かしたりする、普通の賢治好きである。それがどうして、「IHATOV・LIBRARY」(「まるごと賢治」図書館)などという大風呂を広げたかというと…。ひと言でいってしまえば「もったいない」からである。

 

 現役市議時代、視察先の自治体関係者から「御市には賢治さんがいらっしゃるから、まちづくりも賢治さん頼みでOK。うらやましい限りです」としょっちゅう言われたことを思い出す。ところがである。「賢治まちづくり課」とは名ばかりで、最近では賢治を”食い物”にして、ふるさと納税を肥え太らせようとする“錬金術”が目に余るようになった。「賢治最中」や「よだかの星」、「山猫軒」…。この程度のお茶受けならまだ許せるが、(前掲『花壇工作』の賢治ではないが)新手の“詐欺手法”にこの「おれ」もついに切れたのである。で、どうせなら、ガブッとまるごと「賢治」にかぶりついてみたいという欲求が押さえきれなくなったという次第である。だから、「まるごと賢治」図書館…

 

 「あなたにとって、賢治さんとは何ですか」と問われた際、私は「希代まれなる詐欺師ではないか」と答えることにしている。そんじょそこらの寸借詐欺師とはちがって、この大詐欺師に“騙(だま)された”と思うと、得も言われぬ清々しい“充実感”に満たされるからである。騙されたいという欲求はもしかしたら、“賢治教”のもうひとつの亜種なのかもしれないなぁ。

 

 

 

 

(写真はかつて、総合花巻病院の中庭にあった賢治の花壇「Fantasia of Beethoven」。この旧病院跡地に新図書館が完成した暁にはその入り口付近にぜひ、復元してほしいと願う=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記ー1》~冷酷な侵略者も、血も涙もない……暴君も、記憶を、記録を、そしてそれらを歌にして時に刻む言葉を、恐れている(師岡カリーマ・エルサムニー)

 

 「パレスチナ・ガザ地区については、その現況と歴史的経緯を伝えて民の保護を訴える声に、沈黙を強いる圧力が多方向からかかる。だが『ガザの蹂躙(じゅうりん)が許される世界は、誰にとっても安全ではない世界』だと、文筆家は言う。だから私たちもあらゆる場所から声をあげねばならないと。論考「『圧政者が恐れるもの』」―「地平」創刊号)から」(8月12日付朝日新聞 鷲田清一「折々のことば」)

 

 

 

《追記―2》~大雨警報発令中に花火大会!!??

 

 「今後強い雨による急な増水や土砂災害が発生するおそれが高いため、河川や用水路、山や崖など急な斜面には近づかないようにしてください」―。花巻市は13日午後2時2分、大雨警報(土砂災害)の発表に伴い、災害警戒本部を接したが、一方で北上川河畔での花火大会(石鳥谷夢まつり)を予定通りに行うとHPで告知した。雨天の場合は15日に延期するとしながらでの強行である。

 

 「午後3時半現在、会場となる大正橋公園内は非常にぬかるんでおります。お越しの際は長靴や雨具等をご準備のうえ、ご観覧いただきますようお願いいたします」という危機管理の無視に住民も戸惑い。昨年も同じようなチグハグ対応があったが、警戒を呼びかけながらの花火観戦―この倒錯した行政姿勢に今年も仰天させられた。ここにもトップ(上田東一市長)の決断力の無さ加減が透けて見える。機能不全、ここに極まれり!?

 

 

 

《追記ー3》~79回目の「敗戦の日」に

 

 この日(8月15日)、母方のいとこ(従兄)の訃報を知らせる葉書が届いた。92歳の大往生で、命日が妻と同じ「7月29日」だった。最近、こんな不思議なめぐり合わせが多い。2年前(2022年8月15付)の当ブログ「追憶~父を訪ねて」を再読する。父は敗戦4か月後、シベリアの捕虜収容所で栄養失調死した。そういえば、賢治と同じ37歳の若さだった。これらの逝(ゆ)きし人たちとすべての戦争犠牲者、いまも戦火の犠牲になっている海の向こうの尊い命に手を合わせ、黙祷を捧げた。この日、ガザ地区での死者は4万人を超えた。

 

 一方、「弔いの日」のこの日、赤ベンツ不倫のエッフェル女子こと、広瀬めぐみ参院議員が秘書給与を詐取した責任を取って、辞職した。この人を担ぎ出した”共犯者”たる花巻市の上田市長やその提灯持ちの議員会派「明和会」の面々はどんな気持ちでこの日と向き合ったことか。思えば、1年前の花巻まつりの際、市長と一緒に山車の先導役を務めたいたのもこのご仁だった。大方の人には8月1日付当ブログのコメント欄の写真をきちんと、記憶に止めておいて欲しい。

 

 

四日市市が図書館の駅前立地を断念…市役所周辺に建設場所を変更、当市では不毛な「立地」論争が今も~公募プロポーザルの不調が追い打ち!!??

  •  四日市市が図書館の駅前立地を断念…市役所周辺に建設場所を変更、当市では不毛な「立地」論争が今も~公募プロポーザルの不調が追い打ち!!??

 

 三重県四日市市は近鉄グループが近鉄四日市駅前に建設する高層ビルに、市立図書館を移転させるなどの計画について、近鉄側と費用面などで調整がつかないことなどから、断念する方針を固めたことが分かりました。

 

 近鉄グループは近鉄四日市駅に隣接し、すでに取り壊された商業施設「スターアイランド」の跡地に地上32階建ての高層ビルを建設する予定です。四日市市では高層ビルの3階から8階にかけて市立図書館や交流施設を、1階から2階にかけて観光施設を入居させる計画で、令和10年度中の供用開始を目指していました。しかし、四日市市などの関係者によりますと、近鉄グループは高層ビルの整備費の概算額が390億円、工期が49か月と、当初の想定を大幅に超えたとして市に事業の延期を申し出たということです。

 

 また、近鉄側は市に対し、整備費の390億円のうち、市立図書館などの整備費は200億円を超えると説明し、市が当初想定していた費用よりも大きく上回ったということです。近鉄側は事業再開の時期について明確に示さなかったということで、市では計画を断念する方針を固めたということです。四日市市の森智広市長は「この件についてはあす(5月24日)議員への説明会を開き、しっかり説明したい」としています。いっぽう、近鉄グループの担当者は「現時点でコメントできることはない」としています(以下続報)

 

 三重県四日市市は図書館を移転する計画をめぐり、候補地を市役所の北側にある民間の駐車場とその周辺に絞り込み、今後、用地の取得に向けて測量などを行う方針です。図書館の移転をめぐって、四日市市では当初、近鉄四日市駅に隣接する場所に建設予定の高層ビル内に設ける計画でしたが、整備費が想定を大幅に超える見通しとなったことなどからことし5月に断念しました。
 

 その後、市の中心部にある広場など、3か所を検討した結果、市役所の北側にある民間の駐車場とその周辺が、立地や広さ、それに中心地の再開発事業との相乗効果なども踏まえ、最も優位性が高いとして候補地に絞り込んだことを(8月)6日に開かれた定例会見で明らかにしました。

 

 この場所は、広さがおよそ3500平方メートルあり、中心部を走る三滝通り沿いに位置します。市によりますと、土地の大半を所有する企業はこの計画に理解を示しているということです。市では8月末から始まる議会で用地の取得に向けた測量などの予算案を提出する方針です。四日市市の森智広市長は「候補地は駐車場を併設できるなど、新しいメリットもある。新図書館は市民の関心も高くなんとしても早期に整備したい」と話しています(いずれもNHKのNEWSWEBから)

 

 

●「知の泉/豊かな時間(とき)/出会いの広場」―。こんなスローガンを掲げて、新花巻図書館の建設構想がスタートして、はや12年の歳月が流れた。そして今なお、難破船のように荒波の中を漂い続けている。新たに建設用地の取得が必要となる「駅前」か、すでに市有地として存在する「病院跡地」かー。この選択に考慮の余地はあるまい。別の選択肢があるとすれば、それは何なのか。それこそが「駅前立地」につきまとう隠された”闇”である●

 

 

(写真は同じ駅前立地をめぐって、迷走を続けるJR花巻駅前。奥が建設候補地ののスポーツ店と橋上化が進められる現駅舎(右)。もうひとつの候補地は病院跡地=花巻市大通りで)

 

 

 

 

 

《追記ー1》~公募プロポーザルが不調…またまた前代未聞の関連予算の撤回へ~当市では相変わらず、不毛な“立地論争”!!??

 

 

 「新花巻図書館建設候補地選定に係る意見集約等運営業務委託プロポーザルについて、参加申込期限内に1社から申し込みがありました。プロポーザル実施要領において、『応募者が1社のみであっても、最低基準点の400点を超えた場合は、契約候補者とする』と定めており、令和6年8月1日にプロポーザル選定委員会を開催し、企画提案内容についてプレゼンテーション及びヒアリング審査を行いましたが、応募者の点数が400点を越えなかったことから、契約候補者に選定されませんでした」

 

 こんな告知が8月6日付の市HPに掲載された。つまりは市議会6月定例会で承認された業務委託料を含めた総額10,468千円の関連予算が宙に浮いたということである。今後の展開について、菅野圭生涯学習部長は「再募集しても手を挙げる業者は少ないことが予想される。関連予算はいったん撤回し、意見集約の方法について、市が独自に最善の策を模索したい。その予算として転用させていただくよう議会に説明したい」と苦しい弁明。一方、この予算案に賛成した議員たち(14人)の責任も問われなければならない。「十分に審議を尽くしたのかどうか」ー胸に手を当てて、よ~く反省してほしいものである。

 

 ところで、4年前にも同じようなことがあったことを思い出した。2020年3月9日付の市HPに「令和2年度一般会計予算(案)」を撤回するという告示が突然、掲載された。いわくつきの「住宅付き図書館の駅前立地」(のちに白紙撤回)に係る関連予算が計上されていたためで、市側はその分の予算を除いて再提案をするという前代未聞の醜態を演じた。今回はその二の舞。行政運営の見通しの悪さを暴露した形だ。難破船(新図書館丸)はもはや、マストの一部を海上に見せるだけである。これ以上、上田市政にかじ取りは任せられないという危機感さえ覚える。

 

 

 

《追記ー2》~漂えども沈まず

 

 「パリオリンピック」を名乗る方から、次のようなコメントが届いた。「今オリンピックが開催されているパリ市の標語は『漂えども沈まず』です。今の花巻市の様子は、『漂って、そのうち沈む』かもしれません。市自らが重要施策の決定ができず、思い余って第三者に依頼しようとしたところ、その第三者すら決定できない状態を見るにつけ、花巻市における地方自治は既に崩壊しているように見えます。

  

 

 

 

 

<「花巻」図書館事始め…キラ星のごとき、その足跡>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その4)

  • <「花巻」図書館事始め…キラ星のごとき、その足跡>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その4)

 

 「この名の起こりは、花巻の町を流れる豊沢川の水の様に、新しい知識を次々に求め得ようという意味で、町内の有力者52人で発足している。毎月10銭を拠出して書籍を購入し、ひろく町民に読書を普及させるもので、この豊水社の伝統が明治41年、花城小学校に『豊水図書館』を設立するきっかけとなった。この様に忠次郎は文明開化の時代に自ら先頭に立ち、知識欲に燃えた青年達に読書をそなえつけた、その先駆者としての活動は、大いに称(たた)えてしかるべきである」―

 

 私家本『心田を耕し続けて―小原忠次郎の歩んだ53年』(土川三郎編)の中にこんな文章が載っている。文中に登場する「忠次郎」は私の曽祖父に当たる「小原東籬」(忠次郎=1852~1903年)である。花巻城にはかつて桜並木で有名な「東公園」があり、その一角に「鶴陰碑」と刻まれた石碑が建っていた。いまは市博物内に移設されているが、その碑にはこのまちの基礎を築いた194人の功労者の名が刻してある。その揮ごうの主が忠次郎であり、図書館の前身「豊水社」を創設したことでも知られている。私が図書館問題に人一倍の関心を持つのはこの家系のせいかなと思うこともある。

 

 忠次郎に遅れること18年、のちに農業技術者として、内外で製糖会社などを率いた菊池捍(まもる=1870~1944年)が同じ花巻の地に生を受けた。妻は北海道帝国大学の初代総長を務めた佐藤昌介の妹、淑子である。その家系の中に“豊水”精神を引き継いだ女性がいた。捍の長女の昌子で、いまも継続している「宮沢賢治の作品を読む会」の設立を呼びかけたその人である(7月24日付当ブログ参照)。来歴を調べていくうちに、その並外れた個性に圧倒された。

 

 昌子は長年、町立図書館の司書を務め、読書の大切さの啓蒙普及に尽力した。そのエピソードはいまも語り継がれ、例えば当市出身の童話作家、柏葉幸子さん(71)はこう書いている。「返された本を胸にかかえて書架の間を音もなく行き来する姿は本の王国を牛耳る侍従長のようでした。今思えば私にとって彼女は物語の手先でした。彼女を、そのまま物語の主人公に使わせていただいたりもしました。そこにいる司書が素敵でなきゃつまらないと私は思うのです」(『花巻図書館50周年記念誌』)

 

 「カランコロン、カランコロン」…。花巻市内の中心市街地に西欧風の洒落た建物が建っている。捍が大正15年に建設し、今年でちょうど100年を迎える「菊池捍」邸である。この建物の前を通るたびに私の耳元には今でも軽やかな下駄の音がこだまを繰り返す。「私はお絵かき」「じゃ、私はピアノに行くからね」「ぼくは英語の寺子屋さ」…。夕方近く、当時の小中学生の明るい声が路上にはね返った。

 

 昌子の夫は著名なプロレタリア美術家の寺島貞志で戦後花巻に疎開し、絵画教室を開いていた。また昌子の妹、聡子(としこ)はピアノの先生だった。さらに、近くの浄土真宗「専念寺」の本堂では英語塾が開かれ、私はこっちに通っていた。ちなみにこの寺の長男は宗教学者の山折哲雄さん(93)。時折、臨時の講師として洒脱な説法をしてくれたことを思い出す。「花巻」図書館事始めに忘れてはならないもうひとりの人物がいる。

 

 「この法律は、社会教育法(昭和24年6月)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もって国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする」―。「図書館法」(昭和25年4月)はその目的について、こう謳っている。図書館の“憲法”とも言われるこの法律を最初に手掛けたのは当市ゆかりの山室民子(1900―1981年)である。

 

 母親の佐藤機恵子(旧姓=1874~1916年)はキリスト教の伝道・慈善団体「救世軍」の創始者、山室軍平の妻で、花巻の素封家の家に生まれた。機恵子が菊池捍とほぼ同時代を生きた偶然にも驚かされる。民子は女性初の視学官(教育行政官)として、文部省課長(教育施設課)の第1号に就任し、図書館法の成立に尽くした。まるで、目に見えない糸で繋がれた“人脈図”に興奮しながら、私は柏葉さんの次の文章にまた、唸ってしまった。昌子・聡子姉妹のたたずまいについて、作家らしい観察眼でこう活写している(前掲記念誌)。ちなみに、柏葉さんにとって姉妹は読書とピアノの師匠だった。

 

 「ピアノの先生(聡子)は日本人ばなれしたわし鼻ぎみで、トレンチコートをさっそうと着こなすキャサリン・ヘップバーンみたいな素敵な人でした。お姉さん(昌子)も素敵でした。髪をみだれなくお団子に結い上げて、銀縁の丸めがねに黒いワンピース、そして黒い腕ぬきをしていました。事務室で大きなマグカップから何かを飲む姿にさえあこがれました」―。その昌子は「作品を読む会」を立ち上げた経緯について、こう語っている。「『セロ弾きのゴーシュ』の面白さが忘れられずに“とりこ”になった。大きな平和を求めていた賢治の作品にふさわしいものにしたい」(昭和52年1月27日付「朝日新聞」岩手版)

 

 何とも胸がときめくような光景ではないか。もう一度、あのさんざめくような街の雰囲気を取り戻したい。賢治の一切合切を集めた「IHATOV・LIBRARY」(花巻病院跡地の新図書館)と「菊池捍」邸とを結ぶ地平線上に私はこのまちの未来の姿を見てしまう。たとえば、そこには被爆地・広島を撮影したことで知られる昌子の弟の写真家、菊池俊吉(1916~1990年)も待っているはずである。「文化と芸術」を抜きにして「イーハトーブ」を語ることは、「何も語らない」ことと同じである。

 

 

 宮澤賢治の童話『黒ぶだう』の舞台といわれながら、「菊池捍」邸ではいまイベントが開催される風もなく、固くカギが閉じられたままになっている。実に不気味なたたずまいである(文中の氏名で敬称略の人たちは物故者)

 

 

 

 

(写真は昌子さんが司書をしていた当時の町立花巻図書館。花巻城に隣接する「城内」地区にあった=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

《追記》~79回目の「原爆の日」と菊池俊吉(コメント欄に写真掲載)

 

 今日6日は79回目の「原爆の日」。文中の菊池俊吉氏は被爆後の広島などを撮影した写真家として知られる。彼の経歴を以下に紹介し、合わせてその記憶をいまに伝える1枚をコメント欄に掲載する。なお、菊池氏らの写真や映像はユネスコ「世界の記憶」の「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」として、来年度の登録候補になっている(以下はウキペディアより)

 

 

 1916年(大正5年)、岩手県花巻市御田屋町生まれ(旧「菊池捍」邸)。1937年(昭和12年)、オリエンタル写真学校を卒業後、1938年(昭和13年)東京光芸社写真部に入社し、報道写真家として始まり。1941年(昭和16年)岡田桑三が設立した東方社写真部に入社、1942年(昭和17年)2月に創刊された陸軍参謀本部の対外宣伝グラフ誌『FRONT』の写真部員となる。戦時中、日本本土及び外地の部隊、産業記録撮影など幅広く活躍した。

 

 1945年(昭和20年)敗戦後、解散の東方社スタッフは文化社として再建。同年9月、文部省の学術調査団のもとで原爆被災地の医療状況を記録映画撮影、スチール写真担当として医学班に属し、10月1日10月22日被爆後の広島を撮影]1946年(昭和21年)4月、焼け野原となった東京ドキュメントとして『東京1945年・秋』を出版。1947年(昭和22年)8月、復興中の広島をアピールするための写真集『LIVING HIROSHIMA (PDF) 』製作のために再び広島へ。

 

 文化社の解散後、1951年(昭和26年)以降『世界』、『中央公論』、『婦人公論』などのグラビア頁を担当。科学雑誌に内外科学者のプロフィールと科学実験など科学分野の写真で知られた。1985年(昭和60年)、歴史的資料となる写真集『銀座と戦争』、『昭和の歴史』に作品が掲載。1990年(平成2年)、急性白血病により逝去、享年74。