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花巻版「歴史秘話ヒストリア」ーその1(「新花巻駅」誕生秘史)

  • 花巻版「歴史秘話ヒストリア」ーその1(「新花巻駅」誕生秘史)

 

 韓国映画「朴烈(パクヨル)/植民地からのアナキスト」(2017年、イ・ジュンイク監督)を改題した日本語版「金子文子と朴烈」が日本に上陸。折しも「3・1」独立運動100周年(2月28日付当ブログ)と重なったこともあり、注目の輪が広がっている。1923(大正12)年9月3日、関東大震災の3日後に朝鮮人アナ-キストの朴烈と内縁の妻、金子文子が大逆罪容疑で逮捕された。3年後、文子は恩赦を拒否して獄中で縊死(いし)した。23歳の若さだった。映画のラストショットに使われているのが、ここに掲げた写真である。実は今回の当ブログの主題はこの映画ではなく、“怪写真”事件と呼ばれた、上掲写真にまつわるエピソ-ドについてである。

 

 二人が戯れているようなこのツ-ショットは東京・市ヶ谷刑務所に服役中に撮影されたとされる。何者かによって外部に持ち出され、野党の立憲政友会が政府批判を展開するなど政界を巻き込む一大スキャンダルに発展した。松本清張の『昭和史発掘1』の中にこんな記述がある。「朴烈の隣の房にいた石黒鋭一郎という者が高田保馬著『社会学原理』の中にはさみこんで、(保釈に際し、私物を持ち帰る)宅下げしたもので…」―。ちなみに、高田(1883-1972年)は当時を代表する社会・経済学者だった。一方、無政府主義者として社会運動に関わり、その世界では名の知れた存在だった「石黒」は先の戦争末期、中央の舞台から忽然と姿を消した。

 

 花巻温泉からさらに奥まった谷あいにホロホロ鳥を飼育・販売する「石黒農場」がある。この創業者こそがあの“怪写真”を房外に持ち出したその人である。長野県出身の石黒鋭一郎は戦後、縁あって当地花巻に疎開し、この農場を開いた。戦後復興の波に乗った石黒は東京・有楽町で材木商を開業、さらにフグやホロホロ鳥料理の専門料亭「大雅」を東京のど真ん中にオ-プンさせるなど文字通り、華麗なる転身をとげた。いまはもう、そのビルも解体されてしまったが、一時期、在京花巻人会の事務所が居候していたこともある。その数奇な人生を知りたいと思い、ある日、長男の晋治郎さん(81)を訪ねたことがあった。意外な話を聞か聞かせてくれた。

 

 「激動の過去は余り口にしなかった。しかし、新幹線を花巻に停車させるため、当時、鉄道建設審議会長を兼務していた鈴木善幸・自民党総務会長(元首相)に密かに働きかけるなど陰で動いていた。表に出ることはなかったが、かつての人脈を生かして地元のためには尽くしていたようだ」―。新幹線開通の陰の功労者が“怪写真”事件の首謀者だったことにある種の感慨を覚えた。もうひとり、忘れてはならない人物がいる。その名は「横川省三」(1865-1904年)。映画「二百三高地」(1980年)の冒頭で、横川ら二人がロシア軍によって処刑されるシ-ンを記憶している人も多いかもしれない。

 

 盛岡藩士の子に生まれ、のちに現花巻市東和町の横川家の婿養子に。自由民権運動に投じ、加波山事件に連座して禁錮刑になった。明治23年に東京朝日新聞社に入社。明治三陸大津波(1896年=明治29年)の際はいち早く現地入りし、生々しいルポを発信した。日清戦争に記者として従軍した後、日露戦争前に軍事探偵(スパイ)として諜報活動に従事。日露戦争(明治37年)勃発後、沖禎介らとともに満洲に入り、鉄道爆破を図ったがロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で銃殺…。日本の裏面史を生きたという点では石黒鋭一郎と瓜二つである。

 

 「ネクタイを締めた百姓一揆」(河野ジベ太監督)というタイトルの映画が3年前に公開された。いったんは「花巻停車」を見送られた、東北新幹線の新花巻駅誘致に立ち上がった地元民たちの連帯を描いた映画である。「昭和という、激動の時代。当時の人々のインフラ整備・広く街づくりにかける熱い思いは、当該駅設置のみならず、現代においても通じる、あるいはむしろ輝き増して心に響く内容だと考えております」と謳い文句にある。開業医だった渡辺勤さんは当時の動きを『新花巻駅物語り―甚之助と万之助』(昭和60年)という冊子にまとめている。甚之助とは「一揆の頭領」…小原甚之助、万之助とは「住民の総代」…開業時の市長、藤田万之助(いずれも故人)のことである。映画の台本はこの本に拠(よ)っている。

 

 「俺達の隣町の横川省三を知らないか。日露戦争の時、シベリヤ鉄道(正しくは東清鉄道)を爆破した男だ。あなたがそう云うなら、我われにも考えがある」、「なにしたど、もう一度云って見ろ。岩手135万県民を馬鹿にする気か」―。甚之助が国鉄(当時)の常務理事のネクタイをつかんで詰め寄る場面が文中に出てくる。映画にとってはこのセリフこそがまさに肝(きも)である。ところが、映画にこのシ-ンは登場しない。「金子文子と朴烈」に深みを持たせているのが、石黒の手になるあの“怪写真”なのとは段違いである。この映画が何となく、のっぺらぼうに見えるのはそのせいかもしれない。

 

 全国初の請願駅―「新花巻」の誕生劇には実は「石黒鋭一郎」と「横川省三」という傑出した黒幕がいたのだった。私は花巻版「歴史秘話ヒストリア」を思い浮かべながら、何となく愉快な気分になった。

 

 

(写真は石黒が秘かに外に持ち出した金子文子と朴烈のツ-ショット写真=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

震災8年―「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」…そして、「3・12」へ

  • 震災8年―「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」…そして、「3・12」へ

 

 あの日から8年が経った。冷たい雨がそぼ降る中、花巻に避難している被災者や支援者が寺の鐘を打ち鳴らし、犠牲者やいまだに行方のわからない人たちの冥福を祈った。ここ数日間、USBメモリに記録された数千枚の震災写真を見続けた。あのがれきの荒野が長編映画のコマ送りのようにまぶたに映った。容赦なく押し寄せる”記憶の風化”をぴしゃりと拒絶するかのように。この日は私の79歳の誕生日にぶつかっていた。「忘れようとしたって、忘れるわけにはいかない。この因果なめぐり合わせに感謝しなくては…」―。

 

 唐突に宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節が口の端に浮かんだ。「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」―。震災3日後に「ぼくらの復興支援―いわてゆいっこ花巻」が産声を上げた。あの時に一気に書き上げた「設立趣意書」を声を上げて読んでみた。昨年夏に旅立った妻の死と「3・11」のそれとが初めて重なり合ったような気がした。正直、「震災死」に身内がいないことにホットしていた気持ちがあったのかもしれない。人の「死」の意味がようやく少し、わかったように思った。この日、生前の妻も参加していた、一年前に活動を停止した「ゆいっこ花巻」の再立ち上げが有志の間で決まった。

 

 平成31年1月31日現在で、花巻に避難している被災者の方は195世帯373人。内訳は―。大槌町(60世帯・126人)/釜石市(51世帯・92人)/山田町(19世帯・35人)/大船渡市(17世帯 28人)/陸前高田市(12世帯・21人)/宮古市(11世帯・21人)/宮城県(20世帯・39人)/福島県(5世帯・11人)。…時をまたぎ「3・12」を迎えた日本列島にはまるで満を持していたかのように、「五輪まであと500日」のファンファーレが響き渡った。「『復興五輪』の上の二文字を削ってほしい。いまだにわが家に戻れない私にとって、何が復興なのか」―。福島からの避難者のうめくような言葉がこびりついて離れない。

 

 

【設立趣意書】

 

 

 肉親の名前を叫びながら、瓦礫(がれき)の山をさ迷う人の群れ。着のみ着のままのその体に無情の雪が降り積もる。未曾有の大地震と大津波に追い打ちをかけるようにして発生した原発事故…。辛うじて一命を取りとめた被災者の身に今度は餓死と凍死の危機が迫りつつあります。もう、一刻の猶予(ゆうよ)も許されません。 「なぜ、いつも東北の地が」―。飢餓地獄の遠い記憶に重なるようにして、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の光景が眼前に広がっています。そして、茫然自失からハッとわれに返ったいま、わたしたちは苦難の歴史から学んだ「いのちの尊厳」という言葉を思い出しています。

 

 平泉・中尊寺を建立した藤原清衡は生きとし生けるものすべての極楽往生を願い、岩手・花巻が生んだ宮沢賢治は人間のおごりを戒め、「いのち」のありようを見続けました。昨年発刊百年を迎えた『遠野物語』は人間も動物も植物も…つまり森羅万象(しんらばんしょう)はすべてがつながっていることを教えてくれました。

 

 この「結いの精神」(ゆいっこ)はひと言でいえば「他人の痛み」を自分自身のものとして受け入れるということだと思います。いまこそ、都市と農村、沿岸部と内陸部との関係を結(ゆ)い直し、共に支え合う国づくりに立ち上がらなければなりません。16年前の阪神大震災の際、岩手県東和町(現花巻市)は全国で初めて、被災住民を町ぐるみで受け入れる「友好都市等被災住民緊急受け入れ条例」を制定しました。「海外から受け入れの申し出がきているのに、日本人がそっぽを向いていてよいのか」と当時の町長(故人)は語っています。
 

 温泉に一緒に浸かって背中を流してあげたい。暖かいみそ汁とご飯を口元に運んであげたい。こんな思いを共有する多くの人たちとわたしたちは走り出そうと思います。何をやるべきか、何をやらなければならないか―。走りながら考え、みんなで知恵を出し合おうではありませんか。

 

 試されているのはわたしたち自身の側なのです―

 

 

 

(写真は津波に飲まれた旧大槌町役場。保存の是非をめぐって裁判闘争にまで発展したが、震災8年を前に解体された=2011年春、岩手県大槌町で)

 

 

「日米地位協定」の抜本見直し…一転して採択、反対は公明のみ。もう後戻りはできない

  • 「日米地位協定」の抜本見直し…一転して採択、反対は公明のみ。もう後戻りはできない

 

 花巻市議会3月定例会に提出していた「日米地位協定」の抜本見直しを求める陳情(2月18日付当ブログ参照)の審査が8日、総務常任委員会(鎌田幸也委員長ら9人)で行われ、公明党所属議員を除く7人(委員長を除く)の賛成で採択された。今月19日に開催される本会議最終日で議員全員の賛否を問う。可決されれば、内閣総理大臣や関係大臣に意見書を送付することになる。3年前、同趣旨の請願が出されたが、この時は「安全保障などの外交問題は地方議会の権限外」などの理由で、全会一致で不採択になった経緯がある。手の平返しのような今回の採択劇だったが、“開かずのトビラ”と化していた「沖縄」問題に一歩、踏み込んだという点では評価したい。今後の議論の活発化を期待したい。

 

 私は冒頭の意見陳述の中で、次のように述べた。①当花巻市は将来都市像として「イ-ハト-ブはなまき」を掲げ、“弱者”に寄り添うという賢治精神をまちづくりの基本に据えている。その意味では、受難の歴史を背負い続けてきた沖縄とは最も近い位置関係にある、②23年前の1996年、日米地位協定の見直しと米軍基地の整理・縮小を求める県民投票が県単位では全国で初めて実施され、89%以上の県民が賛成した。これが沖縄の「民意」の原点だ、③この時の県民投票のきっかけは前年に起きた米兵3人による少女暴行事件。しかし、公務外の犯罪でも犯人が米軍基地内にいる場合は起訴するまで身柄の引き渡しを要求できない―など日米地位協定の治外法権性がこの時に浮き彫りになった、④本土を含めた国民全体の安全を担保する役割の大半が基地が偏在する沖縄に押し付けられている。この問題は”受益者負担”という観点からも、日本人全体で考えるべきではないか、⑤オスプレイ(垂直離着陸輸送機)の飛行訓練は岩手県を含む東北地方でも展開されており、低空飛行による騒音被害が出ている…などなど

 

 審理の中で委員からは「権限外という理由で前回の請願を不採択にしたのは認識の間違い。地方自治法第99条で、意見書の提出など地方議会の役割を規定されている」、「全国市議会議長会や全国知事会なども見直しを提言している。辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票でも7割以上が反対を表明した。こうした民意の高まりを無視できない」―などの意見が相次ぎ、前回の請願不採択時とは雰囲気が様変わりした。しかし「安保と地位協定はリンクしないことに留意すべきだ」などとトンチンカンな意見も。「日米安保条約」第6条は以下のように規定している。

 

「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される」―つまりはリンクしないどころか、安保と地位協定はまさに表裏一体だという基本を理解できていない議員がいることに驚いた。

 

 一方、公明党の「日米地位協定検討ワ-キングチ-ム」は昨年夏、「米軍機墜落事故の際の日本側の立ち入り権」、「犯罪時の起訴前の身柄の引き渡し」、「米軍訓練への住民意見の反映」―など日米地位協定のネックの解消を政府に申し入れるなど前向きな姿勢に転じた。ところが、この日の審査で不採択に回った同党所属の2年生市議は「(外交に関わる問題が)地方議会の権限か否かという判断がまだ、つきかねている。それに私は沖縄に行ったことはないし…」と支離滅裂な弁明を繰り返した。日米地位協定どころか、地方自治のイロハもわかっていないらしい。「3年前、こんな当たり前の請願を何で否決したのか。そこが最大のナゾ」と鎌田委員長がぼそっと、つぶやいて立ち去った。その言やよし。でも、前回の請願採決では退席した一人を除いて、委員長を含む当時の議員は全員が反対に回ったんじゃなかったかなぁ…

 

 いずれ、政府側が一方的に主張するだけで、法的な根拠が一切ない(外交、防衛問題などにおける)いわゆる、”専権(管)事項”論の呪縛(じゅばく)からやっと解放され、憲法が定める「地方自治の本旨」に回帰したという意味では、今回の採択の意義は大きい。今後、沖縄に向き合う際の道すじが少しだけでも見えてきたようである。

 

 

(写真は米兵による集団暴行事件に抗議する県民総決起大会。8万5千人の県民が集まった=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園で。インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~安保条約と地位協定のパラドックス

 

 本文で触れたように「日米地位協定」は日米安保条約第6条の規定に基づいて合意された協定である。一方、前条の第5条では米国の日本防衛義務について、こう定めている各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する」

 

 歴代の沖縄県知事は一貫して、日米安保条約を「容認」する態度を取り続けている。また、各種世論調査でも日本国民の約8割が「日本の安全にとって、安保は必要だ」と回答している。だとしたら、「安全を担保する米軍基地の約7割が沖縄に偏在するのは不公平だ。日本の安全保障は日本人全体で考えるべき問題ではないのか」―というのが沖縄の民意の原点にある。たとえば、安保破棄・全基地撤去を掲げてきた日本共産党は最近になって「安保破棄」の旗を降ろし、こんな論調に転じている。

 

 「日米安保条約によって、日本が米軍に『基地提供義務』を負うことと、米軍が基地を自由使用し、日本側の立ち入りも認めないということとは全く別の問題です。問われているのは、日米地位協定による日本の主権の侵害を放置していいかどうかです。…日米地位協定の改定は独立した主権国家として、当たり前の要求です。政府に抜本改正を迫る世論と運動を大きく広げる時です」(2018年11月13日付「しんぶん赤旗」)―。約9割の沖縄県民が日米地位協定の見直しを求めた県民投票から23年。この間、革新側を含む本土の私たちはこの訴えに「無視・黙殺」を決め込んできたことになる。もう後戻りはできないことを肝に銘じたい。

 

 

 

賢ちゃんに捧ぐ―「坂田節」、炸裂

  • 賢ちゃんに捧ぐ―「坂田節」、炸裂

 

 「人徳」のかたまりのような賢ちゃんが少し首をかしげ、左耳に手を当てながら聴き入っている―。2月下旬、日本屈指のジャズ喫茶・「ベ-シ-」の穴倉ようなフロアに、活動停止したあの「嵐」ではなく、サックス奏者の坂田明さん(74)が率いる同名のユニット「嵐」の音響が炸裂した。東日本大震災で大槌町にあった岩手最古の老舗スポット「クイ-ン」は跡形もなく、海のもくずと消えた。そのオ-ナ-だった佐々木賢一さんは昨年夏、76歳で旅立った。その死をしのぶライブ…賢ちゃんの1週間前に妻を亡くした私も元気をもらいにノコノコと出かけた。

 

 「賢ちゃんがくたばってしまった。人は誰でも死ぬ。意味なんてない。オレの演奏にも意味なんか求めてくれるな。ただ、見ててくれればいい」と例のだみ声が薄暗い空間にはね返った。本来なら、ベ-シ-店主の菅原正二さんと一緒にミュ-ジシャンを迎える側の賢ちゃんが「遺影」の中で微笑んでいる。スエ-デン出身のJohan・Berthling(ダブルベ-ス)とノルウエ-出身のPaal・Nilssen・love(ドラムス)の北欧コンビがお国柄を吹き飛ばすような「超絶」ぶりを発揮している。以前、賢ちゃんと隣り合わせで同じコンビの演奏を聴いたことがある。「坂田は特上の生薬なんだよ。そう元気の源」とその時、賢ちゃんがつぶやいた言葉がよみがえった。

 

 私自身、「坂田節」から元気印を処方されてきた一人である。さかのぼれば、数十年前にアイヌのミュ-ジシャンと坂田さんがジョイントを組んで以来だから、付き合いはもうだいぶ古くなる。今回の「捧ぐ」ライブの2週間ほど前、坂田さんは滋賀県のびわ湖畔で開かれた小室等ナイトコンサ-トの会場にいた。全盲ろう者で、東京大学先端科学技術研究センタ-教授(バリアフリ-教育学)の福島智さん(56)が作詞作曲した「心の宇宙」のライブ会場。テ-マは「光と音のない世界から音楽が生まれる」―。指点字通訳者が福島さんの指を点字タイプライタ-のキ-に見立て、坂田さんらミュ-ジシャンの旋律を同時進行で伝えていく。

 

 坂田さんはミジンコの研究者としても知られる。「こいつの命は透けて見えるんだよな」というのが口癖である(1月29日付当ブログ「余命、一年半」参照)。光と音のない世界に音楽を届けるという画期的なコンサ-トの光景を目に浮かべなら、私は心の中に透明感が広がるような気がした。「強烈でなお清冽(せいれつ)なあのサックスの響きがきっと、福島さんのこころに染み入ったにちがいない」と―。1週間後の「3・11」に79歳の誕生日を迎える私は「嵐」特約のこの“生薬”を服用しながら、もう少し生きてみたいと思う。くじけそうになる時は坂田さんの十八番(おはこ)である「死んだ男の残したものは」(谷川俊太郎作詞、武満徹作曲)を口ずさむことにしている。

 

 

死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった(一番)

死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった(二番)

死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった(三番)

死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった(四番)

死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない(五番)

死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来るあした
他には何も残っていない
他には何も残っていない(六番)

 

 

(写真はいまは亡き賢ちゃんも堪能したであろう坂田「嵐」ライブ=2019年2月22日、一関市内のベ-シ―で)

「3・1」から「3・11」へ…記憶の架け橋を

  • 「3・1」から「3・11」へ…記憶の架け橋を

 

 「わたしたちは、わたしたちの国である朝鮮国が独立国であること、また朝鮮人が自由な民であることを宣言する」(外村大・東大大学院総合文化研究科教授による現代語訳)―。100年前(1919年)の今日3月1日、現在のソウル中心部にあるパコダ公園(当時、現タプコル公園)で、「独立万歳」(トンニプマンセ-)の声と共に冒頭の宣言文が高らかにうたい上げられた。「3・1」独立運動はこれをきっかけに朝鮮半島全土に広がった。この約2ケ月後の5月4日、今度は中国でのちに「五・四運動」と呼ばれる抗日運動が始まった。「1・9・1・9」は日本がアジアのナショナリズムと敵対することになる節目の年だった。

 

 さかのぼること約9年前の1910年、日本は当時の大韓帝国(韓国)を併合し、全土を植民地支配下に置いた。宣言文の中にこんな一節がある。「自由が認められない苦しみを味わい、10年が過ぎた。支配者たちは私たちの生きる権利をさまざまな形で奪った。…彼ら日本人は征服者の位置にいることを楽しみ喜んでいる」―。独立運動に参加した朝鮮人は約200万人。死者7509人、負傷者1万5850人を数え、4万6306人が逮捕された。この運動に呼応した10代の少女、柳寛順(ユ・グァンスン)は日本の憲兵隊に逮捕され、16歳の時に獄死した。「朝鮮のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれた彼女は日本による植民地支配に抵抗した朝鮮民族のシンボルでもあった。

 

朝鮮総督府のもとで、天皇制イデオロギ-による苛烈な同化政策が推し進められ、こうした植民地支配は太平洋戦争で日本が敗北するまで35年間、続いた。そして、100年後の日本のいま―。「竹島」問題や元徴用工への賠償問題、元慰安婦をめぐる天皇陛下への謝罪要求、レ-ダ-照射問題、さらには北朝鮮による拉致問題…。ふたたび、朝鮮半島に対する憎悪が渦巻いているようである。「独立万歳」の声は遠い歴史の彼方にかき消され、「そんな歴史はそもそもなかった」という修正主義が闊歩(かっぽ)しているような錯覚さえ覚える。宣言文の中にはこんな一節も見える。「支配者はいいかげんなごまかしの統計数字(原文では「統計數字上ノ虚飾」)を持ち出して自分たちが行う支配が立派であるかのようにいっている」―。日本の支配を正当化するこの言説について、外村教授はこう述べている。

 

 「総督府の“開発政策”が朝鮮人にはありがたいものではないという意味だったのだろうが、100年後の日本人は、文字通りの『統計数字の虚飾』の問題に直面している。他民族を騙(だま)す支配者は自国民も騙す、チェック機能が働かなければそれは繰り返される、という教訓も読み取れるかもしれない」(2月22日付「週刊金曜日」)―。そういえば、「あった」ことを「なかった」ことに、それとは逆に「なかった」ことを「あった」ことにでっち上げる便法はこの国の支配層の伝統的な手法だったことにはたと思い当たる。そして、国民のほとんどがそのことに関心を向ける気配はない。

 

 「3・1」から「3・11」へ―。(2011年)3月11日、日本列島の東半分を襲った大震災から間もなく、丸8年を迎える。この日がたまたま、私の誕生日に当たっているというのも何か不思議な巡り合わせである。「この間、避難者に向けられる目は次々と変わった。当初は憐(あわ)れみを向けられ、次に偏見、差別、そしていまや、最も恐ろしい『無関心』だ」と新聞記者の青木美希さんは自著『地図から消される街』のはじめにの中にこう書き、エピロ-グをこう結んでいる。「被害者、避難者の声は、復興、五輪、再稼働の御旗のもとにかき消されていく。あとには何もないまち。名前をなくすまち」(2月2日付当ブログ参照)

 

わが宰相のあの破廉恥(はれんち)な発言をまざまざと思い出す。大震災の2年後、安倍晋三首相は五輪招致をこんな風に呼びかけた。「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」―。いわゆる「アンダ-コントロ-ル」発言である。

 

 わずか8年前の記憶にしてこうである。いわんや100年前は…。だからこそ、私は単なる語呂合わせではなく、「3・1」から「3・11」へと記憶の架け橋をかけたいと思う。100年前の「独立宣言」こそが被抑圧者の共通の渇望(かつぼう)にちがいないからである。そっと、こう口ずさんでみる。「わたしたちは、わたしたちの国である琉球国が独立国であること、また琉球人が自由な民であることを宣言する」―。県民投票の圧倒的な「民意」などまるで歯牙(しが)にもかけないかのように、沖縄の「辺野古」新基地建設が強行されている。朝鮮半島に対するかつての植民地支配の現在進行形が目の前に存在する。語呂合わせを言うなら、「19(征く)・19(征く)」の方がよっぽど、当たっている。征服者の「征」である。

 

 

(写真はユ・グァンスンを先頭にデモする民衆とそれに銃を向ける憲兵隊を描いたレリ-フ。一連の絵がタプコル公園に設置されている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記-1》~沖縄の「民意」と地方議会の役割

 

 東京都に住む無職の男性(71)が朝日新聞「声欄」(2月27日付)に以下のような投書(要旨)を寄せていた。「例えば昨年末、東京都小金井市議会が、辺野古の建設工事の即時中止や普天間飛行場の運用停止、代替施設の必要性について国民的議論などを求める意見書を可決した。同じ地方自治体として本土の各地方議会がやるべきなのは、『辺野古新基地の強行建設反対』などと声を上げることではないか。まもなく統一地方選がある。身近な地方議員選の候補者に、辺野古新基地建設の是非について議論することを公約とするよう求めてはどうだろうか。私たちも『沖縄の民意を活(い)かせ』と意思表示する時だ」

 

 

《追記―2》~請願(陳情)権の行使

 

 「ご異議なしと認めます」。東京都文京区議会本会議で1日、選択的夫婦別姓制度について国会審議を求める意見書の提出を要望する請願が全会一致で採択された瞬間、なんだろう、不思議な爽快感があった。請願者はソフトウエア開発会社「サイボウズ」社長の青野慶久さんと、私(毎日新聞記者)。この意見書1通で国が動くなんて思ってはいない。でも、日本国憲法16条が定める「請願権」を生まれて初めて行使してみた体験を、私は無意味だとも思わない。【3月2日付「毎日新聞」電子版】